学生サポーター: 2019年12月アーカイブ
どんな図書館にも、どこか異世界のような場所に通じている秘密の入り口があります。意外な場所から地下空間へとつながっていて、私たちはふとしたことからそこへ入ってしまうことがあります。もちろん本学図書館にも、地下へと続く秘密の道が存在します。おもしろそうですね。
しかし一度そこへはいってしまうと、もう引き返せません。地下へと続く階段があって、中は迷路のようになっていて、進めば進むほどどこから来たのかすらわからなくなります。気付いたときにはもう遅い。まわりにはネズミらしきものがいたり、なにか正体のわからない生き物がいたりします。凶悪な犬がいるかもしれません。
でももしかしたら羊男(↓の表紙の中にいる、羊の着ぐるみを着た変な男)と出会えるかも。
『ふしぎな図書館』
主人公のぼくは図書館にいき、司書のお姉さんに、オスマントルコ帝国の税金のあつめ方について書かれた本があるかどうか尋ねます。すると地下に連れて行かれる。地下には、怖そうな老人がいて、その本を探してくれるそう。しかし持ってきた本を見てみると貸し出し禁止となっている。奥の閲覧室で読むことになり、くねくねとした道を連れて行かれ、地下に入っていく。ずっとずっと奥のほうにある、鍵の付いた部屋にいれられてしまい、そこには羊男がいた。しかし僕はそこで本を読み終わるまで閉じ込められてしまうはめに‥‥。暗記をするまで帰してもらえない。ぼくは決まった時間までに家へ帰らないとお母さんに怒られてしまうのだ。
しかし帰るどころか、ここで寝泊りしながら、その分厚いオスマン帝国の税金のあつめ方に関する本三冊を読まなくては、ここを脱出できない。そのあいだ羊男が揚げたてのドーナツを持ってきてくれるのが救いだ。そして謎の女の子の登場も‥。
ぼくはこのふしぎな、奇妙な図書館の世界に入ってしまうのでした。
皆様も、図書館でなにか本を探すときは、くれぐれも十分にお気をつけてください。注意していないとこのようなふしぎな世界に巻き込まれてしまうかもしれません。もっとも、気付いたときにはもう遅いのですが‥。
本には、それだけなにか魔力のようなものがあるのです。
図書館サポーター あっきー
ローマ教皇(Pope)が来日しましたが、語ったどの言葉も、10億人以上の信者の上に立つ者が発言する重みを感じました。教皇の影響力というものを肌身に感じた瞬間でした。
特に「多くの若者が傷ついている」という言葉には、我々の多くが身に染みたのではないでしょうか。
ちなみに法王ではなく教皇が正式な呼称となった理由は、法王は仏教(Buddhism)で使われる言葉であり、「法」は仏教で言うダルマを意味するからです。
さて僕は昨年のクリスマス、教会に行ったことを思い出しました。
クリスマスといってもすることもとくになく暇だったのですが、ふと思い立って教会に行ってみようと、なにかに導かれるようにふらっと出かけました。うちの近所にけっこう大きな教会があるのですが、ミサ(mass)の時間が遅めで時間があったので別のところはないかと探してみたら、小さめの教会があったことを思いだしたので行ってみるとこっちのほうが早めにやるらしく、はいってみました。礼拝堂は、普通の家よりすこし広いくらいの大きさで、三角屋根で民家のような感じです。中は狭く、明かりも少なく、簡素なつくりで余分なものがありません。そうか、プロテスタント(Protestant)の教会はどこもこういう風なのか。プロテスタントの禁欲的な教えが表れていて、清貧な場というのを感じます。そのあと大きな教会の方に行ってミサに参加したのですが、つまり教会をはしごしたのです(笑)、つくりが対照的で、こちらは豪華絢爛で、立派な建物で敷地も広く、中の礼拝堂がとても広く、建物の中にいくつもの部屋があって天井はとても高く装飾が多い。この建築がカトリック式で、キリスト教の伝統的建築様式なんですよね。行われる儀式も伝統的なやり方のようです。東京ドームで行われた通り、ミサはこっちです。
そのプロテスタント教会(Protestant)での礼拝の方法は、本学で行われているようなものと似たようなもので、クリスマスだからといってそこまで特別なことというか盛大なことはしません。そもそもクリスマスとは、ヨーロッパにおける冬至祭が起源となっている。クリスマスツリーとか、今の世俗化したクリスマスの風習は1950年代アメリカではじまった商業主義的な戦略がきっかけになっているらしい。12月25日冬至の日は、ヨーロッパで夜がもっとも長くなる日なので太陽の復活のための祭りという土着的な復活祭とそれにイエスの復活祭が合わさったものとのこと。
そこでは説教や聖書の朗読が行われ、そのあと聖歌隊による賛美歌が歌われましたがとても力強く、神秘的でした。全体的にはやはり、簡素で、人の数が多い割に静寂さというものを強く感じます。献金もあります。
一方その後に参加した、カトリック教会(Catholic)でのミサ(mass)では、内容的には説教や朗読、そして音楽といったことは同じなんですが、一つ一つが盛大で長めで、古くからある伝統的な儀式の形式というものを大切にしていることが伝わってきます。ただ敷地内に入った瞬間から、見た目や大きさがまるで違うので、雰囲気は違うし、プロテスタント教会とはちょっと異なる空間なんですよね。大勢の人が集まるので多くの人は中の椅子に座れず、後ろで立ちながらの参加になるくらい。それほどなので中は冬なのに暑い。中の光も、大きな空間を照らすためにとても明るいので暖かな空間という印象が残りました。どちらかというとカトリックの方が世俗的で、どんな人でも入りやすいという印象が残りました。
