2019年2月アーカイブ

2月28日は何の日?【キリスト教豆知識】

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2月28日は何の日?
・・・・・・宣教師「ロバート・モリソン」が中国伝道のためイギリスを発った日です!

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ロバート・モリソン(1782年1月5日~1834年8月1日)

16歳のときに洗礼を受けキリスト教の信者になったモリソンは、19歳で宣教師になることを決意し、訓練を受けた末に中国に派遣されることとなります。25歳になった時、彼は牧師として任命され、すぐにイギリスを発ち、アメリカ・ニューヨーク経由で中国に到着(当時、イギリス東インド会社では中国行きの船には宣教師を乗せない規則があったため、別のルートで向かわざるを得なかったのです)。

中国に到着した彼は、布教と研究に励みますが、なかなか宣教師として期待される結果は出せず、信者になった中国人もわずか数名でした。彼の死後、27年が経過していよいよ本格的に中国伝道が進められていくこととなるのですが、その当時、中国人の信者は10名しかいなかったそうです。

では、信者を増やすことができなかったモリソンの中国伝道は完全に失敗に終わったのか。決してそうではありません。実は、日本史にも出てくる「モリソン号事件」(1837年)の船名「モリソン号」は彼の名前からとられたものです。そのことからも分かるように、彼の業績は高く評価され、多くの人々の尊敬を受けることとなったのです。

モリソンの伝道は中国ではあまり受け入れられなかったものの、中国人の助けを借りて、新約聖書の中国語への翻訳を開始し、また1819年には、モリソンのことを助けるためにやって来たウィリアム・ミルン宣教師と共に、聖書全文の中国語訳を完成させました。ミルンはその出版を見届けることなく1822年に死去しましたが、翌年の1823年に、初の中国語聖書『神天聖書』が出版されることとなりました。この中国語聖書は、その後、聖書を初めて日本語に翻訳したドイツ人宣教師「カール・ギュツラフ」(1803~1851年)にも大きな影響を与えました。

モリソンとミルンは、聖書の翻訳と同時に、漢文教書など多くの文書を頒布し、またマラッカに私費を投じて英華学校を開設。更には「漢英・英漢辞典」の編纂を手がけました(17~23年)。このようなモリソンの業績が、後に活発に行われていくこととなる中国伝道の礎を築くこととなったのです。

人間は、自分や他者が期待していた結果ではなく、全く別の、しかし非常に価値のある結果を生み出すことがあります。モリソンもその一人であったと言えるでしょう。たゆまぬ努力、そして信じる心が、未来を切り拓いていくのです。

キリ絵 de 大喜利 No.04

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手の中で 片栗粉 を混ぜてみま~す。


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『手を洗うピラト』(1624~1625年)
作者:ヤン・リーフェンス(Jan Lievens、1607年10月24日~1674年6月4日)

ヤン・リーフェンスは、17世紀に活躍したオランダの画家。12歳から早くも一人前の画家として活動し、その若き才能は多くの人々から評価されていました。かの有名なレンブラント・ファン・レインと同世代で、1626年から約5年間、レンブラントと共に工房を構えていましたが、二人は1631年に別れ、レンブラントはアムステルダムに、リーフェンスはイングランドにそれぞれ拠点を移しました。(ソース元:Wikipedia)

本作に描かれている「ピラト」(本名:ポンティウス・ピラトゥス)という人物は、紀元後1世紀のローマ帝国のユダヤ駐在の5代目代官(在任:26~36年)で、イエス・キリストの処刑に深く関与した人物として知られています。作中でピラトが手を洗っているのは、ユダヤ人たちによる"イエス処刑"の要求について、自分はもうこれ以上関与しないという意思表明のためであり、当然、片栗粉と水を混ぜてスライムを作ろうとしているわけではありません。


以下、本作の題材となった聖書箇所。

ところで、祭りの度に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。時に、バラバ・イエスと言う名うての囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったい、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。(新約聖書 マタイによる福音書 27章15~26節)※聖書協会共同訳

探しなさい。そうすれば、見つかる。

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チャペルの扉が閉じないように押さえるドアストッパーが1つ迷子になっています。

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もし見つけたらキリスト教センターにお知らせください。

暇な人はチャペルまで探しに来てくれても良いです。
暇じゃなくても是非探しに来てください。
恐らくチャペルの館内にあるはずなので。
見つけてくれたら素敵なプレゼントがあるかもしれません。

こんな時、聖書を読んでる人なら絶対にこの言葉を思い出すはずです。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
(新約聖書 マタイによる福音書 7章7〜8節)※聖書協会共同訳

冷たいか熱いかであってほしい

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神さま曰く、「どちらでもない」は嫌いなのだそうです。

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「ラオディキアにある教会の天使に、こう書き送れ。『アーメンである方、忠実で真実な証人、神に造られたものの源である方が、こう言われる。「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう。あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うがよい。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。私は愛する者を責め、鍛錬する。それゆえ、熱心であれ。そして悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、私の座に共に着かせよう。私が勝利し、私の父と共に玉座に着いたのと同じように。耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
(新約聖書 ヨハネの黙示録 3章14~22節)※聖書協会共同訳

ファインディング・ニコデモ

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昨日、本学の学術情報センターさんのブログ(http://blog.ngu.ac.jp/gkjblg/)で
「ファインディング・ニモ」という映画の紹介がされていたので、
勝手にパクr......ネタを拝借してこんなクイズを作ってしまいました。
(学術情報センターの皆さんすみません!)

