今回は、イエス・キリストの誕生の場面に登場するキャラクターの中から 一番存在感のある 3人の人物たちをご紹介したいと思います。
この3人のおじさn......男の人たちは、ラテン語で「マギ」と呼ばれる人たちです。
チャペルに置いている新共同訳聖書では「占星術の学者」と訳されています。でも、昨年新しく出版された新翻訳聖書「聖書協会共同訳聖書」を見てみますと、ただ「博士」とだけ書かれていました。占星術を専門としていたかどうかが定かではないからですね。
マギたちは、ユダヤ人の王が生まれることを「星」によって知らされ、はるばる東の国からやってきました。
彼らが実際に何人だったのか、聖書には書かれていません。しかし、彼らが赤ちゃんイエスのために持ってきた献げ物(「黄金」「乳香」「没薬」)が3つだったことから、絵画などでは3人で描かれることが多いです。
また、彼らの名前はそれぞれ、メルキオール(右、持ち物:黄金)、バルタザール(左、持ち物:乳香)、ガスパール(中央、持ち物:没薬)と名付けられています。砂漠地帯を通って旅をしてきたと考えられているので、ラクダも一緒にいますね。
彼らがイエスのもとに辿りついたのは、星の導きによるものでした。ユダヤ人を統治していた王ヘロデ(ヘロデ大王と呼ばれます)は、生まれたばかりのイエスを殺そうと考えたので、ユダヤの地を訪れた彼らに対し、「見つかったら知らせてくれ」と伝えていましたが、マギたちは、ヘロデのもとには戻らず、違う道を通って自分たちの国に帰っていきました。
「聖書」と一致するもの
ローマ教皇(Pope)が来日しましたが、語ったどの言葉も、10億人以上の信者の上に立つ者が発言する重みを感じました。教皇の影響力というものを肌身に感じた瞬間でした。
特に「多くの若者が傷ついている」という言葉には、我々の多くが身に染みたのではないでしょうか。
ちなみに法王ではなく教皇が正式な呼称となった理由は、法王は仏教(Buddhism)で使われる言葉であり、「法」は仏教で言うダルマを意味するからです。
さて僕は昨年のクリスマス、教会に行ったことを思い出しました。
クリスマスといってもすることもとくになく暇だったのですが、ふと思い立って教会に行ってみようと、なにかに導かれるようにふらっと出かけました。うちの近所にけっこう大きな教会があるのですが、ミサ(mass)の時間が遅めで時間があったので別のところはないかと探してみたら、小さめの教会があったことを思いだしたので行ってみるとこっちのほうが早めにやるらしく、はいってみました。礼拝堂は、普通の家よりすこし広いくらいの大きさで、三角屋根で民家のような感じです。中は狭く、明かりも少なく、簡素なつくりで余分なものがありません。そうか、プロテスタント(Protestant)の教会はどこもこういう風なのか。プロテスタントの禁欲的な教えが表れていて、清貧な場というのを感じます。そのあと大きな教会の方に行ってミサに参加したのですが、つまり教会をはしごしたのです(笑)、つくりが対照的で、こちらは豪華絢爛で、立派な建物で敷地も広く、中の礼拝堂がとても広く、建物の中にいくつもの部屋があって天井はとても高く装飾が多い。この建築がカトリック式で、キリスト教の伝統的建築様式なんですよね。行われる儀式も伝統的なやり方のようです。東京ドームで行われた通り、ミサはこっちです。
そのプロテスタント教会(Protestant)での礼拝の方法は、本学で行われているようなものと似たようなもので、クリスマスだからといってそこまで特別なことというか盛大なことはしません。そもそもクリスマスとは、ヨーロッパにおける冬至祭が起源となっている。クリスマスツリーとか、今の世俗化したクリスマスの風習は1950年代アメリカではじまった商業主義的な戦略がきっかけになっているらしい。12月25日冬至の日は、ヨーロッパで夜がもっとも長くなる日なので太陽の復活のための祭りという土着的な復活祭とそれにイエスの復活祭が合わさったものとのこと。
そこでは説教や聖書の朗読が行われ、そのあと聖歌隊による賛美歌が歌われましたがとても力強く、神秘的でした。全体的にはやはり、簡素で、人の数が多い割に静寂さというものを強く感じます。献金もあります。
