「キリスト教」と一致するもの

まさかのかぶり(伝道師じゃないほうの更新)

さて、今回の更新は伝道師ではないキリスト教センター職員が1年数か月ぶりに担当します。ふりかえってみたら前回の登場は2018年12月27日でした。これから更新を増やしていく予定ですから改めてよろしくお願い申し上げます。

まずは、5月6日までは、大学への立ち入りを避けてください。チャペルも閉館いたします。
不要不急の外出をせず、自分や周囲の人の健康をまもりましょう。
心細くなる時も、神様はいつもどんな時も一人一人と一緒にいて励まし支えてくださると信じています。

さて、本日はキリスト教では聖金曜日、受難日とも呼ばれる日です。
どんな日かという説明は前回の記事を読んでいただくとして、キリスト教には暦にあわせてテーマカラーがあるんですが、受難の季節は紫色です。でもでも今日はその中でも特別な日だから1日限定で赤色なんです。ということで、なんとなく今朝、靴下を選ぶときに、「今日は受難日だからやっぱ赤かなー。」と赤い靴下をはいてきたら、同じこと考えてきた同僚の伝道師とかぶった!!!ので本日のキリスト教センター、靴下赤色コンビです。ちょっと恥ずかしい。

受難週(聖週間)について学ぼう

今週、キリスト教の暦では「受難週」という一週間を過ごしています。

「受難週」(「聖週間」とも呼ばれる)は、イエス・キリストが人々から見捨てられ、苦しみを受け、十字架につけられて殺され、墓に葬られる出来事に思いを向ける期間として過ごされます。

カトリック教会など、聖書日課(日毎に読むべき聖書の箇所が選ばれているもの)を用いる教派・教会では、今週は曜日ごとに以下のような内容が書かれた聖書の箇所が読まれます。イエスがどのような最期を遂げたのか、学んでみてください。


「受難の主日」(「枝の主日」「棕櫚の主日」とも)
※「主日」とは日曜日のことを言います。

イエスは、弟子たちとともに旅を続け、遂に目的地である「エルサレム」に到着した。イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入り、大勢の人々から迎え入れられた。

(参照:マタイによる福音書 21章1~11節)


「受難の月曜日」

エルサレムに近い「ベタニア」という地にやってきたイエス一行は、以前、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロの家に立ち寄った。夕食の際、ラザロの姉妹であるマリアは、イエスの足元に近づき、彼の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪で彼の足をぬぐった。香油は、死者の遺体に塗ることもあり、彼女の行為は、間もなく訪れるイエスの死を暗示しているとされる。

(参照:ヨハネによる福音書 12章1~11節)


「受難の火曜日」

イエスは、弟子たちに対して、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げ、弟子の一人であるイスカリオテのユダがその場から立ち去った。その後、弟子のペトロにも、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言い、彼の裏切りを予告した。

(参照:ヨハネによる福音書 13章21~33、36~38節)


「受難の水曜日」

イスカリオテのユダは、いわゆる「最後の晩餐」の前、イエスに敵意を抱く祭司長たちのもとに行き、イエスの身柄を引き渡す代わりに銀貨三十枚を受け取る約束をした。

(参照:マタイによる福音書 26章14~25節)


「聖木曜日」(「洗足木曜日」とも)

イエスは、弟子たちと食事をしている際、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとった。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めた。イエスは彼らにこう告げた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

(参照:ヨハネによる福音書 13章1~15節)


「聖金曜日」

「最後の晩餐」のあと、イエスは弟子たちと一緒に外にでかけた。すると、イスカリオテのユダとともに武器などを携えた人々が現れ、彼は逮捕されてしまった。イエスは、尋問を受け、いわれのない理由で死刑に処せられることに。弟子たちに見捨てられたイエスは、一人、十字架を背負って「ゴルゴタ」という処刑場へと足を進め、人々に罵られながら、他の二人の犯罪人とともに十字架刑に処せられた。イエスが息を引き取った後、彼の亡骸は、数人の協力者たちによって墓の中に安置されることとなった。

