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派遣留学生月例報告書(2016年12月)

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 インドネシアに来て4カ月がたちました。今月は自分にとって人生で忘れられない経験ばかりでした。
 12月7日の朝5時3分にM6の大きな地震がありました。大きな揺れが長く続き目覚めましたが、怖くてベッドから起き上がることができませんでした。ネットで地震の大きさを確認し、佐伯先生と親に連絡を入れました。津波警報は出ておらず、その日はふだんどおり講義もありました。ニュースや友だちからの情報や、日本でもニュースで報道されたという日本からの友だちからの連絡で、この地震の被害を知りました。わたしが住んでいるビルン県マタン・グルンバンドゥアでの大きな被害はありませんでしたが、車で2時間ほどの震源地近くのピディ・ジャヤ県では100名以上の死者がで出たたそうです。
 大学では、地震発生当日から、学生が募金活動をしていました。わたしたちもなにかできないかと思い、12月8日に佐伯先生を通じて2015年スタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらいました。おもにモスク(イスラーム寺院)に多くの人たちが避難していたので、モスクで話を聞きました。モスクの外に張られたテントで、女性と子どもたちが窮屈そうに過ごしていました。男性にはテントもなく、モスクの壁沿いにもたれかかっていました。インドネシアは1年を通じて暑いです。12月は雨季で乾季よりは暑くありませんが、テントや外で過ごすのはたいへんだと思います。イスラームの女性は、ふだんジルバブ(ベール)をかぶっています。テント生活では脱ぐことができず、長い時間かぶっていなければなりません。また、支援物資の受付にはたくさんの物資がありましたが、それが被災者全員にはいきわたっていないようでした。
 ムルドゥ郡クデ・ムルドゥでは、2階建ての長屋式店舗がほぼ全壊しており、捜索・救出作業が続けられていました。移動中にも、多くの家屋が全壊している光景を目の当たりにしました。覚悟はしていましたが、怖くてたまりませんでした。そして同時に、これからわたしたちになにができるのか考えました。ニーズにあった支援をしていきたいという気持ちも強くなりました。
 12月12日には、8日に行ったニーズ調査をもとに支援物資を届けるため、再度「Jari Aceh」に同行させてもらいました。国際協力について勉強していましたが、こうして現在起きていることに対する支援の現場を直接みて、考えて、行動するのははじめてでした。そのため、地震発生からニーズ調査をし、実際に支援を渡すまでのスピードと手順を実際にみることができ、とても勉強になりました。
 名古屋学院大学でも募金活動をおこなうことになりました。活動するために集まってくれた学生のおかげで、8万9162円の寄付が集まりました。わたしは、直接募金活動に参加できませんでしたが、募金活動をするにあたり大切な知識や手順も勉強することができました。わたしは募金活動のチラシを作成しましたが、どうすれば知って欲しいことを明確に伝えることができるのか悩みました。佐伯先生にサポートしてもらいながらでしたが、この経験は自分にとっていい実践の場になりました。大学で集まった寄付で、支援を届けに現地を再度訪問する予定です。
 大学では期末テストがはじまりました。イスラームのテストは難しすぎるということで、特別に受けずに済みました。日本と大きく違うと感じたのは、テスト期間や時間、場所を友だち伝えに知ることです。事前にいつなのかを担当の先生から聞かずにいたので、スピーキングのテストの日が過ぎてしまいました。たまたまスピーキングの先生に会ったとき、その場でいきなりテストを受けることになりました。名古屋学院大学のCCSのありがたみを感じました。
 12月といえばクリスマスですが、ムスリムの多い地域で、クリスマスはありません。はじめてサンタクロースやクリスマスツリーをみずに、クリスマスを過ごしました。そんなクリスマスの25日に、友だちが紹介してくれたので、アチェの伝統的な結婚式の衣装を着させてもらいました。メイクに2時間半もかかり、ドレスや頭や体につけるきらびやかなアクセサリーをつけるのに1時間もかかりました。メイクは信じられないぐらい濃く、つけまつげを2枚も重ねていたので、目が重く、前がはっきりみえませんでした。頭の装飾品は重く、立つのも大変なほどでした。いままでアチェで過ごしたなかで、何度か結婚式に行き、ここでの結婚スタイルはみてきましたが、いざ自分が体験してみるとたいへんすぎて、準備の段階で疲れてしまいました。その後はたくさん写真を撮ってもらいましたが、立っているのもつらく、頭の装飾品のせいで首が痛かったです。よい経験をし、楽しかったですが、本当にたいへんでした。撮影のためだけに着たので短い時間でしたが、いざ本当に結婚式となるとこんなドレスと飾りをつけたまま1日過ごすのかと思うと、花嫁もたいへんなんだなと感じました。日本とはまったく違う文化をより理解できました。
 1月の頭にもテストがあり、その後は2カ月の長期休みにはいります。日本に帰国はせず、佐伯先生がアチェに来るので、先生に同行させてもらい、しっかり自分の目で焼き付け積極的に学びたいです。そろそろ卒業論文についても考えはじめないといけないので、長期休みのあいだや今後の時間のつかいかたを無駄にしないようにしたいと思います。
 2016年は、インドネシアに留学に来て、表現しきれないほどの経験と思い出ができました。2017年は、インドネシア語や支援など、なにごとにも積極的に取り組みたいです。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)
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 2016年12月7日(水)、わたしたちが留学するインドネシア・アチェ州でM6.5の地震が起き、9日(金)の時点で、死者100人、重軽傷724人、避難者2万3231人、家屋倒壊1万1681軒、店舗倒壊129軒の被害が出たと伝えられています。わたしたちは、地震発生翌日の8日(木)、佐伯先生を通じて、2015年スタディツアーでお世話になった地元NGO「Jari Aceh」のヌルジュバさんにお願いして、もっとも被害の深刻なピディ・ジャヤ県での被災者ニーズ調査に同行させてもらいました。