題して、

「ファインディング・ニコデモ」!笑

※「ニコデモ」って何?と思った人はクイズの下の解説をお読みください!


下の図から「ニコデモ」という文字列を探し出してください。
なお、"ななめ"はありません。縦(上から下)か、横(左から右)で探してくださいね。

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「ニコデモ」
ニコデモは、新約聖書の「ヨハネによる福音書」に登場するユダヤ人。イエスに共鳴した人物として描かれている。
ヨハネ福音書によればニコデモはファリサイ派で最高法院の議員であったが、イエスに敬意を払っており、夜ひそかにイエスを訪れ、問答をする。(ヨハネ3章1~21節)
ユダヤ人指導者たちがイエスを非難する場では「我々の律法では、罪の証が無ければ裁かないではないか」と、彼を弁護している。(ヨハネ7章51節)
イエスの処刑後は、使徒や他の弟子たち、アリマタヤのヨセフとともにイエスの遺体を引き取って、埋葬している。
(Wikipedia「ニコデモ」より)

続・イエスはなぜ泣いたのか!?

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~前回までの内容~

・聖書の中で最も短い一節は「イエスは涙を流された。」(新約聖書 ヨハネによる福音書 11章35節)
・イエスにはラザロという知人がいたが、ある時、彼が病気であることがイエスに伝えられた。
・イエス一行がラザロのもとに到着したときには既に彼は亡くなって4日が経っていた。
・しかしイエスは出発する前からラザロが死んだことに気付いていた。
・このあとイエスは墓に眠るラザロを奇跡によって「復活」させる。
・でも人を甦らせる力があるなら、どうして「涙を流された」のか?

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『Jesus Wept』(イエスは涙を流された)1886~1896年
作者:ジェームズ・ティソ
(本名:ジャック=ジョゼフ・ティソ、1836年10月15日~1902年8月8日、フランス)



さて、3回にわたってご紹介してきた聖書の言葉「「イエスは涙を流された」についてですが、今回で最終回にしたいと思います!笑
人を甦らせることができるにもかかわらず(にわかには信じがたい話ですが...)、なぜイエスはラザロの死を想って涙を流したのか? 皆さんはどう思われるでしょうか。


そのことを考える前に、主に二つのことを確認しておかなければいけません。

一つは、「人々は、イエスに関していろんなイメージを持ってきた」ということ。
イエスという人物については、彼が生きていた時から、人々の間で様々な見方がなされてきました。めちゃくちゃ頭が切れる"普通の人間"として見る人もいましたが、一方で、神的な力を持った"超人"「神の子」として見ている人たちもいました。そのようなイメージは、イエスの死後、イエスのことを直接知らない人々もいるコミュニティの間で膨張していき、もはや実際のイエスがどんな存在だったのか分からないぐらいになっていったと考えられます。

もう一つは、「『福音書』には、いろんな"イエス像"が描かれている」ということ。
イエスについて書かれている書物を『福音書』と呼ぶのですが、それらの書物はイエスが十字架につけられて死んでから30年もの時を経てようやく成立しました。しかも福音書の作者はいずれも"生前のイエス"と出会っていないと言われています。なので、彼ら福音書の著者たちは、イエスに関する様々な資料(人々の間で広く共有されている情報から単なるうわさ話まで)をかき集めて、それぞれの福音書を完成させたのです。


では、以上の2点を踏まえつつ、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35前後)を見てみたいと思います。

前回述べたとおり、何と言ってもイエスは人を甦らせる力を持っています!(ババーン)

・・・まぁ、それが真実かどうかはさておき、「人を甦らせることができる」というのは、先ほどの話にもありましたが、イエスに対する「超人的なイメージ」の典型例ですよね。そんなこと普通の人間はできませんから(というか誰にもできない...)。人々の間では、イエスがどんな人間だったかということよりも、イエスがどんなことをしたかという情報の方が多く共有されていたのだろうと思います。偉人に関する話というのは大抵そうですよね。その人の"人間性"よりも、その人が残した"功績"などの方が伝えられていくものです。

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『ラザロの復活』1514~1519年
作者:フアン・デ・フランデス(1465~1519年、フランドル)