キリスト教徒じゃなくても参加していいの?という疑問があると思いますが、誰にでも開かれているのですね。そこでは様々な人間、人種や立場や年齢や性別を超えた集まりになっている。
(カトリック布池教会、ミサ終了後の様子)
日本には昔から、大小多くの神社(Shrine)や寺院(Temple)があちこちにあります。僕は時々いきますが。
そのあいた空間に、こういった大から小までの教会(Church)とかモスク(Mosque)があったりします。実はシナゴーグ(Synagogue)もあります。いろんな宗教(Religion)や宗派の建築物が混在しているのが日本の特徴です。それぞれこんなに違うかと思うほどいろんな違いがありますが、そこにあるのは、人間の知や認識を越えたものへの信仰、そういうものへの祈りのための神聖な空間、というような共通点もあります。
というようにそんな視点でいろんな宗教や宗派を比較してみると面白いです。
THE FIVE GREAT RELIGIONS OF THE WORLD
この本は、世界中に広がっているキリスト教(Christianity)、イスラム教(Islam)、仏教(Buddhism)に加えて、ヒンドゥー教(Hinduism)やユダヤ教(Judaism)、そして各地域の土着的な宗教(Animism)まで、仕組みや成り立ちについて解説しています。
世界は思っているよりも、宗教で成り立っていることがわかります。
本学はプロテスタントなのでローマ教皇に関する本はそれほど多くはありませんが
や『ローマ教皇庁の歴史』『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』
などの歴史本があります。
単にカトリック(Catholic)、正教会(Orthodox Church)、プロテスタント(Protestant)に関する本はたくさんあるので比較しながら学んでみるもの面白いと思います。
それから、クリスマスは教会に行って静寂に過ごすのも良いでしょう。
図書館サポーター あっきー
日本語は「政治の言語」に適さない。
この言葉に思わず立ち止まりました。この前提にたつといろんなことがわかります。
僕は政治に関心がないわけでないのですが、政治のニュースとか新聞とか、政治に関する本だとかそういうのを読んでもなかなかしっくりこなくて、難しい、めんどくさいという印象を持ちます。がしかし、この、日本の政治状況について雑談している政治本(なのかこれは?)を読んでいると、すごくよくわかって読んでいて面白い。のでおすすめします。
批評家仏文学者、内田樹、小説家、高橋源一郎の対談で、ロッキング・オン編集者渋谷陽一がインタビュアーとして進めていくという構成。
内容は、日本の政治情勢や政治システムや自民党政権がやってきたことなど、起こっていることについて、なぜそれを言語で説明しにくいのか、日本の政治のどこがおかしいのか、おかしくなったのか、という点についてあれこれしゃべりながら、雑談をしながら考えていくという、まあちょっと変わった本です。ああでもない、こうでもないといろんな中身のありそうな、なさそうなことを話していくうちに、なにか答えのようなものにたどりつきそうだという感覚が面白い。
なぜオバマの演説は、あんなにかっこよくてしまっているのか。なぜあれほど説得力を持ち、民衆をひきつけるような言葉を話せるのか。
日本語の構造というのは
音声がもともとあって、そこに外来の文字がのっかている。後から来た外来の言語を地場のコロキアル(口語的)なものが受け止めている。
つまり、外来の漢字を使う以前の日本社会は音声だけの言葉があり、漢字という文字を輸入したとき、それを土着の音声に合うように読んだ。だから律令という政治制度を輸入したとき、外来の漢字をつかって、つまり漢文をつかって説明した。法律の文とか行政的な手続きは、かちっとした漢文体が好ましいとされて、それでずっとやってきた。昔の日本語で書かれたものをみてみると、日本書紀とか政治的な記録というのは漢文体で書かれ、民衆が日常で使う言葉は、源氏物語など、ドメスティックな話し言葉が使われていることがわかる。
言葉がロジカルにならないのです。というかロジカルな言葉は、民衆全体を説得させることができない。たしかにオバマの演説をそのまま日本語に翻訳するとなんか変だ、となるよね。宇多田ヒカルが言うように、「英語だとシリアスに言えるんだけど、日本語だとおちゃらけてしまう」というのがよく表している。しかっりとした理念があって、ロジックがかっちりしていて、キレイごとを並べて、まじめなことを語っても、日本語だと、どこかうそ臭い、説得力にかけてしまう、が英語は、もっとロジックがしっかりしていて、大げさな表現がうそ臭くなく、つまりそもそもが演説に向いている言語というわけです。だから、日本ではロジカルな政治家よりも、おちゃらけたというかコロキアルな政治家のほうが民意を獲得できる。たとえば日本国憲法を読んでみてもどこかしっくりこない、わかりにくいというのはそれが理念的でロジカルであって、コロキアルな形じゃないからかもしれない。
この本が他の本に比べておもしろく読めるのは、雑談という、コロキアルな言葉で説明しているからというのが理由の一つと思います。法や政治についての本は日常的な言葉では書かれていませんが、このように話し言葉で説明があるとわかりやすくなる。もちろん知識人なので、政治の専門用語や文学用語をある程度まじえながら話しているが、なんども似たようなことを繰り返し話しているうちにだんだんとわかってくる、と感じます。リフレイン。それがリフレインの効果です。こういう構成の本はどこか音楽的ですねえ。
図書館サポーター あっきー