December 2016アーカイブ

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 インドネシア・アチェ州のアルムスリム大学に留学中の水谷奈津子さん(国際文化協力学科3年)、深川開斗さん(国際協力学科2年)の呼びかけに、両学科の学生1〜3年生約30人が応え、12月14日から名古屋学院大学白鳥学舎にて、アチェ地震被災者支援の募金活動がおこなわれています。朝1限前には曙館正面玄関前、昼休みには曙館1Fカフェテリア前で、学生たちがそれぞれの思いを訴えています。

 今回募金活動に参加して自分が感じたことは、金額よりも募金をしてくれる人たちの気持ちが嬉しいということです。自分は去年のスタディーツアーでアチェを訪問し、紛争や津波の被害に遭った人びとと実際に会ってきました。アチェの人たちは本当に優しくわたしたちに接してくれました。そして今回アチェで地震が起き、アチェの被災者の力になりたいと、募金活動に参加しました。アチェに馴染みのない人たちが募金をしてくれるのはとても嬉しいです。今回代表を任されているので、できることを精一杯全力でやっていきたいと思います。(国際協力学科2年・神納和希)

 わたしにとって、今回のインドネシア地震被災地への募金活動が、はじめて国際協力をしたと言える活動でした。学部柄、国際協力の活動について学ぶことや現地で活動を見学することはありますが、実際に活動をおこなうということはありませんでした。しかし今回の活動は学生が主体でおこなっており、自分も多く活動に参加することができました。そしてこの活動を通して国際協力の重要性、必要性を更に強く感じることができ、とてもよい経験をすることができました。わたしたちの活動が少しでも被災地の方がたの力になることができれば幸いです。(国際協力学科2年・山本良介) 

 はじめて募金活動に参加しました。寄付を集めるということが、こんなにも大変なことだということを感じました。(国際協力学科2年・加藤大輝)

 今回の募金活動が、わたしにとってはじめての募金活動でしたが、みんなが協力してくれるのはすごく嬉しいと思いました。(国際協力学科2年・葉政廷)

