「キリスト教 聖書」と一致するもの

本学建学の精神「敬神愛人」(チャペルアワー動画)

奨励題:本学建学の精神「敬神愛人」
奨励者:髙見 伊三男(宗教部長/スポーツ健康学部教授)

新型コロナウイルス感染症まん延防止のため、春学期のチャペルアワーは、
集会形式の開催ではなく「奨励(礼拝説教)」の動画配信を行います。

本学の教職員および外部のキリスト教関係者の方々による様々なテーマの
お話を聴くことができます。

配信スケジュールは下記のページからご確認ください。
https://www.ngu.jp/facilities/christian/chapel_hour/

本学の学生・教職員のみならず、動画を視聴してくださる全ての皆さまに、
聖書に基づく励ましのメッセージが届けられることを願っています。

チャペルアワー動画配信予告

日 時:2021年4月13日(火)13時配信開始
奨励題:本学建学の精神「敬神愛人」
奨励者:髙見 伊三男(宗教部長/スポーツ健康学部教授)

新型コロナウイルス感染症まん延防止のため、春学期のチャペルアワーは、
集会形式の開催ではなく「奨励(礼拝説教)」の動画配信を行います。

本学の教職員および外部のキリスト教関係者の方々による様々なテーマの
お話を聴くことができます。

配信スケジュールは下記のページからご確認ください。
https://www.ngu.jp/facilities/christian/chapel_hour/

本学の学生・教職員のみならず、動画を視聴してくださる全ての皆さまに、
聖書に基づく励ましのメッセージが届けられることを願っています。

朝の礼拝「復活を"疑え"!」

奨励題:復活を"疑え"!
奨励者:柳川 真太朗(キリスト教センター職員)

新型コロナウイルス感染症まん延防止のため、春学期の「朝の礼拝」は、
集会形式の開催ではなく「奨励(礼拝説教)」の動画配信を行います。

配信は毎月1回。公開日は下記のページから予定表をご確認ください。
https://www.ngu.jp/facilities/christian/chapel_hour/

本学の学生・教職員のみならず、動画を視聴してくださる全ての皆さまに、
聖書に基づく励ましのメッセージが届けられることを願っています。

3.11『蕾』(GReeeeN)のキリスト教的考察

伝道師のほうです。

最近、家の近くの河川敷でランニングをしています。今朝も、川沿いを走っていたのですが、ふと、このような考えが脳裏をよぎりました。「もし今、地震が起こったらどこに逃げれば良いだろう。津波が起こって川が逆流してきたら、近くに昇れる高い建物などはあるだろうか。」見渡してみたら、4階建てくらいの病院がありました。「あそこなら大丈夫だろう」と思って、帰宅後に調べてみたら、宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高校(旧校舎)は、当時、4階建てだったにもかかわらず、4階の天井まで浸水したのだそうです。あの病院ではダメだと確信しました。他に避難できる建物を探さなければなりません。「もし地震が起こったら...」「津波の恐れがある場合は...」そんなことを普段から考えておかなければいけないなと思わされた朝でした。

さて今日は、GReeeeNのニューシングル『蕾』について、キリスト教的な視点から考察してみたいと思います。この曲は、TBSテレビ系列『東日本大震災10年プロジェクト「つなぐ、つながる」』のテーマソング。福島県で結成されたGReeeeNによって制作され、リーダーのHIDEと内堀雅雄 福島県知事との対談や、東北の方々の声を反映させるかたちで書き上げられました。



歌詞を読んでみますと、タイトルにもあるように、希望を包んだ小さな「蕾」(つぼみ)が、将来、花開くんだという内容になっています。

「蕾」という言葉は聖書に出てくるでしょうか。調べてみたところ、以下のとおり旧約聖書に数箇所使われていました(いずれも聖書協会共同訳より)。

「翌日、モーセが証しの幕屋に入ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。」(民数記17:23)
「くるみの園に私は下りて行きました。/川辺の新芽を見るためにぶどうの木がつぼみをつけたか/ざくろのが咲いたかを見るために。」(雅歌6:11)
「早く起きて、ぶどう畑に行きましょう。ぶどうの木がつぼみをつけたか、盛りか/ざくろのが咲いたかを見ましょう。そこで私の愛をあなたに差し上げましょう。」(雅歌7:13)
「刈り入れの前につぼみが開きが咲いて実が熟し始めれば/人はその小枝を鎌で切り落とし/そのつるを払い、取り除くものだ。」(イザヤ書18:5)

