「キリスト教 聖書」と一致するもの

奨励動画 第5回「人生は空しい...か?」

今週のチャペルアワーの奨励(礼拝説教)の動画配信のご案内です。
第5回は、「人生は空しい...か?」というタイトルで、増田喜治先生(リハビリテーション学部教授)が奨励をご担当くださいました。



・5月26日(火)13時~
 奨励者:増田喜治先生(リハビリテーション学部教授)
 奨励題:「人生は空しい...か?」
 聖 書:旧約聖書 コヘレトの言葉 1章1~2節、4章9・12節、12章13~14節

一応補足しておきますと、このハイクオリティな動画編集はキリスト教センターの職員が行なったものではありません!増田先生がお知り合いに依頼されて編集してもらったそうです(笑)
映像技術はもちろんのこと、増田先生のお話からも"パッション"が伝わってくる映像になっています。

チャペルに集ってはいなくても、ぜひ心穏やかに神さまに心を向けつつご視聴ください。
なお、次回以降の配信スケジュールは以下の通りです。

・6月2日(火)13時~
 奨励者:黒柳志仁先生(国際文化学部准教授)

・6月9日(火)13時~
 奨励者:髙見伊三男先生(スポーツ健康学部教授)

乃木坂46新曲『世界中の隣人よ』のキリスト教的考察

乃木坂46ファン必見!?伝道師による前代未聞の「乃木坂46×キリスト教」のコラムです。

2020年5月25日、乃木坂46の新曲『世界中の隣人よ』(作詞:秋元康/作曲・編曲:taka)のミュージックビデオが公開されました。新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、自分たちに何かできることはないだろうかというメンバー自身からの問いを受けて制作された曲だそうで、自粛を続けることの大切さや、医療現場などで日々必死に頑張っておられる方々への応援などがこの曲には込められています。MVは、それぞれのメンバーの自宅などでリモートで撮影した映像が使用されており、メンバーたちもまた一人の当事者として自粛を続けている様子がうかがえます。


ところで、僕自身は別に乃木坂46というグループの熱烈なファンというわけではないし、彼女たちの活動を常日頃から見守っているわけでもありません。なんなら、「乃木坂46の曲のタイトルを一つ挙げてください」と言われたら、僕はこの「世界中の隣人よ」だけしか答えられません。では、どうして今回、この曲に着目したのか。それは、この曲のタイトルの中にある「隣人(りんじん)」という言葉が気になったからです。

「隣人」、この言葉はキリスト教の重要なキーワードの一つです。キリスト教の祖である「イエス」という人物はかつて、人々に次のような教えを説きました。「隣人を自分のように愛しなさい」(新約聖書 マタイによる福音書 22章39節ほか)。これは、元々は旧約聖書のレビ記19章18節に書かれている言葉で、イエスはそれを「最も重要な掟の一つ」として引用したのです。

隣人という言葉は普通、「となり近所に住む人」というような意味でしか使われません。「アパートの隣人から騒音に関する苦情がきた」とかですね(例えが悪くてすみません...)。まぁだからこそ、僕はこの曲のタイトルを見たときに「おっ」と思ったわけです。ちなみに、作詞を手掛けた秋元康氏がキリスト教の信者であるなどということは聞いたことがありません。でも、様々な分野に精通しておられる秋元氏ほどの人物であれば、「隣人愛」という言葉も、またその言葉が実は聖書に由来しているということも、きっとご存知なのではないかと想像します。

「隣人愛」という言葉自体はこの曲には使われていませんが、以下のようなフレーズがあります。

  隣人よ そこにいて あなたの想いは伝わっているから
  手を握らなくても そのは分かち合えるよ

アイドルグループの歌う楽曲にありがちなキーワードとして「愛」という言葉が挙げられるかと思いますが、この曲の中で歌われている「愛」は、他の曲に見られるような「性愛」を意味するものではありません。見やすいようにボールドで強調しておきましたが、上の2行の歌詞を囲い込むようにして「隣人」と「愛」という言葉が配置されているのがお分かりいただけるでしょうか。「性愛」ではなく、またただの「となり近所に住む人」への愛でもなく、「自分以外の他者」「世界中のあらゆる人」への愛、つまり「隣人愛」について歌われていることが、巧みに構成されたこの2行の歌詞には暗に示されているのだと読み取れるわけです。

もう一つ、気になった歌詞がありました。

  隣人よ 微笑んで 私と一緒に歌ってください
  壁の向こう側に この声は聴こえていますか?
  お互いに一人じゃないとわかって...

