3.11『蕾』(GReeeeN)のキリスト教的考察

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伝道師のほうです。

最近、家の近くの河川敷でランニングをしています。今朝も、川沿いを走っていたのですが、ふと、このような考えが脳裏をよぎりました。「もし今、地震が起こったらどこに逃げれば良いだろう。津波が起こって川が逆流してきたら、近くに昇れる高い建物などはあるだろうか。」見渡してみたら、4階建てくらいの病院がありました。「あそこなら大丈夫だろう」と思って、帰宅後に調べてみたら、宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高校(旧校舎)は、当時、4階建てだったにもかかわらず、4階の天井まで浸水したのだそうです。あの病院ではダメだと確信しました。他に避難できる建物を探さなければなりません。「もし地震が起こったら...」「津波の恐れがある場合は...」そんなことを普段から考えておかなければいけないなと思わされた朝でした。

さて今日は、GReeeeNのニューシングル『蕾』について、キリスト教的な視点から考察してみたいと思います。この曲は、TBSテレビ系列『東日本大震災10年プロジェクト「つなぐ、つながる」』のテーマソング。福島県で結成されたGReeeeNによって制作され、リーダーのHIDEと内堀雅雄 福島県知事との対談や、東北の方々の声を反映させるかたちで書き上げられました。



歌詞を読んでみますと、タイトルにもあるように、希望を包んだ小さな「蕾」(つぼみ)が、将来、花開くんだという内容になっています。

「蕾」という言葉は聖書に出てくるでしょうか。調べてみたところ、以下のとおり旧約聖書に数箇所使われていました(いずれも聖書協会共同訳より)。

「翌日、モーセが証しの幕屋に入ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。」(民数記17:23)
「くるみの園に私は下りて行きました。/川辺の新芽を見るためにぶどうの木がつぼみをつけたか/ざくろのが咲いたかを見るために。」(雅歌6:11)
「早く起きて、ぶどう畑に行きましょう。ぶどうの木がつぼみをつけたか、盛りか/ざくろのが咲いたかを見ましょう。そこで私の愛をあなたに差し上げましょう。」(雅歌7:13)
「刈り入れの前につぼみが開きが咲いて実が熟し始めれば/人はその小枝を鎌で切り落とし/そのつるを払い、取り除くものだ。」(イザヤ書18:5)

ここで注目したいのは、いずれの箇所も「つぼみ」のあとに「花」という言葉が出てくる点です。つぼみを付けて、花を咲かせる。雅歌6:11と7:13、そしてイザヤ書18:5では、ぶどうの花のつぼみについて言及されています。聖書の舞台である古代のパレスチナの地域では主に、小麦、大麦、いちじく、ざくろ、オリーブ、なつめやし、そして「ぶどう」が栽培されました。ぶどうやいちじくは、夏の終わりに収穫されました。パレスチナは、乾季と雨季に大きく分けることができ、ぶどうの収穫はつまり、乾季の終わり、雨季の訪れを意味しています。パレスチナは日本ほど季節の移り変わりがはっきりしていないと言われていますが、それでも、花を咲かせたり穂を実らせたりする植物たちの様子を見ることで、聖書の時代の人々は、季節の変化を実感することができたのでしょうね。

『蕾』の歌詞の中にも、視覚的に季節の移り変わりを感じさせる言葉が出てきます。「雪を溶かし」「白い空」「百の蕾が花ひらくの」。特に「白い空」という言葉が、個人的には気に入っています。爽快な青い空ではなく、雪を降らせそうな厚い雲に覆われている空のことを「白い空」と表現しているわけです。その光景を思い浮かべるだけでも、気持ちが沈んでしまいそうになります。

このように「冬」という季節を、草木も枯れて寂しい時として表現することで、東日本大震災の被害を受けて、人の姿や命、建物など、そこにあったはずのあらゆるものが失われてしまった悲しみ、絶望としか言えないような状況を「冬」としてイメージすることができるようになっています。歌詞の中には直接、震災の悲惨さが歌われているわけではありませんが、このように「冬」という季節を隠喩として用いることで、間接的に、しかも柔らかな形で、震災後の被災地の様子を連想させているわけですから、GReeeeNの皆さんの文学的センスには目を見張るものがあります。

しかし、冬という季節は、いずれ、春へと移行していきます。雪が溶け、地が姿を現し、植物たちが「蕾」をつけてそれが花開く季節がやってきます。毎年、必ず春はやってきます。季節の変化が豊かなこの国では、春の訪れを歌う曲が毎年たくさん作られますね。ただ、ここで気をつけておきたいのは、この『蕾』という曲の中では、「冬の終わり」と「春の訪れ」に関して、実際の季節という時間的感覚では歌われていないということです。

