2016年アチェ地震支援の最近のブログ記事

復興に向かうアチェ被災地

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 1月12日、名古屋学院大学で募金活動をして集めた約9万円で支援物資を購入し、ピディ・ジャヤ県に届けに行きました。前回に引き続き、今回も支援は小さな子どものためのものでした。
 地震から1カ月たっていたので、村々はかなり回復していました。前回行ったときは、ほとんどの人がまだモスクなどに集まり、炊き出し、寝泊まりもしていましたが、今回はモスク周りにあったテントはなくなり、みな家に帰ることができていました。
 トゥリンガデン郡メスジッド村では、子ども35人分の生活用品を配りました。ほかの支援団体も来て、子どもたちに手の洗い方を教えていました。日本のJICA(国際協力機構)も援助していました。地震発生直後に、JICAからテント6張りと食料品を援助してもらったそうです。いまでは、テントは3張りしかつかわれていなかったです。また、援助は一度だけだったそうです。JICAの支援は全体として大きいですが、この村だけでみると、わたしたちが同行させてもらった小さな団体のほうが、こまめに現地へ行き、ニーズ調査をして、ニーズに合わせて活動しているように感じました。
 ムルドゥ郡ポロ村には、20人分の支援物資を届けました。村の人たちは、前回の訪問時に集まっていた場所にはいなくなっており、テントもすべて撤去されていました。学校のようなところに支援物資を届けにいくと、被災者がテレビを観てくつろいでいました。これほどにまで回復しているのだと思い、とても嬉しかったです。
 今回の活動で感じたのは、直接現地へ行くことの大切さです。直接行かないと、必要なニーズに合わせて支援ができません。僕はもうすぐ留学を終えて帰国するので、今回で直接支援することは最後になります。移動などたいへんでしたが、今回、たくさんの人たちの笑顔をみられて安心しました。一生忘れることができない体験になりました。
 大学で募金活動をがんばってくれた友人たちにも感謝しています。(国際協力学科2年・深川開斗)

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自分を見つめなおした支援活動

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 2016年12月7日に起きたピディ・ジャヤ地震から1カ月たった2017年1月13日、アチェのNGO「Jari Aceh」に同行させてもらい再度被災地を訪問した。前回(2016年12月12日)支援できなかったトゥリガデン郡メスジッド村、ムルドゥ郡ポロ村に届けた。Jari Acehが、現在のニーズを確認したうえで、前回と同じように赤ちゃんとその母親である女性のための支援(紙おむつ、生理用品、歯ブラシ、石鹸、赤ちゃん用のミルク、洗剤やお菓子を、1人ずつ受け取れるよう袋に入れたもの)を準備した。
 3週間ぶりに訪れた現地は、復興に向けて進んでいた。全壊してた建物はきれいに撤去され、更地になっていた。全壊していたモスク(イスラーム寺院)も、瓦礫が取り除かれていた。全壊はしておらず、多くの人が集まり避難所となっていたモスクの外にあったテントもなくなっていた。みな家に帰り、新しい生活に向けて進んでいると思うと少し安心した。
 メスジッド村では、たくさんの子どもたちがいた。ちょうど、正しい手洗いの方法の指導中だった。ここには、日本政府が送ったJICA(国際協力機構)の名前が入ったテントが4つほど張られていた。ほかにも食料などの支援をもらったそうだが、地震が起きてしばらくしてから届いたとのことだった。ここでは支援を35袋届けた。村を離れる際、子どもたちが嬉しそうに手を振りながら「ありがとう」と言ってくれた。
 ポロ村は、前回、一番最後に訪問した村だ。前回の報告書にも書いたが、まったく支援が届いておらず、帰りに直接なにか支援はないのかと話しかけられた印象深い場所だ。20袋の支援を届けた。会ったのは数人の母親だったが、とても喜んでくれた。
 今回は、名古屋学院大学での募金活動で集まった約9万円分の支援物資を届けた。自分は直接募金活動に参加できないかわりに、募金活動のチラシづくりをしたり、現状をみなに知ってもらったり、現地で直接支援を届けたり、アチェにいてできることをしようと、活動に取り組んだ。
 国際協力について学んできたが、まさか留学中に自分がこの大地震を経験し、こうしたかたちで国際協力の現場に立ち会い、実際支援活動に参加するとは想像してもいなかった。募金活動についても知らないことばかりだった。どうしたらスムーズに、被災者のニーズにあう支援を届けることができるのか。現地でのニーズ調査の重要性も実感した。
 Jari Acehに同行させてもらい、インドネシア語を勉強していても、聞きたいことを聞けず、伝えたいことを伝えられないこともわかった。しかし、自信をなくしたわけではなく、もっと勉強しなければ、いや勉強したいという気持ちにつながった。ただ語学を学ぶだけでなく、こうして現場で勉強できたことは忘れられないよい経験になった。
 Jari Acehのみなさん、佐伯先生、募金活動をおこなってくれた学生、募金をしてくれたすべての人に感謝します。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