この中に「壁(の向こう側)」という言葉が出てきます。「壁」というと、僕はある聖書の言葉を思い出します。「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、」(新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章14節)。イエス・キリストは、異なる誰かと誰かの間に存在する「隔ての壁」を取り壊し、和解と一致、そして平和を実現してくださるお方である...。イエスが人々に教えた「隣人愛」を実践することで、自分と他者との間には「平和」が生まれる。そのように信じています。

ただ、今回この曲を聴いて思ったのは、「壁は絶対に取り壊さなければならないものなのか?」ということです。人間が他者との間に「壁」を作るのは、自分を守るためであり、自分の中に踏み込んでほしくない領域があるからです。それは、たとえば家族であっても同じで、「隠し事はしてはいけない」などと言って、親が子どものプライバシーを侵害するようなことがあってはいけません。夫婦でも、家族同士でも、親友同士でも、お互いの間に取り壊してはいけない「壁」が存在するのです。

もしかすると、隣人愛というのは、「壁の向こう側の誰かへの愛」というように表現できるものなのかもしれません。キリスト教においては、他者との間にある壁を乗り越えたり壊したりして実践するような愛が「隣人愛」であると聴くことがありますし、僕自身もそう思ってきたのですが、「隣人よ 微笑んで 私と一緒に歌ってください/壁の向こう側に この声は聴こえていますか?/お互いに一人じゃないとわかって...」という歌詞を聴いたとき、必ずしもそうじゃないのかもしれないという思いに至りました。壁の向こう側にいたとしても、それが誰か分からないとしても、その人のことを覚え、祈ることができるならば、それこそ本当の「隣人愛」なのではないでしょうか。

新型コロナウイルス感染症の影響下においては、支え合いの精神、他者への愛、つまり「隣人愛」が不可欠です。自分勝手な行動によって、知らぬうちに、誰かを苦しめてしまうようなことがあってはならないからです。
乃木坂46のメンバーの思いが、この曲を通じて多くの人の心に届けられますように。そして「隣人」を自分のように大切にする愛が世界中に広がり、この危機を皆で乗り越えていけますように。

今だからこそ読んでみたい聖書箇所 その5(最終回)

ただの普通のクリスチャンの私がここ読みやすそうじゃないかしら?と勝手に選んでみた企画その5(最終回)です。
前回までは旧約聖書ばかりでしたが、最終回は新約聖書からおすすめしたいと思います。なんといってもキリスト教がキリスト教なのはこの新約聖書の部分があるからですから!新約聖書のなかにはイエス・キリストの伝記ともいえる福音書があります。4種類あって(一つにまとめたらいいのにというツッコミはなしで)全部おすすめですが今回のおすすめはマルコによる福音書です。

おすすめポイント1
キリスト教はイエス・キリストの生涯を知らないとまったくわけわからないので、ここを避けては通れない!ということで。
もちろん有名なエピソードや言葉が満載ですから、楽しく読んでいけますよ。

おすすめポイント2
4種類ある福音書の中で一番あっさりしているというか、シンプルにまとまっています。つまりちょっとだけ短いということ・・・。

クリスマスの話(イエスの誕生エピソード)が載っていないのでこれだけだとちょっと物足りないかも・・・という気持ちもなくはないぐらいシンプルです。その点ではルカによる福音書もありかなー、やっぱり福音書、1つ読んだら他の3つも読みくらべてみてください。という結論(?)が出たところで、今回のシリーズを終えたいと思います。

おうち時間に聖書を読むのはいかがですか?ただの普通のクリスチャンの私がここ読みやすそうじゃないかしら?と勝手に選んでみた企画その4です。
今回はやっぱり有名エピソードてんこ盛りの創世記(そうせいき)です。聖書の最初の書物、やはりここはおさえておきたい書物です。おすすめの中ではちょっと長めの86ページですが、そうはいっても100ページないのでまだまだいけますよね!