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真の国際協力にむけての第一歩

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 2016年12月7日に地震が起き、8日にニーズ調査した結果、急いで支援が必要とされている場所に支援物資を届けるため、12日「Jari Aceh」のヌルジュバさんに再度同行させてもらい現地を訪れた。
 おむつ・ベビーウェア・靴下・下着・手袋・ユーカリ油・ベビーパウダー・ミルク・生理用品・石鹸・歯ブラシ・歯磨き粉・ビスケットなどがそれぞれ入った1セットの袋を子どもがいる母親に支援した。
 ムルドゥ郡トゥピン・プラホ村ではニーズ調査でも訪れた、避難所ではなく倒壊した家の庭で生活している家族を再度訪問し支援物資を届けた。被災者は、水と電気は大丈夫だと言っていた。前に訪れた際、外につくられたゆりかごで寝ていた赤ちゃんは、家族が寝るスペースのみの簡易な家にいた。日本みたいに仮設住宅を待つのではなく、自分たちで家をつくっていた。倒壊した家は屋根が取り除かれ大きなベッドがみえ、洋服や生活用品を瓦礫のなかから探していた。近くの小さな避難所には急きょ購入したインスタント麺40袋入り2箱とお水2箱と母親への支援セットを渡した。
 トゥリンガデン郡ムチャット・パンワ村とダヤ・パンワ村では、とくに子どもの数が多かった。順番に母親の名前を呼び、支援物資を手渡した。すごく嬉しそうに受け取ってくれたが、外での避難生活のせいか、体調が悪い子どもがたくさんいた。冷えピタをはって泣いている子どももいた。ダヤ・パンワ村で支援物資を渡したあと、ある1人の女性に自分にはないのかと聞かれた。その女性は妊娠中で、もう臨月も近そうなお腹をしていた。ヌルジュバさんと離れたとこで、わたしに求めてきたのですぐヌルジュバさんに聞いてみたが、今回はその女性の分はなかった。子どもと母親の支援はすごく大切だと思う。しかし、妊婦からしてみれば被災しているなか、これから出産、そして子育て生活は不安が大きすぎると思う。自分は出産をまだ経験したことがないが、環境がよくても大変だと思う。被災者の妊婦は、いまだけでなく、これからも大変だろう。わたしには、なにが支援できるだろうか。最近出産を終えたばかりの友人(日本人)がいる。日本人の目線でも妊娠中の辛さや気持ちは同じだと思うので、妊娠中なにが大変だったのか聞いてみようと思う。そこからヒントや答えを出したい。
 最後にムルドゥ郡ポロ村を訪れた。前回ニーズ調査の際訪問はしなかったが、その後に支援が届いてないという情報があったそうだ。母親への支援セットは3つ渡した。訪れた時、夕方だったせいなのか、少しほかとは違い離れている村だからなのか。いままで訪問してきた場所より、集まっている人は少なかったが、やはり子ども連れた母親は多い。帰る際、車に乗り込もうとすると、ちょうど避難所にやってきた女性たちに直接「なにかないですか?助けはない?」と聞かれた。いままでいくつか避難所を訪問し、なにも支援をもたずニーズ調査したときですら、このようにストレートに助けを求められることはなかった。情報どおり、本当に支援がない状態なのだと感じた。なにもなかったので、子どもに食べかけのお菓子の袋をあげると喜んで食べていた。インスタント麺を調理せず、そのまま食べている姿もあった。この村では母親と子どもだけじゃなく、すべてにおいて支援が行き届いていなかった。
 1日をかけ、支援を届けるのに同行させてもらい直接支援を手渡しすることができ、とてもよい経験ができたが、まだまだ支援が必要な部分もみた。とくに妊娠している人になにができるのかは課題だった。名古屋学院大学ではじまった募金活動で集まったカンパでなにを買えば支援につながるのか、改めて考えることができた。
 今回の支援物資はすべてヌルジュバさんたちが購入から1つずつ袋に分け、すぐ渡せれるように準備をしてくれていた。わたしたちは、それを運び、渡すお手伝いをしただけなのに、被災者はとても喜んでくれ、両手で手を握りしめ、おでこにつけて離してくれなかった。こちらも嬉しくなり感きわまって泣きそうになってしまった。自分にとって、まだまだこれからが本番。今日同行してもっとも勉強になったのは、ヌルジュバさんたちの支援の手順だ。ニーズ調査や支援物資購入において、被災者にあった支援をしていた。無駄な時間もなかった。より一層やる気ともう一度この人たちの笑顔のためにも頑張りたいと思える1日だった。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

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アチェ地震被災者支援のポスター

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(国際協力学科2年・深川開斗)

アチェ地震被災者支援のチラシ

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(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)
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 2016年12月7日(水)、わたしたちが留学するインドネシア・アチェ州でM6.5の地震が起き、9日(金)の時点で、死者100人、重軽傷724人、避難者2万3231人、家屋倒壊1万1681軒、店舗倒壊129軒の被害が出たと伝えられています。わたしたちは、地震発生翌日の8日(木)、佐伯先生を通じて、2015年スタディツアーでお世話になった地元NGO「Jari Aceh」のヌルジュバさんにお願いして、もっとも被害の深刻なピディ・ジャヤ県での被災者ニーズ調査に同行させてもらいました。