(参照:ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節)


「聖土曜日」(夕刻以降 ※キリスト教の暦では日暮れから新しい一日が始まる)

週の初めの日の明け方に、女性の弟子たちがイエスの墓を見に行くと、墓をふさぐ大きな石が取り去られており、彼女たちは、そこにいた白い長い衣を着た若者からこのような言葉を告げられた。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

(参照:マルコによる福音書 16章1~7節など)


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アンドレア・マンテーニャ 『キリストの磔刑』(1457-59)

チャペルからご挨拶

チャペル入学おめでとう20200402.jpg

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!

どうですか?大学生になった気分は。大人になった実感、ありますか?笑

さて、これから皆さんは、名古屋学院大学の一員として過ごしていくことになるわけですが、この大学が「キリスト教主義」の大学だってコト、皆さんはご存知だったでしょうか。

おそらく、キリスト教主義大学だからという理由で本学を受験した人は少ないと思います。入学してから気付いた人もいるでしょうし、このブログをご覧になって「え!そうだったの!?」とビックリした人もいると思います。

名古屋キャンパスにしても、瀬戸キャンパスにしても、大学の敷地内に入ってまず目に飛び込んでくるのは、「チャペル」という、本学を象徴する建物です。

「チャペル」では、キリスト教の礼拝や、様々な宗教活動が行われています。

え?「宗教」って聞くとなんだか怖い?...そりゃそうですよね!笑

でも、ご安心ください。確かに世の中には"アブナイ宗教"も存在していますが、多くの場合、仏教にしても神道にしてもキリスト教にしても、「宗教」というのは、「いかにして人は生きるべきか」ということを考えさせてくれる、とっても大切なものなんです。

生き方を強制されるわけでもなく、厳しい制限を押し付けられるわけでもない。むしろ、皆さんの人生のための「ヒント」を与えてくれるもの。それが、宗教であり、本学が長年大切にしてきた「キリスト教」なんですね。

本学にある「チャペル」という場所は、皆さんにとって貴重な"居場所"の一つになると思いますし、そこで働く私たち「キリスト教センター」の職員は、大学生としていろんな経験を積んでいくことになる皆さんの"良いサポーター"になりたいと思っています。

大学は、中学校や高校とは違って、人との繋がりを築くのが難しい環境です。その中で、時に孤独を覚えることもあるかもしれません。そんな時は、ためしに「チャペル」に足を運んでみてください。出会いのきっかけがあるかもしれませんよ。

チャペルやキリスト教センターの最新情報は、このブログか、学内にある「キリスト教センター」の掲示板をご確認ください。

掲示板20200402.jpg

卒業生の皆さんに捧ぐ...

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、3月18日に予定されていた「学位記授与式」および21日の「大学院学位記授与式」が中止されることとなりました。卒業される学生の皆さんは、とても残念な思いをされていることと思います。

少しでも、そんな皆さんのことを励ますことができればと思い、本学のチャペルで働くキリスト教の伝道師が、この季節の定番曲、森山直太朗さんの『さくら(独唱)』を本気で歌ってみました。



牧師の格好をしてただ歌っているだけの何の変哲もない動画ですが、ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです。

会場は、名古屋市中区にある「日本ナザレン教団 名古屋教会」さんの礼拝堂を使用させていただきました。JR・地下鉄「鶴舞」駅から徒歩5分のところにある、アットホームな教会です。毎週日曜日の朝10時から礼拝が行われており、また、第2・第4日曜日の16時からは、日本語と英語の2言語で行われる礼拝「インターナショナル・サービス」もあります。
https://nazarenechurchnagoya.wordpress.com/
(名古屋教会さん、ありがとうございます!)

