(インドネシア)アルムスリム大学の最近のブログ記事

 インドネシアに来て9ヶ月が経ちました。授業では、中間テストばかりの日々を送っていました。マネージメントサービスの授業では、みんなが筆記のテストを受けている中、私だけ先生と一対一の面接方式でテストでした。先生が優しく、私が筆記だと分からないだろうと配慮してくれたのはとても嬉しかったですが、クラスメイトがいる中、1人だけぎこちないインドネシア語での面接は少し恥ずかしかったです。経済の授業ではプレゼンテーションばかりです。毎週1つのグループが発表し、他のグループは11つ必ず質問をしなければなりません。私は友達に手伝ってもらいながらプレゼンテーションをしましたが、中間の筆記テストは半分は時間が足りず、半分は白紙でした。この経済の先生は未だに直接話したことがないので、どうなるか少し不安です。文法英語は、インドネシア語から英語に訳す問題がメインだったので、今の自分はインドネシア語の方が分かるので、それを英語にするという作業に頭を切り替えるのに慣れておらず、大変でした。停電が続いていたので、授業が終わったらご飯を食べて、図書館かカフェで勉強します。運よく一番仲良しの友達の家に発電機があったので、毎晩友達の家に泊まりに行っていました。迷惑と思いましたが、友達家族とはもう9ヶ月の付き合いで、もう帰国日が近づいている私を暖かく歓迎してくれています。断食明けのお祭り(レバラン)のお祝いも、この家族と新しいお揃いの洋服を買い、ジルバブも買い、お祝いする予定です。



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 5月17日から26日まで、住んでいるマタンから車で4時間ぐらいのとこにあるバンダ・アチェに、卒論調査と日本語学校にお邪魔するしてきました。幸いなことにホームステイ先を用意してくれたので、日本語学校で仲良くなった友達も含め、色々な方の家に泊めていただきました。第一の目的は、これから外国人技能実習生として日本行きを目指す若いアチェの男性に、インタビューすることでした。バンダ・アチェの技能実習生向けのトレーニングセンターに行き、日本語の授業中にお邪魔させていただきました。2ヶ月の泊まり込みの日本語授業合宿の初日という忙しい中、27人のアチェ人の男性にアンケート調査することができました。教室に入ると軍隊のように厳しく、挨拶も軍隊みたいで、そこまでかしこまっても逆に日本人と話しづらくなると思いましたが、これも日本という国で働くための訓令と先生は厳しく指導していると言っていました。色々書きたいことがありますが、それは卒業論文の方に書きたいと思います。27人という人数だったので、アンケート用紙を配り書いてもらいました。その後は、彼らから私に対しての質問タイムがありました。片言の日本語で一生懸命聞いてくれるこや、何回も挙手をして質問をたくさんしてくれる子もいました。彼らはこれから2ヶ月ここで日本語の授業を受け、テストに受かったら次はジャカルタで行われるトレーニングに参加でき、そこでもテストを合格しVISAが取得できれば、外国人技能実習生として日本に来ることができます。今日の日本では、外国人技能実習生に対しての様々な問題、注目や有無が問われるなか、期待をし難しくても目を輝かしながら勉強をしている彼らを目の前にした私は、頑張れと応援したい気持ちと、外国人技能実習制度についてのあり方をもう一度考えさせられ、この卒論に対しての気持ちも深まりました。



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 バンダ・アチェ滞在中はアチェ州での教育活動や文化活動、東日本大震災へのボランティア活動を行っているNPO 良心、市民の会」が国際言語習得の機会を提供し、地域の子供達の教育水準UPを目指すための「晃月スクール」の日本語教室に3日間、先生としてお邪魔させてもらいました。小学生用のクラスでは、ブレーメンの音楽隊の絵本を読み聞かせをしたり、高校生・大学生向けの授業ではテキストを使ったり、ひたすら私に聞きたいことや日本について知りたいことを質問する時間もありました。教えている先生たちは大人の先生もいますが、アシスタントとして晃月スクールの卒業生の同じ歳ぐらいの子たちが教えたり、運営するのもサポートしていました。ここでは、みんなが日本について興味を持ってくれています。日本語も上手な子が多く、日本に行ったことがある子も多く、年齢も同世代だったのでとても親しみやすかったです。2015年のスタディツアーの際、バンダ・アチェは訪れたことがありました。しかし、滞在日数が少なかったので、今回はスタディツアーの際行けなかった有名な観光名所(津波ミュージアムやアチェで一番大きなイスラム寺院Mesjid Raya Baiturrahman)に晃月スクールで仲良くなった友達たちと行きました。