この福音書を書いた「ヨハネ」という人も、独自の取材で様々なイエスに関する情報を各地から収集したのだろうと思います。しかし、著者ヨハネさんが偉いのは、たくさん存在するイエスの奇跡物語や偉人伝説だけではなく、その中に埋もれてしまっている "人間としてのイエス"の姿 もなんとかして福音書の中に書き残そうとしたところなんですね。

そのため、この「ラザロの死と復活」の物語に登場するイエスには、矛盾ともとれる二つのキャラクターを見ることができます。一つは、超人としてのイエス。もう一つは、普通の人間としてのイエスです。

お墓に向かう際、そのあと彼のことを甦らせることになるとは言え、そこに眠るのは、心から愛していた友人ラザロ。そのことを思うと、どうしてもこみ上げてくる感情を抑えることができず、つい涙を流してしまったのでしょう。聖書の読者は、そこにこそ、イエスの本当の愛を感じ取ることができます。ラザロの姉妹や仲間たちが、彼の死を悼んで泣いている。そのそばで、イエスもまた、共に涙を流された・・・。喜びも悲しみも、一緒に共有してくださるお方だからこそ、キリスト教の信者たちはイエスという人に対して信頼を置き、共に人生を歩んでくださるよう願うのかもしれません。

ちなみに、アメリカのオクラホマシティには『And Jesus Wept』(イエスは涙を流された)と題された像が建てられています。1995年に起こった「オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件」で亡くなった168名の方々を覚えて設置された、非常に珍しい姿をしているイエスの像です。まさに「泣く者と共に泣いてくださる」(ローマの信徒への手紙12章15節)イエス・キリストに対する人々の信頼がそこには表されています。
https://www.encirclephotos.com/image/and-jesus-wept-memorial-to-oklahoma-city-bombing-in-oklahoma-city-oklahoma/(英文)


というわけで、長々と書いてまいりましたが・・・
「聖書の中で最も短い一節」の中に秘められた、説明し出すとキリがないほどの"奥深さ"について、
皆さん、お楽しみいただけたでしょうか??笑

次回からは、再び単発の記事を投稿していきますので、また読んでくださいね~。それでは!

イエスはなぜ泣いたのか!?

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昨日の記事では「聖書の中で最も短い一節」をご紹介しました。

「イエスは涙を流された。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書 11章35節)

っていう箇所でしたね。新約聖書の元々の言語であるギリシャ語では...
ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς(エダクルセン ホ イェースース)
たった3単語でした。ギリシャ語を勉強するならまずはこの箇所からですね 笑


さて!というわけで今回は、
どうしてこの箇所でイエスは涙を流したのか!?
ということについて解説していきたいと思います。


イエスが涙を流すまでの経緯はこうです。直前の34節までを見てみましょう。


1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。
3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
〜中略〜
14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
15 私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていた。
〜中略〜
31 家でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に行って泣くのだろうと思い、後を追った。
32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、
34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
(新約聖書 ヨハネによる福音書 11章1〜34節より)



この後、ビックリすることが起こります。何とイエスは、奇跡によってお墓の中のラザロを復活させてしまうのです!
これまで、様々な奇跡を起こして人々を驚かせてきたイエスだったんですが、この場面では遂に「死んだ人を生き返らせる」という"最もありえない"奇跡を起こしてしまうことになるんですね!


・・・ん?

な〜んだ、死んだ人を蘇らせることができるんやったら、ラザロが死んでも全然悲しくないやん!


そうなんです、本当はそのはずなんです。でも、何故かイエスは、ラザロのお墓を見に行く前に「涙を流された」んですね。


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皆さんは、どうしてイエスが涙を流したのか、想像できますか?
ぜひ考えてみてください。明日更新の記事で更に真相に迫っていきます!(まだ続くんか〜い)

聖書の中で最も短い一節【キリスト教豆知識】

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聖書にはこんな風に「章番号」と「節番号」が付けられているのを知っていますか?


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これは最初から聖書の本文に付いていたものではありません。「章番号」は、イギリスのカンタベリー大司教を務めた「スティーヴン・ラングトン」(1150年頃~1228年)によるものと言われています。その一方「節番号」はというと、約300年後、フランスで印刷業者を営んでいた「ロベール・エティエンヌ(ラテン語名:ステファヌス)」(1503年頃~1559年)が付けました。その時代は、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究が盛んに行われており、エティエンヌもまた古典学者でもあったため、当時広く教会で使われていた「ラテン語聖書」ではなく、原典に立ち返る形で"ギリシャ語の新約聖書"を出版しました。その第4版を出版する際に、エティエンヌはその本文に節番号を付けたのです。

さて、そのようにして「章」と「節」に区分された聖書ですが、ご存知の通り、聖書は分厚い!それだけ聖書の本文は長いということです。「節」に関しては、何と31,000を超えています 笑 それに、エティエンヌは単語数や長さで区切ったわけではないので、長い節もあれば短い節もあるわけなんですね。


そんな中で、今日の本題。「聖書の中で最も短い一節は?