 2016年12月7日朝5時3分にマグニチュード6.5の地震がスマトラ島アチェ州で起きました。わたしがいままで経験したことのない大きな揺れに加え、日本ではなく留学中ということで家族も友だちもいないなかの地震はとてつもなく怖かったです。
 わたしが住んでいるビルン県マタンでの被害はありませんでした。しかし、テレビのニュースや大学の友だちとの話で、震源地近くのピディ・ジャヤ県(マタンから車で2時間ほど)で大きく被害が出ていることを知りました。地震当日には、すでに大学内で募金活動がはじまっていました。わたしも募金しましたが、自分も国際協力を勉強しているなか、募金だけするのではなく、なにか支援できることがないかと考え、佐伯先生を通じて、12月8日、2015年スタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらいました。
 わたしはこの日、はじめて被災地そして国際協力の実践となる現場に足を踏み入れました。マタンから車で少し移動しただけなのに、たくさんの建物が崩れ、瓦礫ばかりの光景。覚悟はしていましたが、驚きを隠せませんでした。Jari Acehのヌルジュバさんとともに、避難民が集まっているモスクを中心に被害状況とニーズの調査をしました。
 食べ物と飲み水には、それほど困っている様子はありませんでした。モスクに水浴び用の清潔な水のタンクが運ばれていましたが、水浴び場自体はありませんでした。モスクの外にテントを張り、そこには女性だけが避難していました。男性はモスクの壁側に座っていました。宗教的な問題かもしれませんが男女別になっており、プライベートも家族の空間もありません。女性は、家の外や知らない男性がいる前では、頭にかぶっているジルバブ(ベール)を脱ぐことができません。暑いなか、モスクの外で、しかも1日中ジルバブを脱げない空間にいるのは窮屈だと思います。
 トゥピン・プラホ村では、家が全壊し、家の前で避難生活を送っている家族に出会いました。まだ生後間もない赤ちゃんが、いくら日陰といっても暑い外につくられたゆりかごで眠っていました。ノートなどの文具、キッチン用品が散乱していました。生活のあとをみて、この先どう支援していくべきなのか、目の前でみているできごとに対し、答えを見つけ出したい、しっかり支援をしたいという気持ちがさらに強くなりました。
 クデ・ムルドゥでは、2階建ての長屋式店舗がほぼ全壊しており、捜索・救出活動がつづけられていました。道中では車が多く行き交う道路の真んなかでお金を集めている子どもたちもいました。そんなかれらのためにもなにができるのか考えました。
 名古屋学院大学で募金活動をおこない、集まったお金で、わたしと同じく留学中である深川(国際協力学科2年)と、Jari Acehの協力のもと、無駄のない、本当にニーズにあった支援活動をしたいです。今回のことは、偶然ではなく運命、アチェで留学している国際文化協力学科生である自分にとって貴重な経験です。国際協力はなにかを勉強している自分にとって、支援活動を実施するのは大きなチャンスだと思っています。
 わたしは、被害の様子やニーズを伝えるとともに、必要な支援を必ずアチェの被災者に届けます。国際協力の実践ははじめてで、まだまだ未熟者ですが、勉強の意味と、いまアチェに住みアチェの人に支えられながら楽しく留学生活を送ってこられたことに対しての恩返しの意味も込め、活動に努めたいと思います。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

 被災地に行って感じたことは、自分の無力さです。いまの僕たちができることはなかった。本当にただみて、被災者の話を聞いて、心を痛めるだけでした。
 場所によって、物資のあるところとないところの差がとても激しいように感じました。インスタントラーメンを料理もせずに食べている被災者もいました。地震の影響で断水して、マンディ(水浴び)できない人もいました。お祈りの前に身体を綺麗にできないことは、ムスリムの人たちにとってとても困ることだと感じました。家が潰れてしまい寝るところがなく、モスクのなかで寝ている被災者がほとんどでした。
 いま必要とされているものは、食べ物、生活水、簡易的なテントなどでした。個別に言うと、メガネが壊れたからメガネが欲しいなど、きりがないほどです。アチェの人びとは、少しのことでもなるべく被災地へ向かい支援していました。僕の友だちも水のタンクを運ぶといって、バイクで担いで2時間かけて行ったそうです。
 今回被災地を訪れ、僕が思っていた支援とは異なっており、正直とても混乱しています。僕は、水や食料を配って炊き出しをしたら、支援は終わりだと簡単に思っていました。しかし、現実は違いました。たくさんの水を持っていったとしても、その地域にすでにたくさんの水があったら、水は必要ないことになります。大切なのは被災者のニーズに応じて支援することです。このためにはたくさんの情報、たくさんのコミュニケーションが必要だと思いました。
 いま支援があれば、生きていくことができるが、1年、2年とどんどん時が過ぎていって、いまの支援でふつうの暮らしに戻ることができるのかも疑問に思いました。仕事を再開して、自立できるようにすることが本当の支援ではないかとも思いました。緊急支援でなく、これから長く支援していくのであれば、支援する側と支援される側の信頼関係も大事です。
 いまの僕には、なにが正解なのかまだわかりませんが、いまできることを全力でしつつ、これから被災地がどのように変化していくか見ていきたいと思い、僕たちだからこそ、できることはないか考えてみました。いま被災地では何が必要とされているか、被災者は何にいちばん困っているか、被災地がどのような状況か知らない人たちに伝え、募金活動をしていくことがいちばんよいことだと思いました。
 募金でカンパが集まったら、2015年スタディツアー、そして今回の被災地訪問でお世話になった「Jari Aceh」とともに僕自身が被災地に行って、被災者のニーズに合わせた支援活動をしていきたいです。(国際協力学科2年・深川開斗)