おすすめポイント1
超有名エピソードが満載!
ちょっとあげてみると・・・エデンの園、アダムとエバ、カインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔、ソドムとゴモラ・・・どれか一つでも目にしたり耳にしたことはありませんか?美術、文学、映画、色々な形で影響しているものが多いのですが、それだけ作品になる面白さをもっているってことですよ!

おすすめポイント2
1つ1つのエピソードが短い!
だいたいどれも1~3ページほどの長さなので、細切れの時間でも読めます。たまに系図(〇〇の妻は△△で・・・というやる)がズラズラと書いてある部分もありますが真面目に全部読んで途中で心折れるぐらいなら、ざっと面倒なところはスキップしてしまいましょう。

おすすめポイント3
やっぱり聖書の最初ですから、読んでおくとキリスト教の「起承転結」の「起」の部分(後々大きく転結がくる)ともいえる書物。ここを読んでおけば、後半部分の理解度もかわってくる、はずです。

さて次回でひとまずこのシリーズは最終回ということで、次回もお楽しみに!

ただの普通のクリスチャンの私がここ読みやすそうじゃないかしら?と勝手に選んでみた企画その3です。

前回は中二病の心をザワつかせること間違いなしのコヘレトの言葉をご紹介したわけですが、今回はコヘレトの言葉と同じように、ソロモンという聡明で有名な王が書いた風の愛の詩、雅歌(がか)をご紹介していきます。

おすすめポイント1
愛の詩と紹介しましたが、本当に最初から最後まで愛の詩です。これってキリスト教の聖典だよね?っと確認したくなるほど神という言葉が1つも出てこない書物なので、神って言われてもね・・・となる方でも読みやすいのではないかと・・・。

おすすめポイント2
こんなラブソング聞いたことがないぐらい甘い、甘くて甘くて甘ーい、愛のポエムです。読んでいるだけでちょっと赤面しそうなほどの詩。現実世界で出会うことのない甘い世界にひたれます。コヘレトの言葉を読んで世知辛い気分になった時に読むと、落差にびっくりします。いやー本当に同一人物が書いていたらと思うと・・・

おすすめポイント3
11ページほどと短い。(毎回おすすめポイントで書いているような・・・)
甘さがクセになったころに終わるため中毒性もあるかも?

そんなわけでおうち時間に聖書、おすすめです!

ただの普通のクリスチャンの私がここ読みやすそうじゃないかしら?と勝手に選んでみた企画その2でございます。

今回は中二病の心をザワつかせること間違いなし、コヘレトの言葉です。
コヘレトの言葉は、ソロモンという聡明で有名な王が書いた風の言葉・・・詩のような格言のような知恵文学といわれる書です。

おすすめポイント1
なんと言っても、タイトルにあるように、中二病の心をザワつかせること間違いなしの言葉が満載。全体に流れる「むなしさ」が斜め上だか下だかを向きがちな気持ちをくすぐります。

おすすめポイント2
まあまあ短い。
16ページほど。
普通の単行本ぐらいたくさんあの文書が続いたら、ちょっと途中で胸焼けしそうですが、たった16ページなので何度も読んでコヘレトの言葉の世界観に浸るにもちょうど良い長さ。

おすすめポイント3
1の時に「むなしさ」を強調しましたが、よくよく何度も読むうちに・・・いや、ここからは私が書くのは野暮ってものなのでやめておきましょう。

けっこうな数のキリスト教主義学校のモットーだとかにもなっている有名な聖句もある名言集、ぜひ一回読んでみてくださいね。

受難週(聖週間)について学ぼう

今週、キリスト教の暦では「受難週」という一週間を過ごしています。

「受難週」(「聖週間」とも呼ばれる)は、イエス・キリストが人々から見捨てられ、苦しみを受け、十字架につけられて殺され、墓に葬られる出来事に思いを向ける期間として過ごされます。