ここで注目したいのは、いずれの箇所も「つぼみ」のあとに「花」という言葉が出てくる点です。つぼみを付けて、花を咲かせる。雅歌6:11と7:13、そしてイザヤ書18:5では、ぶどうの花のつぼみについて言及されています。聖書の舞台である古代のパレスチナの地域では主に、小麦、大麦、いちじく、ざくろ、オリーブ、なつめやし、そして「ぶどう」が栽培されました。ぶどうやいちじくは、夏の終わりに収穫されました。パレスチナは、乾季と雨季に大きく分けることができ、ぶどうの収穫はつまり、乾季の終わり、雨季の訪れを意味しています。パレスチナは日本ほど季節の移り変わりがはっきりしていないと言われていますが、それでも、花を咲かせたり穂を実らせたりする植物たちの様子を見ることで、聖書の時代の人々は、季節の変化を実感することができたのでしょうね。

『蕾』の歌詞の中にも、視覚的に季節の移り変わりを感じさせる言葉が出てきます。「雪を溶かし」「白い空」「百の蕾が花ひらくの」。特に「白い空」という言葉が、個人的には気に入っています。爽快な青い空ではなく、雪を降らせそうな厚い雲に覆われている空のことを「白い空」と表現しているわけです。その光景を思い浮かべるだけでも、気持ちが沈んでしまいそうになります。

このように「冬」という季節を、草木も枯れて寂しい時として表現することで、東日本大震災の被害を受けて、人の姿や命、建物など、そこにあったはずのあらゆるものが失われてしまった悲しみ、絶望としか言えないような状況を「冬」としてイメージすることができるようになっています。歌詞の中には直接、震災の悲惨さが歌われているわけではありませんが、このように「冬」という季節を隠喩として用いることで、間接的に、しかも柔らかな形で、震災後の被災地の様子を連想させているわけですから、GReeeeNの皆さんの文学的センスには目を見張るものがあります。

しかし、冬という季節は、いずれ、春へと移行していきます。雪が溶け、地が姿を現し、植物たちが「蕾」をつけてそれが花開く季節がやってきます。毎年、必ず春はやってきます。季節の変化が豊かなこの国では、春の訪れを歌う曲が毎年たくさん作られますね。ただ、ここで気をつけておきたいのは、この『蕾』という曲の中では、「冬の終わり」と「春の訪れ」に関して、実際の季節という時間的感覚では歌われていないということです。

そうです。東日本大震災が起こってから、今日で10年が経過しました。2011年、僕は今の皆さんと同じくらいの年齢で、関西の大学に通っていました。それから10年が経過して、社会人になり、家族を持ち、大きく変化してきたと実感しています。皆さんもそれぞれに、様々な変化を体験してきたことと思います。けれども、被災地はどうでしょうか。最近はあまりテレビで報道されなくなってきており、時間の経過とともに"風化"を心配する声が聞かれるようになってきています。2019年度までに、国の復興関連予算として投じられたお金は約39兆円。住宅再建や復興まちづくり、被災者支援、産業の再生、公共インフラ整備など、様々な取り組みのために使われました。10年が経った今、被災した各地の様子は大きく変化しているように見えます。住宅街や緑も広がり、新しい生活が始まっていると感じます。でもそれは、新しい生活であり、元の生活が戻ってきたわけではありません。仙台市では、77%以上の人が、回復・復旧を実感していると回答していますが、その一方で、全体の2割以上の人たちが、どちらともいえない、回復・復旧を実感していないと答えています。いまだ仮設住宅での生活を続けておられる方、何万人もの県外避難者の方々の存在もあります。原発・放射能汚染の問題は、これから先、何年や何十年という単位ではなく、ずっと日本という国が責任をもって取り組んでいかなければならないものです。そう考えると、10年という年月は、とても長いようで、非常に短い、そのような時間であると言えます。
(参考:https://issue.yahoo.co.jp/311_10years/