一方その後に参加した、カトリック教会(Catholic)でのミサ(mass)では、内容的には説教や朗読、そして音楽といったことは同じなんですが、一つ一つが盛大で長めで、古くからある伝統的な儀式の形式というものを大切にしていることが伝わってきます。ただ敷地内に入った瞬間から、見た目や大きさがまるで違うので、雰囲気は違うし、プロテスタント教会とはちょっと異なる空間なんですよね。大勢の人が集まるので多くの人は中の椅子に座れず、後ろで立ちながらの参加になるくらい。それほどなので中は冬なのに暑い。中の光も、大きな空間を照らすためにとても明るいので暖かな空間という印象が残りました。どちらかというとカトリックの方が世俗的で、どんな人でも入りやすいという印象が残りました。
キリスト教徒じゃなくても参加していいの?という疑問があると思いますが、誰にでも開かれているのですね。そこでは様々な人間、人種や立場や年齢や性別を超えた集まりになっている。
(カトリック布池教会、ミサ終了後の様子)
日本には昔から、大小多くの神社(Shrine)や寺院(Temple)があちこちにあります。僕は時々いきますが。
そのあいた空間に、こういった大から小までの教会(Church)とかモスク(Mosque)があったりします。実はシナゴーグ(Synagogue)もあります。いろんな宗教(Religion)や宗派の建築物が混在しているのが日本の特徴です。それぞれこんなに違うかと思うほどいろんな違いがありますが、そこにあるのは、人間の知や認識を越えたものへの信仰、そういうものへの祈りのための神聖な空間、というような共通点もあります。
というようにそんな視点でいろんな宗教や宗派を比較してみると面白いです。
THE FIVE GREAT RELIGIONS OF THE WORLD
この本は、世界中に広がっているキリスト教(Christianity)、イスラム教(Islam)、仏教(Buddhism)に加えて、ヒンドゥー教(Hinduism)やユダヤ教(Judaism)、そして各地域の土着的な宗教(Animism)まで、仕組みや成り立ちについて解説しています。
世界は思っているよりも、宗教で成り立っていることがわかります。
本学はプロテスタントなのでローマ教皇に関する本はそれほど多くはありませんが
や『ローマ教皇庁の歴史』『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』
などの歴史本があります。
単にカトリック(Catholic)、正教会(Orthodox Church)、プロテスタント(Protestant)に関する本はたくさんあるので比較しながら学んでみるもの面白いと思います。
それから、クリスマスは教会に行って静寂に過ごすのも良いでしょう。
図書館サポーター あっきー
11月29日は「良い肉(1・1・2・9)の日」です。
Wikipediaによると、宮崎県の「より良き宮崎牛作り対策協議会」が制定したそうです。語呂合わせですね。
というわけで今回は、聖書の中に「良い肉」という言葉は出てくるのか、調べてみました!
すると、以下の二つの箇所がヒットしました。
「彼ら[総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラ]は更に言った。『行って 良い肉 を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』」(旧約聖書 ネヘミヤ記 8章10節)
「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に 良い肉 と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。」(旧約聖書 イザヤ書 25章6節)
これらの箇所にはいずれも、"神の民"イスラエルが敵国の支配から解放され、自由が与えられた後のことが書かれています。
そして、自由を与えてくださった神(主)を喜び祝うとき、人々は神のもとで祝宴を催し、良い肉 と 古い酒(お酒は古い方が上質。またネヘミヤ記の「甘い飲み物」はぶどう酒と思われる)を飲むように勧められているのです。
今日の夕食は何にしようか迷っているそこのあなた。
11月最後の金曜日、せっかくですから今夜はチョット奮発して 良い肉 買って帰りませんか?(なんのこっちゃ・・・)
読書好きの諸兄諸姉のみなさま
ごきげんよう、スタッフのかえるまんじゅうです。
みなさんは、なにかのご褒美に何でも欲しい物をもらえるとしたらどうしますか?
あれこれと欲しいものについて考えるだけでも楽しいですよね。
とある戯曲の主人公が求めたものはなんと......
