「キリスト教」と一致するもの

受難節 と 3.11

先週の水曜日から、キリスト教の暦では「受難節」という期間に入りました。

受難節というのは、他にも教派によって「四旬節」や「大斎節」など様々な呼び方があるのですが、今回は「受難節」という名称を使っておこうと思います。

「イースター」(イエス・キリストが死から復活されたことをお祝いする日)までの40余日、教会では、イエスの苦しみと十字架上での死を覚えつつ、悔い改めの心をもって過ごしていくこととなります。

受難節の期間は「紫色」がテーマカラーとなります。「紫」というのは、キリスト教では、高貴な色であるとともに、"回心"や"悔い改め"を表す色としても理解されており、この時期には祭服や会堂の飾りなど様々なところに用いられます。本学のチャペルの講壇掛けも、ご覧のとおり「紫」に変えておきました。

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無実であったイエスが十字架上で処刑されたのは、人間の心の弱さの象徴であった...。キリスト教という宗教が「十字架」というものをシンボルとして掲げているのは、イエスの死と復活を覚えるのと同時に、人間と言う存在がいかに小さく弱いかを表しているとも言えるのかもしれません。悔い改めの期間である「受難節」の日々を、自らを省みる時として過ごせますように。


ところで、今日は3月11日。2011年の今日、この日本を「東日本大震災」という未曽有の出来事が襲いました。今日で8年が経過したことになります。

地震によって引き起こされた津波は、東北の街を次々に飲み込んでいき、車や建物と共に、たくさんの尊い命をさらっていきました。

避難生活を余儀なくされている方々は、昨年よりも2万人以上減り、5万4000人と発表されています。けれどもこれは、自主避難者の人数を計算に含めないようになったからであり、正確な数字とは言えません。

原子力発電所の事故により、東北の地は放射能によって汚染され、人が住めない環境に変えられました。現在、避難生活者の人々を中心にして、国と電力会社を相手取り損害賠償を求めて集団訴訟が行われています。なお、放射線量が高い地域に住んでいた人々の半数は、もう故郷には戻らない(戻りたくても戻れない)と考えているそうです。

いよいよ来年に開催される予定の「東京オリンピック」。これは元々、承知の段階から「復興五輪」という大きなテーマを掲げ、世界に声高に呼びかけたはずでした。けれども、今となっては「復興五輪」という言葉を見聞きすることはほとんどなくなってしまいました。東北の復興とオリンピックの開催は、いつから別々のものとして考えられるようになってしまったんでしょうか。「東京オリンピック」とは、一体何のために開催されるのでしょうか...。

地震や津波は、人間の力ではどうすることもできません。
けれども、その後に起こった「原発事故」などの"人災"は、(上記の集団訴訟で判決が下されているように)あらかじめ予知できたはずです。また、あのような恐ろしい事故を起こしてしまったにもかかわらず、各地の原子力発電所は、何事もなかったかのように次々に再稼働されていっています(2018年度には新たに5基が再稼働され、現在9基が運転を再開しています)。

「東日本大震災」という出来事自体、時間の経過と、また毎年のように起こる各地の災害により、徐々に人々の記憶から忘れ去られようとしています。けれども、避難生活者の方々や、この先何十年何百年も収束することがないであろう放射能汚染、東北の復興を後回しにしている国の現状を想うとき、「東日本大震災」は、今も継続して起こり続けている出来事であると言わざるを得ません。

回心と悔い改めの期間である「受難節」、そして9回目の3.11を迎えている今日この日、いま一度、人間の力の弱さを自覚しつつ、本当に神さまの御目に適う生き方を目指して、歩みを進めていく決意を新たにしたいと願います。

私たち一人一人の心の目が開かれますように。
そして何よりも、被災された人々、避難生活をされている人々、復興や支援のために力を注いでおられる人々の平安を心からお祈りしております。

3月の聖書の言葉

キリスト教センターは、毎月ちがった聖書の言葉が書かれたポスターを学内(しろとり)の数箇所に掲示しています。


3月の聖書の言葉はこちら!