この春に卒業される皆さんの中には、母校が懐かしくなって遊びに来てくださったり、あるいは、「結婚式」を本学のチャペルで挙げられる方々もいらっしゃるかもしれません。もうお会いする機会が無い方も多いと思いますが、ぜひとも、いろんなことを学び様々なことを経験したこの名古屋学院大学でのキャンパスライフを、時々思い起こしながら、これからの人生を歩んでいってください。

皆さんの未来が明るく有意義なものになるように、
そして、皆さん自身が、その未来を切り開いていけるように、
心よりお祈りしております。

 主はあらゆる災いからあなたを守り
 あなたの魂を守ってくださる。
 主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
 今より、とこしえに。(旧約聖書 詩編 121編7~8節)

ご卒業、おめでとうございます!

3・11のメッセージ ~光を照らし、光となりなさい~

また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
(新約聖書 マルコによる福音書 4章21~23節)

新型コロナウィルスによる被害が、昨年11月から世界各地で広がりを見せている中、私たちは今年も「3月11日」を迎えることとなりました。2011年3月11日に、東日本の各地で大きな地震が発生し、それに伴う形で、津波による甚大な被害、また、福島第一原子力発電所の事故の影響による放射能汚染が引き起こされました。あの日から今日で9年が経過することとなります。

東日本大震災の現状について、メディアはこのように伝えています。
「1日現在の警察庁のまとめでは、死者1万5899人、行方不明者2529人。復興庁によると、避難中の体調悪化などが原因の震災関連死は2019年9月30日現在、1都9県で3739人に上る。震災直後は推定47万人いた避難者は、2月10日現在で4万7737人となった。復興のインフラ整備が進み、仮設住宅にいた入居者は最大約31万6000人から約6000人に減少した。一方で高台などに造成した宅地は約1万8000戸、自宅を失った被災者が入居する災害公営住宅(復興住宅)は約3万戸がそれぞれ完成し、住宅再建は進んでいる。だが原発事故の影響で、福島県から県外に避難している人は3万914人に上る。」(毎日新聞

先日、「復興五輪」という言葉を久しぶりに聞きました。今年予定されている「東京オリンピック・パラリンピック」は、東日本の被災地の復興を旗印として掲げて招致したはずだったと思うのですが、オリンピック関連で資材は高騰、人材不足。平和の祭典であるはずのオリンピックのために、東北の復興は大幅に遅れてしまったのではないかと感じます。しばらく、「復興五輪」という言葉を耳にしなかったのは、私の情報収集能力不足のせいでしょうか。そうとは言い切れないかもしれません。

その東京オリンピック・パラリンピックの開催時期が数か月後に迫っている中、私たちの住むこの日本は今、ややもすると、オリンピックの開催を中止あるいは延期しなければならないかもしれないという状況に置かれています。原因は言うまでもなく、新型コロナウィルスの流行です。世界各地で猛威をふるっており、この日本においても、毎日のように死者、重症者についての報道がなされています。症状があらわれていないだけで、隠れて罹患している人は、私たちも含め大勢いるのでしょう。そして、この状況は、インフルエンザのようにしばらくすれば収束するものではなく、半年、一年のように長期間続いていくとも言われています。人々の健康と安全が第一ですから、オリンピックの中止・延期もやむを得ない気もしますが、そうすると、復興五輪、本当に大丈夫なのでしょうか。国が位置付けている「復興・創生期間」が、2021年の3月で終わりを迎えます。その後は新たな方策がたてられるようですが、この度のオリンピック開催に関するイレギュラーな事態を受けて、復興に向けての取り組みにも大幅な変更がなされるのではないかと心配しています。今や多くの人たちが忘れてしまっていることかもしれませんが、「被災地の復興という大きな目標無くして、オリンピックの招致は実現しなかったのだ」ということを、改めて覚えておきたいと思います。

