「キリスト教」と一致するもの

3・11のメッセージ ~光を照らし、光となりなさい~

また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
(新約聖書 マルコによる福音書 4章21~23節)

新型コロナウィルスによる被害が、昨年11月から世界各地で広がりを見せている中、私たちは今年も「3月11日」を迎えることとなりました。2011年3月11日に、東日本の各地で大きな地震が発生し、それに伴う形で、津波による甚大な被害、また、福島第一原子力発電所の事故の影響による放射能汚染が引き起こされました。あの日から今日で9年が経過することとなります。

東日本大震災の現状について、メディアはこのように伝えています。
「1日現在の警察庁のまとめでは、死者1万5899人、行方不明者2529人。復興庁によると、避難中の体調悪化などが原因の震災関連死は2019年9月30日現在、1都9県で3739人に上る。震災直後は推定47万人いた避難者は、2月10日現在で4万7737人となった。復興のインフラ整備が進み、仮設住宅にいた入居者は最大約31万6000人から約6000人に減少した。一方で高台などに造成した宅地は約1万8000戸、自宅を失った被災者が入居する災害公営住宅(復興住宅)は約3万戸がそれぞれ完成し、住宅再建は進んでいる。だが原発事故の影響で、福島県から県外に避難している人は3万914人に上る。」(毎日新聞

先日、「復興五輪」という言葉を久しぶりに聞きました。今年予定されている「東京オリンピック・パラリンピック」は、東日本の被災地の復興を旗印として掲げて招致したはずだったと思うのですが、オリンピック関連で資材は高騰、人材不足。平和の祭典であるはずのオリンピックのために、東北の復興は大幅に遅れてしまったのではないかと感じます。しばらく、「復興五輪」という言葉を耳にしなかったのは、私の情報収集能力不足のせいでしょうか。そうとは言い切れないかもしれません。

その東京オリンピック・パラリンピックの開催時期が数か月後に迫っている中、私たちの住むこの日本は今、ややもすると、オリンピックの開催を中止あるいは延期しなければならないかもしれないという状況に置かれています。原因は言うまでもなく、新型コロナウィルスの流行です。世界各地で猛威をふるっており、この日本においても、毎日のように死者、重症者についての報道がなされています。症状があらわれていないだけで、隠れて罹患している人は、私たちも含め大勢いるのでしょう。そして、この状況は、インフルエンザのようにしばらくすれば収束するものではなく、半年、一年のように長期間続いていくとも言われています。人々の健康と安全が第一ですから、オリンピックの中止・延期もやむを得ない気もしますが、そうすると、復興五輪、本当に大丈夫なのでしょうか。国が位置付けている「復興・創生期間」が、2021年の3月で終わりを迎えます。その後は新たな方策がたてられるようですが、この度のオリンピック開催に関するイレギュラーな事態を受けて、復興に向けての取り組みにも大幅な変更がなされるのではないかと心配しています。今や多くの人たちが忘れてしまっていることかもしれませんが、「被災地の復興という大きな目標無くして、オリンピックの招致は実現しなかったのだ」ということを、改めて覚えておきたいと思います。

インフラの整備が進められていると聞きます。私は2012年に一度被災地を見て回りました。「何も無い」というのが、当時の私の率直な感想でした。すべて津波で流されてしまっていたのです。今、当時のことを思い起こしつつ、テレビで流れる映像などを見ても、街の様子は大きく変わっていると感じます。被災地には、人々の生活が戻ってきている、部分的にはですが。

私たちに"見えている"のは、ほんの一部にすぎないでしょう。ニュースの映像などを見る限り、街の様子は、回復しつつあるように見えます。しかし、失われたものは二度とかえってこない。それどころか、放射能汚染という、今まで無かった状況がそこにあるせいで、故郷に帰りたくても帰れない人々が大勢います。「アンダーコントロール」という言葉が、むなしく頭の中によみがえります。汚染物を入れた黒い袋(フレコンバッグ)は、未だ、福島県内の仮置き場716カ所に計990万袋あると言われており(東京新聞)、また、福島第一原発の汚染水を貯めているタンクは増え続け、もう敷地内に収めきれない状況で、結局、充分な処理がなされたとは言い難い大量の水が、今後、海に放出されていくことになるだろうとされています。「原子力」「放射能」という"見えない"ものとの闘いは、今後も何十年、何百年と続いていくことになるのでしょう。

