2017年11月 2日

長期留学報告(文藻外語大学 李珊娜)

台湾生活を振り返って
 
 2016年9月2日から2017年7月17日までの約1年間、私は台湾にある文藻外語大学に長期留学へ行きました。この留学を通してたくさんのことを感じ、経験しました。 
 
 そもそも、私がなぜ台湾へ留学しようと思ったかというと、父の勧めや、文藻外語大学へ留学経験のある先輩の話に興味を惹かれたからです。元々は中国に留学したいと思っていたのですが、父が台湾人で台湾に人脈があり、留学中に何かあっても安心できるという理由で、台湾への留学を強く勧められたのですが、私は煩わしさを感じあまり行く気になれませんでした。しかし、留学先を選ぶ前に台湾へ行った先輩から話を聞く機会をいただき、その先輩の話を聞くことによって台湾にとても興味を持ち、台湾に留学することを決めました。しかし、そう簡単に留学できるわけではなく、留学をする前はとても大変でした。私の留学先の大学では、あらかじめ用意しなけれはいけない書類がいくつかあったのですが、その中に自身の健康についての書類があり、私は留学するため検査や予防接種のために10本以上注射を打つことで診断書と証明書を作成してもらい、やっと台湾に行くことができました。

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 まず、台湾に行き最初に驚いたことは、台湾人の食生活です。台湾にはたくさんの安価な飲食店があり、ほとんどの人はテイクアウトをして家に持ち帰って食べるのが一般的で、料理をほとんどしません。そのためか安全上の理由なのかは分かりませんが、学生寮にはキッチンがなく電子レンジさえありませんでした。また、台湾の料理はとても美味しいのですが肉や魚介類が中心で、ほとんどの料理に油が使用されており、南へ行くほど甘めの味付けになっています。私がいた高雄は味噌と醤油を混ぜたような味の甘い調味料がよく使われていたのですが、その味付けが私にとってはとてもくどく感じ、慣れるまで少し時間がかかりました。しかし、その味付けに慣れさえすれば台湾は美食の国であり、留学中に台湾料理や台湾風にアレンジされた様々な国の料理を食べることができました。

 大学生活では、始めのころ、誰かと実際に会話する際、せっかく覚えた単語や文法もうまく発音できず、相手に伝える前に嫌になって何もしゃべることができなくなったり、緊張して忘れてしまったりと、自分のメンタルの弱さが前面に出てしまい、自分の伝えたいとこが全く伝わらず、自分の語彙力や中国語のコミュニケーション能力のなさをとても実感しました。そして、そのままではダメだと思い、メチャクチャな文法や発音でもしゃべり続けた結果、台湾人の友人に中国語がうまくなったねと褒めてもらったことで、とても嬉しく思い自信につながりました。

 大学の授業は、外国人と一緒に受ける基礎中国語の授業と、本科生と一緒に受ける一般の授業があり、一般の授業は自分の興味のある科目を選ぶことができます。私は外国人向けの中国語の授業と英語、日本のサブカルチャーについての授業を選択しました。文藻の授業は英文学など英語についての授業は英語で、日本時事など日本についての授業は日本語で行っており、日本の大学の授業との違いに驚きました。そのため、日本語以外の授業では辞書が手放せないのですが、本科生の人たち難なくこなすので、関心しながらついていけるように予習をする癖がつきました。

 留学中一番驚いたことは、台湾人の持っているメンタリティーについてです。私は大学の学生寮に入寮していたのですが、その時、ルームメイトの一人である台湾人の女の子が入寮初日の夜に泣いていたことがあり、私がびっくりしどうしたのかと尋ねると、家族に会えく寂しくなり泣いていると彼女が言い、そのことに対して私はとても驚いたことを覚えています。更に驚いたのは、私は彼女の家族が遠くに住んでおり、なかなか会えなくなるから泣いていると思っていたのですが、そうではなく、彼女の家族は車で1時間程度離れた家に住んでおり、毎週週末になると家に帰っていました。また、私の台湾人の姉は、私が自分の妹を気に掛ける以上に私のことを気にかけてくれており、大学と仕事で忙しい中、私をよく遊びに連れていってくれました。姉と私の関係は正確に言うと、父親同士が従兄弟である又従兄弟という関係なのですが、姉は私を妹であると言い、周囲もそれが当然であるというように扱うので、私は台湾人が日本人よりもずっと血のつながりを大切にしていると強く感じました。