インフラの整備が進められていると聞きます。私は2012年に一度被災地を見て回りました。「何も無い」というのが、当時の私の率直な感想でした。すべて津波で流されてしまっていたのです。今、当時のことを思い起こしつつ、テレビで流れる映像などを見ても、街の様子は大きく変わっていると感じます。被災地には、人々の生活が戻ってきている、部分的にはですが。

私たちに"見えている"のは、ほんの一部にすぎないでしょう。ニュースの映像などを見る限り、街の様子は、回復しつつあるように見えます。しかし、失われたものは二度とかえってこない。それどころか、放射能汚染という、今まで無かった状況がそこにあるせいで、故郷に帰りたくても帰れない人々が大勢います。「アンダーコントロール」という言葉が、むなしく頭の中によみがえります。汚染物を入れた黒い袋(フレコンバッグ)は、未だ、福島県内の仮置き場716カ所に計990万袋あると言われており(東京新聞)、また、福島第一原発の汚染水を貯めているタンクは増え続け、もう敷地内に収めきれない状況で、結局、充分な処理がなされたとは言い難い大量の水が、今後、海に放出されていくことになるだろうとされています。「原子力」「放射能」という"見えない"ものとの闘いは、今後も何十年、何百年と続いていくことになるのでしょう。

ここまで、東日本大震災の現状を、あえて細かく説明してきました。"見えなくされている"状況に、光を当てるためです。震災発生当時は、こちらがわざわざ求めなくても、テレビなどを通じて様々な情報を得ることが出来ました。しかし今や、必要な情報は自ら探し求めないと得られないようになってきています。それは、報道の自由度が低下してきていることも原因の一つかもしれませんが、やはり月日の経過と共に、東日本大震災のことが風化していってしまっているのが、最も大きな理由でしょう。めまぐるしく移り変わるこの時代の中で、未だ、震災の影響によって困難な生活を強いられている方々の姿がある。また、報道されない被災地の実態がある。私たちは、そこに「光を当てる」べきではないかと思うのです。

イエス・キリストは、たとえ話の中で、「灯を持って来るのは、燭台の上に置くためではないか」と言われました。聖書はまた、私たち人間のことを(周囲を明るく照らす)「光」にたとえています。光が無い闇の中では、私たちは何も見えません。陽が差し込まない真っ暗な部屋の中でも、誰かが照明を付けてくれさえすれば、しっかりと見えるようになります。同様に、何も知らなくても、誰かが教えてくれれば、知る者となります。忘れていても、誰かが教えてくれれば、思い出すことができます。そのように、私たちは、「光」の役割を担う、道を指し示す"誰か"であるべきではないか、そう思います。「そういえば、今日は『3・11』だね。」そんな会話を家族や友人と交わすだけでも、世の中を照らす「光」としての役目を十分果たせているんじゃないかと感じます。

今もなお、失意や不安、恐怖を抱えて生活しておられる被災者の方々がおられる。そのことを何よりも覚えておかねばならないと思うのです。本学のキリスト教センターでは、名古屋YWCAという組織とともに、福島に住む子どもたちや保護者の方々を対象にした保養プログラムを実施してきました。今年で最後の開催になります。放射能の影響を心配して、数日だけでも遠くの地で過ごしリフレッシュしたいという思いを持って、皆さん参加されるのですが、本当はもっと「できれば自分もそうしたい(でもできない)」という方々が大勢おられるのだろうと思うと、心が苦しくなります。私たち一人ひとりの力には限界がありますから、ぜひ国をあげて、更なる復興と被災者の方々の生活のサポート、そしてメンタルケアに取り組んでいただきたいと願っています。

この度の新型コロナウィルスの影響は、被災地にも大きな被害をもたらすことになるでしょう。人々の健康についてはもちろんのこと、せっかくこの数年で立て直した会社やお店の閉業・倒産を余儀なくされるところも出てくるかもしれません。これもまた、東日本大震災に関係する"見えない"被害と言えるのではないかと思います。そのような事態に陥らないように、また、少しでもその影響が軽減されるようにと祈るばかりです。