 2016年12月7日朝5時3分にマグニチュード6.5の地震がスマトラ島アチェ州で起きました。わたしがいままで経験したことのない大きな揺れに加え、日本ではなく留学中ということで家族も友だちもいないなかの地震はとてつもなく怖かったです。
 わたしが住んでいるビルン県マタンでの被害はありませんでした。しかし、テレビのニュースや大学の友だちとの話で、震源地近くのピディ・ジャヤ県(マタンから車で2時間ほど)で大きく被害が出ていることを知りました。地震当日には、すでに大学内で募金活動がはじまっていました。わたしも募金しましたが、自分も国際協力を勉強しているなか、募金だけするのではなく、なにか支援できることがないかと考え、佐伯先生を通じて、12月8日、2015年スタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらいました。
 わたしはこの日、はじめて被災地そして国際協力の実践となる現場に足を踏み入れました。マタンから車で少し移動しただけなのに、たくさんの建物が崩れ、瓦礫ばかりの光景。覚悟はしていましたが、驚きを隠せませんでした。Jari Acehのヌルジュバさんとともに、避難民が集まっているモスクを中心に被害状況とニーズの調査をしました。
 食べ物と飲み水には、それほど困っている様子はありませんでした。モスクに水浴び用の清潔な水のタンクが運ばれていましたが、水浴び場自体はありませんでした。モスクの外にテントを張り、そこには女性だけが避難していました。男性はモスクの壁側に座っていました。宗教的な問題かもしれませんが男女別になっており、プライベートも家族の空間もありません。女性は、家の外や知らない男性がいる前では、頭にかぶっているジルバブ(ベール)を脱ぐことができません。暑いなか、モスクの外で、しかも1日中ジルバブを脱げない空間にいるのは窮屈だと思います。
 トゥピン・プラホ村では、家が全壊し、家の前で避難生活を送っている家族に出会いました。まだ生後間もない赤ちゃんが、いくら日陰といっても暑い外につくられたゆりかごで眠っていました。ノートなどの文具、キッチン用品が散乱していました。生活のあとをみて、この先どう支援していくべきなのか、目の前でみているできごとに対し、答えを見つけ出したい、しっかり支援をしたいという気持ちがさらに強くなりました。
 クデ・ムルドゥでは、2階建ての長屋式店舗がほぼ全壊しており、捜索・救出活動がつづけられていました。道中では車が多く行き交う道路の真んなかでお金を集めている子どもたちもいました。そんなかれらのためにもなにができるのか考えました。
 名古屋学院大学で募金活動をおこない、集まったお金で、わたしと同じく留学中である深川(国際協力学科2年)と、Jari Acehの協力のもと、無駄のない、本当にニーズにあった支援活動をしたいです。今回のことは、偶然ではなく運命、アチェで留学している国際文化協力学科生である自分にとって貴重な経験です。国際協力はなにかを勉強している自分にとって、支援活動を実施するのは大きなチャンスだと思っています。
 わたしは、被害の様子やニーズを伝えるとともに、必要な支援を必ずアチェの被災者に届けます。国際協力の実践ははじめてで、まだまだ未熟者ですが、勉強の意味と、いまアチェに住みアチェの人に支えられながら楽しく留学生活を送ってこられたことに対しての恩返しの意味も込め、活動に努めたいと思います。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