カトリック教会など、聖書日課(日毎に読むべき聖書の箇所が選ばれているもの)を用いる教派・教会では、今週は曜日ごとに以下のような内容が書かれた聖書の箇所が読まれます。イエスがどのような最期を遂げたのか、学んでみてください。


「受難の主日」(「枝の主日」「棕櫚の主日」とも)
※「主日」とは日曜日のことを言います。

イエスは、弟子たちとともに旅を続け、遂に目的地である「エルサレム」に到着した。イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入り、大勢の人々から迎え入れられた。

(参照:マタイによる福音書 21章1~11節)


「受難の月曜日」

エルサレムに近い「ベタニア」という地にやってきたイエス一行は、以前、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロの家に立ち寄った。夕食の際、ラザロの姉妹であるマリアは、イエスの足元に近づき、彼の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪で彼の足をぬぐった。香油は、死者の遺体に塗ることもあり、彼女の行為は、間もなく訪れるイエスの死を暗示しているとされる。

(参照:ヨハネによる福音書 12章1~11節)


「受難の火曜日」

イエスは、弟子たちに対して、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げ、弟子の一人であるイスカリオテのユダがその場から立ち去った。その後、弟子のペトロにも、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言い、彼の裏切りを予告した。

(参照:ヨハネによる福音書 13章21~33、36~38節)


「受難の水曜日」

イスカリオテのユダは、いわゆる「最後の晩餐」の前、イエスに敵意を抱く祭司長たちのもとに行き、イエスの身柄を引き渡す代わりに銀貨三十枚を受け取る約束をした。

(参照:マタイによる福音書 26章14~25節)


「聖木曜日」(「洗足木曜日」とも)

イエスは、弟子たちと食事をしている際、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとった。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めた。イエスは彼らにこう告げた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

(参照:ヨハネによる福音書 13章1~15節)


「聖金曜日」

「最後の晩餐」のあと、イエスは弟子たちと一緒に外にでかけた。すると、イスカリオテのユダとともに武器などを携えた人々が現れ、彼は逮捕されてしまった。イエスは、尋問を受け、いわれのない理由で死刑に処せられることに。弟子たちに見捨てられたイエスは、一人、十字架を背負って「ゴルゴタ」という処刑場へと足を進め、人々に罵られながら、他の二人の犯罪人とともに十字架刑に処せられた。イエスが息を引き取った後、彼の亡骸は、数人の協力者たちによって墓の中に安置されることとなった。

(参照:ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節)


「聖土曜日」(夕刻以降 ※キリスト教の暦では日暮れから新しい一日が始まる)

週の初めの日の明け方に、女性の弟子たちがイエスの墓を見に行くと、墓をふさぐ大きな石が取り去られており、彼女たちは、そこにいた白い長い衣を着た若者からこのような言葉を告げられた。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

(参照:マルコによる福音書 16章1~7節など)


The_Crucifixion.jpg

アンドレア・マンテーニャ 『キリストの磔刑』(1457-59)

卒業生の皆さんに捧ぐ...

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、3月18日に予定されていた「学位記授与式」および21日の「大学院学位記授与式」が中止されることとなりました。卒業される学生の皆さんは、とても残念な思いをされていることと思います。

少しでも、そんな皆さんのことを励ますことができればと思い、本学のチャペルで働くキリスト教の伝道師が、この季節の定番曲、森山直太朗さんの『さくら(独唱)』を本気で歌ってみました。



牧師の格好をしてただ歌っているだけの何の変哲もない動画ですが、ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです。

会場は、名古屋市中区にある「日本ナザレン教団 名古屋教会」さんの礼拝堂を使用させていただきました。JR・地下鉄「鶴舞」駅から徒歩5分のところにある、アットホームな教会です。毎週日曜日の朝10時から礼拝が行われており、また、第2・第4日曜日の16時からは、日本語と英語の2言語で行われる礼拝「インターナショナル・サービス」もあります。
https://nazarenechurchnagoya.wordpress.com/
(名古屋教会さん、ありがとうございます!)