GReeeeNの皆さんも、一当事者として、そのことを十分に理解されている。だからこそ、冬の後にはすぐに必ず春がやってくるという浅はかな表現ではなく、「やがて」とか「何度も冬を越えて その日を待ちわびるの」などのように、人々が待ち望んでいる「春」の訪れまでには時間がかかるのだという描き方をしているのだろうと思います。

キリスト教の賛美歌の中に、「球根の中には」(『讃美歌21』575番)という賛美歌があります。20世紀に作られた現代の賛美歌です。

球根の中には.jpg

ナタリー・スリース(1930-1992)という女性が作詞・作曲を手掛けました。アメリカのメソジスト教会では大変好んで歌われているとのこと。日本の教会でも、特に、春の訪れを感じるイースターの季節などによく歌われているように思います。

いのちの終わりは、完全な終わりではなく、いのちの始まりなのであるとこの賛美歌は歌います。しかもそれは、輪廻転生のような新たな(限りある)命として生まれ変わるということではなく、永遠の命の始まりを意味しています。これは、キリスト教の信仰の神髄です。

「寒い冬の中 春はめざめる。」「過ぎ去った時が 未来を拓く。」「ついに変えられる 永遠の朝。」「その日、その時を ただ神が知る。」

終わりが、同時に、始まりでもある。このことは、宗教的・観念的なものに留まらず、私たちの現実世界でもしばしば経験することです。東日本大震災によって、人々は「終わり」を経験しました。いや、今まだ経験し続けているとも言えるかもしれません。しかし、時間というものは相も変わらず流れていきます。私たちはその時間の中で前に進んでいくしかないのです。そう考えると、「終わり」を経験しながらも、私たちは並行して「始まり」の中を歩んでいるとも言えるのかもしれません。10年という「始まり」を今、生きているのです。少しずつ雪が溶け、風の流れが変わってきている。各地で植物たちが芽吹いている。その芽が、蕾が、美しく花を咲かせる日はいつか。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父(神)だけがご存じである。」(マルコによる福音書13:32)

旧約聖書のコヘレトはこのように書いています。
天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。
(コヘレトの言葉3:1)

すでに述べたように、この『蕾』の歌詞は、冬が終わって春を迎えるというような単純な表現を用いてはおらず、いつかは分からないけれども、必ず将来、春がやってくるんだという「未来に対する希望」を見事に歌い上げています。そして、そのようなメッセージは、キリスト教の信仰にも通ずるものがあるといえます。すなわち、人間は無情に流れていく時の中を生きていくしかない、けれども、その先には必ず神が「その時」を備えてくださっているのだという信仰です。

私たちは、東日本大震災のことを、これから先の10年もけっして忘れてはなりません。同じ日本、同じ世界に生きる当事者として、関わり続けていく必要があると思います。今日この日、日本中で、また世界中で、被災された方々のことを想って祈りがささげられていることと思います。私たちもその輪の中に加わりましょう。

神よ、10年という年月の間、被災者の方々とともに歩んでくださり、守り導いてくださっていたことを感謝します。10年前、多くの命が失われました。人間だけでなく、動物たちも自然も、大きなダメージを受けました。その傷は完全に癒えるものではなく、過去のこととして忘れることができるものでもありません。けれども、アルファでありオメガであられるあなたは、終わりの先に始まりを備えてくださり、人々を再び立ち上がらせてくださいました。被災された方々に生きる力を、未来を信じる勇気を与えてくださいました。これからも私たちは、現在進行形で起こり続けているこの「東日本大震災」という出来事を心に留め、少しでも被災者の方々に寄り添うことができるよう、愛の行いを実践していきたいと願います。どうか、これからの10年も、私たちにあなたの道を示し、支援に携わる人たちに正しい知恵と力を与え、そして、被災されたすべての方々に、癒しと希望をお与えください。主イエスの御名によって、アーメン。