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「隠れたことを見ておられる神が、
        あなたに報いてくださる。」

(新約聖書 マタイによる福音書6章4節より)


上の言葉はイエス・キリストの教えの一部です。次のような文脈で語られています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。だから、施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを隠すためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書6章1~4節)


・・・あれ?聖書の方では「」になってるけど、"3月の聖書の言葉"の方は「」になってるやん!
そうです。分かりやすいように「神」に変えておきました。というのも、聖書には「神」という存在を「父」と表現する記述が度々出てくるのですが、聖書のことをあまり知らない人たちが「隠れたことを見ておられる父」っていう言葉を見たら、「え、覗きが趣味のお父さんでもいるの?きも~い」と勘違いしちゃいますよね。なので、分かりやすいように「神」に変えておいたのです。


さてさて、聖書の言葉の解説については、ポスター画像の下段に書いてあるものをお読みいただければと思いますが、ちょっとだけ補足しておきましょうか。

1~4節の言葉の中に「偽善者」っていう単語が出てきますね。これ、「ヒュポクリテース」というギリシャ語の日本語訳なんですが、ヒュポクリテースは元々、「答える者(説明する者)」とか「舞台俳優」という意味があって、人前で講演したり演じたりする人を指す言葉でした。それが「自分を偽る者」というように捉えられるようになって、聖書の中では「偽善者」として使われるようになったみたいです。

「自分を偽る」...と言うと悪い印象を受けてしまいますが、人間って、何か"善いこと"をしようとするとき、大抵自分を「偽って」ませんか? あるいは、良い人であろうと「演じて」ませんか? 「本当は自分なんてそんなキャラじゃないけど...」と思いつつ。

それって、全然悪いことじゃないと思うんですよ。むしろ、善い行いをするためには"悪い自分を押さえつける"ことも時には必要。だから、周りから「偽善者だ」と罵られようとも、自分でそう感じようとも、それが今自分のなすべき"正しい行い"なんだ!と思ったなら、全力で「良い人を演じたら」いいじゃないですか!

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もちろん、それが自己顕示欲を満たすためだけに行なわれるのであれば、イエス・キリストが仰ったように注意しないといけませんけどね。

「隠れたことを見ておられる神が、あなたに報いてくださる。」
神さまは、あなたの行動や表面的な部分だけを見ておられるのではなく、あなたの心の中に目を注いでおられる。そのことを覚えておきたいですね。


それではまた次回!
(来週は1週間、管理人が不在のため更新するかどうかは未定です。)

2月28日は何の日?【キリスト教豆知識】

2月28日は何の日?
・・・・・・宣教師「ロバート・モリソン」が中国伝道のためイギリスを発った日です!

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ロバート・モリソン(1782年1月5日~1834年8月1日)

16歳のときに洗礼を受けキリスト教の信者になったモリソンは、19歳で宣教師になることを決意し、訓練を受けた末に中国に派遣されることとなります。25歳になった時、彼は牧師として任命され、すぐにイギリスを発ち、アメリカ・ニューヨーク経由で中国に到着(当時、イギリス東インド会社では中国行きの船には宣教師を乗せない規則があったため、別のルートで向かわざるを得なかったのです)。

中国に到着した彼は、布教と研究に励みますが、なかなか宣教師として期待される結果は出せず、信者になった中国人もわずか数名でした。彼の死後、27年が経過していよいよ本格的に中国伝道が進められていくこととなるのですが、その当時、中国人の信者は10名しかいなかったそうです。

では、信者を増やすことができなかったモリソンの中国伝道は完全に失敗に終わったのか。決してそうではありません。実は、日本史にも出てくる「モリソン号事件」(1837年)の船名「モリソン号」は彼の名前からとられたものです。そのことからも分かるように、彼の業績は高く評価され、多くの人々の尊敬を受けることとなったのです。