この春に卒業される皆さんの中には、母校が懐かしくなって遊びに来てくださったり、あるいは、「結婚式」を本学のチャペルで挙げられる方々もいらっしゃるかもしれません。もうお会いする機会が無い方も多いと思いますが、ぜひとも、いろんなことを学び様々なことを経験したこの名古屋学院大学でのキャンパスライフを、時々思い起こしながら、これからの人生を歩んでいってください。

皆さんの未来が明るく有意義なものになるように、
そして、皆さん自身が、その未来を切り開いていけるように、
心よりお祈りしております。

 主はあらゆる災いからあなたを守り
 あなたの魂を守ってくださる。
 主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
 今より、とこしえに。(旧約聖書 詩編 121編7~8節)

ご卒業、おめでとうございます!

3・11のメッセージ ~光を照らし、光となりなさい~

また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
(新約聖書 マルコによる福音書 4章21~23節)

新型コロナウィルスによる被害が、昨年11月から世界各地で広がりを見せている中、私たちは今年も「3月11日」を迎えることとなりました。2011年3月11日に、東日本の各地で大きな地震が発生し、それに伴う形で、津波による甚大な被害、また、福島第一原子力発電所の事故の影響による放射能汚染が引き起こされました。あの日から今日で9年が経過することとなります。

東日本大震災の現状について、メディアはこのように伝えています。
「1日現在の警察庁のまとめでは、死者1万5899人、行方不明者2529人。復興庁によると、避難中の体調悪化などが原因の震災関連死は2019年9月30日現在、1都9県で3739人に上る。震災直後は推定47万人いた避難者は、2月10日現在で4万7737人となった。復興のインフラ整備が進み、仮設住宅にいた入居者は最大約31万6000人から約6000人に減少した。一方で高台などに造成した宅地は約1万8000戸、自宅を失った被災者が入居する災害公営住宅(復興住宅)は約3万戸がそれぞれ完成し、住宅再建は進んでいる。だが原発事故の影響で、福島県から県外に避難している人は3万914人に上る。」(毎日新聞

先日、「復興五輪」という言葉を久しぶりに聞きました。今年予定されている「東京オリンピック・パラリンピック」は、東日本の被災地の復興を旗印として掲げて招致したはずだったと思うのですが、オリンピック関連で資材は高騰、人材不足。平和の祭典であるはずのオリンピックのために、東北の復興は大幅に遅れてしまったのではないかと感じます。しばらく、「復興五輪」という言葉を耳にしなかったのは、私の情報収集能力不足のせいでしょうか。そうとは言い切れないかもしれません。

その東京オリンピック・パラリンピックの開催時期が数か月後に迫っている中、私たちの住むこの日本は今、ややもすると、オリンピックの開催を中止あるいは延期しなければならないかもしれないという状況に置かれています。原因は言うまでもなく、新型コロナウィルスの流行です。世界各地で猛威をふるっており、この日本においても、毎日のように死者、重症者についての報道がなされています。症状があらわれていないだけで、隠れて罹患している人は、私たちも含め大勢いるのでしょう。そして、この状況は、インフルエンザのようにしばらくすれば収束するものではなく、半年、一年のように長期間続いていくとも言われています。人々の健康と安全が第一ですから、オリンピックの中止・延期もやむを得ない気もしますが、そうすると、復興五輪、本当に大丈夫なのでしょうか。国が位置付けている「復興・創生期間」が、2021年の3月で終わりを迎えます。その後は新たな方策がたてられるようですが、この度のオリンピック開催に関するイレギュラーな事態を受けて、復興に向けての取り組みにも大幅な変更がなされるのではないかと心配しています。今や多くの人たちが忘れてしまっていることかもしれませんが、「被災地の復興という大きな目標無くして、オリンピックの招致は実現しなかったのだ」ということを、改めて覚えておきたいと思います。

インフラの整備が進められていると聞きます。私は2012年に一度被災地を見て回りました。「何も無い」というのが、当時の私の率直な感想でした。すべて津波で流されてしまっていたのです。今、当時のことを思い起こしつつ、テレビで流れる映像などを見ても、街の様子は大きく変わっていると感じます。被災地には、人々の生活が戻ってきている、部分的にはですが。

