「敬神愛人」と一致するもの

たまに登場

明日の瀬戸キャンパスでのチャペルアワーのお話の題は「聖書は永遠に」です。チャペルアワーでは聖書が一箇所読まれますが明日はこんな箇所となっています。

「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
 (日本聖書協会 新共同訳 新約聖書:ぺトロの手紙一 1章24節から25節より)

チャペルを包み込んでいる庭には、名古屋キャンパスにも瀬戸キャンパスにも四季折々豊かな花々が咲いては散ってゆきます。そのままずっとそこに咲いていてほしいといくら願っても・・・。今はアジサイやバラがその栄華を競い合っているように見えますが、気がついたらまた地面に落ち、風に吹かれてどこかへ行ってしまうでしょう。


イエス・キリストの使徒ペテロは、いつまでも枯れなくて散らない言葉がこの世に存在することを人類に示してします。それは、永遠に残る聖書の言葉です。私の中にもそんな聖書の言葉がいくつか刻み込まれていて、枯れることも散ることもなく、私に寄り添い、力づけてくれます。名古屋学院大学の建学の精神「敬神愛人」も永遠に変わることのない聖書を基にしています。この言葉が私たちの中にいつも変わることなく存在するとき、その力やエネルギーに支えられて成長してゆことができます。名古屋学院大学のチャペルにはそのような永遠に変わることがなく人を成長へと導いてくれる聖書が全席に設置されています。時にはゆっくりじっくり聖書をチャペルで読んでみませんか? 

明日は是非「聖書は永遠に」を聴きに来てください。リハビリテーション学部の先生がお話を担当されます。(たまにブログに登場するトナリの上司でした)。

木曜日といえば

明日18日は木曜日。

木曜日といえば?

 

そう、カレッジアワーの日です!!!

12:40からはじまります。

明日は経済学部の先生からメッセージをいただきます。

お楽しみに。

 

チャペルアワー、カレッジアワー混み合っている時は前列中央から席をつめてくださいね。

後からくる人のことも思いやる"敬神愛人"の精神でご協力お願いします。

カレッジアワーが始まります。

明日、11日(木)12:40~名古屋キャンパスチャペルにて2013年度カレッジアワーが始まります!

 

教職員から春学期は"建学の精神「敬神愛人」について思うこと"というテーマでメッセージがあります。

明日は商学部の先生のメッセージですよ。

ご出席をお待ちしています。

 

カレッジアワーの詳細についてはこちらの過去記事カレッジアワーをご参照ください。

カレッジアワー

チャペル行事案内、カレッジアワーについての巻。

毎週木曜日にカレッジアワー(名古屋キャンパスチャペル 12:40~13:10)を行っています。

礼拝の中で教職員から春学期は"建学の精神「敬神愛人」について思うこと"、秋学期は"学生時代に影響を受けた本"をテーマにしたメッセージに耳を傾ける静かな時間です
カレッジアワーの流れは↓のようになっています。

  前 奏 ― オルガンの音楽を聴きながら心を礼拝に向かわせます。
  聖 書 ― 司会者が読みます。聖書も各席にあります。
  祈 り ― 司会者が祈ります。祈りの言葉を聴き、最後に「アーメン」(「その通りです」の意)と言いましょう。
  奨 励 ― お話に耳を傾けましょう。
  讃美歌 ― もう一度讃美歌を歌います。
  後 奏 ― オルガンの音楽で礼拝を終わります。

 4月11日(木)12:40からStartします。

どなたでもご自由にご参加いただけます!

サクラ咲く

名古屋キャンパス隣の白鳥公園のサクラが満開になりました。

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いよいよ2012年度もおしまい。

3月31日(日)にはイースター(キリストの復活を記念し祝う日)をむかえ、4月1日には本学の入学式。

新年度もキリスト教センターから皆様に「敬神愛人」の精神を伝えていきます。

よろしくお願いします。

麥粒No.121!

麥粒No.121 2013.Springが完成しました!!!

CIMG1528.jpg内容は・・・

・人のために学ぶ

・「届け物受け取った?」

・本当の糧になるもの

・大学時代の海外旅行を勧める3つの理由

です。

 

Spring号ということで「新入生の皆さんへ」というとして本学の建学の精神「敬神愛人」についても掲載されています。

先日発行したNo.120とあわせてぜひお手にとってください!