ここまで、東日本大震災の現状を、あえて細かく説明してきました。"見えなくされている"状況に、光を当てるためです。震災発生当時は、こちらがわざわざ求めなくても、テレビなどを通じて様々な情報を得ることが出来ました。しかし今や、必要な情報は自ら探し求めないと得られないようになってきています。それは、報道の自由度が低下してきていることも原因の一つかもしれませんが、やはり月日の経過と共に、東日本大震災のことが風化していってしまっているのが、最も大きな理由でしょう。めまぐるしく移り変わるこの時代の中で、未だ、震災の影響によって困難な生活を強いられている方々の姿がある。また、報道されない被災地の実態がある。私たちは、そこに「光を当てる」べきではないかと思うのです。

イエス・キリストは、たとえ話の中で、「灯を持って来るのは、燭台の上に置くためではないか」と言われました。聖書はまた、私たち人間のことを(周囲を明るく照らす)「光」にたとえています。光が無い闇の中では、私たちは何も見えません。陽が差し込まない真っ暗な部屋の中でも、誰かが照明を付けてくれさえすれば、しっかりと見えるようになります。同様に、何も知らなくても、誰かが教えてくれれば、知る者となります。忘れていても、誰かが教えてくれれば、思い出すことができます。そのように、私たちは、「光」の役割を担う、道を指し示す"誰か"であるべきではないか、そう思います。「そういえば、今日は『3・11』だね。」そんな会話を家族や友人と交わすだけでも、世の中を照らす「光」としての役目を十分果たせているんじゃないかと感じます。

今もなお、失意や不安、恐怖を抱えて生活しておられる被災者の方々がおられる。そのことを何よりも覚えておかねばならないと思うのです。本学のキリスト教センターでは、名古屋YWCAという組織とともに、福島に住む子どもたちや保護者の方々を対象にした保養プログラムを実施してきました。今年で最後の開催になります。放射能の影響を心配して、数日だけでも遠くの地で過ごしリフレッシュしたいという思いを持って、皆さん参加されるのですが、本当はもっと「できれば自分もそうしたい(でもできない)」という方々が大勢おられるのだろうと思うと、心が苦しくなります。私たち一人ひとりの力には限界がありますから、ぜひ国をあげて、更なる復興と被災者の方々の生活のサポート、そしてメンタルケアに取り組んでいただきたいと願っています。

この度の新型コロナウィルスの影響は、被災地にも大きな被害をもたらすことになるでしょう。人々の健康についてはもちろんのこと、せっかくこの数年で立て直した会社やお店の閉業・倒産を余儀なくされるところも出てくるかもしれません。これもまた、東日本大震災に関係する"見えない"被害と言えるのではないかと思います。そのような事態に陥らないように、また、少しでもその影響が軽減されるようにと祈るばかりです。

私たちは、見えているようで見えておらず、また、光の中を歩んでいるようで、闇の中をさまよっているかもしれません。その手に「灯」を持ちましょう。見えないもの、見えなくされているものに目を注ぐために。そして、私たち自身、「灯」となりましょう。世を照らすために。周囲の人たちの目に「光」を与えるために。隠れたものを明るみに出すために。復興のための、本物の「聖火」となりましょう。東日本大震災の現状を、見て、聴いて、覚え、語り継ぐ真の「聖火ランナー」になろうではないですか。

10年目を迎える東日本大震災。どうか、被災者の方々に神の平安が豊かにありますように。そして、東日本大震災を経験した「私たち」が、これからも、この国の再興と回復を願い祈り続けることができますように。新型コロナウィルスの問題も合わせ、この国の為政者たちが、正しき知恵と決断力をもって、国民一人ひとりの生活のためになすべき務めを果たしていくことができますように。主イエスの御名によって。アーメン。

聖書が変わる・・・?

実は、ここだけの話...