 他にも、台湾にはたくさんのお寺や神宮寺があり、郊外を歩いているとすぐに見つけることができるのですが、このことも台湾人のメンタリティーに影響しているのかなと感じました。理由は、お寺で行う行為です。台湾のお寺は鳥居があるものが多く、初めは神道なのかと思ったのですが、そうではなく、台湾では道教やキリスト教、仏教などが中心に信仰されていると知りました。しかし、私が見たお寺のほとんどか仏教の内装に近く、両方混ざっているように感じました。なぜこんなにたくさんお寺があるのかと伯父に聞くと、利用する人が多いからだと教えてくれました。伯父家族は2週間に1度は親戚で集まりお寺に行き、神様や祖先にお参りをしたり、厄除けや占いをしたりするのですが、中でも特徴的だったのが、お供えに焼却炉で印が押された紙を燃やしていることです。この紙は、天国で死んだ祖先たちが物を買う通貨として使用するので、毎回燃やさないといけないと教えてくれました。他にも台湾には、墓参りだけではなく故人がなくなった日に薬湯をかぶって髪や体を洗い流す文化がある等、死んでもなお家族としての関わりを大切にしていると思いました。

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 今、留学について振り返り、留学先に台湾を選んで良かったと思います。留学中、台湾でしか体験できない様々な経験をすることができ、中国語の向上など勉強面以外にも、価値観や柔軟性、考え方などの面で、自分自身が大きく成長ができたことを嬉しく思います。しかし、それで終わるのではなく、台湾で体験したことをこれからに活かしていき、さらに成長できるように向上心を持ち続けていたいと思います。

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2017年11月 1日

中期(延長)留学報告(メンフィス大学 伊藤大希)

有機的な国

 この留学は、私が初めて海外で長期間滞在した経験であるとともに、初めての一人暮らしでした。そしてこの留学で私は、英語以上に多くのことを学びました。思い返すとこれらの経験は、今でも私の心に色濃く残っており、私の自信に繋がるような成功談から、今でも赤面するような失敗まで様々です。それらは全て。私の将来へ活かしていけるものでした。

 私の留学は、アメリカ テネシー州 The University of Memphis にて中期の公費留学でしたが、期間を延長し、約10ヶ月の長期となりました。生活は大学の隣の寮にて、4人で4つの寝室と1つのリビング・台所を共有する形でした。ルームメイトは学期毎に変わりましたが、日本人と一緒になることはありませんでした。

 食事は基本自炊でしたが、私が料理しているとルームメイトが私に声をかけてくるため、そこで色々なことを話しました。私がよく話したのが、父親の仕事の関係でスペインからアメリカに移住してきた、私と同年齢のルームメイトです。話の内容としては、ペパロニのピザが好き等のたわいもないおしゃべりでしたが、英語でのコミュニケーション能力を高めることができ、アメリカの文化の多様性を肌で感じました。その中で彼に聞いて驚いたのが、シーフードピザがアメリカにないということでした。

 当然国が違うと習慣や文化が違うため衝突が度々起こりますが、日本人がいないという事は、それを全部英語で解決しなければならないということです。英語を話さなければ生活できないという暮らしで、私の英語力は大幅に上がったと思います。同様に、外出し遊ぶことや、メンフィス大学との留学延長のやりとり、スーパーマーケットでの支払いのトラブル、クレジットカード紛失のやりとりも全て一人で解決してきました。これで英語力は当然ですが、一人で暮らしていくために自発的に行動し問題を解決していける力がついたと思います。この中で私は、多くの人に助けられました。大学の郵便局のお姉さん、留学担当の方々、授業を担当した教師の方々、Uberでタクシーに乗った時に気さくに話してくれた人々、そして同じクラスで学んだクラスメイトたちです。この人々とのふれあいで、アメリカという国が人あの温もりに溢れている、有機的な国でああると気づかされました。

 最も印象に残ったのは、IEI(語学留学生が在籍することになる大学内の組織)が週末に主催する食事会やパーティーです。私はどういうわけか日本人や文化の近いアジアの国の人とつるまずに、南米出身の友人とつるんでこの週末のパーティーに参加していました。この中で印象に残ったのが、なぜ留学に来たのかいう話題です。私は趣味でやっているスマートフォンのアプリ作成をする為には英語をどうしても使わなければならないから、語学留学で全世界を見渡す視点をつけ、なおかつ英語を学べるアメリカに来たと答えました。ちょうど、それを話していた友人の一人が、コロンビアで銀行関係のプログラムを組んでいたとのことでした。意気投合した私たちは、それから多くの事を語り合いました。彼の仕事のことや、お互いの家族の事、これから社会で必要とされる人材の事、そしてこれから社会に出て働く私の将来の事です。私は半分冗談で将来の夢はリッチになる事だ、と言いましたが、それに彼は大きく反対しました。それから30分ほど、他の人そっちのけで私達は話し始めました。彼が南米特有の早口の英語で喋り、私が必死こいて理解し、そして私は分からない単語で躓きながら、身振り手振りを交えて自分の考えを伝えました。私は彼との討論の中で話した内容以上に、母国語以外の言語を使って人に自分の思いを伝えるという事の楽しさを知りました。そして同様に、喋った言葉の真意を伝える事の難しさを知りました。日本語は主語を抜いて会話が成立する様に基本的に村社会、互いを知った上でコミュニケーションを取るという言語です。一方で英語は、大昔に商業のために作られた言語であり、知らない相手同士がやり取りをするという事が前提になります。私が冗談で言ったつもりでも、相手は大真面目に言っていると捉える場合もあります。私はこの会話で、今まで知識で学んできたことを肌で感じる事が出来たのでした。

