「敬神愛人」と一致するもの

人生訓

ある日、人生訓(家訓?)の話が出て、トナリの上司さん(仮名)から

 

「勝ちなはるな、負けなはれ」

 

「誇るな、知るひとぞ知る」

 

という名言が出ました!いい言葉。さすがトナリの上司さん(仮名)。

 

 

よくきく

「実るほど頭をたれる稲穂かな」

となんだか近い気がします。

 

どれも、驕るべからず!謙虚に生きよう!ってメッセージですよね。

敬神愛人の「神を敬う」のメッセージも近い気がします。

「敬う」つまり謙虚な気持ちは忘れちゃいけませんね。

 

 

ちなみにウチの家訓は

「落ち着いて急げ」・・・・です。

・・・・ああ・・・名言の後だとよりいっそう恥ずかしい・・・完全に蛇足です、蛇足。

そんなわけで、いろんな人との出会いから、いろんな言葉を知って、それで人は成長していけるんだーとあらためて実感したしだいであります。

敬神愛人の碑

年末に名古屋キャンパスチャペル西側に変化が。

CIMG1302.jpg建学の精神「敬神愛人」碑が設置されました。

 

CIMG1406.jpg_effected.pngクリスマスには瀬戸キャンパス東門芝生エリアにも設置されました。

 

 石碑に用いられた石材は瀬戸キャンパス合宿所友愛の建設時に出土したものだそうです。

石は聖書に頻繁に登場します。

 

『家を建てる者の退けた石が  隅の親石となった。

これは主の御業  わたしたちの目には驚くべきこと』詩編118章22、23節

 

『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。』マタイによる福音書16章18節

 

などなど・・・他にも十戒という重要な神の約束も石に彫られていますし、石は大切なことを記す、大切なものを建てる、固い信仰を表すものというイメージがあります。

 

クライン博士が建学の精神としてかかげた「敬神愛人」が名古屋学院大学の揺るがない土台となり、ここで学び社会へ出たみなさんの心の親石となっていく。そんな気持ちが石碑にこめられている、と勝手に思っています。

ぜひご覧ください。

迷った時は・・・

なんだかクリスマスが近いからか、秋学期が終わりがけだからか、チャペルアワーの出席者数が増えていますね~。

ちなみにチャペルアワーは来週が今年度ラスト!

チャペルの席数には限りがあるので、お早めにどうそ。

 

そうそう、「クリスマスに街中の教会に行ってみたい」という学生さんはキリスト教センターまでお問い合わせください。

お近くの教会の情報をお伝えしますよ~。

ただ、キリスト教センターではお問い合わせがあればご紹介しますが、キリスト教の勧誘活動を行うことはありません。もちろん名古屋学院大学が創立者であるクライン博士から継承したキリスト教の精神、考えに触れる学びの機会をもうけています。それはクライン博士が掲げた「敬神愛人」を建学の精神として、キリスト教信仰に基づく人格教育に力を注いでいるためです。

 

近頃キリスト教の勧誘を受けたという話が頻繁にあります。キリスト教と一言で言っても、名古屋学院大学が創立者であるクライン博士から継承したキリスト教の考えとはおおきく異なる危険な団体も存在します。

もしもキリスト教の勧誘活動を受け、不安や疑問をおぼえたら教職員またはキリスト教センターまでお問い合わせください。

〇〇の中でみる隣人愛

風が強くて吹き飛びそうになる一日でしたね。

ヨロヨロしてドアにぶつかって恥をかくなんてことしませんでしたか?私はしました。今朝。どうせなら恥も風に吹き飛ばして欲しい・・・・。

 

瀬戸キャンパスチャペルアワー、7日(金)の奨励題は

聖書の中でみる隣人愛

聖書箇所、ルカによる福音書10章25~37節

 

この聖書箇所、建学の精神「敬神愛人」についてかかれている場面です。

これは大注目です!!!