・・・とその前に、比較の対象ある方が分かりやすいと思うので「聖書の中で最も"長い"一節」をお伝えしておきますね。こちらです↓

その時、第三の月、すなわちシワンの月の二十三日に、王の書記官たちが呼ばれた。そしてユダヤ人たちに宛てて、またインドからクシュに至るまでの百二十七州にいる総督たち、地方長官たち、諸州の高官たちに宛てて、モルデカイが命じたとおりにすべて書き記された。それは州ごとにその州の書き方で、民族ごとにその民族の言語で、ユダヤ人には彼らの書き方と言語で書き記された。(旧約聖書 エステル記 8章9節)

ん~、長さというよりかは、その内容が気になっちゃいますね。「民族ごとに違う書き方や言語で文書が送られた」というような内容が書かれてあるこの一節が、今や世界中で様々な言語に翻訳されている『聖書』の中で"一番長い節"・・・。何か運命的なものを感じます。


と言うわけで、ここでようやく「聖書の中で最も短い一節」の発表です!
"最も長い一節"と見比べてみてください。こちらです↓



「イエスは涙を流された。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書 11章35節)



短い!(´;ω;`)ブワッ


英語では Jesus wept. たった2単語!
新約聖書の原語であるギリシャ語でも ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς(エダクルセン ホ イェースース)3単語!

それにしても、イエス・キリストも涙を流すことがあるんですねぇ。
何でイエスは涙を流したのか。それについては明日更新の記事をご覧ください!お楽しみに!

2月18日は何の日?【キリスト教豆知識】

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2月18日は何の日?
・・・・・・「マルティン・ルター」が亡くなった日です!

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マルティン・ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)

幼い頃から恵まれた教育環境のもとに育ったルターは、上昇志向の強かった父の期待通り、法学を学ぶために大学に入学し、いわゆる"エリートコース"を進んでいました。ところが、あるとき命の危機を感じる事態に遭遇した彼は、人間の"生と死"について強く意識するようになり、その出来事から約2週間後には、大学を離れ、当時最も厳しかった「アウグスティノ隠修士会」に入り修道士になります。その後、2年後には叙階を経て司祭となり、また数年後には神学博士として大学で教鞭をとるようになります。

ルターの名が知られるようになったのは、当時ローマ教会が販売していた「贖宥状(贖宥符、免罪符とも)」と、それに対して1517年に彼が提示した「95箇条の提題」がきっかけです。これによって、宗教改革が急激に推し進められていくこととなります。しかし、しばしば誤解されているように、ルターはローマ教会を批判したわけではなく、また、ローマ教会を変えてやるという強い意志を持っていたわけでもなく、ただ「『贖宥状』を購入することで人間が"神の救い"を得られるのはおかしいと思うので議論の場を設けてほしい」と教会側に求めただけだったのです。残念ながらルターの要求は教会側に拒まれ、それどころか「95箇条」の内容を撤回することを迫られたため、ルターと教会との間には大きな隔たりが生まれ、ルターはカトリックの神学から離れ、独自の神学を打ち立てていくこととなります。

ルターによる宗教改革は、彼が一から行なっていったものではありません。当時のヨーロッパ社会においては、周辺諸国の台頭による「神聖ローマ帝国」の弱体化が顕著にみられ、それに伴いローマ教会の力も衰退、ヒエラルキーによる教会組織の在り方にも反対の声が相次ぎ、帝国(教会)内部も崩壊の一途を辿っていました。それに加えて、当時はペストの流行などによって、誰もが死と隣り合わせで生きていると感じる状況が生じており、そんな中で「生きるとは、死ぬとは」と多くの人々が考えるようになっていました。そう考えると、死後"神の救い"を得られると謳う「贖宥状」を民衆が買い求めた理由も分かるような気がします。こういうわけで、16世紀に起こった「宗教改革」は、決してルターの思い付きで始められたものではなく、まさに起こるべくして起こった出来事であったと言えるのです。

なお、宗教改革から500年が経過した今でもなお、カトリック教会とプロテスタント教会双方から、相手側の教義に関して「それは間違っている。誤りだ」という声が聞こえてくるのは非常に残念なことです。お互いに長い歴史を過ごしてきたのですから、一致する部分もあれば、違う部分、相容れない部分もあって当然なのです。そのことを理解している人々は既に、新たな500年に向かって歩み始めています。ルターもきっと今は、カトリック教会や他教派・他宗教の人々とも、楽しく過ごしているのではないでしょうか。

教会でカレーうどん食ってきた

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いつもブログでふざけたことばかり書いている僕ではありますが、実は超マジメで敬虔なクリスチャンなので(場内ざわめき)、毎週ほぼ欠かさず教会に行って礼拝に出席しています。

普段は栄の「オアシス21」の向かいにある「プロテスタント」教会に通っているのですが、別にゼッタイそこの教会に行かなければならないわけではないので、この前の日曜日は気分転換のために、そことは別の、「聖公会」という教派の教会に行ってみました。