 被災地に行って感じたことは、自分の無力さです。いまの僕たちができることはなかった。本当にただみて、被災者の話を聞いて、心を痛めるだけでした。
 場所によって、物資のあるところとないところの差がとても激しいように感じました。インスタントラーメンを料理もせずに食べている被災者もいました。地震の影響で断水して、マンディ(水浴び)できない人もいました。お祈りの前に身体を綺麗にできないことは、ムスリムの人たちにとってとても困ることだと感じました。家が潰れてしまい寝るところがなく、モスクのなかで寝ている被災者がほとんどでした。
 いま必要とされているものは、食べ物、生活水、簡易的なテントなどでした。個別に言うと、メガネが壊れたからメガネが欲しいなど、きりがないほどです。アチェの人びとは、少しのことでもなるべく被災地へ向かい支援していました。僕の友だちも水のタンクを運ぶといって、バイクで担いで2時間かけて行ったそうです。
 今回被災地を訪れ、僕が思っていた支援とは異なっており、正直とても混乱しています。僕は、水や食料を配って炊き出しをしたら、支援は終わりだと簡単に思っていました。しかし、現実は違いました。たくさんの水を持っていったとしても、その地域にすでにたくさんの水があったら、水は必要ないことになります。大切なのは被災者のニーズに応じて支援することです。このためにはたくさんの情報、たくさんのコミュニケーションが必要だと思いました。
 いま支援があれば、生きていくことができるが、1年、2年とどんどん時が過ぎていって、いまの支援でふつうの暮らしに戻ることができるのかも疑問に思いました。仕事を再開して、自立できるようにすることが本当の支援ではないかとも思いました。緊急支援でなく、これから長く支援していくのであれば、支援する側と支援される側の信頼関係も大事です。
 いまの僕には、なにが正解なのかまだわかりませんが、いまできることを全力でしつつ、これから被災地がどのように変化していくか見ていきたいと思い、僕たちだからこそ、できることはないか考えてみました。いま被災地では何が必要とされているか、被災者は何にいちばん困っているか、被災地がどのような状況か知らない人たちに伝え、募金活動をしていくことがいちばんよいことだと思いました。
 募金でカンパが集まったら、2015年スタディツアー、そして今回の被災地訪問でお世話になった「Jari Aceh」とともに僕自身が被災地に行って、被災者のニーズに合わせた支援活動をしていきたいです。(国際協力学科2年・深川開斗)

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派遣留学生月例報告書(2016年11月)

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 インドネシア留学の半分が過ぎ3カ月たちました。
 日本と違い四季がないのでとても違和感を感じています。いまこちらは雨季に入りよく雨が降ります。日本で雨というと1日中降るイメージがありますが、インドネシアの雨は、ゲリラ豪雨に近く、強い雨が一時的に降るという感じです。よくびしょ濡れになって帰ってきて風邪をひいています。
 11月は、インドネシアの文化に触れることがとても多かったです。まず、結婚式です。友達の姉さんが結婚したので招待されました。そこでは新郎新婦がアチェ独特の服装と化粧をしていて、可愛くかっこよかったです。パーティーは、ご飯がバイキングのように出されており、とても賑やかでした。わたしが住んでいる寮の隣の住人が結婚したときは、家が近くの友だちといっしょに、その炊き出しや皿洗いを手伝うなど、現地の人たちと混ざって参加しました。パーティーはとても賑やかで、まったく知らない子たちが参加していたり、隣の学校の子が大勢でみに来てご飯食べていたりと、日本では考えられない結婚パーティーでした。
 もうひとつは、割礼をおこなうときのパーティーにも参加させてもらったことです。割礼とは、まだ小さい男の子たちが性器の皮の一部を切るという行為で、割礼をする子どもがいるとパーティーが開かれます。パーティーでは、アチェ伝統の踊りが披露されたり、お菓子や飲み物が出されたりしており、1日中音楽が流れていて私の寮まで聞こえてきました。日本ではない宗教的なことなので、最近よく割礼しないかと誘われますが、しっかりとお断りしています。
 10月の報告書で書いたフットサルチームの友達とつくったユニフォームが完成しました。サポンサーもついており、かなり本格的なユニフォームだったのでとても嬉しかったです。
 3カ月たち、ご飯にも慣れてきました。ナシ・ゴレン(nasi goreng)という、日本のチャーハンに似た食べものがあって、辛くなくとても食べやすくておいしいです。夜ご飯はいつも友達と食べています。まだ1人だけでご飯を食べることはなく、インドネシア人の優しさがすごく伝わってきます。
 授業は、正直まだ難しいです。留学生だからと言って考慮されることはなく、テストもふつうの生徒と同じように受けています。テスト前には、クラスメイトが率先して教えてくれるので助かってます。異文化理解の授業では、日本の文化について発表しました。そのときたくさんの生徒が日本に行きたいと言ってくれたので、とても嬉しかったです。
 10月に訪れたチョッ・マンボンの水道管工事が終わったので、11月19日に見に行きました。援助された村の人たちは笑顔でいっぱいでした。わたしは、去年のスタディツアーでも、日本の政府開発援助(ODA)による開発事業で土地を収用された人びとの暮らしをみるため、このチョッ・マンボンを訪れました。そこでは、立ち退き後に移転した住民の生活が苦しいままだという現実を目にしました。住人には笑顔がありませんでした。
 しかし、今回わたしがみたチョ・マンボンは、活気に溢れていました。国際協力には、支援する側と支援される側のコミュニケーションがとても大切だということを実感しました。このことはテレビやニュースでは感じることができないことで、とても貴重な経験だったと思います。(国際協力学科2年・深川開斗)