名古屋キャンパスしろとりチャペルの 『聖書』 が 変 わ り ま す 。

いま備え付け用に置いてある聖書は「新共同訳」と呼ばれているものなのですが(カトリック教会とプロテスタント教会が共同で新しく翻訳したことからこのように名づけられました)、31年ぶりに日本語に翻訳された「聖書協会共同訳」という名称の聖書が発刊されたことを受けて、本学では思い切って、今年の4月から、新しい方の聖書に総入れ替えすることにしたのです(瀬戸キャンパスは未定 ゴメンネ)。

おそらく、日本の数あるキリスト教主義学校の中でも、一番早いんじゃないでしょうか。

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(1枚目の右と2枚目の左が、2020年度以降しろとりチャペルに置かれることになる「聖書協会共同訳」。これまでのものと同じように、名入れしてもらいました。)

聖書という書物は、約2000年のキリスト教の歴史の中で、宣教の働きが拡大していくにつれて、様々な国や地域の言語に翻訳されてきました。日本でも、かの有名な宣教師フランシスコ・ザビエルの時代に、初めて聖書が日本語に訳されて以降、時代ごとに翻訳作業が行われていきました。

言語というのは、時代に合わせて少しずつ変化していくものです。昔は使われていたけど今は全く使われなくなった言葉、たくさんありますよね。そのため、聖書の翻訳されたテクスト自体も、言語の変化に合わせて変わっていく必要があります。また、考古学など学問的に新たな発見がある場合もあります。その時には、どのような訳がふさわしいか、再検討されねばなりません。

現在、チャペルに置かれている聖書「新共同訳」は、1987年に発刊されたもので、1955年以降標準訳として広く使用されてきた日本語訳聖書(口語訳)の後を継ぐ、当時としては言語的にも聖書学的にも最も新しい日本語訳聖書でした。ですが、それももう30年前の話。研究の成果や社会の変化等によって、「この単語は○○を意味する言葉だと思われていたが、実際は△△のことを指す言葉だった」とか、「××という言葉は現代では差別語にあたる」とか、そういう指摘が多くなされるようになりました。そうして今回、新たに「聖書協会共同訳」が誕生することとなったわけです。

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また、今回は時代のニーズに合わせて「ウェブバイブル」なるものが開発され、1月下旬にサービスが開始されました。
https://www.bible.or.jp/webbible/
聖書って分厚くて大きいから、持ち歩くの大変なんですよね。なので、スマホやタブレットで読めるのはとても助かります。

いま流行りの"サブスク(サブスクリプション)"というものでしょうか、聖書本文を読むだけなら、年500円の「ベーシック版」がオススメ。

分からない部分の解説が欲しい、過去の翻訳(新共同訳、口語訳)と照らし合わせて読みたい、という人は、年2,000円の「プレミアム版」もあります。今だと、発売記念価格で1,500円となっています(2020年2月現在)。まぁ、よっぽど興味がある人以外は「ベーシック版」で充分だと思いますね。

聖書の中には、キリスト教徒だけでなく、神への信仰を持っているわけではない人たちの心にも響いてくる、愛のある言葉がたくさん詰まっています。今年の目標の一つとして、ウェブバイブルで読めるところまで聖書を読んでみる、というのも面白いかもしれませんよ。


・・・なお余談ですが、古の時代、神の言葉は「石版(tablet)」に文字を刻み込む形で伝えられていました。まさか、何千年も後の時代に、聖書の言葉が「タブレット」で読まれているとは、誰も想像しなかったでしょうね。

キリ絵 de 大喜利 No.07

「・・・しまった!今日 歯医者 予約してたの、すっかり忘れとった!」

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サンドロ・ボッティチェッリ『書斎の聖アウグスティヌス』(1480)

イタリア・ルネッサンスの巨匠、サンドロ・ボッティチェッリによって描かれた、「ヒッポのアウグスティヌス」の肖像画。
アウグスティヌスは、4~5世紀にかけて生きたキリスト教の指導者で、北アフリカの都市ヒッポで司祭・司教としての務めをなした。『告白』や『神の国』といった、その後のキリスト教思想に大きな影響をもたらす数々の著作を残している。

あけおめりくり

あけましておめでとうございます!
本年もどうぞ皆さん良い年をお過ごしくださいね。

さて、今回のタイトル、「あけおめりくり」って何やねん!ということなんですが、
皆さんご想像の通り、「あけおめ(あけましておめでとうございます)」と「めりくり(メリークリスマス)」の合成語です。

あ~、教会ではそういう言い方が流行ってんだなぁ~。・・・違います。勝手に作りました。

でもちょっと待って。「あけおめ」はまだ分かるけど、「めりくり」って、もう遅くない?だってクリスマスはとっくに終わったし。

No!クリスマスはまだ終わっちゃいねえ!実はクリスマスは「今日まで」なんだぜ!