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 インドネシア・アチェ州のアルムスリム大学に留学中の水谷奈津子さん(国際文化協力学科3年)、深川開斗さん(国際協力学科2年)の呼びかけに、両学科の学生1〜3年生約30人が応え、12月14日から名古屋学院大学白鳥学舎にて、アチェ地震被災者支援の募金活動がおこなわれています。朝1限前には曙館正面玄関前、昼休みには曙館1Fカフェテリア前で、学生たちがそれぞれの思いを訴えています。

 今回募金活動に参加して自分が感じたことは、金額よりも募金をしてくれる人たちの気持ちが嬉しいということです。自分は去年のスタディーツアーでアチェを訪問し、紛争や津波の被害に遭った人びとと実際に会ってきました。アチェの人たちは本当に優しくわたしたちに接してくれました。そして今回アチェで地震が起き、アチェの被災者の力になりたいと、募金活動に参加しました。アチェに馴染みのない人たちが募金をしてくれるのはとても嬉しいです。今回代表を任されているので、できることを精一杯全力でやっていきたいと思います。(国際協力学科2年・神納和希)

 わたしにとって、今回のインドネシア地震被災地への募金活動が、はじめて国際協力をしたと言える活動でした。学部柄、国際協力の活動について学ぶことや現地で活動を見学することはありますが、実際に活動をおこなうということはありませんでした。しかし今回の活動は学生が主体でおこなっており、自分も多く活動に参加することができました。そしてこの活動を通して国際協力の重要性、必要性を更に強く感じることができ、とてもよい経験をすることができました。わたしたちの活動が少しでも被災地の方がたの力になることができれば幸いです。(国際協力学科2年・山本良介) 

 はじめて募金活動に参加しました。寄付を集めるということが、こんなにも大変なことだということを感じました。(国際協力学科2年・加藤大輝)

 今回の募金活動が、わたしにとってはじめての募金活動でしたが、みんなが協力してくれるのはすごく嬉しいと思いました。(国際協力学科2年・葉政廷)