私たちは、見えているようで見えておらず、また、光の中を歩んでいるようで、闇の中をさまよっているかもしれません。その手に「灯」を持ちましょう。見えないもの、見えなくされているものに目を注ぐために。そして、私たち自身、「灯」となりましょう。世を照らすために。周囲の人たちの目に「光」を与えるために。隠れたものを明るみに出すために。復興のための、本物の「聖火」となりましょう。東日本大震災の現状を、見て、聴いて、覚え、語り継ぐ真の「聖火ランナー」になろうではないですか。

10年目を迎える東日本大震災。どうか、被災者の方々に神の平安が豊かにありますように。そして、東日本大震災を経験した「私たち」が、これからも、この国の再興と回復を願い祈り続けることができますように。新型コロナウィルスの問題も合わせ、この国の為政者たちが、正しき知恵と決断力をもって、国民一人ひとりの生活のためになすべき務めを果たしていくことができますように。主イエスの御名によって。アーメン。

聖書が変わる・・・?

実は、ここだけの話...

名古屋キャンパスしろとりチャペルの 『聖書』 が 変 わ り ま す 。

いま備え付け用に置いてある聖書は「新共同訳」と呼ばれているものなのですが(カトリック教会とプロテスタント教会が共同で新しく翻訳したことからこのように名づけられました)、31年ぶりに日本語に翻訳された「聖書協会共同訳」という名称の聖書が発刊されたことを受けて、本学では思い切って、今年の4月から、新しい方の聖書に総入れ替えすることにしたのです(瀬戸キャンパスは未定 ゴメンネ)。

おそらく、日本の数あるキリスト教主義学校の中でも、一番早いんじゃないでしょうか。

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(1枚目の右と2枚目の左が、2020年度以降しろとりチャペルに置かれることになる「聖書協会共同訳」。これまでのものと同じように、名入れしてもらいました。)

聖書という書物は、約2000年のキリスト教の歴史の中で、宣教の働きが拡大していくにつれて、様々な国や地域の言語に翻訳されてきました。日本でも、かの有名な宣教師フランシスコ・ザビエルの時代に、初めて聖書が日本語に訳されて以降、時代ごとに翻訳作業が行われていきました。

言語というのは、時代に合わせて少しずつ変化していくものです。昔は使われていたけど今は全く使われなくなった言葉、たくさんありますよね。そのため、聖書の翻訳されたテクスト自体も、言語の変化に合わせて変わっていく必要があります。また、考古学など学問的に新たな発見がある場合もあります。その時には、どのような訳がふさわしいか、再検討されねばなりません。

現在、チャペルに置かれている聖書「新共同訳」は、1987年に発刊されたもので、1955年以降標準訳として広く使用されてきた日本語訳聖書(口語訳)の後を継ぐ、当時としては言語的にも聖書学的にも最も新しい日本語訳聖書でした。ですが、それももう30年前の話。研究の成果や社会の変化等によって、「この単語は○○を意味する言葉だと思われていたが、実際は△△のことを指す言葉だった」とか、「××という言葉は現代では差別語にあたる」とか、そういう指摘が多くなされるようになりました。そうして今回、新たに「聖書協会共同訳」が誕生することとなったわけです。

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また、今回は時代のニーズに合わせて「ウェブバイブル」なるものが開発され、1月下旬にサービスが開始されました。
https://www.bible.or.jp/webbible/
聖書って分厚くて大きいから、持ち歩くの大変なんですよね。なので、スマホやタブレットで読めるのはとても助かります。

いま流行りの"サブスク(サブスクリプション)"というものでしょうか、聖書本文を読むだけなら、年500円の「ベーシック版」がオススメ。

分からない部分の解説が欲しい、過去の翻訳(新共同訳、口語訳)と照らし合わせて読みたい、という人は、年2,000円の「プレミアム版」もあります。今だと、発売記念価格で1,500円となっています(2020年2月現在)。まぁ、よっぽど興味がある人以外は「ベーシック版」で充分だと思いますね。