私たちに"見えている"のは、ほんの一部にすぎないでしょう。ニュースの映像などを見る限り、街の様子は、回復しつつあるように見えます。しかし、失われたものは二度とかえってこない。それどころか、放射能汚染という、今まで無かった状況がそこにあるせいで、故郷に帰りたくても帰れない人々が大勢います。「アンダーコントロール」という言葉が、むなしく頭の中によみがえります。汚染物を入れた黒い袋(フレコンバッグ)は、未だ、福島県内の仮置き場716カ所に計990万袋あると言われており(東京新聞)、また、福島第一原発の汚染水を貯めているタンクは増え続け、もう敷地内に収めきれない状況で、結局、充分な処理がなされたとは言い難い大量の水が、今後、海に放出されていくことになるだろうとされています。「原子力」「放射能」という"見えない"ものとの闘いは、今後も何十年、何百年と続いていくことになるのでしょう。

ここまで、東日本大震災の現状を、あえて細かく説明してきました。"見えなくされている"状況に、光を当てるためです。震災発生当時は、こちらがわざわざ求めなくても、テレビなどを通じて様々な情報を得ることが出来ました。しかし今や、必要な情報は自ら探し求めないと得られないようになってきています。それは、報道の自由度が低下してきていることも原因の一つかもしれませんが、やはり月日の経過と共に、東日本大震災のことが風化していってしまっているのが、最も大きな理由でしょう。めまぐるしく移り変わるこの時代の中で、未だ、震災の影響によって困難な生活を強いられている方々の姿がある。また、報道されない被災地の実態がある。私たちは、そこに「光を当てる」べきではないかと思うのです。

イエス・キリストは、たとえ話の中で、「灯を持って来るのは、燭台の上に置くためではないか」と言われました。聖書はまた、私たち人間のことを(周囲を明るく照らす)「光」にたとえています。光が無い闇の中では、私たちは何も見えません。陽が差し込まない真っ暗な部屋の中でも、誰かが照明を付けてくれさえすれば、しっかりと見えるようになります。同様に、何も知らなくても、誰かが教えてくれれば、知る者となります。忘れていても、誰かが教えてくれれば、思い出すことができます。そのように、私たちは、「光」の役割を担う、道を指し示す"誰か"であるべきではないか、そう思います。「そういえば、今日は『3・11』だね。」そんな会話を家族や友人と交わすだけでも、世の中を照らす「光」としての役目を十分果たせているんじゃないかと感じます。

今もなお、失意や不安、恐怖を抱えて生活しておられる被災者の方々がおられる。そのことを何よりも覚えておかねばならないと思うのです。本学のキリスト教センターでは、名古屋YWCAという組織とともに、福島に住む子どもたちや保護者の方々を対象にした保養プログラムを実施してきました。今年で最後の開催になります。放射能の影響を心配して、数日だけでも遠くの地で過ごしリフレッシュしたいという思いを持って、皆さん参加されるのですが、本当はもっと「できれば自分もそうしたい(でもできない)」という方々が大勢おられるのだろうと思うと、心が苦しくなります。私たち一人ひとりの力には限界がありますから、ぜひ国をあげて、更なる復興と被災者の方々の生活のサポート、そしてメンタルケアに取り組んでいただきたいと願っています。

この度の新型コロナウィルスの影響は、被災地にも大きな被害をもたらすことになるでしょう。人々の健康についてはもちろんのこと、せっかくこの数年で立て直した会社やお店の閉業・倒産を余儀なくされるところも出てくるかもしれません。これもまた、東日本大震災に関係する"見えない"被害と言えるのではないかと思います。そのような事態に陥らないように、また、少しでもその影響が軽減されるようにと祈るばかりです。

私たちは、見えているようで見えておらず、また、光の中を歩んでいるようで、闇の中をさまよっているかもしれません。その手に「灯」を持ちましょう。見えないもの、見えなくされているものに目を注ぐために。そして、私たち自身、「灯」となりましょう。世を照らすために。周囲の人たちの目に「光」を与えるために。隠れたものを明るみに出すために。復興のための、本物の「聖火」となりましょう。東日本大震災の現状を、見て、聴いて、覚え、語り継ぐ真の「聖火ランナー」になろうではないですか。

10年目を迎える東日本大震災。どうか、被災者の方々に神の平安が豊かにありますように。そして、東日本大震災を経験した「私たち」が、これからも、この国の再興と回復を願い祈り続けることができますように。新型コロナウィルスの問題も合わせ、この国の為政者たちが、正しき知恵と決断力をもって、国民一人ひとりの生活のためになすべき務めを果たしていくことができますように。主イエスの御名によって。アーメン。

聖書が変わる・・・?