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真の国際協力にむけての第一歩

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 2016年12月7日に地震が起き、8日にニーズ調査した結果、急いで支援が必要とされている場所に支援物資を届けるため、12日「Jari Aceh」のヌルジュバさんに再度同行させてもらい現地を訪れた。
 おむつ・ベビーウェア・靴下・下着・手袋・ユーカリ油・ベビーパウダー・ミルク・生理用品・石鹸・歯ブラシ・歯磨き粉・ビスケットなどがそれぞれ入った1セットの袋を子どもがいる母親に支援した。
 ムルドゥ郡トゥピン・プラホ村ではニーズ調査でも訪れた、避難所ではなく倒壊した家の庭で生活している家族を再度訪問し支援物資を届けた。被災者は、水と電気は大丈夫だと言っていた。前に訪れた際、外につくられたゆりかごで寝ていた赤ちゃんは、家族が寝るスペースのみの簡易な家にいた。日本みたいに仮設住宅を待つのではなく、自分たちで家をつくっていた。倒壊した家は屋根が取り除かれ大きなベッドがみえ、洋服や生活用品を瓦礫のなかから探していた。近くの小さな避難所には急きょ購入したインスタント麺40袋入り2箱とお水2箱と母親への支援セットを渡した。
 トゥリンガデン郡ムチャット・パンワ村とダヤ・パンワ村では、とくに子どもの数が多かった。順番に母親の名前を呼び、支援物資を手渡した。すごく嬉しそうに受け取ってくれたが、外での避難生活のせいか、体調が悪い子どもがたくさんいた。冷えピタをはって泣いている子どももいた。ダヤ・パンワ村で支援物資を渡したあと、ある1人の女性に自分にはないのかと聞かれた。その女性は妊娠中で、もう臨月も近そうなお腹をしていた。ヌルジュバさんと離れたとこで、わたしに求めてきたのですぐヌルジュバさんに聞いてみたが、今回はその女性の分はなかった。子どもと母親の支援はすごく大切だと思う。しかし、妊婦からしてみれば被災しているなか、これから出産、そして子育て生活は不安が大きすぎると思う。自分は出産をまだ経験したことがないが、環境がよくても大変だと思う。被災者の妊婦は、いまだけでなく、これからも大変だろう。わたしには、なにが支援できるだろうか。最近出産を終えたばかりの友人(日本人)がいる。日本人の目線でも妊娠中の辛さや気持ちは同じだと思うので、妊娠中なにが大変だったのか聞いてみようと思う。そこからヒントや答えを出したい。
 最後にムルドゥ郡ポロ村を訪れた。前回ニーズ調査の際訪問はしなかったが、その後に支援が届いてないという情報があったそうだ。母親への支援セットは3つ渡した。訪れた時、夕方だったせいなのか、少しほかとは違い離れている村だからなのか。いままで訪問してきた場所より、集まっている人は少なかったが、やはり子ども連れた母親は多い。帰る際、車に乗り込もうとすると、ちょうど避難所にやってきた女性たちに直接「なにかないですか?助けはない?」と聞かれた。いままでいくつか避難所を訪問し、なにも支援をもたずニーズ調査したときですら、このようにストレートに助けを求められることはなかった。情報どおり、本当に支援がない状態なのだと感じた。なにもなかったので、子どもに食べかけのお菓子の袋をあげると喜んで食べていた。インスタント麺を調理せず、そのまま食べている姿もあった。この村では母親と子どもだけじゃなく、すべてにおいて支援が行き届いていなかった。
 1日をかけ、支援を届けるのに同行させてもらい直接支援を手渡しすることができ、とてもよい経験ができたが、まだまだ支援が必要な部分もみた。とくに妊娠している人になにができるのかは課題だった。名古屋学院大学ではじまった募金活動で集まったカンパでなにを買えば支援につながるのか、改めて考えることができた。
 今回の支援物資はすべてヌルジュバさんたちが購入から1つずつ袋に分け、すぐ渡せれるように準備をしてくれていた。わたしたちは、それを運び、渡すお手伝いをしただけなのに、被災者はとても喜んでくれ、両手で手を握りしめ、おでこにつけて離してくれなかった。こちらも嬉しくなり感きわまって泣きそうになってしまった。自分にとって、まだまだこれからが本番。今日同行してもっとも勉強になったのは、ヌルジュバさんたちの支援の手順だ。ニーズ調査や支援物資購入において、被災者にあった支援をしていた。無駄な時間もなかった。より一層やる気ともう一度この人たちの笑顔のためにも頑張りたいと思える1日だった。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

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アチェ地震被災者支援のポスター

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(国際協力学科2年・深川開斗)

アチェ地震被災者支援のチラシ

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(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)
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 2016年12月7日(水)、わたしたちが留学するインドネシア・アチェ州でM6.5の地震が起き、9日(金)の時点で、死者100人、重軽傷724人、避難者2万3231人、家屋倒壊1万1681軒、店舗倒壊129軒の被害が出たと伝えられています。わたしたちは、地震発生翌日の8日(木)、佐伯先生を通じて、2015年スタディツアーでお世話になった地元NGO「Jari Aceh」のヌルジュバさんにお願いして、もっとも被害の深刻なピディ・ジャヤ県での被災者ニーズ調査に同行させてもらいました。