【キリスト教Q&A】プロテスタントって何?聖公会って何?
「プロテスタント」とは、16世紀、ローマ・カトリック教会の影響下で起こった宗教改革により生まれた教派。マルティン・ルターというドイツの司祭が当時の教会の働きに疑義を唱えたことがきっかけ。プロテスタントは「抗議する輩、抗議派」という意味。プロテスタントの中には様々なグループが存在している。
「聖公会」は、上記のプロテスタントとは異なる形でローマ・カトリック教会と袂を分かった教派。16世紀、イングランド国王のヘンリー八世が自らを教会の首長とし、ローマ・カトリック教会から分離して成立した。



で、今回はその「聖公会」の聖餐式に出席してきた感想を書くわけではありません。いずれまた、いろんな教会の礼拝の雰囲気とかをリポートする企画もやってみたら面白いとは思うのですが、もう少し先の話になりそうです。

そうではなくて、今回皆さんに見ていただきたいのがコチラ↓


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カレーうどん!!!!


こちらの教会では、毎週、聖餐式のあとにみんなで食事をしているそうで、この日のメニューは、そう、「カレーうどん」だったのです!

皆さんのキリスト教のイメージって、きっとこんな感じでしょう↓

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純白に包まれたチャペル(結婚式場の写真ですが...)。
でもそこにカレーうどんが乗っかると・・・?

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雰囲気ブチ壊し!!!!笑

そうなのです。教会とカレーうどんって、どう考えてもイメージ的に"合わない"んですね。


しかし、初めてその教会でお昼ごはんをいただいた僕は、全然びっくりしませんでした。なぜなら、プロテスタントのクリスチャンである僕にとって、礼拝後にみんなでご飯を食べるのは当たり前のことだからなのです。と言うのも、多くのプロテスタント教会では、礼拝が終わったあと、このようにお昼ごはんが出るんですね。メニューは大抵、「うどん」や「カレー」。チラシ寿司の日もあったりします。値段は200~300円でとってもリーズナブル。若い人にはチョット多めに入れてくれることも!?(「若いんだから食べて食べてハラスメント」もしばしば起こります 汗)

聖公会は厳密にいえばプロテスタントとは違うのですが、僕が行った教会では、毎週お昼ごはんが提供されているそうです。もちろん、メッチャ美味しかったですよ。

キリスト教では、古くから"いろんな人と一緒に食事をする"ことが習慣として大切にされています。それは、イエス・キリストが様々な背景を持っている人たちを皆食卓に招いて一緒に食事をしたことに由来していると思われます。今回、聖公会で出席した「聖餐式」では、一人ひとり聖壇の前まで行って「ホスチア」と呼ばれるウェハースのようなものをワインに浸して食べる...という行為をしたのですが、これも元々は、イエス・キリストを中心とした食卓(食事)に由来しているものなんですね。早くから"儀式化"してしまっていたようですが、元を辿るとそれは、いろんな人とワイワイ喋りながら楽しく過ごしていた食事の時間だったのだろうと想像します。

それにしても、どうして教会のお昼ごはんには「カレー」や「うどん」が良く出されるのでしょうか。

もしかして『聖書』の中に「カレー」とか「うどん」が出てくるのかな?と思って、念のため調べてみました。


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そら、そうやわな。
きっと作るのが簡単で、なおかつ大量に作ることができるから「カレー」や「うどん」が選ばれているのだろうと思います。

気が向いたら「教会のお昼ごはん版 食べログ」でもやってみようかな。
おしまい。また来週!

か・・・顔!

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2月14日......

バレンタイン......

チョコレート......

カカオ......



か・・・顔ッ!!!!


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聖骸布(せいがいふ、トリノの聖骸布、Holy Shroud)は、キリスト教でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている。イエス・キリストの風貌を写したという布には、聖ヴェロニカの聖骸布やマンディリオンなど複数あったといわれる。(Wikipediaより)

2月13日は何の日?【キリスト教豆知識】

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突然ですが、皆さんに残念なお知らせがあります(ハンカチのご用意をお願いいたします)。

まず、これらの絵に描かれた人物のこと、皆さんなら当然ご存知ですよね。

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そう...言わずと知れた、あの「イエス・キリスト」と呼ばれる人物です。

約2000年前、現在のパレスチナの地域に生まれ、"神さま"のことを人々に教えていた人物なのですが、イエス・キリストの死後、彼の弟子たちの働きを通じて、後に彼は、信奉者たちから「神のひとり子」「救い主」「真の神であり、真の人であるお方」というように信じられるようになっていきました。そして、彼の教えを基に体系化されていった「キリスト教」という宗教は"世界宗教"として、何と、今では世界中に20億人以上の信者を抱える超巨大な宗教にまで発展することとなりました。

日本においても、キリスト教の信者は190万人以上存在するとされており、日本全国にある「教会」の数は4,300を超えています。この名古屋学院大学も、キリスト教の宣教師クラインによって建てられた学校から生まれた"キリスト教主義大学"です。