モリソンの伝道は中国ではあまり受け入れられなかったものの、中国人の助けを借りて、新約聖書の中国語への翻訳を開始し、また1819年には、モリソンのことを助けるためにやって来たウィリアム・ミルン宣教師と共に、聖書全文の中国語訳を完成させました。ミルンはその出版を見届けることなく1822年に死去しましたが、翌年の1823年に、初の中国語聖書『神天聖書』が出版されることとなりました。この中国語聖書は、その後、聖書を初めて日本語に翻訳したドイツ人宣教師「カール・ギュツラフ」(1803~1851年)にも大きな影響を与えました。

モリソンとミルンは、聖書の翻訳と同時に、漢文教書など多くの文書を頒布し、またマラッカに私費を投じて英華学校を開設。更には「漢英・英漢辞典」の編纂を手がけました(17~23年)。このようなモリソンの業績が、後に活発に行われていくこととなる中国伝道の礎を築くこととなったのです。

人間は、自分や他者が期待していた結果ではなく、全く別の、しかし非常に価値のある結果を生み出すことがあります。モリソンもその一人であったと言えるでしょう。たゆまぬ努力、そして信じる心が、未来を切り拓いていくのです。

探しなさい。そうすれば、見つかる。

チャペルの扉が閉じないように押さえるドアストッパーが1つ迷子になっています。

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もし見つけたらキリスト教センターにお知らせください。

暇な人はチャペルまで探しに来てくれても良いです。
暇じゃなくても是非探しに来てください。
恐らくチャペルの館内にあるはずなので。
見つけてくれたら素敵なプレゼントがあるかもしれません。

こんな時、聖書を読んでる人なら絶対にこの言葉を思い出すはずです。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
(新約聖書 マタイによる福音書 7章7〜8節)※聖書協会共同訳

続・イエスはなぜ泣いたのか!?

~前回までの内容~

・聖書の中で最も短い一節は「イエスは涙を流された。」(新約聖書 ヨハネによる福音書 11章35節)
・イエスにはラザロという知人がいたが、ある時、彼が病気であることがイエスに伝えられた。
・イエス一行がラザロのもとに到着したときには既に彼は亡くなって4日が経っていた。
・しかしイエスは出発する前からラザロが死んだことに気付いていた。
・このあとイエスは墓に眠るラザロを奇跡によって「復活」させる。
・でも人を甦らせる力があるなら、どうして「涙を流された」のか?

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『Jesus Wept』(イエスは涙を流された)1886~1896年
作者:ジェームズ・ティソ
(本名:ジャック=ジョゼフ・ティソ、1836年10月15日~1902年8月8日、フランス)



さて、3回にわたってご紹介してきた聖書の言葉「「イエスは涙を流された」についてですが、今回で最終回にしたいと思います!笑
人を甦らせることができるにもかかわらず(にわかには信じがたい話ですが...)、なぜイエスはラザロの死を想って涙を流したのか? 皆さんはどう思われるでしょうか。


そのことを考える前に、主に二つのことを確認しておかなければいけません。

一つは、「人々は、イエスに関していろんなイメージを持ってきた」ということ。
イエスという人物については、彼が生きていた時から、人々の間で様々な見方がなされてきました。めちゃくちゃ頭が切れる"普通の人間"として見る人もいましたが、一方で、神的な力を持った"超人"「神の子」として見ている人たちもいました。そのようなイメージは、イエスの死後、イエスのことを直接知らない人々もいるコミュニティの間で膨張していき、もはや実際のイエスがどんな存在だったのか分からないぐらいになっていったと考えられます。

もう一つは、「『福音書』には、いろんな"イエス像"が描かれている」ということ。
イエスについて書かれている書物を『福音書』と呼ぶのですが、それらの書物はイエスが十字架につけられて死んでから30年もの時を経てようやく成立しました。しかも福音書の作者はいずれも"生前のイエス"と出会っていないと言われています。なので、彼ら福音書の著者たちは、イエスに関する様々な資料(人々の間で広く共有されている情報から単なるうわさ話まで)をかき集めて、それぞれの福音書を完成させたのです。


では、以上の2点を踏まえつつ、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35前後)を見てみたいと思います。

前回述べたとおり、何と言ってもイエスは人を甦らせる力を持っています!(ババーン)