そうです。東日本大震災が起こってから、今日で10年が経過しました。2011年、僕は今の皆さんと同じくらいの年齢で、関西の大学に通っていました。それから10年が経過して、社会人になり、家族を持ち、大きく変化してきたと実感しています。皆さんもそれぞれに、様々な変化を体験してきたことと思います。けれども、被災地はどうでしょうか。最近はあまりテレビで報道されなくなってきており、時間の経過とともに"風化"を心配する声が聞かれるようになってきています。2019年度までに、国の復興関連予算として投じられたお金は約39兆円。住宅再建や復興まちづくり、被災者支援、産業の再生、公共インフラ整備など、様々な取り組みのために使われました。10年が経った今、被災した各地の様子は大きく変化しているように見えます。住宅街や緑も広がり、新しい生活が始まっていると感じます。でもそれは、新しい生活であり、元の生活が戻ってきたわけではありません。仙台市では、77%以上の人が、回復・復旧を実感していると回答していますが、その一方で、全体の2割以上の人たちが、どちらともいえない、回復・復旧を実感していないと答えています。いまだ仮設住宅での生活を続けておられる方、何万人もの県外避難者の方々の存在もあります。原発・放射能汚染の問題は、これから先、何年や何十年という単位ではなく、ずっと日本という国が責任をもって取り組んでいかなければならないものです。そう考えると、10年という年月は、とても長いようで、非常に短い、そのような時間であると言えます。
(参考:https://issue.yahoo.co.jp/311_10years/

GReeeeNの皆さんも、一当事者として、そのことを十分に理解されている。だからこそ、冬の後にはすぐに必ず春がやってくるという浅はかな表現ではなく、「やがて」とか「何度も冬を越えて その日を待ちわびるの」などのように、人々が待ち望んでいる「春」の訪れまでには時間がかかるのだという描き方をしているのだろうと思います。

キリスト教の賛美歌の中に、「球根の中には」(『讃美歌21』575番)という賛美歌があります。20世紀に作られた現代の賛美歌です。

球根の中には.jpg

ナタリー・スリース(1930-1992)という女性が作詞・作曲を手掛けました。アメリカのメソジスト教会では大変好んで歌われているとのこと。日本の教会でも、特に、春の訪れを感じるイースターの季節などによく歌われているように思います。

いのちの終わりは、完全な終わりではなく、いのちの始まりなのであるとこの賛美歌は歌います。しかもそれは、輪廻転生のような新たな(限りある)命として生まれ変わるということではなく、永遠の命の始まりを意味しています。これは、キリスト教の信仰の神髄です。

「寒い冬の中 春はめざめる。」「過ぎ去った時が 未来を拓く。」「ついに変えられる 永遠の朝。」「その日、その時を ただ神が知る。」

終わりが、同時に、始まりでもある。このことは、宗教的・観念的なものに留まらず、私たちの現実世界でもしばしば経験することです。東日本大震災によって、人々は「終わり」を経験しました。いや、今まだ経験し続けているとも言えるかもしれません。しかし、時間というものは相も変わらず流れていきます。私たちはその時間の中で前に進んでいくしかないのです。そう考えると、「終わり」を経験しながらも、私たちは並行して「始まり」の中を歩んでいるとも言えるのかもしれません。10年という「始まり」を今、生きているのです。少しずつ雪が溶け、風の流れが変わってきている。各地で植物たちが芽吹いている。その芽が、蕾が、美しく花を咲かせる日はいつか。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父(神)だけがご存じである。」(マルコによる福音書13:32)

旧約聖書のコヘレトはこのように書いています。
天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。
(コヘレトの言葉3:1)

すでに述べたように、この『蕾』の歌詞は、冬が終わって春を迎えるというような単純な表現を用いてはおらず、いつかは分からないけれども、必ず将来、春がやってくるんだという「未来に対する希望」を見事に歌い上げています。そして、そのようなメッセージは、キリスト教の信仰にも通ずるものがあるといえます。すなわち、人間は無情に流れていく時の中を生きていくしかない、けれども、その先には必ず神が「その時」を備えてくださっているのだという信仰です。

私たちは、東日本大震災のことを、これから先の10年もけっして忘れてはなりません。同じ日本、同じ世界に生きる当事者として、関わり続けていく必要があると思います。今日この日、日本中で、また世界中で、被災された方々のことを想って祈りがささげられていることと思います。私たちもその輪の中に加わりましょう。

神よ、10年という年月の間、被災者の方々とともに歩んでくださり、守り導いてくださっていたことを感謝します。10年前、多くの命が失われました。人間だけでなく、動物たちも自然も、大きなダメージを受けました。その傷は完全に癒えるものではなく、過去のこととして忘れることができるものでもありません。けれども、アルファでありオメガであられるあなたは、終わりの先に始まりを備えてくださり、人々を再び立ち上がらせてくださいました。被災された方々に生きる力を、未来を信じる勇気を与えてくださいました。これからも私たちは、現在進行形で起こり続けているこの「東日本大震災」という出来事を心に留め、少しでも被災者の方々に寄り添うことができるよう、愛の行いを実践していきたいと願います。どうか、これからの10年も、私たちにあなたの道を示し、支援に携わる人たちに正しい知恵と力を与え、そして、被災されたすべての方々に、癒しと希望をお与えください。主イエスの御名によって、アーメン。

以上、GReeeeNの新曲『蕾』のキリスト教的考察でした。長々と失礼いたしました。お読みいただきありがとうございます。

つぼみ01.jpg

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このページは、キリスト教センターが2021年3月11日 14:46に書いたブログ記事です。

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