実は、ここだけの話...

名古屋キャンパスしろとりチャペルの 『聖書』 が 変 わ り ま す 。

いま備え付け用に置いてある聖書は「新共同訳」と呼ばれているものなのですが(カトリック教会とプロテスタント教会が共同で新しく翻訳したことからこのように名づけられました)、31年ぶりに日本語に翻訳された「聖書協会共同訳」という名称の聖書が発刊されたことを受けて、本学では思い切って、今年の4月から、新しい方の聖書に総入れ替えすることにしたのです(瀬戸キャンパスは未定 ゴメンネ)。

おそらく、日本の数あるキリスト教主義学校の中でも、一番早いんじゃないでしょうか。

聖書協会共同訳01.jpg 聖書協会共同訳02.jpg

(1枚目の右と2枚目の左が、2020年度以降しろとりチャペルに置かれることになる「聖書協会共同訳」。これまでのものと同じように、名入れしてもらいました。)

聖書という書物は、約2000年のキリスト教の歴史の中で、宣教の働きが拡大していくにつれて、様々な国や地域の言語に翻訳されてきました。日本でも、かの有名な宣教師フランシスコ・ザビエルの時代に、初めて聖書が日本語に訳されて以降、時代ごとに翻訳作業が行われていきました。

言語というのは、時代に合わせて少しずつ変化していくものです。昔は使われていたけど今は全く使われなくなった言葉、たくさんありますよね。そのため、聖書の翻訳されたテクスト自体も、言語の変化に合わせて変わっていく必要があります。また、考古学など学問的に新たな発見がある場合もあります。その時には、どのような訳がふさわしいか、再検討されねばなりません。

現在、チャペルに置かれている聖書「新共同訳」は、1987年に発刊されたもので、1955年以降標準訳として広く使用されてきた日本語訳聖書(口語訳)の後を継ぐ、当時としては言語的にも聖書学的にも最も新しい日本語訳聖書でした。ですが、それももう30年前の話。研究の成果や社会の変化等によって、「この単語は○○を意味する言葉だと思われていたが、実際は△△のことを指す言葉だった」とか、「××という言葉は現代では差別語にあたる」とか、そういう指摘が多くなされるようになりました。そうして今回、新たに「聖書協会共同訳」が誕生することとなったわけです。

キャプチャ聖書協会共同訳.JPG

また、今回は時代のニーズに合わせて「ウェブバイブル」なるものが開発され、1月下旬にサービスが開始されました。
https://www.bible.or.jp/webbible/
聖書って分厚くて大きいから、持ち歩くの大変なんですよね。なので、スマホやタブレットで読めるのはとても助かります。

いま流行りの"サブスク(サブスクリプション)"というものでしょうか、聖書本文を読むだけなら、年500円の「ベーシック版」がオススメ。

分からない部分の解説が欲しい、過去の翻訳(新共同訳、口語訳)と照らし合わせて読みたい、という人は、年2,000円の「プレミアム版」もあります。今だと、発売記念価格で1,500円となっています(2020年2月現在)。まぁ、よっぽど興味がある人以外は「ベーシック版」で充分だと思いますね。

聖書の中には、キリスト教徒だけでなく、神への信仰を持っているわけではない人たちの心にも響いてくる、愛のある言葉がたくさん詰まっています。今年の目標の一つとして、ウェブバイブルで読めるところまで聖書を読んでみる、というのも面白いかもしれませんよ。


・・・なお余談ですが、古の時代、神の言葉は「石版(tablet)」に文字を刻み込む形で伝えられていました。まさか、何千年も後の時代に、聖書の言葉が「タブレット」で読まれているとは、誰も想像しなかったでしょうね。

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