キリスト教(西方教会)の暦では、1月6日は「公現日」(公現祭/エピファニー)と呼ばれており、異邦の民への救い主の顕現を記念する祝日とされています。キリスト教の発祥元であるユダヤ教においては、メシア(救い主)は、ユダヤ人のために現れると考えられていました。けれども、キリスト教は、救い主であるイエス・キリストはユダヤ人を含むすべての人々のためにお生まれになったと考えたのです。

それを記念するのが、今日、1月6日。なので、教会では12月24日の日没(クリスマス・イヴ)から1月6日までを「クリスマス」の期間として過ごすわけなんですね。というわけで、皆さん、あらためまして「あけおめりくり」~(しつこい)


さてさて、話は変わって、昨年末に行われた「大学クリスマス礼拝」について。

名古屋キャンパスで行われた24日の大学クリスマス礼拝。今年は例年と違い、クリスマス・イヴに開催されるということで、どれぐらいの来場者数があるか未知数だったんですけれども、なんとなんと、例年以上、非常にたくさんの方々が足をお運びくださいました!

その時の様子です↓

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聖歌隊、トーンチャイム隊も一所懸命に練習した成果を発揮してくれて、豊かな賛美の歌声や音楽に満ち溢れた礼拝となりました。


所変わって、25日の瀬戸キャンパスで行われた大学クリスマス礼拝。

こちらは、本学名誉教授の葛井義憲先生が奨励をしてくださり、多くの来場者の方々とともに厳かな雰囲気の中、イエス・キリストのご降誕をお祝いしました。

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礼拝後は、瀬戸メサイア合唱団によるミニコンサート。そして、第64回・NGUチャペルコンサートが開催されました。
ゲストは、ピアニストの水野みかさんと、ヴィオリストの紫藤祥子さんのお二人。
特別な計らいで、当初予定されていなかったクリスマスの賛美歌も織り交ぜてくださり、とても楽しい心温まる時間となりました。

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24日と25日、二日連続となった大学クリスマス礼拝でしたが、とても充実した二日間でした。

今年も世界中で救い主イエス・キリストのご降誕がお祝いされたわけですが、世界にはまだまだ「平和」とは言えない状況が広がっています。私たちの国も例外ではありません。いま一度、イエスが到来された意味と、神さまが私たちに臨んでおられることを考え直しつつ、新しい一年を過ごしていきたいものです。

世界中の人たちに神さまの祝福と恵みがありますように!!

転ばないようにね、子ロバさん

今回は、人物ではなく 動物たち に注目してみたいと思います。

こちら。

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ロバです。・・・ロバだよね? 馬じゃないもんね。はい、ロバです。

イエス・キリストの降誕の場面には、様々な動物たちが登場します。

すでにご紹介した通り、たとえば、「ラクダ」。東方の博士たちは、砂漠地帯を旅してきましたから、彼らの乗ってきたラクダが描かれていました。また、「羊」については、言わずもがな、羊飼いが連れてきたのでした(羊の群れをほったらかしにするわけにはいきませんからね)。

他に、降誕の場面で描かれることが多いのは、「ロバ」と「牛」です。
ただし、このクリッペ(お人形セット)には牛はいません(必ずしもそれらのモチーフを入れなければならないということではなさそうですね。)

キリスト教絵画において、ロバと牛という2頭の動物のモチーフは次のような意味を持っています。

【ロバ】 偶像崇拝の罪を負っている異教徒
【牛】 律法順守という束縛にとらわれているユダヤ人


そして、ロバと牛が見守っている赤ちゃんイエスこそ、彼らに表されている異教徒やユダヤ人たち、つまり非キリスト教徒のことを罪から救うお方なのだ、というわけです。これは、旧約聖書「イザヤ書」1章3節(「牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。」)という言葉の、古代のキリスト教指導者による解釈が基となっているそうです。