聖書の中には、キリスト教徒だけでなく、神への信仰を持っているわけではない人たちの心にも響いてくる、愛のある言葉がたくさん詰まっています。今年の目標の一つとして、ウェブバイブルで読めるところまで聖書を読んでみる、というのも面白いかもしれませんよ。


・・・なお余談ですが、古の時代、神の言葉は「石版(tablet)」に文字を刻み込む形で伝えられていました。まさか、何千年も後の時代に、聖書の言葉が「タブレット」で読まれているとは、誰も想像しなかったでしょうね。

キリ絵 de 大喜利 No.07

「・・・しまった!今日 歯医者 予約してたの、すっかり忘れとった!」

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サンドロ・ボッティチェッリ『書斎の聖アウグスティヌス』(1480)

イタリア・ルネッサンスの巨匠、サンドロ・ボッティチェッリによって描かれた、「ヒッポのアウグスティヌス」の肖像画。
アウグスティヌスは、4~5世紀にかけて生きたキリスト教の指導者で、北アフリカの都市ヒッポで司祭・司教としての務めをなした。『告白』や『神の国』といった、その後のキリスト教思想に大きな影響をもたらす数々の著作を残している。

あけおめりくり

あけましておめでとうございます!
本年もどうぞ皆さん良い年をお過ごしくださいね。

さて、今回のタイトル、「あけおめりくり」って何やねん!ということなんですが、
皆さんご想像の通り、「あけおめ(あけましておめでとうございます)」と「めりくり(メリークリスマス)」の合成語です。

あ~、教会ではそういう言い方が流行ってんだなぁ~。・・・違います。勝手に作りました。

でもちょっと待って。「あけおめ」はまだ分かるけど、「めりくり」って、もう遅くない?だってクリスマスはとっくに終わったし。

No!クリスマスはまだ終わっちゃいねえ!実はクリスマスは「今日まで」なんだぜ!

キリスト教(西方教会)の暦では、1月6日は「公現日」(公現祭/エピファニー)と呼ばれており、異邦の民への救い主の顕現を記念する祝日とされています。キリスト教の発祥元であるユダヤ教においては、メシア(救い主)は、ユダヤ人のために現れると考えられていました。けれども、キリスト教は、救い主であるイエス・キリストはユダヤ人を含むすべての人々のためにお生まれになったと考えたのです。

それを記念するのが、今日、1月6日。なので、教会では12月24日の日没(クリスマス・イヴ)から1月6日までを「クリスマス」の期間として過ごすわけなんですね。というわけで、皆さん、あらためまして「あけおめりくり」~(しつこい)


さてさて、話は変わって、昨年末に行われた「大学クリスマス礼拝」について。

名古屋キャンパスで行われた24日の大学クリスマス礼拝。今年は例年と違い、クリスマス・イヴに開催されるということで、どれぐらいの来場者数があるか未知数だったんですけれども、なんとなんと、例年以上、非常にたくさんの方々が足をお運びくださいました!

その時の様子です↓

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聖歌隊、トーンチャイム隊も一所懸命に練習した成果を発揮してくれて、豊かな賛美の歌声や音楽に満ち溢れた礼拝となりました。


所変わって、25日の瀬戸キャンパスで行われた大学クリスマス礼拝。

こちらは、本学名誉教授の葛井義憲先生が奨励をしてくださり、多くの来場者の方々とともに厳かな雰囲気の中、イエス・キリストのご降誕をお祝いしました。

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礼拝後は、瀬戸メサイア合唱団によるミニコンサート。そして、第64回・NGUチャペルコンサートが開催されました。
ゲストは、ピアニストの水野みかさんと、ヴィオリストの紫藤祥子さんのお二人。
特別な計らいで、当初予定されていなかったクリスマスの賛美歌も織り交ぜてくださり、とても楽しい心温まる時間となりました。

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24日と25日、二日連続となった大学クリスマス礼拝でしたが、とても充実した二日間でした。

今年も世界中で救い主イエス・キリストのご降誕がお祝いされたわけですが、世界にはまだまだ「平和」とは言えない状況が広がっています。私たちの国も例外ではありません。いま一度、イエスが到来された意味と、神さまが私たちに臨んでおられることを考え直しつつ、新しい一年を過ごしていきたいものです。

世界中の人たちに神さまの祝福と恵みがありますように!!