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派遣留学生月例報告書(2016年11月)

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 インドネシア留学の半分が過ぎ3カ月たちました。
 日本と違い四季がないのでとても違和感を感じています。いまこちらは雨季に入りよく雨が降ります。日本で雨というと1日中降るイメージがありますが、インドネシアの雨は、ゲリラ豪雨に近く、強い雨が一時的に降るという感じです。よくびしょ濡れになって帰ってきて風邪をひいています。
 11月は、インドネシアの文化に触れることがとても多かったです。まず、結婚式です。友達の姉さんが結婚したので招待されました。そこでは新郎新婦がアチェ独特の服装と化粧をしていて、可愛くかっこよかったです。パーティーは、ご飯がバイキングのように出されており、とても賑やかでした。わたしが住んでいる寮の隣の住人が結婚したときは、家が近くの友だちといっしょに、その炊き出しや皿洗いを手伝うなど、現地の人たちと混ざって参加しました。パーティーはとても賑やかで、まったく知らない子たちが参加していたり、隣の学校の子が大勢でみに来てご飯食べていたりと、日本では考えられない結婚パーティーでした。
 もうひとつは、割礼をおこなうときのパーティーにも参加させてもらったことです。割礼とは、まだ小さい男の子たちが性器の皮の一部を切るという行為で、割礼をする子どもがいるとパーティーが開かれます。パーティーでは、アチェ伝統の踊りが披露されたり、お菓子や飲み物が出されたりしており、1日中音楽が流れていて私の寮まで聞こえてきました。日本ではない宗教的なことなので、最近よく割礼しないかと誘われますが、しっかりとお断りしています。
 10月の報告書で書いたフットサルチームの友達とつくったユニフォームが完成しました。サポンサーもついており、かなり本格的なユニフォームだったのでとても嬉しかったです。
 3カ月たち、ご飯にも慣れてきました。ナシ・ゴレン(nasi goreng)という、日本のチャーハンに似た食べものがあって、辛くなくとても食べやすくておいしいです。夜ご飯はいつも友達と食べています。まだ1人だけでご飯を食べることはなく、インドネシア人の優しさがすごく伝わってきます。
 授業は、正直まだ難しいです。留学生だからと言って考慮されることはなく、テストもふつうの生徒と同じように受けています。テスト前には、クラスメイトが率先して教えてくれるので助かってます。異文化理解の授業では、日本の文化について発表しました。そのときたくさんの生徒が日本に行きたいと言ってくれたので、とても嬉しかったです。
 10月に訪れたチョッ・マンボンの水道管工事が終わったので、11月19日に見に行きました。援助された村の人たちは笑顔でいっぱいでした。わたしは、去年のスタディツアーでも、日本の政府開発援助(ODA)による開発事業で土地を収用された人びとの暮らしをみるため、このチョッ・マンボンを訪れました。そこでは、立ち退き後に移転した住民の生活が苦しいままだという現実を目にしました。住人には笑顔がありませんでした。
 しかし、今回わたしがみたチョ・マンボンは、活気に溢れていました。国際協力には、支援する側と支援される側のコミュニケーションがとても大切だということを実感しました。このことはテレビやニュースでは感じることができないことで、とても貴重な経験だったと思います。(国際協力学科2年・深川開斗)