以上、GReeeeNの新曲『蕾』のキリスト教的考察でした。長々と失礼いたしました。お読みいただきありがとうございます。

つぼみ01.jpg

ドイツと同一

先月、1月19日の記事で、我々このように皆さんにお伝えしていました。

「降誕節の時期は、典礼色(テーマカラー)が『白』」
「2月17日の『灰の水曜日』から受難節に入ります(つまり典礼色が変わる)」

これ自体は何も間違ってはいません。本学が関係している「日本基督教団」という教派が発行している『日毎の糧』という冊子にも、次のような表が掲載されていまして、それを見る限りでは、ちゃんと「降誕節は白」「受難節は紫」と書かれているんですよね。

IMG_4357.jpg
(聖書日課編集委員会 編,『日毎の糧2021 ―主日聖書日課・家庭礼拝暦』,日本キリスト教団出版局,2020)


......しかしなんですよぉ。じゃあ、キリスト教であればどこの教派も、同じ「期節」に同じ「色」を使うのかというと、必ずしもそうではないんです。礼拝の形式や、歌っている賛美歌(聖歌)、牧師や神父といった名称など、教派によって様々な違いが見られるように、「期節」や「典礼色」も、ちょっとずつ教派ごとに違っているんですね。大抵の場合、同じ時期には同じ「色」が使われているんですが、細かい部分で、色や期節の名称が異なっていたりするのです。

例えば、今の期節に関して、日本基督教団のように「降誕節」と呼ぶ教派もあれば、「年間」(カトリック)や「顕現後(顕現節)」(聖公会、ルーテル)などという名称を用いている教派もあります。そして、それに伴い、典礼色に「白」を使う教会もあれば、「緑」を使う教会もあります。

ただ、今回どうしてこんな話を書いているのかと言いますと、今の時期、実はほとんど全ての教派が「緑」の典礼色を使っているんですね。僕(伝道師)の把握している限りでは、1月6日の「公現日」を過ぎてもなお「白」の典礼色を使っている教派は、日本基督教団と、ドイツの「ドイツ福音主義教会」くらいなのです。それ以外の、伝統的な教派は「緑」を使っているんです。日本基督教団の中でも、教会の暦や典礼色などに関心のある教会では「公現日」以降、「緑」にしているところも多いと思います。

そういうわけで、悩んでしまったのです。
「どうする?ウチも にする?」って。

別に、日本基督教団なら「白」じゃないとダメ、というわけではないんです。上の表にも「以下のような用例を提案いたします」と書かれている通り、ちゃんと意味があるならば、他の色を使っても良いのです。

しかし、同時にこんな風にも悩んでしまいました。
「えっ、そしたらいつ に変える?」って。

変えるタイミングが分かんなくなっちゃったんですよ。理由もなく、何の前触れもなく、ある日から突然、チャペルの講壇掛けの色が変わってたら、みんなビックリ.....................しないんですけどぉ(緊急事態宣言でチャペル閉鎖してるんで)、やっぱり何かを変えるには「理由」が必要じゃないですか。その明確な理由が思いつかなかったんですね。

そしたらですね、やっぱり「求めなさい。そうすれば与えられる(マタイによる福音書7章7節)」だなぁって思ったんですけど、先述の「ドイツ福音主義教会」は、今年は「2月7日(日)」に典礼色が「緑」に変わる、っていう情報を手に入れることができたんです。これだ!このタイミングしかない!と思いましたね。

ドイツ福音主義教会では、受難節(四旬節)に入る約2週間前から、「六旬節(2月7日)」「五旬節(2月14日)」と言って、徐々にイエス・キリストの「受難」に向けて心を整えていく準備をするようです。長い「緑」の期節から、急に「紫」の期節に変わるのではなく、しばらく「白」の期節を過ごしつつ、グラデーションのように「緑」に変わり、そして本格的にイエスの受難を覚える「紫」の期節に変わっていく、というのを表現しているみたいですね。

というわけで、本学もせっかくなので、今年はドイツ福音主義教会に倣って、「2月7日(日)」から、「灰の水曜日」を迎える「2月17日」の前日までの間、典礼色を「緑」に変更しようと思います(これでまさに「ドイツと同一」。ワオ!)