洗足木曜日 レントその6

ひさしぶりにレント、受難週について。

junansyu.jpg

前回まではこちら↓をご参照ください。

灰の水曜日 レントその1

ムラサキの季節 レントその2

 血しおしたたる レントその3

なんで十字架に? レントその4

 受難週 レントその5

 

今回は洗足木曜日について。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作品で有名な『最後の晩餐』はこの日の出来事を描いたものです。

 

キリスト教の大切な儀式に聖餐式というものがあります。

イエスの十字架と復活が救いのためにおきたと信じている、そのように告白するために行われるとても大切な儀式です。それはこの最後の晩餐の中に出てきます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 」

『日本聖書協会 新共同訳聖書』 マタイによる福音書26章26~28節

 

・・・ということとは別で"洗足木曜日"と呼ばれるのは・・・こんなエピソードがあったからです。

晩餐の後、イエスは逮捕され、十字架にかけられます。

イエスは自分の運命を知っていました。だからこの晩餐が弟子達ととる最後の食事になることもわかっていました。弟子達はそんなこととはつゆしらず、誰が一番弟子の中で偉いのかときそいあっていました。

そこでイエスは弟子の足を洗いました。

当時は舗装してない道をサンダルみたいな靴で歩いて移動していましたから、足はとっても汚い部分でした。そして↓のように言われました。

 

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

『日本聖書協会 新共同訳聖書』 ヨハネによる福音書 13章34節

 

本学の建学の精神「敬神愛人」とはどういうことだろう?と考える時に大切な場面の一つだと思います。

なんで十字架に? レントその4

今回はまじめにイエス・キリストの十字架の苦しみをおぼえるレント解説シリーズ!

 

そもそも無実のイエスが、なんでよりによって最も苦しい十字架で処刑されるはめになってしまったのでしょうか?

それは・・・↓の図のような事情があったのです。

 

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宗教指導者たちが「律法を守る」ことを重視したのに対して、イエスは「愛」を重視しました。

この「愛」は、神を愛し人を愛する、本学の建学の精神「敬神愛人」です。

イエスは形だけ律法を守っても愛がなければ幸せになれないと説きました。

 

宗教指導者たちはイエスの支持が高まるにつれ、民衆が自分達の言うことを聞かなくなることを恐れました。

そこで民衆を扇動してまんまとイエスを処刑の場へと送り込むことにしたわけです。

 

 

これがイエスが十字架にかけられる大まかな流れです。

ということで今回はここまで。

いしずえ

2月22日は猫の日ですねー。

このブログも猫の日スペシャルでおおくりしま・・・せんよ。

 

キリスト教関係団体の名古屋YWCAさんからいただいたカレンダー。

月ごとに聖句と、聖句を表現する漢字一字の書がのっています。

 

2月はマタイによる福音書22章37~40節がのってます。

箇所を聞いただけでどんな聖句かわかりますか?

 

わかったかた素晴らしい!!!

箇所だけいわれても「?」となった方...私と一緒ですね!

 

それで正解は、本学の建学の精神「敬神愛人」の箇所です!

ほら

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もいっちょ

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この聖句にあわせてどんな漢字一文字が書いてあるかというと・・・

 

「礎」

 

いしずえでした。

つまり

「すべての物事の根本」

てことですね。

 

「敬神愛人」が

本学の礎であることはもちろん、学生のみなさん、教職員の生き方の礎になりますように。

創世記2章~ その6

さー、今回のブログは長くなりそうです。

建学の精神「敬神愛人」の「愛人」に関わるからです。

創世記2章~ その5の続きです。

 

『主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」』

日本聖書協会『聖書 新共同訳』創世記  2章 18節

 

ということで動物がつくられました。

しかしアダムは動物のなかに"自分に合う助けるもの"を見つけられませんでした。

そこで神はアダムが眠ると、彼のあばら骨の一部をぬきとって、その骨で女(エバ)をつくりました。 

 

目覚めたアダムはエバと出会います。彼は独りではなくなり、自分に合う助けるものと出会いました。

これを男女関係だのアレコレ抜きにして考えるとすごく大切なことが含まれています。

 

ある"平和"についての話しの中で、

もし世の中の人間がたった一人だったら平和だろうか?

という提議がありました。

戦争は一人じゃおこしようがないし。

人と傷つけあうことがないのが平和なら、一人じゃできないから、平和じゃない?と・・・

 

 

でも一人じゃこれっぽっちも幸せになれそうにないなー。そんなん平和じゃない。

一人ぼっちの平和なんてイヤじゃないですか?

 

 

その時にこの「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」に注目しました。

 

なんで一人じゃなく、独りなんだろう?

もし一人じゃなく何人もいても、独りじゃ意味がないってこと???

 

平和って争いがないこと、ではなく、みんなが独りじゃないことで、

敬神愛人の「愛人」って、人を独りにしないことじゃないかな。

 

独りでいる人によりそうことが隣人として共に生きていく愛なら、 敬神愛人を実行することは平和を実現することになる。

そんな想いを創立者のクライン博士はもっていたのでしょうか。 

 

 

ひとまず創世記2章はここまで。

1章では、光→天(空)→海と地と植物→太陽と月→魚と鳥→動物と人間の順番で世界が創られたのに・・・

2章からは天地→アダム(男性)→植物→動物→エバ(女)の順で創造されています。

これについての解釈やら、他にもあれやこれや???なとことかありますが、それはまた別の機会に・・・あ、キリスト教センターでは随時『聖書を読む会』がありますので、気になる方はどうぞご利用ください。

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