 

あ、瀬戸キャンパスのチャペルにも、一本目のろうそくに火がともりますよ~。

うきうき

それでは13時に瀬戸キャンパスチャペルへどうぞ!

平和は葛藤

13日のチャペルアワーのメッセージはすごく考えさせられる内容でした。

 

「平和ってラクチンじゃない、平和って葛藤しあうものです。

宗教が違う、人種が違う、民族が違う、国が違う、自分とは違う人と一緒にやっていくことは、自分の思い通りにならないという葛藤がついてまわります。

自分の意見を押し通したくなるけれど、それをやると違う意見を押しつぶすことになります。

誰でも自由に意見を言えるようにすると、意見をまとめるのがすごく面倒になります。

でもその面倒を受け入れて葛藤することが平和じゃないでしょうか?」

こんなメッセージがありました。 

 

この「平和」の考え、「敬神愛人」の伝えようとしていることと同じだと思いました。

人を愛するっていうことは、違いを受け入れるということとも言えます。

注意しなきゃいけないのは、愛しているなら自分の意見に賛同するべきとか、愛されているから相手の意見に異を唱えない、というのは本当の人を愛することではないと思います。

愛し合っているからこそ、納得するまでとことん意見を出しあうことができる。意見一致しないままでも、逃げ出したり押しつぶしたり絶対にしない。そういう信頼関係を愛人と言っていると思います。でもそれって自分の意見を押し通したり、逆に諦めることよりも面倒くさいと思います。物凄くエネルギーがいる気がします。

自由に意見が言えることは面倒で葛藤も多いけど、人に意見を言わせないとか自分の意見を押し殺さないといけない社会よりもずっとずっと幸せだと思いませんか?

 

さて、チャペルでは毎回違う先生が、色々な意見、メッセージを投げかけてくれています。

11月も後半に入り、2012年度秋学期のチャペル行事も残りを数える方が早くなりました。是非機会をみつけてお越しください。

それではまた来週!

創立記念日礼拝のご案内

週明けの15日は創立記念日礼拝!!!ということで、改めてお知らせです。

kinen2012.jpg日時:10月15日(月) 12:40~ 13:10

奨励:葛井義憲 宗教部長

場所:白鳥学舎 チャペル

   瀬戸学舎 嗣業館4階会議室(TV会議システムによる)

 

1964年に開学した本学ですが、そのルーツは約125年前にまでさかのぼります。

1887年、アメリカのメソジスト・プロテスタント教会の宣教師として来日したF.C.クライン博士が開設した私立愛知英語学校がもとになっています。クライン博士が掲げた「敬神愛人」を建学の精神として、キリスト教信仰に基づく人格教育に力を注いでいます。

「敬神愛人」は聖書のみ言葉に基づいています。

『第一の掟はこれである「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』(日本聖書協会『新共同訳約聖書』 マルコによる福音12書章29~31節)

これはイエスが、「一番大切な掟はなんですか?」と問われた時に答えたことです。

 

先日のチャペルアワーで「互いに愛し合う」ことが一番大切、という話を聞きました。他にもいっぱいルールはあるけれど、突き詰めれば全部「人を愛する行為」かどうかにかかっているというメッセージでした。

日頃の自分の言動は、人を愛する、人を思いやっているものか、常に問い続けることが「敬神愛人」が示すメッセージの一つだと思いました。

 

創立記念日礼拝で、これまでのあゆみが守られたことに感謝をし、これからのあゆみに導きを祈るだけではなく、名古屋学院大学での様々な出会い、一緒に集えたことの喜びの気持ちを持って、ともにお祝いできればと願います。

 

※創立記念日礼拝にともない、10月15日(月)のオルガンアワーはお休みさせていただきます。

春と秋の違い。

2012年度のカレッジアワーのメッセージにおける春学期と秋学期の違い。

 

春:建学の精神「敬神愛人」について思うこと。

秋:学生時代に読んで人生を変えた本、最近読んだ本でぜひ推薦したい本。

と、いうことで、ずいぶん違います。

 

ちなみに先週のカレッジアワーで紹介された本は

ヴィクトール・フランクル著 『夜と霧』でした。

アウシュビッツ強制収容所の体験を基にして書かれた世界的ベストセラー。大学の図書館にも所蔵されているので、是非チェックしてくださいねー。

 

明日のカレッジアワー(4日12:40~)はどんなメッセージと出会えるのか、こうご期待!

