2月18日は何の日?
・・・・・・「マルティン・ルター」が亡くなった日です!
マルティン・ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)
幼い頃から恵まれた教育環境のもとに育ったルターは、上昇志向の強かった父の期待通り、法学を学ぶために大学に入学し、いわゆる"エリートコース"を進んでいました。ところが、あるとき命の危機を感じる事態に遭遇した彼は、人間の"生と死"について強く意識するようになり、その出来事から約2週間後には、大学を離れ、当時最も厳しかった「アウグスティノ隠修士会」に入り修道士になります。その後、2年後には叙階を経て司祭となり、また数年後には神学博士として大学で教鞭をとるようになります。
ルターの名が知られるようになったのは、当時ローマ教会が販売していた「贖宥状(贖宥符、免罪符とも)」と、それに対して1517年に彼が提示した「95箇条の提題」がきっかけです。これによって、宗教改革が急激に推し進められていくこととなります。しかし、しばしば誤解されているように、ルターはローマ教会を批判したわけではなく、また、ローマ教会を変えてやるという強い意志を持っていたわけでもなく、ただ「『贖宥状』を購入することで人間が"神の救い"を得られるのはおかしいと思うので議論の場を設けてほしい」と教会側に求めただけだったのです。残念ながらルターの要求は教会側に拒まれ、それどころか「95箇条」の内容を撤回することを迫られたため、ルターと教会との間には大きな隔たりが生まれ、ルターはカトリックの神学から離れ、独自の神学を打ち立てていくこととなります。
ルターによる宗教改革は、彼が一から行なっていったものではありません。当時のヨーロッパ社会においては、周辺諸国の台頭による「神聖ローマ帝国」の弱体化が顕著にみられ、それに伴いローマ教会の力も衰退、ヒエラルキーによる教会組織の在り方にも反対の声が相次ぎ、帝国(教会)内部も崩壊の一途を辿っていました。それに加えて、当時はペストの流行などによって、誰もが死と隣り合わせで生きていると感じる状況が生じており、そんな中で「生きるとは、死ぬとは」と多くの人々が考えるようになっていました。そう考えると、死後"神の救い"を得られると謳う「贖宥状」を民衆が買い求めた理由も分かるような気がします。こういうわけで、16世紀に起こった「宗教改革」は、決してルターの思い付きで始められたものではなく、まさに起こるべくして起こった出来事であったと言えるのです。
なお、宗教改革から500年が経過した今でもなお、カトリック教会とプロテスタント教会双方から、相手側の教義に関して「それは間違っている。誤りだ」という声が聞こえてくるのは非常に残念なことです。お互いに長い歴史を過ごしてきたのですから、一致する部分もあれば、違う部分、相容れない部分もあって当然なのです。そのことを理解している人々は既に、新たな500年に向かって歩み始めています。ルターもきっと今は、カトリック教会や他教派・他宗教の人々とも、楽しく過ごしているのではないでしょうか。
・・・・・・「マルティン・ルター」が亡くなった日です!
マルティン・ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)
幼い頃から恵まれた教育環境のもとに育ったルターは、上昇志向の強かった父の期待通り、法学を学ぶために大学に入学し、いわゆる"エリートコース"を進んでいました。ところが、あるとき命の危機を感じる事態に遭遇した彼は、人間の"生と死"について強く意識するようになり、その出来事から約2週間後には、大学を離れ、当時最も厳しかった「アウグスティノ隠修士会」に入り修道士になります。その後、2年後には叙階を経て司祭となり、また数年後には神学博士として大学で教鞭をとるようになります。
ルターの名が知られるようになったのは、当時ローマ教会が販売していた「贖宥状(贖宥符、免罪符とも)」と、それに対して1517年に彼が提示した「95箇条の提題」がきっかけです。これによって、宗教改革が急激に推し進められていくこととなります。しかし、しばしば誤解されているように、ルターはローマ教会を批判したわけではなく、また、ローマ教会を変えてやるという強い意志を持っていたわけでもなく、ただ「『贖宥状』を購入することで人間が"神の救い"を得られるのはおかしいと思うので議論の場を設けてほしい」と教会側に求めただけだったのです。残念ながらルターの要求は教会側に拒まれ、それどころか「95箇条」の内容を撤回することを迫られたため、ルターと教会との間には大きな隔たりが生まれ、ルターはカトリックの神学から離れ、独自の神学を打ち立てていくこととなります。
ルターによる宗教改革は、彼が一から行なっていったものではありません。当時のヨーロッパ社会においては、周辺諸国の台頭による「神聖ローマ帝国」の弱体化が顕著にみられ、それに伴いローマ教会の力も衰退、ヒエラルキーによる教会組織の在り方にも反対の声が相次ぎ、帝国(教会)内部も崩壊の一途を辿っていました。それに加えて、当時はペストの流行などによって、誰もが死と隣り合わせで生きていると感じる状況が生じており、そんな中で「生きるとは、死ぬとは」と多くの人々が考えるようになっていました。そう考えると、死後"神の救い"を得られると謳う「贖宥状」を民衆が買い求めた理由も分かるような気がします。こういうわけで、16世紀に起こった「宗教改革」は、決してルターの思い付きで始められたものではなく、まさに起こるべくして起こった出来事であったと言えるのです。
なお、宗教改革から500年が経過した今でもなお、カトリック教会とプロテスタント教会双方から、相手側の教義に関して「それは間違っている。誤りだ」という声が聞こえてくるのは非常に残念なことです。お互いに長い歴史を過ごしてきたのですから、一致する部分もあれば、違う部分、相容れない部分もあって当然なのです。そのことを理解している人々は既に、新たな500年に向かって歩み始めています。ルターもきっと今は、カトリック教会や他教派・他宗教の人々とも、楽しく過ごしているのではないでしょうか。