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 その他にも、アチェ州で1番大きく有名なUniversitas Syiah Kuala という大学では、国際センター長の方にお会いしお話しをしたり、2番目に有名な大学Universitas Islam Negeri では日本語クラブに招待してもらったので、ここでも1日だけ日本語を教えてきました。そして、日本人女性が経営するカフェに行き、久しぶりのたこ焼きとお好み焼きを食べました。大阪出身の日本人の方が経営するだけあって、本格的で美味しく感動しました。残念ながら、その日本人女性の方は日本に帰ったばかりだったのでお会いすることはできませんでした。あっという間の10日間、毎日忙しく休む日もないぐらいでかけていましたが、卒論のためだけでなく、それ以上に2015年のスタディツアーでは味わえなかった、見れなかったバンダ・アチェを勉強しながら楽しむことができ、良い出会いもたくさんありました。



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 バンダ・アチェから帰った5月27日、イスラム教ではラマダンが始まりました。ラマダンとはイスラム暦9番目の月のことで、預言者ムハンマドが神からの啓示を授かった神聖な月とされています。このラマダン月に行われるのが「断食」です。食べ物のありがたみを知る、貧しい人の境遇に思いを馳せる、忍耐強さに身をつける、信仰心を高めるなど、様々な意味が込められています。私が一番多く聞いた言葉は、「断食は健康に良い」というものでした。断食といっても、何も飲み食いしてはいけないわけではありません。日没から夜明けまでの間に食事をします。私もせっかくイスラム教の地域で留学しているのだから、無理しない程度に挑戦してみようと思い始めました。空腹を我慢することはできるのですが、暑いアチェでは飲み物を我慢するのが大変だと感じました。それと、夜明け前の食事(サフール)が私は辛く感じました。昨夜の分まだ消化しきれてないのに、寝起きでご飯を食べなければいけない、もし食べなかったら夜までなにもない!と思えば無理にでも食欲はわきました。今は寮生活でなく、大学の先生の家でお世話になっているので、サフールにフルーツだけ、せめてあっさりしたものが食べたくても、そうはいきません。最初はこんな逆に狂った食生活をしたら健康どころか体壊すと思っていましたが、一週間も経てば、朝4時に起きてご飯を食べ、また寝る、そして断食が開けるのは19時前という生活に慣れました。生理期間は断食はしてはいけないそうなので、生理期間中を取り除いて、できるところまで挑戦したいと思います。6月中は断食中なので、大学はお休みです。帰国にむけての準備や、旅行に卒論について、悔いのないよう過ごしたいと思います。

 インドネシアに来て8ヶ月が経ちました。4月は毎日停電が1日1回は起きています。停電が起きると、自分はインドネシアという発展途上国にいるのだと改めて感じさせられます。寮にいる間、もし停電になれば寝るしかありません。慣れた今はもう「またか。3時間後ぐらいに戻るかな」と思うぐらいです。夜停電なら寝る、携帯やパソコンは常に充電をしておく、などと臨機応変に対応できるようにしていたので、特に困ったことはありません。

 ですが、陽が出ている明るい日中の停電には困らされました。その時、文化社会基礎の授業に参加をしており、日本についてプレゼン発表する時、パワーポイントを使用できなかったためです。写真を見せながら発表した方が分かりやすいと思い、パワーポイントでのたくさんの写真を使ってプレゼンの資料を作っていました。停電がこの授業に影響するとは思ってもいなかったので、少しパニックになりながらも何とかプレゼンを終わらせました。タイミングが悪かったのは仕方がないですが、写真に頼っていた部分があったので、不十分なインドネシア語だけの説明となってしまい、心残りができてしまいました。それでも、先生もクラスメイトも一生懸命私のプレゼンに耳を傾けてくれました。 

 行政村落管理の授業が遅れること、4月に始まりました。しかし、初回の授業で教室がどこか分らず、キャンパス内をさまよっていて遅刻をしました。教室に入ると、先生が他の学生に「どこの国の人?」と聞いているのが聞こえました。初めての留学生受け入れだからか、アルムスリム大学側が私が履修した授業を各先生にまったく知らせていなかったのか、先生も戸惑っていました。「自分から説明しなければ」と思いましたが、このクラスには一緒に経済の授業を履修している学生が多く居たので、彼女たちが説明してくれました。そして、私が日本人だと分かると、先生が知ってる日本語を話して授業が盛り上がりました。その後、この授業では、授業内容と関係なくても、日本と関わりのあることをしばしば先生が話してくれます。

 例えば、原爆についてインドネシア人は皆、「広島・長崎」の地名を知っています。知っている内容が戦争であろうが、アニメや食べ物であろうが、日本のことについて知ってくれてるのが嬉しかったです。反対に私は、インドネシアに初めて来る前は、正直バリ島、ジャカルタ、スマトラ島といえばスマトラ沖地震ぐらいの知識しかありませんでした。この報告書や毎月大学の方で掲載されているブログを通して、少しでも多くの日本人の人にインドネシアを知って欲しいと思いました。 