そういうわけで、僕らはこの「イエス・キリスト」と呼ばれる人物について、多少なりとも知っているわけですけれども、先ほど冒頭でも触れましたように、本日は皆さんに大変残念なことをお伝えしなければならないのです。皆さんのことをガッカリさせてしまいそうで、「伝えるべきかな、いや、でも止めておこうかな・・・」と散々悩んだのですが、やはり真実をお伝えするのがこのキリスト教センターブログの使命ではないか!と考え、本日この場で皆さんにお知らせすることにいたしました。


皆さん、心の準備をお願いします。実はですね・・・

この「イエス・キリスト」っていう名前の「キリスト」って・・・

苗 字 じ ゃ な か っ た ん で す !!!!!!!!

(一同騒然)

皆さん落ち着いてくださいね(ここで水を飲む)。
ちゃんと今からご説明しますので、まずは深呼吸してください(会場を見渡す)。


僕らが"苗字"(ファミリーネーム)だと思い込んできた、この「キリスト」という言葉。これは、言ってみれば「称号」のようなものなんです。「キリスト」とは、日本でもしばしば「救世主」という意味で使われている「メシア」(ヘブライ語)という言葉のギリシャ語訳で、意味は「油を注がれた者」という意味です。聖書の主な舞台である古代イスラエルでは、王様や祭司、預言者と呼ばれる人々を任命するとき、油を塗る習慣がありました。それを受けて、イエスという人物のことを「救い主」とか「この世のどんな王様にも勝る王様」というように信じた人々は、彼のことを「メシア」「キリスト」というように呼ぶようになったんですね。

なので「イエス・キリスト」とは、「キリスト家のイエスさん」ではなくて「キリスト(称号)であるイエス」という意味の呼び名だったんですね。皆さん、ぜひ覚えておいてくださ~い。


さて、それにしても何で今日はこんなお話をしているのかと言いますと、ちゃんとこれには理由があります。

それは、本日「2月13日」という日が、1875年2月13日に、明治政府によって「平民苗字必称義務令」が出されたことを記念する「苗字制定記念日」と呼ばれる日だからです。これによって、すべての国民が「苗字」を名乗ることを義務付けられることとなりました。

そう。ただ「苗字」の話と「キリスト教」の話を絡めたかっただけ。

そ れ だ け ! おしまい。

2/11 信教の自由を守る日

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皆さん、3連休をどのように過ごされましたか?いつも通り過ごしたという人もいれば、せっかくだから遠出したという人もいるかもしれませんね。


さて、3連休の最終日である211日は「建国記念の日」という"国民の祝日"でした。


国の建国を記念する日は、その国によって異なります。例えば、アメリカ合衆国だと「独立記念日」(74日)がそれにあたり、ドイツだと、1990年にドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が再統一した日(103日)となります。このように、ほとんどの国では、その国の歴史的出来事をもとにして建国記念日が定められているんですね。


では、日本はどうなのか。日本国憲法が施行された日かな? そう思った人、なかなか良いセンス!でも...違うんですね 笑 それは「憲法記念日」という別の祝日として定められています(建国日を決めるとき、実際にそういう意見もありました)。


実は日本の場合、歴史的な出来事ではなく、"神話"に基づいて「建国記念の日」が定められたんです。かつて、211日は「紀元節」と呼ばれていました。これは、奈良時代の歴史書『日本書紀』に記されている、初代天皇である神武天皇の即位日に由来する祝日のことで、旧暦では、この日が11日とされていました。ただし、この祝日は、第二次世界大戦後、GHQによって廃止されることとなりました。天皇を神と教え、日本の国民を戦争へと駆り立てた原動力である"国家神道"を徹底的に排除することを目指したためです。


しかし、国家神道は根絶されることはありませんでした。そして、かつての「紀元節」復活を求める勢力の働きにより、"建国記念日"を制定する法案が幾度となく提出され、何度も退けられたものの、最終的には、紀元節をその日に定めることで成立することとなったのです。


ただし、ここで注意していただきたいのは、この祝日は「建国記念"の"日」であって「建国記念日」ではないということです。これは、とても大事なことなんです。と言うのも、由来となった紀元節(つまり神話の登場人物である神武天皇の即位日)は、歴史的事柄ではないために「建国記念日」と呼ぶのはふさわしくありません。そして、「の」という語を入れることで、"国が建国されたという事象そのものを記念する日"として解釈できる余地を残しているわけなんです。神話に基づいて「建国記念の日」が定められたことは変わらないんですけどね...