 2016年12月7日朝5時3分にマグニチュード6.5の地震がスマトラ島アチェ州で起きました。わたしがいままで経験したことのない大きな揺れに加え、日本ではなく留学中ということで家族も友だちもいないなかの地震はとてつもなく怖かったです。
 わたしが住んでいるビルン県マタンでの被害はありませんでした。しかし、テレビのニュースや大学の友だちとの話で、震源地近くのピディ・ジャヤ県(マタンから車で2時間ほど)で大きく被害が出ていることを知りました。地震当日には、すでに大学内で募金活動がはじまっていました。わたしも募金しましたが、自分も国際協力を勉強しているなか、募金だけするのではなく、なにか支援できることがないかと考え、佐伯先生を通じて、12月8日、2015年スタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらいました。
 わたしはこの日、はじめて被災地そして国際協力の実践となる現場に足を踏み入れました。マタンから車で少し移動しただけなのに、たくさんの建物が崩れ、瓦礫ばかりの光景。覚悟はしていましたが、驚きを隠せませんでした。Jari Acehのヌルジュバさんとともに、避難民が集まっているモスクを中心に被害状況とニーズの調査をしました。
 食べ物と飲み水には、それほど困っている様子はありませんでした。モスクに水浴び用の清潔な水のタンクが運ばれていましたが、水浴び場自体はありませんでした。モスクの外にテントを張り、そこには女性だけが避難していました。男性はモスクの壁側に座っていました。宗教的な問題かもしれませんが男女別になっており、プライベートも家族の空間もありません。女性は、家の外や知らない男性がいる前では、頭にかぶっているジルバブ(ベール)を脱ぐことができません。暑いなか、モスクの外で、しかも1日中ジルバブを脱げない空間にいるのは窮屈だと思います。
 トゥピン・プラホ村では、家が全壊し、家の前で避難生活を送っている家族に出会いました。まだ生後間もない赤ちゃんが、いくら日陰といっても暑い外につくられたゆりかごで眠っていました。ノートなどの文具、キッチン用品が散乱していました。生活のあとをみて、この先どう支援していくべきなのか、目の前でみているできごとに対し、答えを見つけ出したい、しっかり支援をしたいという気持ちがさらに強くなりました。
 クデ・ムルドゥでは、2階建ての長屋式店舗がほぼ全壊しており、捜索・救出活動がつづけられていました。道中では車が多く行き交う道路の真んなかでお金を集めている子どもたちもいました。そんなかれらのためにもなにができるのか考えました。
 名古屋学院大学で募金活動をおこない、集まったお金で、わたしと同じく留学中である深川(国際協力学科2年)と、Jari Acehの協力のもと、無駄のない、本当にニーズにあった支援活動をしたいです。今回のことは、偶然ではなく運命、アチェで留学している国際文化協力学科生である自分にとって貴重な経験です。国際協力はなにかを勉強している自分にとって、支援活動を実施するのは大きなチャンスだと思っています。
 わたしは、被害の様子やニーズを伝えるとともに、必要な支援を必ずアチェの被災者に届けます。国際協力の実践ははじめてで、まだまだ未熟者ですが、勉強の意味と、いまアチェに住みアチェの人に支えられながら楽しく留学生活を送ってこられたことに対しての恩返しの意味も込め、活動に努めたいと思います。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

 被災地に行って感じたことは、自分の無力さです。いまの僕たちができることはなかった。本当にただみて、被災者の話を聞いて、心を痛めるだけでした。
 場所によって、物資のあるところとないところの差がとても激しいように感じました。インスタントラーメンを料理もせずに食べている被災者もいました。地震の影響で断水して、マンディ(水浴び)できない人もいました。お祈りの前に身体を綺麗にできないことは、ムスリムの人たちにとってとても困ることだと感じました。家が潰れてしまい寝るところがなく、モスクのなかで寝ている被災者がほとんどでした。
 いま必要とされているものは、食べ物、生活水、簡易的なテントなどでした。個別に言うと、メガネが壊れたからメガネが欲しいなど、きりがないほどです。アチェの人びとは、少しのことでもなるべく被災地へ向かい支援していました。僕の友だちも水のタンクを運ぶといって、バイクで担いで2時間かけて行ったそうです。
 今回被災地を訪れ、僕が思っていた支援とは異なっており、正直とても混乱しています。僕は、水や食料を配って炊き出しをしたら、支援は終わりだと簡単に思っていました。しかし、現実は違いました。たくさんの水を持っていったとしても、その地域にすでにたくさんの水があったら、水は必要ないことになります。大切なのは被災者のニーズに応じて支援することです。このためにはたくさんの情報、たくさんのコミュニケーションが必要だと思いました。
 いま支援があれば、生きていくことができるが、1年、2年とどんどん時が過ぎていって、いまの支援でふつうの暮らしに戻ることができるのかも疑問に思いました。仕事を再開して、自立できるようにすることが本当の支援ではないかとも思いました。緊急支援でなく、これから長く支援していくのであれば、支援する側と支援される側の信頼関係も大事です。
 いまの僕には、なにが正解なのかまだわかりませんが、いまできることを全力でしつつ、これから被災地がどのように変化していくか見ていきたいと思い、僕たちだからこそ、できることはないか考えてみました。いま被災地では何が必要とされているか、被災者は何にいちばん困っているか、被災地がどのような状況か知らない人たちに伝え、募金活動をしていくことがいちばんよいことだと思いました。
 募金でカンパが集まったら、2015年スタディツアー、そして今回の被災地訪問でお世話になった「Jari Aceh」とともに僕自身が被災地に行って、被災者のニーズに合わせた支援活動をしていきたいです。(国際協力学科2年・深川開斗)

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