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 留学生活も残り3ヶ月となり、遅ればせながらアルムスリム大学の方で日本語クラブをつくりました。北スマトラ大学の日本語学科を卒業したばかりのアユさんと私が、週2日、14時から17時ぐらいまで日本語を教えています。今はまだ5人しか参加者は居ませんが、ひらがなや簡単な挨拶からスタートしました。アルムスリム大学には日本語学科はありませんが、名古屋学院大学に留学にできるチャンスがあるので、このクラブを通して日本に興味を持ってもらえれば嬉しいです。 

 更に今月は、インドネシアに来て初めて、アチェ州以外の場所に出かけました。アユさんが日本語を勉強していた北スマトラ大学がある、北スマトラ州メダンに行きました。アユさんが4月27日から3日間開かれていた日本語学科生の学祭、その名も日本語の「BUNKASAI」に誘ってくれたからです。日本領事館もあるメダンは、スマトラ島で最大の都市であり、インドネシアで第4番目に人口が多い都市です。ムスリムだけでなく、インドネシア人でもクリスチャンの人や多くの中華系の人々が住んでいます。アチェ州、特に私が住んでいるマタンでは、私が一歩外を歩くと、ジルバブを被っていない私をすれ違う人皆が見てきます。しかし、メダンで全く見られてると思うことがありませんでした。小さなことと思われるかもしれませんが、8ヶ月アチェで過ごしてきた私にとっては、同じインドネシアでもこんなにも世界が違うのかと驚きました。

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 マタンでの移動はバイクが多く、信号もありますが(1つや2つぐらい)あってもないようなものです。メダンでは車ばかりで、渋滞がひどかったです。大きなショッピングモールもたくさんあり、日本食レストランもありました。お寿司にも感動しましたが、日本のラーメン屋に豚肉がありました。アチェではムスリムがほとんどなので、豚肉が全くありません(イスラムでは豚肉は禁じられているため)。お店ではハラール(イスラム法で認められているもの)のメニュー、つまり豚肉やお酒を使用していない、ムスリムが安心して食べれるものもありましたが、ハラール商品と非ハラール商品のキッッチンが同じということで、ムスリムの友達はお店に入りませんでした。ハラールの商品があっても、非ハラールを扱うのと同じキッチンでは、ムスリムは安心してお店に入ることもできないということを初めて目の当たりにしました。


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 目的であった北スマトラ大学には、日本語学科があり、現在日本人の先生は居ないらしいのですが、お餅つき大会やコスプレ大会が開かれていたり、日本の食べ物を売っていたり、浴衣の着付け体験ができたり、本格的な日本満載の学祭でした。

 歩いていると「すみません〜、すみません〜」と後ろから聞こえたので振り返ると、満面の笑みで、「日本人ですか?!」と女子高生に話しかけられました。学校の課題で、この学祭で日本人を探して日本語でインタビューをしてくるという課題があったそうです。なので日本語で「すみません」と言いながら歩いていたと聞き、すごく良い探し方だなと感心しまいました。そして何より、大学生だけでなく、彼女のように日本語を勉強している高校生も学際に参加をして、日本を知ろうとしてくれているということは、嬉しいことでした。 

 学祭当日は、SNSを通じて知りあった日本人の方が紹介してくれた方が、学祭を案内してくれました。残念ながらSNSで知りあった日本人の方はちょうど日本に帰国中ということで、会うことはできませんでした。しかし、その方が開いているメダンお掃除クラブという団体のブースで、1人の日本人学生の方に会いました。インドネシアに来て初めて、日本の方に会えたのと、その方も私と同じく日本人がいない大学で留学生活を送っているということで意気投合しました。彼はインドネシア政府の奨学金制度を利用しメダンの大学に通っているそうです。お互いにどういった経緯で今インドネシアに居るのか、話しているうちにあっという間に時間が来てしまいました。

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 初めて会ったのに「同じスマトラ島の場所は違っても、日本人1人で頑張っている人が居るんだな」と思うと、今まであった孤独感がなくなりました。初めてインドネシアで会った日本人の方に、とても良い刺激をもらい、今まで自信がないとばかり思い込んでいた自分に、少しは自信が持てるようになりました。バスでの移動に10時間かかり、「次メダンに来る機会はいつのことかな」と思っていましたが、帰りのバスでは留学中にもう一度行ってみようと思いました。 インドネシアで過ごすのもあと2ヶ月。断食月が最後の異文化体験となるので楽しみです。
 インドネシアに来て7ヶ月が経ちました。

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3月は授業が始まり、毎日忙しい日々を送っています。 前学期は主に教育学部英語学科の授業を受けていましたが、半年以上が経ちインドネシア語もできるようになってきたので、政治社会学部の授業を取ることにしました。公共マネージメントサービス、システム経済、村落行政管理が政治社会学部の授業で、英語文法と文化社会基礎を英語学科の方で受けています。前学期と同じく、朝8時から授業が始まるのがほとんどです。 