ところで、今回の記事のタイトルは「2/11 信教の自由を守る日」としました。「信教の自由を守る日」は、日本のキリスト教界にとって非常に大切な日です。


先に述べたように、「建国記念の日」(211日)は、国家神道の核となる日本神話を由来とする祝日です。言わば、天皇制を保持し続けるこの国を象徴する日であるわけです。皆さんご存知の通り、天皇を神と崇めていたこの国は、先の大戦において、"別の神"を信仰するキリスト教を迫害・弾圧してきました。信者たちは、天皇を崇拝することを強要され、監視され、ある者たちは逮捕され、獄中死など命を落とした人々もいました。すなわち、日本のキリスト教の信者たちは、自分たちの神を信じて生きていく自由を侵されていたのです。


1966年に「建国記念の日」が制定されるとすぐに、日本のキリスト教諸教会は、その日を「信教の自由を守る日」と呼んで各地で反対運動が行われるようになりました。国民の生活の中に天皇制を保ち続けようとするこの国の在り方に異議を唱え、日本国憲法によって保証されている「思想・良心の自由」「信教の自由」を守っていくためです。


皆さんの中には、"宗教"と聞くと、抵抗を感じたり、あるいは「そもそも宗教なんて興味ない」という人が少なくないと思います(...そんな人たちが、ここまで読んでくれてるのかな?笑 長々と書いてきましたけど読んでくれてありがとう!みんな大好き!)。


それは決して悪いことではありません。宗教に興味がある人もいれば、興味ない人もいる。当然のことです。それに、宗教に悪いイメージを持ってしまう(皆さんに持たせてしまっている)のは、キリスト教を含め全ての宗教に責任があるとも言えるかもしれませんね。


しかし皆さん、考えてみてください。宗教に興味が無い、あるいは宗教なんて無くなれば良いとさえ思っている、はたまた何らかの宗教を心の拠り所としている私たちの生活が、実は、天皇を中心とする「国家神道」というれっきとした"宗教"の影響を大きく受けている。そして、その宗教に基づいて、この国の建国日が定められていたり、また、何年かに一度、元号と呼ばれる暦が変えられたり、更には私たち自身の"政治に対する見方"も影響を受けたりする。そして何より、天皇と国のために、かつて多くの人々が洗脳され、数えきれないほどの命が失われてきた。また同じことが起こる可能性が無いわけではない。


...何かそれっておかしくないですか?「信教の自由」をはじめとした私たちの「自由」って、本当に保証されているのでしょうか。


「キリスト教」という"一宗教"の思想を根底に据える本学に、今、皆さんは繋がっています。言わば、世界や国、社会、更には私たち一人ひとりの生活を左右する力を持つ「宗教」という分野について学ぶのに最適な環境がここにはあるのです。これからの時代を生きていく全ての人々のために、また"あなた自身"のために、「宗教」と「自由」について一緒に考えていきませんか?


ーー「建国記念の日」そして「信教の自由を守る日」を覚えて綴った、チャペルの牧師の個人的なコメントでした。

キリ絵 de 大喜利 No.03

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(なんでトイレットペーパーにはシングルとダブルがあるんやろ・・・)

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『預言者 ヨエル』(1508~1512)

作者:ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(1475~1564)


ヨエルは、十二小預言者と呼ばれる旧約聖書の預言者の一人。彼の残した預言は『ヨエル書』として旧約聖書に収録されています。預言の中心テーマは、神の裁きが敵国や神に逆らう者たちにもたらされ、神の民には救いが与えられるとされる、いわゆる「主の日」について。たった4章しかない短い預言書なので、簡単に読むことができます。

作者は、かの有名な芸術家であるミケランジェロ。西洋美術史上、あらゆる分野に大きな影響を与えたイタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人です。彫刻作品としては、十字架上で息を引き取ったイエスを母マリアが抱く姿をかたどった『ピエタ』や、イスラエルの王『ダビデ像』などが良く知られています(どちらも20代の時に制作!)。また、2つのフレスコ画『システィーナ礼拝堂天井画』と『最後の審判』は見る者を圧倒します。

2月6日は何の日?【キリスト教豆知識】

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2月6日は何の日?

・・・・・・「アンパンマン」の誕生日です!


え?アンパンマンって誕生日があるの?そう思われた方も多いと思います。実は、アンパンマンの作者である やなせたかし さん(1919年2月6日 - 2013年10月13日)が、かつて、子どもにアンパンマンの誕生日を尋ねられたとき、自分の誕生日を答えたことに由来するそうです。だから今日は やなせたかし さんのお誕生日でもあるんですね。


さて、小さい子からおじいちゃん・おばあちゃんまで、みんな知ってる国民的キャラクター「アンパンマン」。ちなみに、ウチの息子(1歳4か月)も、アンパンマンの人形を見て「チャンチャンチャン」(アンパンマンって言ってるつもり)って呼んでます。でもね、僕、いつも不思議に思うんですよ。アンパンマンって、そんなにカッコいい姿でもないし、逆に可愛らしいカラーリングというわけでもないし、それに、空を飛んだりアンパンチは繰り出せるけど正直それぐらいしか特殊な力は無いのに、なんでこんなにも人々から愛されるんやろ・・・って。