今回はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』をご紹介しましょう。
新約聖書の一節をもとにしたストーリーで、最初はフランス語で出版されました。
英訳版はビアズリーによる挿絵が有名です。
美術に興味がある方なら一度は見かけたことがあるかもしれませんね。
《あらすじ》
ユダヤの王女サロメは、義父のエロド王が催した宴を抜け出した先で、
牢に入れられている預言者ヨカナーンに出会い、彼に一目惚れするも拒まれてしまう。
その後、サロメは宴の最中にエロド王にダンスをするよう命じられる。
サロメは最初は拒んだが、「踊りの褒美に欲しいものを何でもやろう」という
エロド王の誓いを聞きいれ、踊る。
そしてサロメはヨカナーンの首を褒美に求め、口付けする。
いかがでしょうか、生首になっていてもいいから愛する人を我が物にしたい
というサロメの激情は。
私は恐ろしい反面、少し羨ましくも感じてしまいます。普通の人生を送っている限り、
これほどまでに強く焦がれる存在には出会えませんからね。
(名古屋のスタッフ かえるまんじゅう)
さて、今回は月曜日のチャペルアワーの宣伝をしておきますね。
毎週月曜日12:25~12:50、たいほうコミュニティリンクを会場として「チャペルアワー」を開催しています。
(火曜日と木曜日は、しろとりチャペルが会場となりますのでご注意を!)
月曜日のチャペルアワーも他の曜日と同様、奨励(お話)の時間があるのですが、月曜日の場合は、皆さんから寄せられた"キリスト教"に関する疑問や質問に、キリスト教センターの職員がお答えする「Q&A形式」となります。
「聖書って面白いの?」、「キリスト教って宗教だけど怖くないの?」、
「食べてはいけない物はあるの?」
...といった素朴な疑問から、
「カトリックとプロテスタントって仲良いの?悪いの?」、
「キリスト教って進化論を否定しているんでしょ?」、
「知り合いから教会に誘われて困っています。どうやって断れば良いですか?」など、
キリスト教の信者でも答えに窮するような質問まで、何でもお寄せください!
質問は、下記のサービス『質問箱』で受け付けています(匿名で質問できるので安心してください)。
https://peing.net/ja/kirisen
※質問には、毎週のチャペルアワー(月曜日)の中でお答えしていきます。採用されなかった場合はご了承ください。
※チャペルアワーで扱ってほしくない質問や相談事に関しては、直接、キリスト教センターまでお越しください。
というわけで、皆さんからの質問・疑問、お待ちしています!
あ、そうそう。質問を送るだけじゃなくて、チャペルアワーにもぜひお越しくださいね!笑
「ぶっちゃけ!聖書☆研究会」を開いています。
(春休み中はお休みやけどね)
毎回、キリスト教教師の資格を持つキリスト教センターの職員が聖書の解説をし、それに対して参加者が質問を投げかける形式なのですが、とにかくえげつない質問が飛び交い、そして解説者もえげつないくらいホンネで答える、まさに「ぶっちゃけトーク満載」の聖書研究会なのです。
そんな「ぶっちゃけ!聖書☆研究会」をより一層盛り上げていくために、今回、聖書の注解書(解説書)と聖書辞典を購入しました。誰でも自由に開いて読めるように、キリスト教センターの談話室に置いています。
聖書研究会のメンバーくらいしか読みに来ることはないんじゃないかとは思いますが、興味がある人は一度キリスト教センターの談話室に来て、開いてみてくださいね。
チョコレートやキャンディ、マシュマロなどを"お返し"としてプレゼントする日ですね。
ところで、聖書にも「お菓子」という言葉が出てきます。たとえば次の箇所。
「ぶどうのお菓子でわたしを養い
りんごで力づけてください。
わたしは恋に病んでいますから。」
(旧約聖書 雅歌 2章5節)
「恋に病んでいますから」...。聖書にこんな言葉が出てくるなんて!面白いですね。
今日、誰かにプレゼントを贈る予定がある人も、
文字通り「真っ白な日」を過ごs.........な人も、
今日一日頑張ったご褒美に、美味しいお菓子を召し上がってはいかが?
3月の聖書の言葉はこちら!
「隠れたことを見ておられる神が、
あなたに報いてくださる。」
(新約聖書 マタイによる福音書6章4節より)
上の言葉はイエス・キリストの教えの一部です。次のような文脈で語られています。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。だから、施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを隠すためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書6章1~4節)
・・・あれ?聖書の方では「父」になってるけど、"3月の聖書の言葉"の方は「神」になってるやん!