クリッペに登場しているロバを見てみると、背中に鞍といくつかの荷物を積んでいますね。このロバは、身重のマリアが乗ってきたのでしょう。妊婦さんが歩いて旅するのは大変でしょうからね。

ロバは更に、イエス・キリストが十字架につけられて殺される前、その舞台となるエルサレムという街に入城したときに乗っていた動物でもあります。そのため、キリスト教絵画の中でロバを見たとき、イエスの十字架と死を想起する人も少なくないだろうと思います。


クリスマスと教会(Christmas and Church)

ローマ教皇(Pope)が来日しましたが、語ったどの言葉も、10億人以上の信者の上に立つ者が発言する重みを感じました。教皇の影響力というものを肌身に感じた瞬間でした。

特に「多くの若者が傷ついている」という言葉には、我々の多くが身に染みたのではないでしょうか。

ちなみに法王ではなく教皇が正式な呼称となった理由は、法王は仏教(Buddhism)で使われる言葉であり、「法」は仏教で言うダルマを意味するからです。

さて僕は昨年のクリスマス、教会に行ったことを思い出しました。

クリスマスといってもすることもとくになく暇だったのですが、ふと思い立って教会に行ってみようと、なにかに導かれるようにふらっと出かけました。うちの近所にけっこう大きな教会があるのですが、ミサ(mass)の時間が遅めで時間があったので別のところはないかと探してみたら、小さめの教会があったことを思いだしたので行ってみるとこっちのほうが早めにやるらしく、はいってみました。礼拝堂は、普通の家よりすこし広いくらいの大きさで、三角屋根で民家のような感じです。中は狭く、明かりも少なく、簡素なつくりで余分なものがありません。そうか、プロテスタント(Protestant)の教会はどこもこういう風なのか。プロテスタントの禁欲的な教えが表れていて、清貧な場というのを感じます。そのあと大きな教会の方に行ってミサに参加したのですが、つまり教会をはしごしたのです(笑)、つくりが対照的で、こちらは豪華絢爛で、立派な建物で敷地も広く、中の礼拝堂がとても広く、建物の中にいくつもの部屋があって天井はとても高く装飾が多い。この建築がカトリック式で、キリスト教の伝統的建築様式なんですよね。行われる儀式も伝統的なやり方のようです。東京ドームで行われた通り、ミサはこっちです。

そのプロテスタント教会(Protestant)での礼拝の方法は、本学で行われているようなものと似たようなもので、クリスマスだからといってそこまで特別なことというか盛大なことはしません。そもそもクリスマスとは、ヨーロッパにおける冬至祭が起源となっている。クリスマスツリーとか、今の世俗化したクリスマスの風習は1950年代アメリカではじまった商業主義的な戦略がきっかけになっているらしい。12月25日冬至の日は、ヨーロッパで夜がもっとも長くなる日なので太陽の復活のための祭りという土着的な復活祭とそれにイエスの復活祭が合わさったものとのこと。

そこでは説教や聖書の朗読が行われ、そのあと聖歌隊による賛美歌が歌われましたがとても力強く、神秘的でした。全体的にはやはり、簡素で、人の数が多い割に静寂さというものを強く感じます。献金もあります。

一方その後に参加した、カトリック(Catholic)でのミサ(mass)では、内容的には説教や朗読、そして音楽といったことは同じなんですが、一つ一つが盛大で長めで、古くからある伝統的な儀式の形式というものを大切にしていることが伝わってきます。ただ敷地内に入った瞬間から、見た目や大きさがまるで違うので、雰囲気は違うし、プロテスタント教会とはちょっと異なる空間なんですよね。大勢の人が集まるので多くの人は中の椅子に座れず、後ろで立ちながらの参加になるくらい。それほどなので中は冬なのに暑い。中の光も、大きな空間を照らすためにとても明るいので暖かな空間という印象が残りました。どちらかというとカトリックの方が世俗的で、どんな人でも入りやすいという印象が残りました。

キリスト教徒じゃなくても参加していいの?という疑問があると思いますが、誰にでも開かれているのですね。そこでは様々な人間、人種や立場や年齢や性別を超えた集まりになっている。


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(カトリック布池教会、ミサ終了後の様子)