・・・まぁ、それが真実かどうかはさておき、「人を甦らせることができる」というのは、先ほどの話にもありましたが、イエスに対する「超人的なイメージ」の典型例ですよね。そんなこと普通の人間はできませんから(というか誰にもできない...)。人々の間では、イエスがどんな人間だったかということよりも、イエスがどんなことをしたかという情報の方が多く共有されていたのだろうと思います。偉人に関する話というのは大抵そうですよね。その人の"人間性"よりも、その人が残した"功績"などの方が伝えられていくものです。

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『ラザロの復活』1514~1519年
作者:フアン・デ・フランデス(1465~1519年、フランドル)


この福音書を書いた「ヨハネ」という人も、独自の取材で様々なイエスに関する情報を各地から収集したのだろうと思います。しかし、著者ヨハネさんが偉いのは、たくさん存在するイエスの奇跡物語や偉人伝説だけではなく、その中に埋もれてしまっている "人間としてのイエス"の姿 もなんとかして福音書の中に書き残そうとしたところなんですね。

そのため、この「ラザロの死と復活」の物語に登場するイエスには、矛盾ともとれる二つのキャラクターを見ることができます。一つは、超人としてのイエス。もう一つは、普通の人間としてのイエスです。

お墓に向かう際、そのあと彼のことを甦らせることになるとは言え、そこに眠るのは、心から愛していた友人ラザロ。そのことを思うと、どうしてもこみ上げてくる感情を抑えることができず、つい涙を流してしまったのでしょう。聖書の読者は、そこにこそ、イエスの本当の愛を感じ取ることができます。ラザロの姉妹や仲間たちが、彼の死を悼んで泣いている。そのそばで、イエスもまた、共に涙を流された・・・。喜びも悲しみも、一緒に共有してくださるお方だからこそ、キリスト教の信者たちはイエスという人に対して信頼を置き、共に人生を歩んでくださるよう願うのかもしれません。

ちなみに、アメリカのオクラホマシティには『And Jesus Wept』(イエスは涙を流された)と題された像が建てられています。1995年に起こった「オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件」で亡くなった168名の方々を覚えて設置された、非常に珍しい姿をしているイエスの像です。まさに「泣く者と共に泣いてくださる」(ローマの信徒への手紙12章15節)イエス・キリストに対する人々の信頼がそこには表されています。
https://www.encirclephotos.com/image/and-jesus-wept-memorial-to-oklahoma-city-bombing-in-oklahoma-city-oklahoma/(英文)


というわけで、長々と書いてまいりましたが・・・
「聖書の中で最も短い一節」の中に秘められた、説明し出すとキリがないほどの"奥深さ"について、
皆さん、お楽しみいただけたでしょうか??笑

次回からは、再び単発の記事を投稿していきますので、また読んでくださいね~。それでは!

聖書の中で最も短い一節【キリスト教豆知識】

聖書にはこんな風に「章番号」と「節番号」が付けられているのを知っていますか?


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これは最初から聖書の本文に付いていたものではありません。「章番号」は、イギリスのカンタベリー大司教を務めた「スティーヴン・ラングトン」(1150年頃~1228年)によるものと言われています。その一方「節番号」はというと、約300年後、フランスで印刷業者を営んでいた「ロベール・エティエンヌ(ラテン語名:ステファヌス)」(1503年頃~1559年)が付けました。その時代は、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究が盛んに行われており、エティエンヌもまた古典学者でもあったため、当時広く教会で使われていた「ラテン語聖書」ではなく、原典に立ち返る形で"ギリシャ語の新約聖書"を出版しました。その第4版を出版する際に、エティエンヌはその本文に節番号を付けたのです。

さて、そのようにして「章」と「節」に区分された聖書ですが、ご存知の通り、聖書は分厚い!それだけ聖書の本文は長いということです。「節」に関しては、何と31,000を超えています 笑 それに、エティエンヌは単語数や長さで区切ったわけではないので、長い節もあれば短い節もあるわけなんですね。


そんな中で、今日の本題。「聖書の中で最も短い一節は?