 一般マネージメントサービスは先生がとても優しく、細かく「奈津子分かった?分らないなら先生でも友達でもいいから聞きなさい」と授業の合間に問いかけてくれます。授業ではインドネシアの公共サービスについて話しを聞いたり、各自治体で異なる部分を話しあったりしています。インドネシアだけでなく、日本はどうなのかと聞かれるので積極的に答えるようにしています。

 システム経済はひたすら先生の話しを聞くだけです。板書もないので、友達が取ったノートを見せてもらいながら、辞書で意味を調べていたらあっという間に授業が終わります。

 行政村落管理は、先生の都合により3月現在1回も始まっていません。

 文化社会基礎では、クラスメート全員が女の子です。前学期も英語学科の授業を取っていましたが、このクラスメートに初めて会いました。先生も優しく、クラスメートも温かく受け入れてくれました。授業ではグループを作りプレゼンを行う予定でしたが、私だけ1人で日本のプレゼンをしなさいと言われました。次の週に、向けて作りましたが、結局発表せずに終わりました。前学期の異文化理解の授業でも同じようなことがあったので、「またか、きっと前のようにいつか出番がくるかな」という気持ちで終わりました。

 英語文法のクラスは前学期と同じメンバーと先生なので、特に変わりなく受けています。初回の授業で、案内と教室が違ったのでキャンパス内をさまよい、30分以上遅刻してしまいましたが、前学期と同じ先生だったので理由も話しやすく、解決したので良かったです。 

 前学期と異なり選択した科目が難しいものばかりです。9月ごろよりかはリスニングの力は格段に伸びていると思いますが、授業内だとまだまだと実感します。それでも、日本から来た私に日本はどうなのかなど、科目内容と関係した質問やプレゼンの時間を作ってもらえていることは嬉しいです。
 
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 朝早く、1科目2時間と長いですが、苦痛はありません。なぜなら、授業が始まれば話しを聞き、分らない単語の意味を調べるなど、ついていくのに必死だからです。2時間はあっという間です。難しくて嫌になることも多々あります。留学生1人であることが良い場合と悪い場合があります。同じく名古屋学院大学から留学していた国際協力学科の学生が帰国してしまった今、留学のストレスに共感してくれる仲間がいないのでストレスがたまることもあります。7ヶ月目のこのタイミングでストレスが爆発するとは自分でも思っていませんでしたが、これも試練の一つですし、残りの少ないことを考えると前向きになろうと思えました。 

 ストレスとは別かもしれませんが、親知らずが腫れインドネシアで歯医者に2回も行くというハプニングもありましたが、薬で今は腫れも引きました。今は人生で初めてできた左目のものもらいに悩んでいます。7ヶ月目にして、体のどこかに何かしら不調がでてきているので、ストレスをためない程度に頑張りたいと思います。

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 インドネシアに来て半年が過ぎようとしています。2月の頭から2週間ほど、NGOJari Aceh」スタッフのヌルジュバさんの家でホームステイをしました。お料理作りなど村の結婚式のお手伝いを通して、村の人と交流をしたり、2015年にスタディツアーでヌルジュバさんの家を訪問した際、紛争中に国軍兵に夫を殺されたことを話して下さった女性の方々に2年ぶりに会う事ができました。彼女たちは、私がアチェに戻って来たことを歓迎してくれました。その他にもヌルジュバさんの今までの支援の記録を見せていただくなど、国際協力を勉強するにあたり知っておく必要があるインドネシア語の単語や言い回しを、分らなければすぐに聞くことができるという環境で学びました。


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 1月に日本語スピーチコンテストの審査員として呼んでもらった高校で、今月は書道を教えました。私は小学1年生から高校に入るまでずっと書道教室には通っていましたが、ここ5年間書道をしていなかったため、まさかインドネシアで高校生に教えるとは思いせず、とても良い経験になりました。お手本を書いている私を真剣に見ている学生たちの姿勢が嬉しかったです。本物の半紙ではないので書きづらく、日本語は止めやはらいなどがあり、更に筆で書くということに慣れないインドネシア人には書道は難しく、私にとっても教えるはとても難しかったです。「次は日本料理が食べたい。作ってみたい。」ということなので、"おにぎり"をみんなで作る約束をしました。もっと大変なことになりそうですが、今から"どうインドネシア向けにアレンジしよう。"など考えていると、楽しみになってきます。


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 大学では1月23日から授業が始まりましたが初回から先生の事情で休みという授業もあり、登録した色々な学部の授業のうちの一つしか始まっておらず、3月から本格的に授業が始まることになりそうです。留学生活が半年を過ぎた今、自分を試し、更にラストスパートとして自分を追い詰めるつもりで、難しそうな経済や行政村落管理という授業を選択してみました。また、卒業論文についてもテーマを決め、親に日本から参考文献の本を送ってもらい準備を初始めています。


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 この半年はあっという間でした。残りの留学生活は初心を忘れずに、人生で初めて経験する断食など、インドネシアに居るからこそできることを経験したいと思います。 

