物語性を欠いた街、名古屋
こんにちは、ガッキーが可愛いすぎるドラマにはまる、あっきイです
さて
我々名古屋人が名古屋についてよく思うことの一つは、まず名古屋弁がとってもダサ‥‥‥‥いや違う、
舞台となることの少なさではないだろうか!
小説、アニメ、映画、ドラマの舞台になかなか選ばれず、まあつまり物語性というものが名古屋には薄く、物語を創るにあたって場所を設定するのには不適当な場所である
というわけなんです
それなりの規模の都市で、なかなかの人口で、そこそこの街並みであるにもかかわらず
いったいなぜなのか
なぜこの街には物語が生まれにくいのか
これに疑問を抱いたのが、なんと作家村上春樹なのであります
村上氏は自身の著書で名古屋について語っている
彼はまず名古屋のことは魔都と呼んでおられるのです
村上氏によれば
「名古屋という場所の特殊性は、そこが押しも押されもせぬ大都市でありながら、どこかしら異界に直結しているような呪術性をまだ失っていないところにあるんじゃないだろうか。」
とのことです
今まで大都市でありながら、全国レベルでのマスメディア的な注目をあまり浴びず、また他所から名古屋文化なるものに興味をもってもらえなっかたという
つまり手つかずで、孤立進化してきた街と言えるのです
そしてそれを象徴するものが、あんかけスパ、味噌煮込みうどん、エビフライドッグ、モーニング...といった名古屋めし
これらは非名古屋人にとって違和感とかズレを感じるみたいだそう
さらに言うと名古屋メシには郷土料理感がないという
結局のところ、小倉トーストはあんぱんの形が違うだけだし、味噌カツや味噌煮込みなんかを見てもオリジナリティにはどうしても欠けるし、それから名古屋人からすると、こういう料理は全国的にみんな食べてると思ってるふしがあって地元感が沸かないのです
他にも道路の広さが関係してます
連続して隣の場所に歩いていく感覚がなく、路地が少ない
車ありきの街で、あと一人暮らしも少ないそう
だから車でどこか店やデパートとか言って終わり、喫茶店で量食べるから二件目はなし、さあ家へ帰ろう、というようにひとつのところで用が済んじゃうんですねえ
関東でも京都や大阪でも、普通都会というのは街の連続性があるからそうはならない
例えばデートをするにしても、どこか遊びに行ってその後ご飯食べたり、カフェとかいったりして、散歩しながら街を楽んで、夜に向けて物語みたいなものをつくっていくわけですよ
それがないのが名古屋であって
つまり物語性に欠けるんです
なるほど
このような村上氏による、名古屋という都市への鋭い分析はなかなか見事で
非名古屋人による名古屋の見方というものは、新たな風を吹き込み、そしていろんな刺激を与えてくれるのではないでしょうか
そして、そんな彼の名古屋論を土台にして物語を構築した作品が
長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なのです
これ一応名古屋が舞台となってまして、といってもそこまで固有の名前は出てきませんが
☆簡潔にあらすじを★
高校時代の仲良し五人グループのうちの一人である多崎つくる君 彼は大学進学と同時にそれまで育ってきた街、名古屋を離れ、東京へ行くことにした
他の四人は高校卒業後も(多くの名古屋の人と同じように)地元に留まっており、そのためつくるは休みがあれば名古屋に戻って、グループの輪の中に戻ることができた
しかし、ある日を境につくると四人の間に何かが起き、溝が生まれてしまう
つくるに心当たりはない いったい何が起きたのか
やがて彼は事態を知らされぬまま、四人とは疎遠に...
その何かとは? つくるは次第に、自分にはないものを四人は持っていることを思い出す
四人にはそれぞれ名前にシロ、クロ、アカ、アオ、がついている
色を持ち、つまり色彩を備えているのだ
それが何か関係しているのか、あるいは名古屋という街の特殊性がもたらしたものなのか...
つくるは名古屋を離れて初めて名古屋という街の独自文化を知り、
そして限りない孤独がのしかかってくる
作中にはこんなセリフも出てきます
「学校もずっと名古屋、職場も名古屋。なんだかコナン・ドイルの『失われた世界』みたい」
「名古屋ってそんなに住みやすいの?」
周囲から隔てられ、メディアの目から避けられ、孤立進化してきた言わばガラパゴス的な街
それが名古屋
こういう、人がなかなか気付きにくいようなとこを発見し、論ずる
その辺りに村上春樹のおもしろさがあるのかもしれません
特殊な街、そして舞台になかなかならない街、名古屋
について改めて知ることも面白いですね
学生サポーター あっきイ
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