・・・とその前に、比較の対象ある方が分かりやすいと思うので「聖書の中で最も"長い"一節」をお伝えしておきますね。こちらです↓

その時、第三の月、すなわちシワンの月の二十三日に、王の書記官たちが呼ばれた。そしてユダヤ人たちに宛てて、またインドからクシュに至るまでの百二十七州にいる総督たち、地方長官たち、諸州の高官たちに宛てて、モルデカイが命じたとおりにすべて書き記された。それは州ごとにその州の書き方で、民族ごとにその民族の言語で、ユダヤ人には彼らの書き方と言語で書き記された。(旧約聖書 エステル記 8章9節)

ん~、長さというよりかは、その内容が気になっちゃいますね。「民族ごとに違う書き方や言語で文書が送られた」というような内容が書かれてあるこの一節が、今や世界中で様々な言語に翻訳されている『聖書』の中で"一番長い節"・・・。何か運命的なものを感じます。


と言うわけで、ここでようやく「聖書の中で最も短い一節」の発表です!
"最も長い一節"と見比べてみてください。こちらです↓



「イエスは涙を流された。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書 11章35節)



短い!(´;ω;`)ブワッ


英語では Jesus wept. たった2単語!
新約聖書の原語であるギリシャ語でも ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς(エダクルセン ホ イェースース)3単語!

それにしても、イエス・キリストも涙を流すことがあるんですねぇ。
何でイエスは涙を流したのか。それについては明日更新の記事をご覧ください!お楽しみに!

2月18日は何の日?【キリスト教豆知識】

2月18日は何の日?
・・・・・・「マルティン・ルター」が亡くなった日です!

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マルティン・ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)

幼い頃から恵まれた教育環境のもとに育ったルターは、上昇志向の強かった父の期待通り、法学を学ぶために大学に入学し、いわゆる"エリートコース"を進んでいました。ところが、あるとき命の危機を感じる事態に遭遇した彼は、人間の"生と死"について強く意識するようになり、その出来事から約2週間後には、大学を離れ、当時最も厳しかった「アウグスティノ隠修士会」に入り修道士になります。その後、2年後には叙階を経て司祭となり、また数年後には神学博士として大学で教鞭をとるようになります。

ルターの名が知られるようになったのは、当時ローマ教会が販売していた「贖宥状(贖宥符、免罪符とも)」と、それに対して1517年に彼が提示した「95箇条の提題」がきっかけです。これによって、宗教改革が急激に推し進められていくこととなります。しかし、しばしば誤解されているように、ルターはローマ教会を批判したわけではなく、また、ローマ教会を変えてやるという強い意志を持っていたわけでもなく、ただ「『贖宥状』を購入することで人間が"神の救い"を得られるのはおかしいと思うので議論の場を設けてほしい」と教会側に求めただけだったのです。残念ながらルターの要求は教会側に拒まれ、それどころか「95箇条」の内容を撤回することを迫られたため、ルターと教会との間には大きな隔たりが生まれ、ルターはカトリックの神学から離れ、独自の神学を打ち立てていくこととなります。

ルターによる宗教改革は、彼が一から行なっていったものではありません。当時のヨーロッパ社会においては、周辺諸国の台頭による「神聖ローマ帝国」の弱体化が顕著にみられ、それに伴いローマ教会の力も衰退、ヒエラルキーによる教会組織の在り方にも反対の声が相次ぎ、帝国(教会)内部も崩壊の一途を辿っていました。それに加えて、当時はペストの流行などによって、誰もが死と隣り合わせで生きていると感じる状況が生じており、そんな中で「生きるとは、死ぬとは」と多くの人々が考えるようになっていました。そう考えると、死後"神の救い"を得られると謳う「贖宥状」を民衆が買い求めた理由も分かるような気がします。こういうわけで、16世紀に起こった「宗教改革」は、決してルターの思い付きで始められたものではなく、まさに起こるべくして起こった出来事であったと言えるのです。