皆さんも、ちょっと一緒に考えてみてください。


アンパンマンの姿というのは、マントを付けて空を飛び、悪役として登場する「ばいきんまん」からみんなを守る、いかにも昔ながらのヒーロー像だと言えると思うんですよね。でも、他のヒーローとは異なる点が一つだけあります。それは、ばいきんまんに"とどめを刺さない"こと。正義のヒーローって、悪を根絶するために戦うじゃないですか。アンパンマンだって、他のヒーローたちと同じように、悪いことばかりする ばいきんまん をやっつけてしまえば、世界に平和が訪れるんじゃないの?・・・そのようについ思ってしまうんですが、アンパンマンはそうはしないんです。ばいきんまんにアンパンチをお見舞いし(遠くに吹っ飛ばして)それでおしまい。


なんで、ばいきんまんにとどめを刺さないのか。それは、アンパンマンが悪を滅ぼすためではなく、みんなを守るために戦っているからです。そのため、ばいきんまんが反省してくれさえすれば、それ以上、ばいきんまんのことを懲らしめる必要はないと考えているのでしょう。アンパンマンにとっては、「みんなを守る」という言葉の「みんな」の中に、ばいきんまんも入っているのかもしれませんね。ばいきんまんのためにも、アンパンマンは戦っていると言えるのではないでしょうか。


それに、アンパンマンの最大の特徴と言えば、やっぱり「自分の顔をお腹が減っている人に分け与えてあげる」ことですよね。この特徴は、作者の やなせたかし さんが最も大切にしている部分です。「アンパンマン」は、当初、戦うヒーローではなく、作品の主人公である売れない青年漫画家がお腹を空かして倒れそうになっているところに突如現れ、自分の顔を食べさせてあげるというキャラクターとして登場していました。その主人公は、やなせさん自身を投影したキャラクターとして描かれたのだそうですが、それ以降、アンパンマンの性格や喋り口調などは変化していったものの、自分の顔を食べさせてあげるという特徴は、けっして変わることなく、今に至るまで受け継がれてきました。


作者である やなせ さんは、戦争を体験し(中国に出征し、最終的には陸軍軍曹の地位にまで就きました)、その中で本格的な飢え苦しみを味わい、また、戦後漫画家として働き続ける中でも、なかなかヒット作を生み出せず生きていく厳しさを経験しました。きっと、そういった経験があったからこそ、人間にとって本当に必要なことは「食べる」ことであり、正義とは、悪と戦うことではなく「みんなの命を守る」ことだと、やなせさんは受けとめ、「アンパンマン」というヒーローを誕生させたのだろうと思います。


やなせさんが亡くなった時、「やなせさんはキリスト教の信者だった」と報じられたのですが(のちに誤報として訂正された)、やなせさんの正義観、そして「アンパンマン」という作品にみられる愛の精神は、充分に、「キリスト教」という宗教が大切にしているイエスの教えと通ずるところがあります。お腹を空かせた人々にパンを分け与え、また弟子たちに「これはわたしの体である」と言いつつパンを裂き、そして、自分たちの正義と異なる者たちの正義がぶつかるとき、「敵を愛しなさい」(ルカ5:44)と教えられたイエス・キリストの愛を、「アンパンマン」という作品から読み取ることができるのではないでしょうか。


「アンパンマン」が世代を超えて愛されている理由が分かるような気がしますね。

チャペルに撮影クルーがやって来たゾ

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おぉ、みんなガウンを着て真剣な表情...

一体何が行われているのでしょうか。
詳細は続報を待て!(いつか分からないけど)

キリ絵 de 大喜利 No.02

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天使「『U.S.A.』の振り付けは右腕と右足が同時に出る...って何回言ったら分かるんやッ!左腕は下げとくねん、ほんで、右腕をこう前に出して...出してこい、前にッ!親指は「いいね」にしとかんかいッ!...いや、だから右足を前に出してこいって言っとるやろッ!!」


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『天使と格闘するヤコブ』(1955年)

作者:ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré、1832年1月6日~1883年1月23日


フランスのイラストレーター、画家。15歳の時から絵の世界で活躍し、主に挿絵画家として知られています。ダンテの『神曲』の挿絵が代表作。版画や彫刻、風刺画、幻想画、肖像画など、1万を超える様々なジャンルの素描やイラストなどの作品を残したことで、多くの画家たちに強い影響を与えました。旧約聖書や新約聖書の物語を描いた作品も多く存在しており、この『天使と格闘するヤコブ』もそのうちの一つ。ヤコブは、ユダヤ人の祖先であるイスラエル民族の族長の一人で、彼の十二人の息子から生まれた子孫たちが、イスラエル民族を形成していったとされています。創世記32章において、ヤコブと夜通し格闘(レスリング?)した神の御使いは、ついに降参し、彼のことを「イスラエル」(神に勝つ者という意味)と名付けました。


創世記32章23~33節(日本聖書協会『新共同訳聖書』)

その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

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