IMG_4358.jpg

せっかく「記事」書いてくださったのに、
伝道師じゃないほう(A)さん、すんまっせ〜〜ん!

(伝道師のほう)

いま一番ホットな聖書のお話

「いま一番ホットな聖書のお話」と言えば、やはり、新しくアメリカ大統領に就任したジョー・バイデン氏の聖書のお話でしょう。

皆さんご存知のことと思いますが、アメリカの大統領の就任式では、大統領が聖書に手を置いて宣誓をします。このとき手を置く「聖書」がどんな聖書だったのかが、大統領の就任式では毎回かなり注目されるそうなんですね。

おっと!
「え?聖書なんてどれも同じじゃないの?」なんて言わないでください!

名古屋学院大学のチャペルに置かれている聖書(の翻訳)が「新共同訳」から「聖書協会共同訳」に変更されたということは以前お伝えしたとおりですね。
ぼく(伝道師)は、新しい「聖書協会共同訳」を使っていますが、人によっては「新共同訳」、あるいは「口語訳」や「新改訳(2017)」、更には「文語訳」(名前の通り文語体なんですが根強いファンがいます)など、様々な聖書を使っている方がおられます。そのように、聖書には様々な翻訳があり、これまで数多くの翻訳聖書が出版されてきたわけですね。

ただ、大統領就任式で注目されているのは、翻訳ではなくて、「誰が使っていた聖書か」ということのようです。

二代前までの大統領就任式を振り返ってみると、たとえばオバマ氏は、1期目はエイブラハム・リンカーンの聖書を、そして2期目には、キング牧師の聖書を使用しました。奴隷解放宣言をしたリンカーンと公民権運動の指導者だったキング牧師の聖書を使うというところに、初の黒人大統領であるオバマ氏のメッセージが込められていると受け取ることができます。
そして、前任のトランプ氏はどうだったかというと、自身のお母さんから貰った聖書と一緒に、1期目のオバマ氏と同じようにリンカーンの聖書を重ねて使ったのですが、トランプ氏は、リンカーンが具体的に何を行なったのかではなく、あくまでリンカーンの「偉大さ」を強調しました。

このように、大統領就任式の聖書には、新しい大統領に対する人々の(厳しい)期待の目が向けられているということがお分かりいただけたでしょうか。

では、新たにアメリカ大統領に就任したバイデン氏に関してはどうかというと?

彼が用意した、厚さ12.5cmという大きな聖書は、一族に1893年以来伝わるものだそうで、過去に誰かが使っていたというものではなく、彼自身が、デラウェア州選出の上院議員として就任するたびにこの聖書を使って宣誓してきたのだそうです。

ぼくが注目したのは、その翻訳です。

バイデン氏の聖書は、「ドゥアイ・リームズ聖書
」と呼ばれ、新約聖書の部分は1582年にフランスのランスで、旧約聖書の部分は1609~10年にフランスのドゥエ大学によって出版されました。長らく英語訳の標準訳して用いられてきた「欽定訳聖書(キング・ジェームズ訳/1611年)」よりも古い英語訳聖書なんですね。

バイデン氏は、カトリックの信者であり、ドゥアイ・リームズ聖書もカトリック教会の聖書です。なので、彼の聖書には、プロテスタントである名古屋学院大学の聖書には無い、いくつかの書(いわゆる第二正典とか旧約聖書続編と呼ばれる)が収録されているはずです。

彼の聖書にはどんな意味があったのか。過去2代にわたって使われてきたリンカーンの聖書を使わなかった理由は?など、様々な捉え方ができそうですが、そればっかりに囚われるのではなく、これからのバイデン大統領の活躍に期待したいですね。

そして何より、アメリカは世界を代表する多民族・多宗教の国家です。キリスト教徒以外にも様々な宗教の人たちが共存しています。これまでよりも幅広く、すべての人たちの平和と幸せが保障されるような国になっていってほしいなと思いますね。

(伝道師のほう)

LEMONと聖書

今朝、出勤時に会った職員さんに家で収穫されたレモンをいただきました。
付け合せのレモンも食べるほどのレモン好きなので狂喜乱舞(※心の中で)しています。

CIMG4756.jpg_effected.png

色も形も香りも良いです!