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派遣留学生月例報告書(2016年11月)

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  インドネシアのアチェにきて3か月がたとうとしています。今月は停電がなかった代わりに、1日水が出ない日がありましたが、それ以外はいつもどおりの生活を送っています。そして今月はインドネシア、アチェならではの文化をたくさん経験できました。
 まず1つ目は、結婚式です。友達のお姉さんの結婚式に参加してきました。アチェでは結婚式を家でおこないます。お金に余裕ある人は、先に新郎の家で、後日花嫁の家でも同様な式をおこなうそうです。
 アチェでは、お花のようなもので「結婚おめでとう」と字が書かれた大きな看板が家の前に飾ってあり、結婚式がおこなわれる目印になっています。そして招待状は小さなカードで、場所と時間が書かれてあり、日本と違って出欠席の返事をする必要はありません。ご祝儀または何かプレゼントを持参します。わたしたちは夫婦でつかえるグラスを買いました。新郎新婦と会う順番待ちをしながら、外のオープンスペースでブッフェ形式の食事をいただき、その後家のなかにいる新郎新婦に会うことができました。
 新婦は伝統的なドレスをまとい、頭には3キロもある被り物をかぶっていました。手全体にはヘナタトゥーが描いてあります。とにかく新婦の衣装、メイク、装飾品が派手という印象が強かったです。わたしは名古屋のホテルでアルバイトをしていたので、日本の新郎新婦や、日本の結婚式・披露宴を多くみてきました。日本では白いウェディングドレス、カクテルドレスにお色直し。日本ならではの和装をみてきましたが、インドネシアの衣装やメイクと比べると、かなり控えめに感じます。いままでみてきたなかで一番派手な新婦にアチェで出会うと思わなかったです。挨拶をして、カメラマンに写真を撮ってもらい終わりました。
 日本の披露宴のように決まった人だけが訪れ、2、3時間一緒に食事をしながら写真や余興を楽しむのではなく、知り合いが自由に訪れ、好きなだけ飲み食いができ、自由に帰ることができます。とてもゆるいと感じましたが、ちょっとした違う世界を体験でき勉強になりました。後日「来てくれてありがとうと」いう紙と一緒に小さなキーホルダーをもらいました。日本でいう引き出物のようなものだと思いますが、なぜエッフェル塔のキーホルダーだったのかは謎です。
 2つ目は生まれたての赤ちゃんに会いに行ったことです。日本の親戚でも周りの友だちでも、覚えている限り自分の身近で赤ちゃんが生まれると経験はまだないので、とても嬉しかったです。学校が終わってから、友達の友達の赤ちゃんが今朝生まれたから会いに行こうと誘われ、出産祝いを買って病院に行きました。病院には一つの部屋にカーテンで仕切られた空間がたくさんあり、そのなかに赤ちゃんはいました。この日にすぐ退院するそうです。会えた生まれたばかりの赤ちゃんは、布でグルグル巻きにされ身動きが取れない状態でとても驚きました。子宮のなかにいるのと同じようで安心するのだそうです。窮屈そうで苦しくないのか心配ではありましたが、心地よさそうに寝ていてとても可愛く、終始癒されました。
 3つ目はお葬式です。体験してきた順番にこの報告書を書いていますが、この月だけで出産から人の死について経験するなんて思ってもいなかったです。友達の彼氏のお父さんが亡くなったということだったので、生前会ったこともなく関わりもなかったですが、ついて行きました。病院で亡くなると、そのまま家に一旦連れて帰り、その日のうちに埋葬するそうです。亡くなってから24時間以内に埋葬しなければならないのがイスラームでのルールです。私たちが訪れた時にはすでに埋葬されていたので、家族の方に挨拶をし、女性は家のなか、男性は家の外で故人について話したり聞いたりしていました。
 日本では火葬で葬られますが、イスラム教のアチェでは土葬です。「死」は永久の別れではなく一時的なものであり、アッラー(イスラム教の唯一神)の審判の日に再び蘇ると信じわれているからです。すでに埋葬されていたと書きましたが、埋葬されてから式をこうして家でおこなうのも決まりだそうです。日本では、24時間以内に埋葬してはいけないことが法律で決まっています。そして、お葬式に参列するときには、遺体が目の前にある、式のあとに埋葬するのが仏教だと一般的だと思います。イスラームでは、埋葬する前に、埋葬する場所で礼拝を行います。その礼拝こそが葬儀というそうなので、わたしは正式に葬儀に参加したわけではありません。しかし、その後家でおこなわれた集いで、こういったイスラームでの人の死について、教えてもらい勉強になりました。イスラーム圏に留学していても自分でこういった場所に訪れないとわからない、知らないことばかりだったと思います。自分にとって忘れられない勉強になり、連れてきてくれた友だちに感謝していますが、訪れて楽しい、いい気持ちになる場所ではありません。普段は家族が恋しくなることや、帰りたいと思うことは滅多にありませんが、このときばかりは家族がとてつもなく恋しくなりました。親はまだまだ元気に生きているからと安心し、離れて留学生活を送っていても、自分は甘えん坊かなとこのときは思いました。この経験を通して少しは強くなれたと思いますが、この留学環境にいることを親に感謝し、勉強して親孝行に繋がるように頑張ろうと改めて思えました。
 大学での授業は相変わらず課題が難しく、友達がいないとできないです。普段の日常生活では辞書はもう必要なくなりましたが、授業では今でも手放せない状態です。課題を友達に教えてもらう時単語を調べる時間がもったいないので、事前に書き出し調べてから友達に助けを求めるようにしています。違うクラスの友達に今この課題に苦戦していると見せたら「先生はどうしてインドネシア人でも難しい問題を奈津子に出すの?」と言われました。それは私自身が一番答えを聞きたい質問です。留学生用のクラスがないのはわかっています。留学生を受け入れたのも初めてなので、先生たちもどうしていいかわからないのだと思います。しかし、こんな思いを次来る後輩にして欲しくないと日々思っていますが、きっと自分が留学来る前の勉強不足が理由なのだと自分を責めています。
 英語のスピーキングクラスでは3か月たったいまでも、授業内容が趣味の話だけです。テストも全員おこなわずに特定の学生だけ、次の週は自分だと思って構えていても結局行かずに終わりました。異文化理解の授業では、わたしと一緒に留学している深川(国際協力学科2年)にだけ日本の文化を紹介する課題が出されたので、次の週に自分が発表することになると思い準備しました。しかし、先生も忘れていたのか、2週間後の授業でいきなり発表をさせられました。パワーポイントでプレゼンもつくりましたが、まさかその日にやると思っていなかったため、USBメモリを忘れたので原稿を読むだけで終わりました。
 基本的に授業も日本に比べたら、「ゆるい」印象があります。先生も遅刻するのは当たり前なので、8時から授業ですが8時に寮を出ても余裕で間に合います。時間ルーズな国民性に慣れず、仲よしの友だちと喧嘩してしまいました。ここでの「少し待って」は1時間から多く見て3時間ぐらい待つことを意味します。友だちとは、家を出る時に連絡を入れてもらう、「少し待って」は1時間超えるかもしれないことをわたしが理解して受け入れることを約束しました。慣れたつもりでも、心のどこかで慣れておらず、それがストレスになっていました。うまくストレスを発散する方法がなく、頭痛がひどかったですが、いまはもう自分も待たせていいんだと思えるぐらい自分もインドネシア人に染まってきています。
 12月、日本には冬休みがありますが、ここではないそうです。はじめてクリスマスがない、クリスマスを過ごします。イスラームの新年のお祝いを楽しみにしながら12月を過ごしていきたいです。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