そうです。分かりやすいように「神」に変えておきました。というのも、聖書には「神」という存在を「父」と表現する記述が度々出てくるのですが、聖書のことをあまり知らない人たちが「隠れたことを見ておられる父」っていう言葉を見たら、「え、覗きが趣味のお父さんでもいるの?きも~い」と勘違いしちゃいますよね。なので、分かりやすいように「神」に変えておいたのです。
さてさて、聖書の言葉の解説については、ポスター画像の下段に書いてあるものをお読みいただければと思いますが、ちょっとだけ補足しておきましょうか。
1~4節の言葉の中に「偽善者」っていう単語が出てきますね。これ、「ヒュポクリテース」というギリシャ語の日本語訳なんですが、ヒュポクリテースは元々、「答える者(説明する者)」とか「舞台俳優」という意味があって、人前で講演したり演じたりする人を指す言葉でした。それが「自分を偽る者」というように捉えられるようになって、聖書の中では「偽善者」として使われるようになったみたいです。
「自分を偽る」...と言うと悪い印象を受けてしまいますが、人間って、何か"善いこと"をしようとするとき、大抵自分を「偽って」ませんか? あるいは、良い人であろうと「演じて」ませんか? 「本当は自分なんてそんなキャラじゃないけど...」と思いつつ。
それって、全然悪いことじゃないと思うんですよ。むしろ、善い行いをするためには"悪い自分を押さえつける"ことも時には必要。だから、周りから「偽善者だ」と罵られようとも、自分でそう感じようとも、それが今自分のなすべき"正しい行い"なんだ!と思ったなら、全力で「良い人を演じたら」いいじゃないですか!
もちろん、それが自己顕示欲を満たすためだけに行なわれるのであれば、イエス・キリストが仰ったように注意しないといけませんけどね。
「隠れたことを見ておられる神が、あなたに報いてくださる。」
神さまは、あなたの行動や表面的な部分だけを見ておられるのではなく、あなたの心の中に目を注いでおられる。そのことを覚えておきたいですね。
それではまた次回!
(来週は1週間、管理人が不在のため更新するかどうかは未定です。)
・・・・・・宣教師「ロバート・モリソン」が中国伝道のためイギリスを発った日です!
ロバート・モリソン(1782年1月5日~1834年8月1日)
16歳のときに洗礼を受けキリスト教の信者になったモリソンは、19歳で宣教師になることを決意し、訓練を受けた末に中国に派遣されることとなります。25歳になった時、彼は牧師として任命され、すぐにイギリスを発ち、アメリカ・ニューヨーク経由で中国に到着(当時、イギリス東インド会社では中国行きの船には宣教師を乗せない規則があったため、別のルートで向かわざるを得なかったのです)。
中国に到着した彼は、布教と研究に励みますが、なかなか宣教師として期待される結果は出せず、信者になった中国人もわずか数名でした。彼の死後、27年が経過していよいよ本格的に中国伝道が進められていくこととなるのですが、その当時、中国人の信者は10名しかいなかったそうです。
では、信者を増やすことができなかったモリソンの中国伝道は完全に失敗に終わったのか。決してそうではありません。実は、日本史にも出てくる「モリソン号事件」(1837年)の船名「モリソン号」は彼の名前からとられたものです。そのことからも分かるように、彼の業績は高く評価され、多くの人々の尊敬を受けることとなったのです。
モリソンの伝道は中国ではあまり受け入れられなかったものの、中国人の助けを借りて、新約聖書の中国語への翻訳を開始し、また1819年には、モリソンのことを助けるためにやって来たウィリアム・ミルン宣教師と共に、聖書全文の中国語訳を完成させました。ミルンはその出版を見届けることなく1822年に死去しましたが、翌年の1823年に、初の中国語聖書『神天聖書』が出版されることとなりました。この中国語聖書は、その後、聖書を初めて日本語に翻訳したドイツ人宣教師「カール・ギュツラフ」(1803~1851年)にも大きな影響を与えました。
モリソンとミルンは、聖書の翻訳と同時に、漢文教書など多くの文書を頒布し、またマラッカに私費を投じて英華学校を開設。更には「漢英・英漢辞典」の編纂を手がけました(17~23年)。このようなモリソンの業績が、後に活発に行われていくこととなる中国伝道の礎を築くこととなったのです。
人間は、自分や他者が期待していた結果ではなく、全く別の、しかし非常に価値のある結果を生み出すことがあります。モリソンもその一人であったと言えるでしょう。たゆまぬ努力、そして信じる心が、未来を切り拓いていくのです。