 あっという間に5ヶ月目が終わろうとしています。11日新年を海外で過ごしました。大晦日の夜、近所の友達の家の外で魚を焼いていたら、年を越していました。これといったインドネシアらしい文化を感じませんでしたが、ゆっくりと友達と過ごし、1月2日には大学でテストがありました。その日でテストは終わり2月半ばまで長期休みに入ります。


 長期休みに入ってすぐ、アチェで日本語の先生をしている方に頼まれ、高校の日本語スピーチコンテストの審査員をしてきました。私が住んでいる周辺で日本人は他にいないということだったので、気合いを入れて参加してきました。男女1人ずつ、日本語で3分間のスピーチをして、審査員はどちらの学生がより素晴らしいかを選び、選ばれた学生は次の本選に行けるということでした。2人のうちのどちらかを選ぶという審査方法は、とても難かしいものでした。スピーチの後は、参列していた高校生が日本語の歌を披露してくれたり、みんなで写真を撮ったり、日本語で話したりしました。きっと彼らにとって初めて会う日本人が私だったと思います。日本語を勉強し、興味を持ってくれているキラキラした目を持った彼らを見て、嬉しかったです。みんな日本のアニメを通して日本を知り、興味を持ったそうです。改めて日本のアニメの力をすごいと感じました。また、留学に来て半年も経っていない私のインドネシア語でのコメントを真剣に聞いてくれて、嬉しかったです。スピーチする高校生ぐらい緊張しましたが、とても良い経験をさせてもらったと思います。


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 113日には、2016127日に起きたピディジャヤ地震のために、名古屋学院大学で行っていた募金活動で集まった約9万円分の支援物資を届けに行ってきました。前回訪問した際に、赤ちゃんとその母親である女性のための支援が行き届いていないということだったので、今回も前回と同じように、紙おむつ、生理用品、歯ブラシ、石鹸、赤ちゃん用のミルク、洗剤やお菓子が入った袋を支援物資として準備しました。


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 三週間ぶりに訪れた現地は復興に向けて進んでいました。全壊してた建物は綺麗に撤去され更地になっており、全壊していたモスク(イスラム寺院)も綺麗に取り除かれていました。全壊はしておらず、人が多く集まり避難所となっていたモスクの外にあったテントは一つも無く、人も集まっていませんでした。皆それぞれ家に帰り、新しい生活に向けて進んでいると思うと少し安心しました。支援物資は二つの村に届けました。帰り際に子どもたちが嬉しそうに手を振って、「ありがとう」と笑顔を見せてくれ、その姿をみると安心と嬉しさと、私こそ募金に協力してくれたみんなに「本当にありがとう」という気持ちになりました。まさか留学中にこういった経験をするなんて思ってもいなかったです。今振り返ると、以前は何もできないと思っていましたが、今は"そんなことない。これから国際協力を勉強し続けるにあたって、この経験は大きな一歩になったな。"と思っています。


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 1月21日から27日の一週間、国際文化学部の佐伯先生がアチェに来ました。インドネシアへ留学をするきっかけを作り、留学をしている現在も1番お世話になっている佐伯先生に留学中お会いできたのは、正直とても嬉しかったです。先生が日本にいらっしゃる間も、連絡を取っていましたが、やはり実際会えるのはこんなにも安心するのかと思うぐらい安心をしました。そしてこの1週間は、2015年のスタディツアーで訪問することができなかった村をいくつか訪問してきました。そして、自分は語学力だけじゃなく、何故アチェに留学に来たのか改めて気づかされました。それまで国際協力が行われている現場の近くにいるのに、自ら進んで村に行ってみようとしなかったことに気がつき、現在はスタディツアーの時からお世話になっているNGO団体Jari Acehのヌルジュバさんの家にホームステイをし、まだ訪れたことがない村々へ訪問をする予定です。先生と話して気づいたなんて、まだまだ意識も、頭の中も子どもだなと思う部分が多々ありますが、残りの半年の時間を無駄にしないと決めたので、悔いのない留学にするためにも、気を引き締めて頑張りたいと思います。今まで過ごした時間が無駄だったとは思っていませんが、この先生と過ごした時間によって、自分の中で何か変わった気がします。卒業論文にむけても良い方向に進んでいるので、自分の力で留学をやり遂げて、最高の形で帰国できるようにという想いを大切に、この長期休みを過ごしたいと思います。


 一緒に留学に来ていた国際協力学科の深川が帰国をしてしまい、次の学期も生活も本当に日本人、いや、外国人が私だけです。後輩ですが、このアチェという場所で生活を一緒に過ごし、辛いことがあると話を聞いてもらったりと、なんだかんだ支えてもらった部分が大きかった存在でした。しかし、これからは自分1人だけです。本当に勝負だと思っているので頑張ります。


