カンガルー日和
村上春樹の短編作品を英語でも読んでみよう、というテキストです。初期の短編のひとつ「カンガルー日和」。僕と彼女が動物園にカンガルーの赤ん坊を見に行くだけのちょっとしたお話です。
月曜の朝、たいして人気のない動物園、当然カンガルーの檻の前には我々二人しかいない。
我々の目あてはもちろんカンガルーの赤ん坊である。それ以外に見るべき何があるだろう?
(The whole point for us was to see the baby kangaroo. I mean,why else would we be at the zoo?)
しかし新聞の告知でみたカンガルーの赤ん坊は見当たらない。なぜだろう。そうやって次の日も、次の日もいないまま一ヶ月が過ぎた。彼女は心配した。ちゃんと赤ん坊は生きているのかと、あるいは病気にでもなったのかと、いや母親がショックを受けて、奥の暗い部屋に赤ん坊を連れてひっそりと閉じこもってるんじゃないかと。
女というのは実にいろんな可能性を思いつくものだと僕は感心する。ショックだって。カンガルーがどんなショックを受けるのだろう?
( Women really think of every possible scenario,I thought,impressed. A trauma? What kind of trauma could affect a kangaroo?)
男と女の違いが伝わってきてちょっと微笑ましいです。
カンガルーは生きていたが、それは赤ん坊というより小型カンガルーになっていた。
「もう赤ん坊じゃないみたい」("It isn't a baby anymore")
「私たち、もっと早く来るべきだったのよ」
後半辺りからいっそう会話で物事が進んでいくようになります。
「だって赤ん坊ならお母さんの袋に入っているはずよ」("A baby would be inside its mother's pouch")
僕は肯いてアイスクリームをなめる。(I nodded and licked my ice cream.)
「でも入ってないもの」("But it isn't in her pouch")
いちばん巨大で、いちばん物静かなのが父親カンガルーだ。彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている。
(Looking like a composer whose talent has run dry , he just stood stock-still,staring at the leaves inside their feed trough.)
このような比喩表現は物語のふくらみを持たせてくれていて、読者にとってリアルな想像がつきますし、読者になにかを考えさせるような表現でもあります。
残りの二匹は雌だが、どちらも同じような体つきで、同じような体色で、同じような顔つきである。
「でも、どちらかが母親で、どちらかが母親じゃないんだ」と僕は言った。("One of them's got to be the mother, and one of them isn't," I commented.)
「うん」("Um.")
「とすると、母親じゃない方のカンガルーはいったいなんだ?」("So what is the one who isn't the mother?")
わからない、と彼女は言った。("You got me ," she said.)
カンガルーについての考察が続いていきます。
「なぜカンガルーの赤ん坊はお母さんのおなかの袋に入るの?」("Why do baby kangaroos climb into their mother's pouch?")
「一緒に逃げるためさ。子供はそんなに速く走れないから」("So they can run away with her. Babies can't run so fast.")
「保護されているのね?」("So they're protected?")
「うん」「子どもはみんな保護されているんだ」("Yeah," I said. "They protect all their young.")
僕が慰めています。
「ほら、見て、袋の中に入ったわよ」("You see? It's inside her pouch!")
たぶんそれが母親なのだろう
「あんなのが入って重くないのかしら?」("It must be pretty heavy with the baby inside," she said.)
「大丈夫だよ。カンガルーは力持ちだからね」("Don't worry ―kangaroos are strong.")
「本当?」("Really?")
「もちろん。だから今まで生き延びてきたんだ。」("Of course they are. That's how they've survived.)
この会話は会話の意味以上のものを含んでいるように思えます。いや全く別のことについて話しているとも考えることができる。僕と彼女がこの先どうなっていくのかという不安とか葛藤がなんとなくわかります。でも最後は良き方向へいく決心のようなものが伝わります。
カンガルーのようなほっこりとした愛おしい短編小説ですが、日英の表現法の微妙な違いを考えながら読める一冊です。翻訳というものがいかに難しく、言語の檻というものをどうやって解体していくのか、その奥深さとしかし同時にその面白さがあるのかもしれません。
肩の力を抜いて、リラックスして読めます。
図書館SA あっきー
2018年6月27日 学生TA | 個別ページ
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