最後の海賊
ペネロペが出演した「生命の泉」に続く五作目。今作はペネロペの夫が出ています。 前回は生命の泉とやらを探し当てた末、お馴染みのブラックパール号という世界最速と言われる海賊船を取り戻すというところで終わりました。あ、これはひょっとして次作に続くんだな、と鑑賞後思われた方はいたでしょう。
前作は2011年公開でしたから、6年後に新作ということになります。続くんだよと見せておいて6年後にやるんだから、期待感に膨らんだ感情はすっかり忘れてしまいますね。2011年から2017年でいったいどれだけの出来事があったか。世界はあっという間に変わっていく、個人も社会も。
そうしたなか、今作まで出続けている三人がいます。主人公ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)、ジャックの右腕的存在ギブス君、そしてわれらがバルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)。はじめの作品が2003年ということを考えると、同じ役で毎回出続ける俳優、あるいは衣装とかメイクの技術なんかに驚きます。だから彼らが出てくると物語の世界にすんなり入り込んでしまい、時間の感覚を喪失してしまいます。
彼らの中でも最も存在感を見せるのがバルボッサでしょう。主人公を差し置いて。もちろんジャックの自由奔放でなにを考えているのか分からない、動きが読めないというところは魅力的です。が、宿敵であり、かつ盟友でもあり、ときに共闘したり、ジャックを出し抜いたり、なにかと縁がぶつかり合うバルボッサはこの物語になくてはならない存在です。彼がいることでジャックがより引き立つのでしょう。これはルパンに対する次元や五エ門のような、はじめは今回ばかりは付き合いきれないと言いながら、なんだかんだ結局ルパンに付き合ってしまう関係性を思い出します。腐れ縁ですね。
今作は、本来のアトラクション要素や仕掛けがこれまで以上に存分に入っています。ときたま入るギャグやユーモア精神が見られるところをみると、ああこれはディズニーなんだと良い意味で思わされます。ファンタジーにありがちな張りぼてさや大味すぎるところを感じさせず、細部にわたって緻密に作られている印象です。神は細部に宿る。なんだかディズニーの底力をみたきがします。子供向けのディズニーといって馬鹿にできません。
この映画はシリーズを通して神話的な要素、あるいは隠喩として読めるものがあちこちにあっておもしろいです。哲学者内田樹さんの本にこっそりとこんなことが書いてありました。檻に閉じ込められてた海賊が窮余の一策で檻ごと転がるシーンを観てメタファーに気付く。
檻に入っている人間でも、檻の特性、木でできているとか、丸いとか、隙間から足が出せるとかいうことを理解していれば、檻ごと動くことができる。それどころか檻を利用して、縦横無尽に野原を駆け巡ったり、ふつうに落ちたら死んでしまうような急峻な崖を転がり落ちることだってできる。檻に入っているせいで檻に入っていないときにはできないようなことができる。(街場の文体論)
つまり形式性や制約があった方がかえって自由に動ける可能性があるということです。ジャックやバルボッサは海賊として、海賊だからこそできるようなことを、一般からすると悪者であるからこそできるようなことを、むしろそれらを活かして、次々にやっていきます。このようなところにわれわれは真の自由を感じます。
映画から何かを発見する力があると、より楽しむことができますね。
図書館SA あっきー
2018年4月16日 学生TA | 個別ページ
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