なぜオバマの演説はかっこいいのか
日本語は「政治の言語」に適さない。
この言葉に思わず立ち止まりました。この前提にたつといろんなことがわかります。
僕は政治に関心がないわけでないのですが、政治のニュースとか新聞とか、政治に関する本だとかそういうのを読んでもなかなかしっくりこなくて、難しい、めんどくさいという印象を持ちます。がしかし、この、日本の政治状況について雑談している政治本(なのかこれは?)を読んでいると、すごくよくわかって読んでいて面白い。のでおすすめします。
批評家仏文学者、内田樹、小説家、高橋源一郎の対談で、ロッキング・オン編集者渋谷陽一がインタビュアーとして進めていくという構成。
内容は、日本の政治情勢や政治システムや自民党政権がやってきたことなど、起こっていることについて、なぜそれを言語で説明しにくいのか、日本の政治のどこがおかしいのか、おかしくなったのか、という点についてあれこれしゃべりながら、雑談をしながら考えていくという、まあちょっと変わった本です。ああでもない、こうでもないといろんな中身のありそうな、なさそうなことを話していくうちに、なにか答えのようなものにたどりつきそうだという感覚が面白い。
なぜオバマの演説は、あんなにかっこよくてしまっているのか。なぜあれほど説得力を持ち、民衆をひきつけるような言葉を話せるのか。
日本語の構造というのは
音声がもともとあって、そこに外来の文字がのっかている。後から来た外来の言語を地場のコロキアル(口語的)なものが受け止めている。
つまり、外来の漢字を使う以前の日本社会は音声だけの言葉があり、漢字という文字を輸入したとき、それを土着の音声に合うように読んだ。だから律令という政治制度を輸入したとき、外来の漢字をつかって、つまり漢文をつかって説明した。法律の文とか行政的な手続きは、かちっとした漢文体が好ましいとされて、それでずっとやってきた。昔の日本語で書かれたものをみてみると、日本書紀とか政治的な記録というのは漢文体で書かれ、民衆が日常で使う言葉は、源氏物語など、ドメスティックな話し言葉が使われていることがわかる。
言葉がロジカルにならないのです。というかロジカルな言葉は、民衆全体を説得させることができない。たしかにオバマの演説をそのまま日本語に翻訳するとなんか変だ、となるよね。宇多田ヒカルが言うように、「英語だとシリアスに言えるんだけど、日本語だとおちゃらけてしまう」というのがよく表している。しかっりとした理念があって、ロジックがかっちりしていて、キレイごとを並べて、まじめなことを語っても、日本語だと、どこかうそ臭い、説得力にかけてしまう、が英語は、もっとロジックがしっかりしていて、大げさな表現がうそ臭くなく、つまりそもそもが演説に向いている言語というわけです。だから、日本ではロジカルな政治家よりも、おちゃらけたというかコロキアルな政治家のほうが民意を獲得できる。たとえば日本国憲法を読んでみてもどこかしっくりこない、わかりにくいというのはそれが理念的でロジカルであって、コロキアルな形じゃないからかもしれない。
この本が他の本に比べておもしろく読めるのは、雑談という、コロキアルな言葉で説明しているからというのが理由の一つと思います。法や政治についての本は日常的な言葉では書かれていませんが、このように話し言葉で説明があるとわかりやすくなる。もちろん知識人なので、政治の専門用語や文学用語をある程度まじえながら話しているが、なんども似たようなことを繰り返し話しているうちにだんだんとわかってくる、と感じます。リフレイン。それがリフレインの効果です。こういう構成の本はどこか音楽的ですねえ。
図書館サポーター あっきー
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