昼食会

 7月23日(月),外国語学部3年生のふたりの鈴木さんとささやかな昼食会を持った。場所は学長室。石川輝海外国語学部長にも同席して貰った。

 何のための昼食会か? イジメや虐待や自殺など暗い話が多い世相の中で,ふたりの鈴木さんは,最近,心がホッこりする話題を提供してくれた人物である。彼女らから直接その話を聞きたいと思った。大いに褒めあげて,その精神性を大事にして貰い,学内にそして世界にその心意気を広げて欲しいと思ったからだ。

 昼食メニューは「五目寿司」。セブンイレブンの柳田さんに注文し,出前して貰った。これは事前予約が必要なメニューで,特注だ。

 

ふたりのホッこり話

 ふたりの鈴木さんが提供したホッこりする話の内容は,新聞記事にもなったし学内広報もされているから,ご承知の方も多いだろう。その概略は次の通り。

 鈴木佳奈英さんの話は,「四つの言葉で橋渡し」という見出しで朝日新聞(7月6日夕刊)に紹介された。彼女は,日本語,英語,日本語手話,英語手話を駆使して,多様な人間とコミュニケーションしながら,自らの世界を広げている。日本語手話の勉強は本学外国語学部に入学した直後から,英語手話の勉強は留学先のアメリカの大学で,という。学内では,ノートテイカーとして聴覚障害を持つ友人の学習も支援してきた。

 「コミュニケーション手段としては手話も英語も同じ。聴者だろうが障がい者だろうが,そこに魅力的な人が居て,その人ともっとコミュニケーションを採りたいと思う」熱意が彼女の言語能力を高める純粋動機のようだ。「手話を学んで世界が広がった」という彼女は,これからも更に世界を広げていくのだろう。

 一方,鈴木亜里砂さんの話は,行方不明で捜索願いが出されていたオジさんの保護に一役買ったというものだ(中日新聞(7月10日))。精神障害を持ち,人との対話が不得手なこのオジさんは,どういうわけか横浜から迷って浜松まで来てしまった。浜松は鈴木さんが住む町だ。深夜11時に,所用で東京から帰ってきた鈴木さんは,浜松駅でこのオジさんに携帯電話を押し付けられたという。パニック状態にあるオジさんにしてみれば,電話先の相手と連絡をとって助けて欲しいとの一念であったろう。電話口に出たオジさんの弟さんと連絡が取れ,駅員に事情を話して,オジさんは無事に保護された。

 深夜に見知らぬオジさんに声をかけられ,怖くなかったか?「触らぬ神に祟りなし」とは思わなかったか?誰もがそんな疑問を抱くだろう。ところが彼女はそうではなかった。深夜11時帰りとなった東京での所用は,アメリカに留学した際に友人になった台湾の学生との再会であったという。昼間は英語が充満する世界で生き,そこから帰宅する途上であったのだ。

 

外国語を学ぶ意味 

 そこで,私は合点した。ふたりの鈴木さんは,心が外に開いていた。外国語や異文化を勉強する意味は,実はこんな所にあるのではないか。外国を知り,異文化を理解するためには,変な先入観や偏見をできるだけ排除し,素直な気持ちでありのままを受け入れる姿勢が必要だ。簡単そうな単語一つをとっても,幾つかの意味を持ち,文脈にそった解釈が不可欠となる。

 言語はもちろん,肌の色も宗教も違う多種多様な人たちと付き合うためには,自らもオープンマインドで,そして笑顔で対峙しなくてはならない。自身の体験でも,海外出張から帰ったばかりの数日間は,行き交う人誰にでも「ハ~イッ!」と挨拶できるような気分でいる。オープンマインドな行動が採れるふたりの鈴木さんが,外国語学部の学生であったのは偶然ではなく,必然ではなかったかと思う。