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 インドネシアに来て4ヶ月が経ちました。12月に入ってすぐの12月7日の朝5時3分に、M6の大きな地震がありました。大きな揺れが長く続き、目覚めましたが怖くてベッドから起き上がることができませんでした。津波警報は出ておらず、その日は普段通り講義はありました。私が住んでいるビルン県マタン・グルンバンドゥアでの大きな被害はありませんでしたが、車で2時間ほどの震源地近くのピディ・ジャヤ県では100名以上の死者がでたそうです。大学では、その日の朝起きたばかりの地震なのに、学生がすでに募金活動をしていました。

 私たちも何かできないかと思い、12月8日に佐伯先生を通じて2015年スタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させていただきました。 主にモスク(イスラム寺院)に多くの人たちが避難していたので、モスクで話しを聞きました。女性と子どもたちはモスクの外に建てられたテントで窮屈そうに過ごしていました。男性はテントはなく、モスクの壁沿いにもたれかかっていました。

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 インドネシアは1年を通して暑いです。12月は雨季で乾季よりは暑くありませんが、テントや外で過ごすのはもっと大変だと思います。イスラムの女性は、ジルバブ(ベール)を被っており、テント生活ではそれを脱ぐことができず、長い時間被っていなければなりません。また、支援物資の受付にはたくさんの物資がありましたが、それが被災者全員には行き渡っていないようでした。 

 ムルドゥ群クデ・ムルドゥでは、2階建ての長屋式店舗がほぼ全壊しており、捜索・救出作業が続けられていました。こういった光景を目の当たりにし、これから私たちに何ができるのか、"ニーズにあった支援をしていきたい"という気持ちが強くなりました。 

 12月12日には、8日に行ったニーズ調査を元に準備した支援物資を届けに、再度「Jari Aceh」に同行させていただきました。国際協力を勉強していましたが、実際に支援の現場を直接見て考えて行動することは初めてだったので、地震発生からニーズ調査をし、支援を渡すまでの速さと手順を見ることができ、とても勉強になりました。 

 そして名古屋学院大学で募金活動を行うことになりました。私は直接募金活動に参加できませんでしたが、募金活動のチラシを作成しました。活動するために集まってくれた学生のおかげで、8万9162円(12月)の寄付を集めることができました。この募金活動を通して、募金活動をするにあたって大切な知識や手順を勉強することができ、この経験は自分にとっていい実践の勉強の場になりました。

 大学では期末テストが始まりました。イスラム教のテストは難しすぎるということで、特別に受けないで済みました。日本と大きく違うと感じたのは、テスト期間や時間、場所を友達を通して知ることです。事前にテスト日がいつなのか、担当の先生から聞かずにいたので、スピーキングテストの日が過ぎてしまいました。別のテストを受けた帰りにスピーキングの先生に会ったので、その場でいきなりテストを受けました。名古屋学院大学のCCSのありがたみを感じました。 

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 12月といえばクリスマスですが、イスラム教の地域なのでクリスマスはありません。初めてサンタクロースやクリスマスツリーを見ずに、クリスマスを過ごしました。そんなクリスマスの25日に友達が紹介してくれたので、アチェの伝統的な結婚式の衣装を着させてもらいました。メイクに2時間半もかかり、ドレスや頭や体につけるきらびやかなアクセサリーをつけるのに、1時間もかかりました。

 メイクは信じられないぐらい濃く、つけまつげを2枚も重ねたので目が重く前がはっきり見えませんでした。今まで何度か結婚式に行きましたが、いざ自分が体験してみると大変過ぎて準備の段階で疲れてしまい、頭の装飾品のせいで立っているのもつらく、首が痛かったです。良い経験をし楽しかったですが、いざ本当に結婚式となるとこんな大変なドレスと頭の装飾品をつけたまま1日過ごすのかと思い、花嫁さんの大変さを感じました。

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 1月の頭にもテストがあり、その後は2ヶ月の長期休みに入ります。日本には帰国はせず、佐伯先生がアチェに来るので、短いですが先生がいる間は同行させてもらい、被災地ピディ・ジャヤでの支援や、もちろんそ他の活動もしっかり自分の目に焼き付け、積極的に学びたです。2016年は、自分にとってインドネシアに留学に来て表現しきれないほどの経験と思い出ができました。2017年は時間を無駄にしないよう、インドネシア語や被災地への支援も含め、何事にも、有意義にそして積極的に全力で取り組みたいです。
 インドネシア・アチェ州へ留学にきて、あっとゆう間に2ヶ月経ちました。 2ヶ月住んでいると、こちらの環境がとてもよく分かります。 

 最近とても停電が多いです。停電になると寮の隣の喫茶店で、みんなでコーヒーを飲んでおしゃべりをしています。なので、停電は全く怖くなく、むしろ楽しんでいます。 

 未だに慣れないこともあります。それは、お風呂です。日によって水が出ない時もあるので、いつも桶に水を溜めるようにしています。このようなことは、現地では普通のことなので、いつも通っていている喫茶店の人たちに相談すると、笑って「これがアチェだ」と返されます。 