ところで、ブログのネタが少ない時期、こうしてレモンを前にしたらネタになるかと、キリスト教とレモンの関係性を検索してしまうわけです。聖書の中にレモンって出てきたのかなーあまり記憶にないぞと思ったら、案の定、直接レモンの記述はないようです。
残念。

で、終わっていたらただのレモンをいただいた自慢ですが、実はちゃんと聖書の世界とレモンがつながっていることを発見したのでご紹介することに。前置きがずいぶん長くなりましたが、レモンが関係するのは旧約聖書レビ記23章40節です。

ここでは「仮庵(かりいお)の祭り」という、ユダヤ教の重要な祭日についてのやり方が書いてあります。
仮庵の祭りは収穫祭的なものでもあり、ユダヤの祖先が奴隷状態にあったエジプトを脱出したことを記念して行われるものです。
そこで初日に用意する門松的なものにレモンが使われています。聖書には木の実としか書いていないのですが、それをユダヤ教徒の人がこの木の実はレモンという風に受け止めてからレモンが使われているようです。

仮庵の祭り、体験したことはないのですが、写真で見るとグランピング(これも体験したことはない)みたいな雰囲気で楽しそうです。検索してみてくださいね。
(伝道師じゃないほう)

メリークリスマス

主の降誕の喜びが皆さんと共にありますように。
2020年のキリスト教センターの活動は明日12月25日(金)大学クリスマス礼拝およびチャペルコンサートで最後です。
そしてブログの更新はこれが年内最後になります。
年末年始の休業にともない、名古屋キャンパスチャペルは12月25日から、瀬戸キャンパスチャペルは12月26日から1月6日まで閉館いたします。ブログの更新も次回は1月7日からです。

2020年は新型コロナウイルス対策のため、今までとは違う活動を余儀なくされた一年でした。それでもできないことを数え、不安になることではなく喜びを数える歩みを意識させられた一年でした。それは聖書に「いつも喜ぶこと、祈ること、感謝すること。」(テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節)とすすめられている言葉があるからです。
新しく迎える2021年もそうありたいと思います。
いつも、どんな時も神様の祝福が皆様とありますように。良い年をお迎えください。

配信予告

明日は奨励動画配信の日です。第14回は「なぜイエス様は馬小屋でお生まれになったのか?」と題して、愛農学園農業高等学校の泉川 道子先生が奨励を担当してくださいました。

・12月22日(火)13時~
 奨励者:泉川 道子 先生
     (愛農学園農業高等学校 教頭/聖書科・音楽科 教諭)
 奨励題:「なぜイエス様は馬小屋でお生まれになったのか?」
 聖 書:新約聖書 ルカによる福音書 2章1~7節

秋学期は、本学の教職員のほか、東海3県にある他のキリスト教主義学校でキリスト教教育に携わっておられるチャプレンの先生方にも奨励をご担当いただいております。

リアルタイム配信ではありませんので、お時間のあるときにぜひご視聴ください。

秋学期奨励動画 第13回「すべてのわざには時がある」

今週のチャペルアワーの奨励(礼拝説教)の動画配信のご案内です。

第13回は、「すべてのわざには時がある」というタイトルで、キリスト教センター参事・瀬戸キャンパス総合事務部参事の奈良 章 さんが奨励をご担当くださいました。



・12月15日(火)13時~
  奨励者:奈良 章 さん(キリスト教センター参事・瀬戸キャンパス総合事務部参事)
  奨励題:「すべてのわざには時がある
  聖 書:旧約聖書 コヘレトの言葉 3章1~8節

それぞれの場所で、心穏やかに神さまに心を向けつつご視聴ください。


次回が2020年度最後の配信となります。

・12月22日(火)13時~
  奨励者:泉川 道子 先生(愛農学園農業高等学校 教頭/聖書科・音楽科教諭)

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26  

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。