日本には昔から、大小多くの神社(Shrine)や寺院(Temple)があちこちにあります。僕は時々いきますが。

そのあいた空間に、こういった大から小までの教会(Church)とかモスク(Mosque)があったりします。実はシナゴーグ(Synagogue)もあります。いろんな宗教(Religion)や宗派の建築物が混在しているのが日本の特徴です。それぞれこんなに違うかと思うほどいろんな違いがありますが、そこにあるのは、人間の知や認識を越えたものへの信仰、そういうものへの祈りのための神聖な空間、というような共通点もあります。

というようにそんな視点でいろんな宗教や宗派を比較してみると面白いです。

図解 世界5大宗教全史

THE FIVE GREAT RELIGIONS OF THE WORLD

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この本は、世界中に広がっているキリスト教(Christianity)、イスラム教(Islam)、仏教(Buddhism)に加えて、ヒンドゥー教(Hinduism)やユダヤ教(Judaism)、そして各地域の土着的な宗教(Animism)まで、仕組みや成り立ちについて解説しています。

世界は思っているよりも、宗教で成り立っていることがわかります。

本学はプロテスタントなのでローマ教皇に関する本はそれほど多くはありませんが

なぜローマ法王は世界を動かせるのか

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や『ローマ教皇庁の歴史』『図説 ローマ・カトリック教会の歴史

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などの歴史本があります。

単にカトリック(Catholic)、正教会(Orthodox Church)、プロテスタント(Protestant)に関する本はたくさんあるので比較しながら学んでみるもの面白いと思います。

それから、クリスマスは教会に行って静寂に過ごすのも良いでしょう。


図書館サポーター あっきー

学情、冬

こんにちは!学生サポーターのJINです!




12月に入りましていよいよあの時期ですね。


そう、クリスマス。



その言葉を聞いてウキウキしたり、落ち込んだりは


人それぞれだと思いますが、「クリスマス」って


なんの行事か知っていますか?クリスマスの意味とは?



クリスマスは「キリストのミサ」という意味で、一部の教派が行う


イエス・キリストの降誕祭。あくまで誕生を祝う日であって、


イエス・キリストの誕生日ではない


キリスト教国以外でも、年中行事として親しまれている。



・・・だそうです。ひとつ知識が増えました!


ということで、学情も冬期仕様に変身しましたよ!


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電飾でキラキラ飾り付け。クリスマス感!

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小物にもご注目!可愛いでしょ!



以上、JINでした~。

この犯人、まさに"猟奇的"である。

こんにちは、そば粉です。

いよいよ、今年も残すところ一ヶ月を切りましたね。
2020年がこうも早いとは、正直驚いています。
悔いのないよう、残りの2019年を過ごしていきましょう。

話は変わって、皆さんは「七つの大罪」というものをご存知でしょうか。
最近だと、週刊少年マガジンにて連載されている作品として、名前を知る人は多いと思いますが、本来はキリスト教の用語であることは知っていましたか?

七つの大罪とは、キリスト教の西方教会、おもにカトリック教会における用語で、ラテン語や英語での意味は「七つの死に至る罪」なんだそうです。「罪」そのものというより、人間を罪に導く可能性があるとみなされてきた欲望や感情のことを指すもので、日本のカトリック教会では七つの罪源(ななつのざいげん)と訳しているのだとか。(Wikiより抜粋)

「暴食」 「色欲」 「強欲」 「憂鬱」 「憤怒」 「怠惰」 「虚飾」 「傲慢」

以上、七つの罪が定められており、人間による最も重い罪であるとされています。
今回は、そんな七つの大罪をモチーフとした、とある殺人鬼を追う二人の刑事の映画をご紹介します。

デヴィッド・フィンチャー監督の映画「セブン(se7en)」です。

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<あらすじ>
奇妙な怪奇殺人事件を追う、ベテラン刑事サマセット(モーガン・フリーマン)と志願して殺人課に転属してきた新人刑事ミルズ(ブラッド・ピット)。

やがてその事件は、キリスト教の「七つの大罪」になぞらえたものだと判明する。果たして犯人はだれなのか?そしてその犯行の理由は?捜査を進めていくうちに、やがて事件は思わぬ方向に舵を切っていく...。