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派遣留学生月例報告書(2016年11月)

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  インドネシアのアチェにきて3か月がたとうとしています。今月は停電がなかった代わりに、1日水が出ない日がありましたが、それ以外はいつもどおりの生活を送っています。そして今月はインドネシア、アチェならではの文化をたくさん経験できました。
 まず1つ目は、結婚式です。友達のお姉さんの結婚式に参加してきました。アチェでは結婚式を家でおこないます。お金に余裕ある人は、先に新郎の家で、後日花嫁の家でも同様な式をおこなうそうです。
 アチェでは、お花のようなもので「結婚おめでとう」と字が書かれた大きな看板が家の前に飾ってあり、結婚式がおこなわれる目印になっています。そして招待状は小さなカードで、場所と時間が書かれてあり、日本と違って出欠席の返事をする必要はありません。ご祝儀または何かプレゼントを持参します。わたしたちは夫婦でつかえるグラスを買いました。新郎新婦と会う順番待ちをしながら、外のオープンスペースでブッフェ形式の食事をいただき、その後家のなかにいる新郎新婦に会うことができました。
 新婦は伝統的なドレスをまとい、頭には3キロもある被り物をかぶっていました。手全体にはヘナタトゥーが描いてあります。とにかく新婦の衣装、メイク、装飾品が派手という印象が強かったです。わたしは名古屋のホテルでアルバイトをしていたので、日本の新郎新婦や、日本の結婚式・披露宴を多くみてきました。日本では白いウェディングドレス、カクテルドレスにお色直し。日本ならではの和装をみてきましたが、インドネシアの衣装やメイクと比べると、かなり控えめに感じます。いままでみてきたなかで一番派手な新婦にアチェで出会うと思わなかったです。挨拶をして、カメラマンに写真を撮ってもらい終わりました。
 日本の披露宴のように決まった人だけが訪れ、2、3時間一緒に食事をしながら写真や余興を楽しむのではなく、知り合いが自由に訪れ、好きなだけ飲み食いができ、自由に帰ることができます。とてもゆるいと感じましたが、ちょっとした違う世界を体験でき勉強になりました。後日「来てくれてありがとうと」いう紙と一緒に小さなキーホルダーをもらいました。日本でいう引き出物のようなものだと思いますが、なぜエッフェル塔のキーホルダーだったのかは謎です。
 2つ目は生まれたての赤ちゃんに会いに行ったことです。日本の親戚でも周りの友だちでも、覚えている限り自分の身近で赤ちゃんが生まれると経験はまだないので、とても嬉しかったです。学校が終わってから、友達の友達の赤ちゃんが今朝生まれたから会いに行こうと誘われ、出産祝いを買って病院に行きました。病院には一つの部屋にカーテンで仕切られた空間がたくさんあり、そのなかに赤ちゃんはいました。この日にすぐ退院するそうです。会えた生まれたばかりの赤ちゃんは、布でグルグル巻きにされ身動きが取れない状態でとても驚きました。子宮のなかにいるのと同じようで安心するのだそうです。窮屈そうで苦しくないのか心配ではありましたが、心地よさそうに寝ていてとても可愛く、終始癒されました。
 3つ目はお葬式です。体験してきた順番にこの報告書を書いていますが、この月だけで出産から人の死について経験するなんて思ってもいなかったです。友達の彼氏のお父さんが亡くなったということだったので、生前会ったこともなく関わりもなかったですが、ついて行きました。病院で亡くなると、そのまま家に一旦連れて帰り、その日のうちに埋葬するそうです。亡くなってから24時間以内に埋葬しなければならないのがイスラームでのルールです。私たちが訪れた時にはすでに埋葬されていたので、家族の方に挨拶をし、女性は家のなか、男性は家の外で故人について話したり聞いたりしていました。