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派遣留学生月例報告書(2016年10月)

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 インドネシア・アチェ州へ留学にきて、あっという間に2カ月たちました。2カ月住んでいると、こちらの環境がとてもよくわかります。最近とても停電が多いです。停電になると、寮の隣の喫茶店でみんなでコーヒーを飲んでおしゃべりをしています。そのため停電はまったく怖くなく、むしろ楽しんでいます。
 いまだに慣れないこともあります。それは、お風呂です。日によって水が出ないときもあるので、いつも桶に水を溜めるようにしています。このようなことは、現地ではふつうのことなので、いつも通っていている喫茶店の人たちに相談すると、笑って「これがアチェだ」と返されます。
 2カ月住んでいると、友だちとも絆ができ、いまでは毎日会う仲間もできました。毎週フットサルを一緒にして、体を動かしながらコミュニケーションをとれるの楽しいです。来月には、メンバーと一緒につくったユニフォームが届くのですごく楽しみにしています。大学の先生対学生でサッカーの試合もしました。
 インドネシア語でコミュニケーションをとることができるようになってきたので、現地の言葉であるアチェ語をみんなが教えくれます。嬉しいことですが、かなり難しいので少しずつ勉強していきたいと思います。いつも行く喫茶店では、日本語と英語とアチェ語をつかっていけないというルールをみんながつくってくれたので、喫茶店にいるだけでインドネシア語の勉強になります。
 大学でも少しずつですが、成長していると感じます。Ecology and Environmentの授業では、水害問題についてどうしたら改善できるかなど、プレゼンテーションをおこないました。プレゼンテーションをしても笑われることが多いですが、インドネシア語でプレゼンテーションをすることになるとは、2カ月前の自分は想像もしていませんでした。まだ授業はとても難しいですが、学校の宿題をみせると、大学の仲間がゆっくり丁寧に教えてくれるので、とても助かっています。
 たまに空きコマを使い、日本語を教えることもあります。学生だけで集まり、空いている教室や学校内の喫茶店でひらがなを教えたりしています。みんな日本語に興味をもっていてとても嬉しかったです。来年の春から名古屋学院大学への留学を目指している学生もいます。
 大学以外では、佐伯先生の力を借りて、国際協力の最前線をみることができました。去年インドネシア・スタディツアーで訪れたチョッ・マンボンという村を再び訪れました。この村は、生活水を十分に得ることができないのが問題となっています。生活用水の水道管を寄付を支援するところに立ち会いました。すべて任せるのではなく、村の人たちができる工事は自分たちでやっていました。テレビなどでは、このような現場はみることができないので、はじめて知ったことも多かったです。ただ、この村の支援の説明を受けても、わからない単語が多く、すべてを理解することはできませんでした。もっと勉強して、専用的な言葉も覚えていきたいと思いました。(国際文化学部国際協力学科2年・深川開斗)