なお、宗教改革から500年が経過した今でもなお、カトリック教会とプロテスタント教会双方から、相手側の教義に関して「それは間違っている。誤りだ」という声が聞こえてくるのは非常に残念なことです。お互いに長い歴史を過ごしてきたのですから、一致する部分もあれば、違う部分、相容れない部分もあって当然なのです。そのことを理解している人々は既に、新たな500年に向かって歩み始めています。ルターもきっと今は、カトリック教会や他教派・他宗教の人々とも、楽しく過ごしているのではないでしょうか。

教会でカレーうどん食ってきた

いつもブログでふざけたことばかり書いている僕ではありますが、実は超マジメで敬虔なクリスチャンなので(場内ざわめき)、毎週ほぼ欠かさず教会に行って礼拝に出席しています。

普段は栄の「オアシス21」の向かいにある「プロテスタント」教会に通っているのですが、別にゼッタイそこの教会に行かなければならないわけではないので、この前の日曜日は気分転換のために、そことは別の、「聖公会」という教派の教会に行ってみました。


【キリスト教Q&A】プロテスタントって何?聖公会って何?
「プロテスタント」とは、16世紀、ローマ・カトリック教会の影響下で起こった宗教改革により生まれた教派。マルティン・ルターというドイツの司祭が当時の教会の働きに疑義を唱えたことがきっかけ。プロテスタントは「抗議する輩、抗議派」という意味。プロテスタントの中には様々なグループが存在している。
「聖公会」は、上記のプロテスタントとは異なる形でローマ・カトリック教会と袂を分かった教派。16世紀、イングランド国王のヘンリー八世が自らを教会の首長とし、ローマ・カトリック教会から分離して成立した。



で、今回はその「聖公会」の聖餐式に出席してきた感想を書くわけではありません。いずれまた、いろんな教会の礼拝の雰囲気とかをリポートする企画もやってみたら面白いとは思うのですが、もう少し先の話になりそうです。

そうではなくて、今回皆さんに見ていただきたいのがコチラ↓


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カレーうどん!!!!


こちらの教会では、毎週、聖餐式のあとにみんなで食事をしているそうで、この日のメニューは、そう、「カレーうどん」だったのです!

皆さんのキリスト教のイメージって、きっとこんな感じでしょう↓

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純白に包まれたチャペル(結婚式場の写真ですが...)。
でもそこにカレーうどんが乗っかると・・・?

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雰囲気ブチ壊し!!!!笑

そうなのです。教会とカレーうどんって、どう考えてもイメージ的に"合わない"んですね。


しかし、初めてその教会でお昼ごはんをいただいた僕は、全然びっくりしませんでした。なぜなら、プロテスタントのクリスチャンである僕にとって、礼拝後にみんなでご飯を食べるのは当たり前のことだからなのです。と言うのも、多くのプロテスタント教会では、礼拝が終わったあと、このようにお昼ごはんが出るんですね。メニューは大抵、「うどん」や「カレー」。チラシ寿司の日もあったりします。値段は200~300円でとってもリーズナブル。若い人にはチョット多めに入れてくれることも!?(「若いんだから食べて食べてハラスメント」もしばしば起こります 汗)

聖公会は厳密にいえばプロテスタントとは違うのですが、僕が行った教会では、毎週お昼ごはんが提供されているそうです。もちろん、メッチャ美味しかったですよ。

キリスト教では、古くから"いろんな人と一緒に食事をする"ことが習慣として大切にされています。それは、イエス・キリストが様々な背景を持っている人たちを皆食卓に招いて一緒に食事をしたことに由来していると思われます。今回、聖公会で出席した「聖餐式」では、一人ひとり聖壇の前まで行って「ホスチア」と呼ばれるウェハースのようなものをワインに浸して食べる...という行為をしたのですが、これも元々は、イエス・キリストを中心とした食卓(食事)に由来しているものなんですね。早くから"儀式化"してしまっていたようですが、元を辿るとそれは、いろんな人とワイワイ喋りながら楽しく過ごしていた食事の時間だったのだろうと想像します。

それにしても、どうして教会のお昼ごはんには「カレー」や「うどん」が良く出されるのでしょうか。

もしかして『聖書』の中に「カレー」とか「うどん」が出てくるのかな?と思って、念のため調べてみました。


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そら、そうやわな。
きっと作るのが簡単で、なおかつ大量に作ることができるから「カレー」や「うどん」が選ばれているのだろうと思います。

気が向いたら「教会のお昼ごはん版 食べログ」でもやってみようかな。
おしまい。また来週!