 2ヶ月住んでいると、友達とも絆ができ、今では毎日会う仲間も出来ました。毎週、フットサルを一緒にして体を動かしながらコミュニケーションを取れるの楽しいです。来月には、メンバーと一緒に作ったユニフォームが届くので、すごく楽しみにしています。大学の先生対生徒でサッカーの試合もしました。 
 
 インドネシア語でコミュニケーションを取ることができるようになってきたので、現地の言葉であるアチェ語をみんなが教えくれます。嬉しいことですが、かなり難しいので、少しずつ勉強していきたいと思います。 

 いつも行く喫茶店では、日本語と英語とアチェ語を使っていけないというルールをみんなが作ってくれたので、喫茶店にいるだけで、インドネシア語の勉強になります。 

 大学でも少しずつですが、成長していると感じます。Ecology and Environment の授業では、水害問題をどうしたら良くなるか、改善点などに関するプレゼンテーションを行いました。プレゼンテーションをしても笑われることが多いですが、インドネシア語でプレゼンテーションをするとは、2ヶ月前の自分では想像もしていませんでした。まだ、授業はとても難しいですが、学校の宿題を見せると、大学の仲間がゆっくり丁寧に教えてくれるので、とても助かっています。 

 たまに空きコマを使い、日本語を教えることもあります。学生だけで集まり、空いている教室や学校内の喫茶店で、ひらがなを教えたりしています。みんな日本語に興味を持っていて、とても嬉しかったです。来年の春から名古屋学院大学への留学を目指している学生もいます。 

 大学以外では、佐伯先生の力を借りて、国際協力の最前線を見ることができました。去年、インドネシア・スタディツアーで訪れた、チョッ・マンボンという村を再び訪れました。この村は、生活水を十分に得ることができないことが問題とされています。生活水用の水道管を寄付を支援するところに立ち会いました。工事は、全て任せるのではなく、村の人たちができることは自分たちでやっていました。テレビなどでは、そのような現場はみることができないので、初めて知ったことも多かったです。

 ただ、この村支援の説明を受けても、わからない単語が多く全てを理解することはできませんでした。もっと勉強して、専用的な言葉も覚えていきたいと思いました。
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 インドネシアのアチェに来て2か月が経とうとしています。来た時は食べ物が辛すぎで慣れず、下痢ばかりの日々でした。今は何が辛くない食べ物なのか把握でき、辛くないよう料理を注文もできるようになったので下痢は止まり、健康に過ごしています。 

 しかし、10月に入ってすぐに、昼から夜遅くまでの停電が続き、携帯が使えなくなったり、夜真っ暗な中お風呂に入ったりと、大変な日々が続きました。10月入ってすぐの1週間は、毎日停電になりました。日本にいた頃、停電をそこまで経験したことなかった私にとって、怖いと思うのと同時に、改めて日本はインフラが整っていることを実感しました。

 10月に入ってから雨期になりました。スコールが多く、雨が降っているときのお風呂(水浴び)はとても寒く、井戸も泥水しか出ないので、寒くて泣きそうになることが何回かありました。いつ風邪を引いてもおかしくない状況の中、元気に過ごしているので、ここの環境に徐々に適応してるのだと感じています。 

 大学では課題がよく出るようになりました。特にインドネシア語の授業の課題は、現地の学生ですら難しいと頭を抱えるほどの問題なので、友達や先生に手伝ってもらい、なんとかこなしています。そのあとは復習も兼ねて、分らない単語を調べてまとめています。日常生活の会話は不便なく使いこなせていますが、授業となると難しい言葉ばかりなので、まだまだインドネシア語と格闘しています。 

 イスラム教の授業は10月に入ってからは、教室ではなく、毎週モスクでお祈りと先生のお話を聞いています。いつもは半袖ですが、イスラム教の授業がある時は、モスクに入る為、派手な色ではない長袖の服装で行くことを心がけています。 

 10月2日に2015年インドネシアスタディツアーで訪問したチョッ・マンボンという村を再度訪問してきました。この村はアセアンアチェ肥料社の建設により、土地収用された5つの村500世帯が移転させられた先です。去年、移転時に準備されたという家を案内してもらいましたが、人が住めるようなところではありませんでした。家には国際移住機関(IOM)がつくった井戸がありましたが、黒く濁った水しか出ない状況であり、水に一番困っていると聞きました。 

 今回再度訪れたのは、佐伯先生の協力のもと、水道が通ると聞いたからです。家の裏には、これから水道管が通る道が掘られており、そちらに埋められる水道管一式を見せてもらいました。現在はまだ水が通っていないということなので、近く(近くと言っても、バイクで移動)の川まで毎回行くそうです。イスラム教徒の人たちは、1日5回もあるお祈りの前に手足を洗い清めます。お風呂やお祈り、生活全てにおいて水は欠かせないので、村の人びとは一刻も早く水道が通ることを願っていますが、まだまだ時間がかかると嘆いてたので心配です。