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派遣留学生月例報告書(2016年10月)

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 インドネシアのアチェに来て2カ月がたとうとしています。来たときは食べものが辛すぎで慣れず、下痢ばかりの日々でした。いまは何が辛くない食べ物なのか把握でき、辛くないよう料理を注文もできるようになったので下痢は止まり、健康に過ごしています。
 しかし、10月に入って1週間、昼から夜遅くまでの停電がつづき、9月分の定例書を送るのが遅くなったり、携帯もつかえなくなったり、夜真っ暗ななかお風呂に入ったりと大変な日々でした。日本で停電をそこまで経験したことなかったので、怖いと思うのと同時に、改めて日本はインフラが整っていることを実感しました。電気がつかえてあたりまえではないとわかっていますが、いざ停電が長時間つづくとどうなるのか、生活を通して学びました。
 9月は雨の日を1日しか体験しませんでしたが、10月に雨期に入りました。スコールが多く、雨が降っているときのお風呂(水浴び)はとても寒く、井戸も泥水しか出ません。仕方ないとわかっていても、寒くて泣きそうになることが何回かありました。10年ほどロングヘアだったのですが、アチェに来る前にショートヘアにしました。切ったときは後悔しましたが、アチェでは髪の毛を洗うのもたいへんで、水も清潔といえないので、いまはショートにして正解だと思っています。いつ風邪をひいてもおかしくない状況のなか元気に過ごしているので、ここの環境に徐々に適応してるのだと感じています。
 大学では課題がよく出るようになりました。とくにインドネシア語の授業の課題は、現地の学生ですら難しいと頭を抱えるほどの問題なので、わたしにはさっぱりわかりません。友だちや先生に手伝ってもらい、なんとかこなしています。そのあとは復習も兼ねて、まずわからない単語を調べてまとめています。日常会話は不便なくつかいこなせていますが、授業となると難しい言葉ばかりなのでまだまだインドネシア語と格闘しています。
 イスラームの授業は、10月に入ってからは教室ではなくなりました。毎週モスクでお祈りと先生のお話を聞いています。いつもは半袖ですが、イスラームの授業があるときはモスクに入るため、派手な色ではない長袖の服装で行くよう心がけています。
 10月2日、2015年インドネシア・スタディツアーで訪問したチョッ・マンボンという村を再度訪れました。この村は、日本の政府開発援助(ODA)が供与されたアセアン・アチェ肥料社の建設により、土地収用された5つの村500世帯が移転させられた先です。去年訪問した際、現在どの暮らしているのかなど話を聞いてきました。移転時に準備されたという家を案内してもらいましたが、人が住めるようなところではありませんでした。そして、家には国際移住機関(IOM)がつくった井戸がありましたが、黒く濁った水しか出ない状況であり、水に一番困っていると聞きました。
 今回再訪したのは、佐伯先生の協力のもと、水道が通ると聞いたからです。家の裏にこれから水道管が通る道が掘られていました。まだ水道管は通っておらず、これから埋められる水道管一式を見せてもらいました。一般的な水道菅がどのようなものか、どうやって繋がれていくのかを見たことがないので、今回の水道について評価できませんが、たくさんの水道管と繋ぐ金具がありました。まだ道筋が掘られていただけの状態だったので、まだまだ水道がつかえるまでは時間がかかりそうだと住民が話してくれました。費用を節約するため、自分たちでも作業をしていると聞き驚きました。現在はまだ水が通っていないので、お風呂などはどうしているのか質問してみました。どうやら近く(といっても、バイクで移動)の川まで毎回行くそうです。イスラームの人たちは、1日5回もあるお祈りの前に手足を洗い清めます。お風呂やお祈り、生活すべてにおいて水は欠かせないので、村の人びとは一刻も早く水道が通ることを願っていますが、まだまだ時間がかかると嘆いてたので心配です。水源となる井戸まで遠く、井戸からの水道管を通す道もまだ掘り終わっていませんでした。
 こうした生活をいまでも送っている人たちをみて、去年のスタディツアーで学んできたこと、感じたことを思い出しました。そして自分自身がアチェで生活をはじめてみて、水がふつうに出るだけでもましなのに、水浴びが寒いから泣きそうになっている自分は甘えていると思いました。そして、何も罪のない人たちが故郷の村を失い、困難ななかで過ごしていると考えると、自分はいまインドネシア語を学んでいるだけでいいのか悩みました。去年は佐伯先生がいたので、聞きたいことはすべて通訳してくれましたが、今回はもちろん佐伯先生はいません。聞きたくても聞けないことがありましたし、話している内容もすべて理解できたわけではありません。理解したつもりで、間違った解釈をしているかもしれません。自分に何ができるのか悩むと同時に、まだまだインドネシア語が十分ではないことが悔しくなりました。インドネシア語ができれば、もっと答えが見つかるのではないかと、勉強に対し良い励みへと変わりました。
 この経験を通して、9月に比べて大きく変わったのは、暇さえあれば図書館を利用するようになったことです。利用時間は朝9時から12時30分まで。そしてお昼休みをはさんで、午後は14時から16時か17時ぐらいまでです。日本と違い、時間が短くて驚きましたが、寮の近くにイスラームのボーディングスクール(寄宿学校)があり、結構騒がしいため寮より図書館にいるほうが集中できます。
 11月も雨季が続くそうなので、体調管理には気をつけ、課題も早くひとりでこなせるように努めたいと思います。(外国語学部国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