 日本では火葬で葬られますが、イスラム教のアチェでは土葬です。「死」は永久の別れではなく一時的なものであり、アッラー(イスラム教の唯一神)の審判の日に再び蘇ると信じわれているからです。すでに埋葬されていたと書きましたが、埋葬されてから式をこうして家でおこなうのも決まりだそうです。日本では、24時間以内に埋葬してはいけないことが法律で決まっています。そして、お葬式に参列するときには、遺体が目の前にある、式のあとに埋葬するのが仏教だと一般的だと思います。イスラームでは、埋葬する前に、埋葬する場所で礼拝を行います。その礼拝こそが葬儀というそうなので、わたしは正式に葬儀に参加したわけではありません。しかし、その後家でおこなわれた集いで、こういったイスラームでの人の死について、教えてもらい勉強になりました。イスラーム圏に留学していても自分でこういった場所に訪れないとわからない、知らないことばかりだったと思います。自分にとって忘れられない勉強になり、連れてきてくれた友だちに感謝していますが、訪れて楽しい、いい気持ちになる場所ではありません。普段は家族が恋しくなることや、帰りたいと思うことは滅多にありませんが、このときばかりは家族がとてつもなく恋しくなりました。親はまだまだ元気に生きているからと安心し、離れて留学生活を送っていても、自分は甘えん坊かなとこのときは思いました。この経験を通して少しは強くなれたと思いますが、この留学環境にいることを親に感謝し、勉強して親孝行に繋がるように頑張ろうと改めて思えました。
 大学での授業は相変わらず課題が難しく、友達がいないとできないです。普段の日常生活では辞書はもう必要なくなりましたが、授業では今でも手放せない状態です。課題を友達に教えてもらう時単語を調べる時間がもったいないので、事前に書き出し調べてから友達に助けを求めるようにしています。違うクラスの友達に今この課題に苦戦していると見せたら「先生はどうしてインドネシア人でも難しい問題を奈津子に出すの?」と言われました。それは私自身が一番答えを聞きたい質問です。留学生用のクラスがないのはわかっています。留学生を受け入れたのも初めてなので、先生たちもどうしていいかわからないのだと思います。しかし、こんな思いを次来る後輩にして欲しくないと日々思っていますが、きっと自分が留学来る前の勉強不足が理由なのだと自分を責めています。
 英語のスピーキングクラスでは3か月たったいまでも、授業内容が趣味の話だけです。テストも全員おこなわずに特定の学生だけ、次の週は自分だと思って構えていても結局行かずに終わりました。異文化理解の授業では、わたしと一緒に留学している深川(国際協力学科2年)にだけ日本の文化を紹介する課題が出されたので、次の週に自分が発表することになると思い準備しました。しかし、先生も忘れていたのか、2週間後の授業でいきなり発表をさせられました。パワーポイントでプレゼンもつくりましたが、まさかその日にやると思っていなかったため、USBメモリを忘れたので原稿を読むだけで終わりました。
 基本的に授業も日本に比べたら、「ゆるい」印象があります。先生も遅刻するのは当たり前なので、8時から授業ですが8時に寮を出ても余裕で間に合います。時間ルーズな国民性に慣れず、仲よしの友だちと喧嘩してしまいました。ここでの「少し待って」は1時間から多く見て3時間ぐらい待つことを意味します。友だちとは、家を出る時に連絡を入れてもらう、「少し待って」は1時間超えるかもしれないことをわたしが理解して受け入れることを約束しました。慣れたつもりでも、心のどこかで慣れておらず、それがストレスになっていました。うまくストレスを発散する方法がなく、頭痛がひどかったですが、いまはもう自分も待たせていいんだと思えるぐらい自分もインドネシア人に染まってきています。
 12月、日本には冬休みがありますが、ここではないそうです。はじめてクリスマスがない、クリスマスを過ごします。イスラームの新年のお祝いを楽しみにしながら12月を過ごしていきたいです。(国際文化協力学科3年・水谷奈津子)

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