二日前にチャペル庭園のアカメの木の葉にしがみついていた、蝉の抜け殻がどうなっているか気になったので、お昼休みに足を運んでみた。昨日の雨に打たれたにもかかわらず、形がそのままだったので何故かほっとした。
事務室に戻る途中、礼拝堂の外壁にふと目をやると、雨のかからないコンクリートに、虫の抜け殻がへばりついていた。
大きさは、人の小指の先ほど。どんな生き物がそこで育ち、殻を破って出て行ったのだろう。そのまま、あたりに目を這わすと、その殻はほかにもあった。中には殻がぐちゃぐちゃに破れているものもあった。
人は古い自分から脱却し常に成長する。
その古かった自分から脱皮するとき、さらりときれいに抜け殻を置いてゆく人もいるだろう。しかし、中にはうまく出ることが出来ず、もがいているうちに、ぐちゃぐちゃになって、その自分の姿をやむを得ず置いてくる人もあるだろう。私はどちらと言えは、後者。とくに大学生のころの抜け殻は、破れて、ぐちゃぐちゃで人にお見せできるものでもない。でも人はどんな抜け殻を置いてこようと、今、喜びに生きるよう十字架の愛の殻を通して、イエスは私たちに教えている。
ここ数日、チャペル周辺の生き物の抜け殻からいろいろ学んだ。聖書は実は、神さまが作られた、この世界からいろいろ学ぶよう教えている。
「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう」(旧約聖書ヨブ記12章7~8節)
イエスも、自然から神様の心を学ぶことの大切さを教えていてくださっている。そんなことが書かれている「新約聖書マタイによる福音書6章25~34節」を、学生さんには一度ぜひ読んでほしい。
トナリの上司(仮)より