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派遣留学生月例報告書(2016年9月)

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 インドネシア・アチェ州に留学へ来て1カ月たちました。まず、生活面では、日本との違いを痛いほど感じました。1カ月経っもまだ慣れていません。インドネシアにはイスラームの人がとても多いので、モスクからお祈りを呼びかける放送が流れ、朝5時には目が覚めてしまいます。授業のはじまりも8時からでとても早いです。肌を見せてはいけないので、日本の真夏のような暑さですが、襟付きのシャツと長ズボンを毎日着ています。授業を受けるときは、襟付きのシャツと長ズボンを着用することが大学の規則です。
 寮は、男女それぞれに準備された平屋の家屋2軒です。学校から歩いて10分程度のところにあります。男子寮は、部屋が4つ、リビングが1つ、トイレが2つ、キッチンがあり、4人で住むには十分な広さです。しかし、シャワー、バスタブはありません。トイレの横にある水槽に水を溜めて、その水を浴びて身体を洗います。お湯が出ないので、夜に水を浴びると身体が冷えてお腹を壊してしまうことがありました。そのため、わたしは夕方に水浴びするように心がけています。朝夕2回水浴びをするのがインドネシアの習慣なので、お風呂のことでも文化の違いを感じます。キッチンにも水場はなく、この水槽の水が生活用水になります。
 ご飯は、1食50〜150円です。とても安いですがとても辛いです。寮の近くに、いちばやレストランがたくさんありますが、わたしはだいたい自炊しています。学校には学食がありますが、種類が少なくすぐ飽きてしまいました。
 留学生は、教育学部英語学科の授業を履修しています。それ以外に、他学部の授業も履修できますが、使用される言語はインドネシア語になります。わたしは、11コマの授業を取っていますが、そのうちMacro Economicis, Intoroduction to Information Technology, Ecology and Environment, Intoroduction to Sociology は、辞書を引いてるだけで授業時間が終わってしまいます。しかし、理解できなかったことを先生に伝えると、授業以外の時間を使って一対一で丁寧に教えてもらえるため、先生と学生の距離が近くて楽しく勉強できています。Islamic Study1では、コーラン(Qur'an)の意味を学んだり、イスラームの女性はなぜヒジャブ(ベール)を被るのかなど自分が疑問に思っていたことを学べます。
 わたしは、国際協力にとても興味をもっていたので、大学で国際協力について学びたいと思っていました。去年スタディーツアーに参加し、国際協力がおこなわれている場所に出向きました。そのときは、わたしのなかで国際協力を知るだけではなく行動に移し、自分にできることをしたいという思いが芽生えました。しかし、いまの自分にはできることがとても限られていました。国際協力をしたいならまず、現地の人たちと同じ環境に立ち、何に苦しんでいるのか、何が必要としているか、たくさん勉強しなくてはならないことがわかりました。そう思っていたときに、大学でインドネシアへの留学制度が新しくでき、スキルアップし国際協力ができる力をつけたいと思いこの留学を決意しました。
 インドネシアに留学する前は、楽しみと不安な気持ちが半分半分でした。授業にも生活にもだんだん慣れていくと思っていました。しかし、日本とインドネシアの違いの多さ、とくに宗教が違うとこれほど大きく生活が違ってくるとは思っていませんでした。
 先進国と発展途上国の違いも感じています。日本は先進国であり、基本的なインフラ(電気、ガス、水道など)が整っています。しかし、インドネシアの地方であるアチェ州では、そうではありません。
 この1カ月、大学でも、日常生活でも、さまざまな経験をしました。この経験はテレビや新聞では、ぜったいに知ることができないことばかりでした。現地へ来て、住んでる人たちと直接関わることができて、本当によい経験になっています。まだあと5カ月あるので、時間を無駄にすることなく過ごしたいと思います。(国際文化学部国際協力学科2年・深川開斗)