転ばないようにね、子ロバさん

今回は、人物ではなく 動物たち に注目してみたいと思います。

こちら。

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ロバです。・・・ロバだよね? 馬じゃないもんね。はい、ロバです。

イエス・キリストの降誕の場面には、様々な動物たちが登場します。

すでにご紹介した通り、たとえば、「ラクダ」。東方の博士たちは、砂漠地帯を旅してきましたから、彼らの乗ってきたラクダが描かれていました。また、「羊」については、言わずもがな、羊飼いが連れてきたのでした(羊の群れをほったらかしにするわけにはいきませんからね)。

他に、降誕の場面で描かれることが多いのは、「ロバ」と「牛」です。
ただし、このクリッペ(お人形セット)には牛はいません(必ずしもそれらのモチーフを入れなければならないということではなさそうですね。)

キリスト教絵画において、ロバと牛という2頭の動物のモチーフは次のような意味を持っています。

【ロバ】 偶像崇拝の罪を負っている異教徒
【牛】 律法順守という束縛にとらわれているユダヤ人


そして、ロバと牛が見守っている赤ちゃんイエスこそ、彼らに表されている異教徒やユダヤ人たち、つまり非キリスト教徒のことを罪から救うお方なのだ、というわけです。これは、旧約聖書「イザヤ書」1章3節(「牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。」)という言葉の、古代のキリスト教指導者による解釈が基となっているそうです。

クリッペに登場しているロバを見てみると、背中に鞍といくつかの荷物を積んでいますね。このロバは、身重のマリアが乗ってきたのでしょう。妊婦さんが歩いて旅するのは大変でしょうからね。

ロバは更に、イエス・キリストが十字架につけられて殺される前、その舞台となるエルサレムという街に入城したときに乗っていた動物でもあります。そのため、キリスト教絵画の中でロバを見たとき、イエスの十字架と死を想起する人も少なくないだろうと思います。


クリスマスと教会(Christmas and Church)

ローマ教皇(Pope)が来日しましたが、語ったどの言葉も、10億人以上の信者の上に立つ者が発言する重みを感じました。教皇の影響力というものを肌身に感じた瞬間でした。

特に「多くの若者が傷ついている」という言葉には、我々の多くが身に染みたのではないでしょうか。

ちなみに法王ではなく教皇が正式な呼称となった理由は、法王は仏教(Buddhism)で使われる言葉であり、「法」は仏教で言うダルマを意味するからです。

さて僕は昨年のクリスマス、教会に行ったことを思い出しました。

クリスマスといってもすることもとくになく暇だったのですが、ふと思い立って教会に行ってみようと、なにかに導かれるようにふらっと出かけました。うちの近所にけっこう大きな教会があるのですが、ミサ(mass)の時間が遅めで時間があったので別のところはないかと探してみたら、小さめの教会があったことを思いだしたので行ってみるとこっちのほうが早めにやるらしく、はいってみました。礼拝堂は、普通の家よりすこし広いくらいの大きさで、三角屋根で民家のような感じです。中は狭く、明かりも少なく、簡素なつくりで余分なものがありません。そうか、プロテスタント(Protestant)の教会はどこもこういう風なのか。プロテスタントの禁欲的な教えが表れていて、清貧な場というのを感じます。そのあと大きな教会の方に行ってミサに参加したのですが、つまり教会をはしごしたのです(笑)、つくりが対照的で、こちらは豪華絢爛で、立派な建物で敷地も広く、中の礼拝堂がとても広く、建物の中にいくつもの部屋があって天井はとても高く装飾が多い。この建築がカトリック式で、キリスト教の伝統的建築様式なんですよね。行われる儀式も伝統的なやり方のようです。東京ドームで行われた通り、ミサはこっちです。