か・・・顔!

2月14日......

バレンタイン......

チョコレート......

カカオ......



か・・・顔ッ!!!!


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聖骸布(せいがいふ、トリノの聖骸布、Holy Shroud)は、キリスト教でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている。イエス・キリストの風貌を写したという布には、聖ヴェロニカの聖骸布やマンディリオンなど複数あったといわれる。(Wikipediaより)

2月13日は何の日?【キリスト教豆知識】

突然ですが、皆さんに残念なお知らせがあります(ハンカチのご用意をお願いいたします)。

まず、これらの絵に描かれた人物のこと、皆さんなら当然ご存知ですよね。

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そう...言わずと知れた、あの「イエス・キリスト」と呼ばれる人物です。

約2000年前、現在のパレスチナの地域に生まれ、"神さま"のことを人々に教えていた人物なのですが、イエス・キリストの死後、彼の弟子たちの働きを通じて、後に彼は、信奉者たちから「神のひとり子」「救い主」「真の神であり、真の人であるお方」というように信じられるようになっていきました。そして、彼の教えを基に体系化されていった「キリスト教」という宗教は"世界宗教"として、何と、今では世界中に20億人以上の信者を抱える超巨大な宗教にまで発展することとなりました。

日本においても、キリスト教の信者は190万人以上存在するとされており、日本全国にある「教会」の数は4,300を超えています。この名古屋学院大学も、キリスト教の宣教師クラインによって建てられた学校から生まれた"キリスト教主義大学"です。

そういうわけで、僕らはこの「イエス・キリスト」と呼ばれる人物について、多少なりとも知っているわけですけれども、先ほど冒頭でも触れましたように、本日は皆さんに大変残念なことをお伝えしなければならないのです。皆さんのことをガッカリさせてしまいそうで、「伝えるべきかな、いや、でも止めておこうかな・・・」と散々悩んだのですが、やはり真実をお伝えするのがこのキリスト教センターブログの使命ではないか!と考え、本日この場で皆さんにお知らせすることにいたしました。


皆さん、心の準備をお願いします。実はですね・・・

この「イエス・キリスト」っていう名前の「キリスト」って・・・

苗 字 じ ゃ な か っ た ん で す !!!!!!!!

(一同騒然)

皆さん落ち着いてくださいね(ここで水を飲む)。
ちゃんと今からご説明しますので、まずは深呼吸してください(会場を見渡す)。


僕らが"苗字"(ファミリーネーム)だと思い込んできた、この「キリスト」という言葉。これは、言ってみれば「称号」のようなものなんです。「キリスト」とは、日本でもしばしば「救世主」という意味で使われている「メシア」(ヘブライ語)という言葉のギリシャ語訳で、意味は「油を注がれた者」という意味です。聖書の主な舞台である古代イスラエルでは、王様や祭司、預言者と呼ばれる人々を任命するとき、油を塗る習慣がありました。それを受けて、イエスという人物のことを「救い主」とか「この世のどんな王様にも勝る王様」というように信じた人々は、彼のことを「メシア」「キリスト」というように呼ぶようになったんですね。

なので「イエス・キリスト」とは、「キリスト家のイエスさん」ではなくて「キリスト(称号)であるイエス」という意味の呼び名だったんですね。皆さん、ぜひ覚えておいてくださ~い。


さて、それにしても何で今日はこんなお話をしているのかと言いますと、ちゃんとこれには理由があります。

それは、本日「2月13日」という日が、1875年2月13日に、明治政府によって「平民苗字必称義務令」が出されたことを記念する「苗字制定記念日」と呼ばれる日だからです。これによって、すべての国民が「苗字」を名乗ることを義務付けられることとなりました。

そう。ただ「苗字」の話と「キリスト教」の話を絡めたかっただけ。

そ れ だ け ! おしまい。
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