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派遣留学生月例報告書(2016年9月)

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 インドネシア・アチェに来て1カ月がたちました。わたしがアルムスリム大学に留学を決めるきっかけとなった2015年のスタディツアーの際に訪問したときとは違い、現地で生活するとなると文化の違いを毎日身に染みて感じています。
 寮は平屋の一軒家で、個室が4部屋とキッチン(水場はない)、リビング、バスルーム1つある大きな家にひとりで住んでいます。バスルームといってもシャワーはなく、蛇口から出る水を貯めて桶ですくい、浴びるといったスタイルです。食事はおコメを買っているので自炊していますが、屋台や学食で食べても1食50円から100円で買うことができます。生活用品も日本の3分の1で買うことができ、物価はとても安いです。近くにコンビニといった24時間営業のお店はありませんが、いちばや屋台のある通りまでは歩いて5分で行くことができ、不便ではありません。大学までは寮から歩いて10分ですが、毎日真夏並みに暑いので、たった10分の道のりが大変です。電車はなく、住んでいる人たちの交通手段は基本的にオートバイク、行き帰りに友だちに会うと後ろに乗せてくれます。
 留学前にアルムスリム大学から授業の一覧がきており、先に希望を提出して欲しいということだったので、6月の時点で自分が取りたい授業を選び提出していました。アルムスリム大学では、わたしちがはじめての留学生受入れです。留学生だけの授業はないので、わたしは教育学部英語学科の学生と同じ授業を受けています。英語学科のクラスといっても、先生はインドネシア人で英語は訛りがあり、正直聞きとりづらいです。
 授業は毎朝8時からはじまります。イスラームの地域なので、朝5時にお祈りをしてから来るからでしょうか、朝早くても元気です。そして1教科の平均時間は2時間30分です。日本で1時間30分の授業が長く感じていた自分にとって、さらに1時間も長いのはいまだに慣れていないです。わたしは毎日1つの授業しかありません。Speaking for Everyday Communication, Cross Culture Understanding, Bahasa Indonesia, Basic English Grammar, Islamic Studyの5つです。英語で授業ですが、基本インドネシア語なので苦戦しています。先生やクラスメイトは優しく、ゆっくりインドネシア語で話し、わたしに合わせて授業を進めてくれています。インドネシア語検定E級に無事合格してからインドネシアに来ましたが、最初のほうはぜんぜん会話にならずにいました。授業がはじまってからは、インドネシア語を実践的につかう時間ばかりで、片言ですが簡単な会話や日常生活での買い物も苦労しない程度になりました。いまのところは、英語よりインドネシア語の力が伸びていると自分では思います。
 インドネシアに留学、とくにイスラームの信仰が強く、イスラームが認められている場所での留学ということなので、理解を深めようという気持ちでIslamic Studyというイスラームの授業を選択しました。5つのなかでいちばん難しく、毎週苦戦しています。先生は英語ができないので、クラスメイトが隣に座って簡単に訳してくれます。イスラームに興味を持ってくれて嬉しいと、先生も優しく丁寧に接してくれます。大学内に礼拝用の大きなモスクがあるので、たまに教室を出てモスクで集まって礼拝に参加したり、お話を聞いたりという授業の時間があります。アラビア語がわからないのでコーランが読めず、心が折れそうなときばかりですが、日本では絶対に体験できないような授業を受けているので毎日が新鮮です。
 大学でも、街を歩いても、外国人はわたしと一緒に来た深川開斗だけです。とくにムスリムの女性はみんなジルバブをしているので、していないわたしが目立つのでしょう。とても見られます。しかしそれは冷たい視線ではなく、アチェの人たちは暖かく受け入れてくれています。最初の1、2週間はどこ歩いても写真攻めにあい、男女問わずたくさん連絡先を聞かれメッセージが来ました。そのおかげですぐに近所や大学、街で優しくしてくれるたくさんの友だちやお兄さんお姉さんのような存在の人ができました。今月21歳の誕生日を迎えましたが、大学でお世話になっているスタッフの方やできた友だちにサプライズでお祝いしてもらい、はじめて過ごす海外での誕生日は忘れられない1日となりました。
 この1カ月のあいだに1回体調を崩し、吐いてしまい病院に行きました。疲れがたまらないよう、慣れたこれからも体調管理に気をつけながら過ごしたいと思います。10月に入り、これから佐伯奈津子先生の紹介のもと、スタディツアーで訪問した村に再度訪問する予定です。語学だけでなく、アチェでもう一度国際協力についても勉強がしたいという思いから、わたしはアルムスリム大学を選びました。その初心を忘れず、積極的に強を進めていきたいと思っています。(外国語学部国際文化協力学科3年・水谷奈津子)
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