そのプロテスタント教会(Protestant)での礼拝の方法は、本学で行われているようなものと似たようなもので、クリスマスだからといってそこまで特別なことというか盛大なことはしません。そもそもクリスマスとは、ヨーロッパにおける冬至祭が起源となっている。クリスマスツリーとか、今の世俗化したクリスマスの風習は1950年代アメリカではじまった商業主義的な戦略がきっかけになっているらしい。12月25日冬至の日は、ヨーロッパで夜がもっとも長くなる日なので太陽の復活のための祭りという土着的な復活祭とそれにイエスの復活祭が合わさったものとのこと。

そこでは説教や聖書の朗読が行われ、そのあと聖歌隊による賛美歌が歌われましたがとても力強く、神秘的でした。全体的にはやはり、簡素で、人の数が多い割に静寂さというものを強く感じます。献金もあります。

一方その後に参加した、カトリック(Catholic)でのミサ(mass)では、内容的には説教や朗読、そして音楽といったことは同じなんですが、一つ一つが盛大で長めで、古くからある伝統的な儀式の形式というものを大切にしていることが伝わってきます。ただ敷地内に入った瞬間から、見た目や大きさがまるで違うので、雰囲気は違うし、プロテスタント教会とはちょっと異なる空間なんですよね。大勢の人が集まるので多くの人は中の椅子に座れず、後ろで立ちながらの参加になるくらい。それほどなので中は冬なのに暑い。中の光も、大きな空間を照らすためにとても明るいので暖かな空間という印象が残りました。どちらかというとカトリックの方が世俗的で、どんな人でも入りやすいという印象が残りました。

キリスト教徒じゃなくても参加していいの?という疑問があると思いますが、誰にでも開かれているのですね。そこでは様々な人間、人種や立場や年齢や性別を超えた集まりになっている。


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(カトリック布池教会、ミサ終了後の様子)


日本には昔から、大小多くの神社(Shrine)や寺院(Temple)があちこちにあります。僕は時々いきますが。

そのあいた空間に、こういった大から小までの教会(Church)とかモスク(Mosque)があったりします。実はシナゴーグ(Synagogue)もあります。いろんな宗教(Religion)や宗派の建築物が混在しているのが日本の特徴です。それぞれこんなに違うかと思うほどいろんな違いがありますが、そこにあるのは、人間の知や認識を越えたものへの信仰、そういうものへの祈りのための神聖な空間、というような共通点もあります。

というようにそんな視点でいろんな宗教や宗派を比較してみると面白いです。

図解 世界5大宗教全史

THE FIVE GREAT RELIGIONS OF THE WORLD

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この本は、世界中に広がっているキリスト教(Christianity)、イスラム教(Islam)、仏教(Buddhism)に加えて、ヒンドゥー教(Hinduism)やユダヤ教(Judaism)、そして各地域の土着的な宗教(Animism)まで、仕組みや成り立ちについて解説しています。

世界は思っているよりも、宗教で成り立っていることがわかります。

本学はプロテスタントなのでローマ教皇に関する本はそれほど多くはありませんが

なぜローマ法王は世界を動かせるのか

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や『ローマ教皇庁の歴史』『図説 ローマ・カトリック教会の歴史

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などの歴史本があります。

単にカトリック(Catholic)、正教会(Orthodox Church)、プロテスタント(Protestant)に関する本はたくさんあるので比較しながら学んでみるもの面白いと思います。

それから、クリスマスは教会に行って静寂に過ごすのも良いでしょう。


図書館サポーター あっきー

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