ネットではよく「ラストに衝撃!」的なまとめで紹介されることのある、割と有名な映画です。
この映画から「七つの大罪」という存在を知った映画ファンも多いかと思われます。私そば粉も、この映画から始めて知りました。

この映画の見どころは、殺人鬼ジョン・ドゥの猟奇的な思考です。
作中で、ジョン・ドゥは七つの大罪にちなんだ殺害を繰り返しているのですが、何の目的で、なぜ七つの大罪に因んだ殺人を繰り返すのか、それこそがこの映画の最大の謎であり、最大の見どころでもあります。その殺害方法も残酷でえぐいものばかりです。例えば「暴食」の殺人は、肥満体系の男性に対し、「食べ続けなければ殺す」として食料を食べさせ続け、最後には被害者が窒息と食道の破裂をして死亡...という最期を迎えさせるのです。これを思いつくジョン・ドゥは本当に頭がキレていますね。褒めてないですけど。
最終盤でその意図が明かされるのですが、恐らくこの映画を初めて観た人のほとんどは、そのオチにびっくりするはず。
 
彼は最終的に七つの大罪による殺人を"完成"させるのですが......??
ラスト15分。まばたきは禁止です。
 
というわけで、今回は映画セブンをご紹介しました。
この作品は、学術情報センターにて取り扱っているため、いつでも学情で視聴可能です。お時間のある方、または度肝を抜かれるようなラストが観たいという方、おすすめです。是非とも見てほしいと思います。
 
以上、年明けの年越しそばが待ち遠しい、そば粉でした。
 

月チャペの『質問箱』

久しぶりのブログ更新です!

さて、今回は月曜日のチャペルアワーの宣伝をしておきますね。

毎週月曜日12:25~12:50、たいほうコミュニティリンクを会場として「チャペルアワー」を開催しています。
(火曜日と木曜日は、しろとりチャペルが会場となりますのでご注意を!)

月曜日のチャペルアワーも他の曜日と同様、奨励(お話)の時間があるのですが、月曜日の場合は、皆さんから寄せられた"キリスト教"に関する疑問や質問に、キリスト教センターの職員がお答えする「Q&A形式」となります。

「聖書って面白いの?」、「キリスト教って宗教だけど怖くないの?」、
「食べてはいけない物はあるの?」
...といった素朴な疑問から、

「カトリックとプロテスタントって仲良いの?悪いの?」、
「キリスト教って進化論を否定しているんでしょ?」、
「知り合いから教会に誘われて困っています。どうやって断れば良いですか?」など、
キリスト教の信者でも答えに窮するような質問まで、何でもお寄せください!

質問は、下記のサービス『質問箱』で受け付けています(匿名で質問できるので安心してください)。

https://peing.net/ja/kirisen

※質問には、毎週のチャペルアワー(月曜日)の中でお答えしていきます。採用されなかった場合はご了承ください。
※チャペルアワーで扱ってほしくない質問や相談事に関しては、直接、キリスト教センターまでお越しください。

というわけで、皆さんからの質問・疑問、お待ちしています!
あ、そうそう。質問を送るだけじゃなくて、チャペルアワーにもぜひお越しくださいね!笑

2018年度学位記授与式を行いました


皆さんこんにちは。大学院事務室です。

桜が見ごろの季節になりましたね。キリックス丸の内ビルの近くでも、綺麗な桜が咲きはじめました。

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そして3月23日(土)には、2018年度の大学院学位授与式(修了式)が名古屋キャンパスしろとりのチャペルで行われました。

キリスト教主義の大学として、授与式では讃美歌や聖書朗読、オルガン演奏などが行われ、荘厳な雰囲気の中で進められました。

修士及び博士前期課程修了者28名、博士学位取得者1名がアカデミックガウンに身を包み、笑顔で修了式を迎えられました。

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修了式後の大納会では、お世話になった先生方や、ともに学んだ仲間たちと語り合い、アットホームな雰囲気の中で

楽しげなひと時を過ごされていました。

また、通信の修了生は遠方の方も多い中、8名の方にご参加いただきました。

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修了された皆さん、おめでとうございます!

今後の益々のご活躍を期待しています。

大学院事務室にも、ぜひ遊びに来てくださいね。

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