今年は名古屋学院大学大学院設立20周年にあたります。ここから旅立った修了生は、その後の人生をどのように生きたのでしょう。今回は、本学大学院第1期生に人生の転機と大学院での学びについて語ってもらいました。
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鈴木 明彦
(経済経営研究科経営政策専攻修士課程修了生)
■上司のひとこと
大学を卒業して20年、書籍販売で大手の会社に勤めていた1990年代の後半、第1期生として名古屋学院大学大学院への入学を決意しました。当時仕事は順調で、同僚にも恵まれていました。ただ安定した会社員生活のなかで、新しい何かを見たいという漠然とした願望のようなものが日々膨らんできているのを感じていました。
大学院に入ったことを会社に伝え、同僚にも話した半年後の営業部会議でことでした。会議が終盤に入ったころ、私の上司にあたる部長がこう言い放ちました。
「お前は俺を出し抜くきか。飛ばしてやるから見ておけ!」
当時私は42歳の課長で部長は50歳になる頃でした。社員が仕事をしながら大学院で学ぶことに、部長も理解を示していたはずでした。社会人向けの大学院が日本で認識されつつあった時期です。今振り返れば、上司は時代の流れに乗ろうとする私を疎ましく思ったのだろうと理解できます。
■大学院での温かな日々
部長の言葉どおり、その1年後に、名古屋から岐阜の営業所に異動になりました。名古屋営業所から大学院のある名古屋・栄の中日ビルまでは徒歩10分程度ですが、岐阜営業所からは1時間ほどかかります。営業所長として赴任した手前、夕方からの授業を優先させることもできず、2年間で修士課程を終える目標は頓挫してしまいました。
「これが働きながら学ぶ院生の現実なのか......」。
ある冬の日、岐阜駅のコンコースに立つと、足の底から吹き込む冷たい風で心までも凍ってしまうようでした。しかし、ようやく時間を見つけて岐阜から出席した大学院の授業では、素晴らしくそして温かい時間を過ごすことができました。同期生と先生方が私の心中を知っていたのか、あるいは知らないふりをしていたのか、参加した授業の後には必ず"反省会"が催されました。参加者の中で最も収入が低い私のために安い店が選ばれ、上代は一人2,000円でした。多分誰かが不足分を払ってくれていたはずです。ここでは会社での身分は関係ありませんでした。夢を語ることさえできればよかったのです。
認められない環境の中で、新しい世界を見ることができたのが社会人大学院でした。20年前の日本においてはまだまだ数少ない社会科学系の社会人大学院生として経験したことは、その5年後に迎えたターニングポイントで、その影響を実感することになりました。
■ターニングポイントとしての大学院
いろいろな立場の人たちが次のステージを得るために大学院に来ます。欧米のように、今の組織の中でキャリアアップを目指す人、新しい活躍の場所を得ようと勉強している人など。他の人達を見ていますと、大学院をターニングポイントにして直ちに新しい仕事を手に入れることも多いようです。私の同期生には、大手企業のトップで大学院に入り経営に素晴らしい成果を残したり、ベンチャー企業の経営者として事業を拡大したり、あるいは税理士事務所を大きくしたりと、すぐさま結果を出した人たちがいます。
一方で、私のように働く環境から認められず、人的ネットワークも資金も持たない院生もいるはずです。そのような人にこそ社会人大学院の存在は大きいのではないかと、私は考えています。会社とは異なる視点から人生を見直すきっかけを得られるからです。仕事と勉学を両立させるために時間とお金をやりくりし、授業で新しい世界を見る、そして同窓との議論で刺激を受ける――私にとって大学院とはそんな場所でした。
たとえ5年後、10年後であっても、自身の身体と心には大学院でもらった前向きな影響が残っています。社会人であるからこそ受けとめられた刺激が、どこかで育っているのです。
■新しいステージへ
私の場合は、大学院時代に受けた影響が長い時間かかって現れることになりました。大学院を3年かけて修了し、金沢で副支店長を、名古屋で営業部長を、そして東京本社で2つの部長を兼任して、5年間を過ごしました。
学生時代から好きで入社したその会社は、働くことにプライドを与えてくれました。もちろんそのまま勤め上げることも選択肢としてありました。転機を迎えたのは、名古屋学院大学大学院経済経営研究科経営政策専攻修士課程の論文コース(現在の高等専門教育コース)を修了して5年後、50歳のときでした。私の背中を押したのは、まぎれもなく"大学院の力"でした。自身の人生の新しいステージに向かう意思決定は、永い時間を経て、仕掛けられていたタイマーのように突然出現したのです。
私は現在、LCO株式会社という小さな会社の経営者です。大学図書館の運営や特許である震災軽減用図書館アイテム製作などを行っています。また、首都圏・関西両方で、NPOの立ち上げの一員として世界遺産関係・日本文化関係のアーカイブ構築に携わっています。思い返せば、現在のステージで押し進めようとしている仕事のほとんどは、大学院時代に将来構想として思い描いていたものです。そう、それは、大学院で、そしてあの居酒屋で、同期の院生に語っていた「夢」でした。
○鈴木明彦(すずき・あきひこ)