 ふたりの鈴木さんは,本学の建学の精神「敬神愛人」を自らの行動で示した代表選手のように思う。謙虚で他者に優しい人材を育成するためには,外国語や異文化を学ぶ姿勢の涵養が必要なのだろう。だから,名古屋学院大学の教育の特徴に「国際性」がある。これまた,改めて合点した。

ミッションスクール

本学のようなキリスト教主義の学校のことを「ミッションスクール」や「ミッション系」と表現する事があります。海外(主に欧米)キリスト教会の伝道局(ミッション)から派遣された宣教師たちが設立した学校であることが由来のようです。

 米国メソジスト派宣教師F.C.クライン博士が「敬神愛人」をかかげ、1887年に創立した愛知英和学校が名古屋学院大学の起源です。

1887年にアメリカから見知らぬ遠い国(日本)に来て、宣教をし、学校を建て・・・すごいですね・・・私、今から海外行って一から学校建てよう、なんて想像することすら挫けそうです・・・。何もないところから始まった学校が今や約5000名の学生さんが在籍する大学になっています。宣教師をはじめ多くの協力者が、キリスト教を知らない人に福音(良い知らせ)を伝えようと信仰を基にやってきたことが今に繋がっている。そう思います。

 

さて、8月3日(本日)東日本大震災支援ボランティアの事前学習に伴う出発礼拝が名古屋キャンパスチャペルでまもられます。礼拝の中で歌う讃美歌は520番「真実に清く生きたい」です。なんだか運命を感じます。

それというのも、この520番の歌詞はF.C.クライン博士と同じようにアメリカから日本に派遣された宣教師が、母親に手紙のかわりに送った詩なんです。 東日本大震災支援に向かう115名の学生さん、教職員がその讃美歌を歌って、出発に備えます。時代も状況も違うけれど、離れた地で奉仕することは共通していますね。

そういう意味で、本学にとって、ボランティアはとても大切な"ミッション"だと思います。

 

最後にひとつ、聖書の言葉を紹介します。

『たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。  たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。  全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。』
日本聖書協会『新共同訳約聖書』    コリントの信徒への手紙一 13章1節~3節

 

たくさんの交わりと学び、そして何よりもよい働きができるようお祈りしています。

日々草のその後

 

CIMG0668.jpg_effected.png

 

6月8日のブログこどもの日・花の日のその後。

聖テレジア幼稚園の園児さんたちと環境問題に取り組むボランティアサークル「EARTH」の学生さんが、一緒に植えてくださった日々草。

学生さんや職員が水遣りなどをしてくださり・・・

CIMG0670.jpg

 

ずいぶん大きくなりました。

 

6/8の時点で上から見ると、花壇の土に小さい苗がちょうど水玉模様のようにチョンチョンと置かれている感じでしたが・・・今や・・・

 

CIMG0672.jpg

 

土を完全に覆い隠し、けっこうな迫力です。

 

ふと聖書のこんな言葉を思い出しました。

『...野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。  しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。』

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』    マタイによる福音書6章28節~31節

 

食べるものも着るものもない状況に置かれ、不安と絶望のふちにいる人にイエスが話したことです。決して神は人を見捨てることはない、絶望することはない、という力強い神の愛を語っている箇所です。

建学の精神である『敬神愛人』は「神を敬い人を愛する」という意味ですが、なぜ「神を敬い人を愛する」のかと・・・・。まず何よりも最初に神が人を、つまり私であり貴方であり、そしてあなたの隣人を愛している。そのことを信じる気持ちが前提となっているからこそ、「神を敬い、人を愛する」のではないか。なんてことを思い巡らせていました。

この日々草より派手な格好の人も少ないよなぁ・・・全身緑と赤の組み合わせなんて相当浮かれたクリスマスでもないと無理・・・なんてことも思ってみたり。

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