 こうした生活を今でも送っている人たちを見て、去年のスタディツアーで学んできたこと、感じたことを思い出しました。そして自分自身がアチェで生活を始めてみて、水が普通に出るだけでもましなのに、水浴びが寒いから泣きそうになっている自分は甘えていると思いました。そして、何も罪のない人たちが故郷の村を失い、困難ななかで過ごしていると考えると、自分は今インドネシア語を学んでいるだけでいいのか悩みました。

 去年は佐伯先生がいたので、聞きたいことは全て通訳してくれましたが、今回はもちろん佐伯先生はいません。聞きたくても聞けないことがありましたし、話している内容も全て理解できた訳ではありません。理解したつもりで、間違った解釈をしているかもしれません。自分に何ができるのか悩むと同時に、まだまだインドネシア語が十分ではないことへの悔しい気持ちが、インドネシア語ができればもっと答えが見つかるのではないかと勉強に対し良い励みへと変わりました。 

 この経験を通して、9月に比べて大きく変わったのは、暇さえあれば図書館を利用するようになったことです。利用時間は朝9時から12時30分まで。そしてお昼休みをはさんで、午後は14時から16時か17時ぐらいまでです。日本と違い、時間が短くて驚きましたが、寮の近くにイスラムのボーディングスクール(寄宿学校)があり、結構騒がしいため、寮より図書館にいるほうが集中できます。 

 11月も雨季が続くそうなので、体調管理には気をつけ、課題も早く一人でこなせるように努めたいと思います。
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 インドネシア・アチェ州に留学へ来て1カ月経ちました。イスラム教の人がとても多いので、モスクからお祈りを呼びかける放送が流れ、5には目が覚めてしまいます。肌を見せてはいけないので、日本の真夏のような暑さですが襟付きのシャツと長ズボン毎日着ており、授業を受けるときは、襟付きのシャツと長ズボンを着用することが大学の規則で


 ご飯は、一食50150円です。とても安いですがとても辛いです。寮の近くに市場やレストランがたくさんありますが、私はだいたい自炊しています。


 私たち留学生は、教育学部英語学科の授業を履修しています。それ以外に、他学部の授業も履修できますが、使用される言語はインドネシア語になります。理解できなかったことを先生に伝えると、授業以外の時間を使って一対一で丁寧に教えてもらえるため、先生と学生の距離が近くて楽しく勉強できています。


 私は国際協力にとても興味を持っているので、現地の方々と同じ環境に身を置き、現地の方々が何に苦しんでいるのか、何を必要としているかを知りたいと思い、この留学を決意しました。そして、留学生活を始めた今、先進国と発展途上国の違いを肌で感じています。日本は先進国であり、基本的なインフラ(電気、ガス、水道など)が整っています。しかし、インドネシアの地方であるアチェ州では、そうではありません。


 この1ヶ月、大学でも日常生活でも、様々な経験をしました。この経験は、テレビや新聞では絶対に知ることができないことばかりでした。現地へ来て、住んでる人たちと直接関わることができて、本当に良い経験になっています。まだあと5ヶ月あるので、時間を無駄にすることなく過ごしたいと思います。

 

 

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 インドネシア・アチェ州に留学へ来て1カ月経ちました。イスラム教の人がとても多いので、モスクからお祈りを呼びかける放送が流れ、朝5時には目が覚めてしまいます。肌を見せてはいけないので、日本の真夏のような暑さですが、襟付きのシャツと長ズボンを毎日着ており、授業を受けるときは、襟付きのシャツと長ズボンを着用することが大学の規則です。 

 ご飯は、一食50〜150円です。とても安いですがとても辛いです。寮の近くに市場やレストランがたくさんありますが、私はだいたい自炊しています。 私たち留学生は、教育学部英語学科の授業を履修しています。それ以外に、他学部の授業も履修できますが、使用される言語はインドネシア語になります。理解できなかったことを先生に伝えると、授業以外の時間を使って一対一で丁寧に教えてもらえるため、先生と学生の距離が近くて楽しく勉強できています。 
 
 私は国際協力にとても興味を持っているので、現地の方々と同じ環境に身を置き、現地の方々が何に苦しんでいるのか、何を必要としているかを知りたいと思い、この留学を決意しました。そして、留学生活を始めた今、先進国と発展途上国の違いを肌で感じています。日本は先進国であり、基本的なインフラ(電気、ガス、水道など)が整っています。しかし、インドネシアの地方であるアチェ州では、そうではありません。 

 この1ヶ月、大学でも日常生活でも、様々な経験をしました。この経験は、テレビや新聞では絶対に知ることができないことばかりでした。現地へ来て、住んでる人たちと直接関わることができて、本当に良い経験になっています。まだあと5ヶ月あるので、時間を無駄にすることなく過ごしたいと思います。

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