 私がアメリカで最も苦労したのが、寮で共同生活するルームメイトとの生活習慣の違い、何が人の迷惑になるかと考えることの違いでした。私はアメリカ人とドイツ人と同じリビング・台所を共有していましたが、彼らは使った食器を片付けず、私のジャムや調味料、食器を勝手に使いました。これが単なる個人の問題か、それとも国民性の問題かは分かりませんが、どちらにせよ私にとって大きな問題でした。注意するにしても誰が使ったのかは分からず、冷蔵庫に張り紙を張り出すだけになり非常に歯切れの悪いまま帰国となりました。これ以外にも、リビングに友人を住まわせたりなど、「他人の迷惑を考えないのか!」と言いたくなりましたが、結局言う事はありませんでした。「沈黙はYesと同じ」という事は知識として知っていましたが、どうも人に強く求める事のできない私の悪い癖により、一人でストレスを抱え込む形になってしまいました。つまり、アメリカで生活する事の厳しさの洗礼を受けたということです。

 IEIの授業ではプレゼンテーションをすることと、小説を読める様になるが大きな目標であったと思います。レベルの低い授業の頃から、プレゼンテーションは何回も行われました。そしてプレゼントテーション後には、分かりにくかったところや質問者の興味のあるところに矢継ぎ早に質問が来ます。決して日本のように、プレゼンテーション後の質問時間でシーンとなる事はありませんでした。私も他の生徒に負けじと他人の発表をメモに取り、プレゼンテーション後の質問に参加しました。他人の発表に意見を持ち、それを投げかけるというのは為になり、非常に面白いと思った授業でした。リーディングの授業では、レベルが上がるごとに段々と読み物のページ数は増え、最終的に400ページほどの小説を読むようになりました。内容も比例して社会性のある小説に代わり、私の受けた最後の授業ではユートピアとディストピアについて議論するものとなりました。そしてライティングは、それについて数百字で自分の意見を述べ、文法は厳しくチェックされ、完全に文法的に正しい文章を書ける様にするというものでした。私は英語で文章を書くことは得意でしたが、厳しく鍛え抜かれ使える英語に成長したと思います。

 このように、私の10ヶ月あまりのアメリカ生活・留学は非常に充実したものでした。アメリカの風を感じ、有機的な人々の優しさに触れ、この国の良さを実感しました。

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2017年10月31日

長期留学報告(アラスカ大学フェアバンクス校 杉浦夢菜)

日本とは全く違う環境で自分を成長させてくれたアラスカ

Ø  留学しようと思った理由 
留学は中学生の時から目標にしていたことであり、本学に入学しどうしても長期で留学したいと考えTOEFLを勉強していました。1年生の秋学期から本格的に勉強を始め、毎日図書館の閉館時間まで勉強し、秋からはTOEFL講座を受け点数を伸ばしました。留学前に目標にしていたことは、できるだけ日本人が少ない場へ行き自分を試すこと。日本とは違う環境の中で自分を成長させること。そして英語を学ぶだけではなく、英語で何かを学びたいということでした。

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Ø  コー大学での事前研修 
長期でアメリカ留学させていただくということで、コー大学の研修に10日間行かせていただきました。実際にアラスカ大学での生活がスタートする前に、事前にこのような研修させていただき、後で役立ちました。1日目から各授業の宿題が山ほど出て、寝る時間は3時をいつも過ぎていました。それでも週末には野球観戦やショッピングセンターに連れて行っていただいたり、現地の大学生とパーティーをしたりして充実していたのと同時に、これからアラスカで留学がんばろう!という気にもさせていただきました。

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Ø  アラスカ大学について(気候・寮生活・カフェテリア)
  アラスカ大学に着いた瞬間、キャンパスの広さに驚きました。学内に3種類のシャトルバスが通っているくらい大きな場所でした。私は学内で一番大きな寮に、アラスカの田舎町出身の子をルームメイトとして住んでいました。カフェテリアでお金を払うのも、寮に入るにも学生証が必要で、また市内を走るバスも学生証を提示するとどこにでも行くことができたのですごく便利でした。 
  アラスカに着いたばかりの9月はまだ夏で、日本にはない白夜というものがありました。夜の10時まで明るくて、その時間帯まで外でパーティーをし、日本では絶対ないような経験ができていたことが、不思議な感覚ながらも楽しかったのを覚えています。 
  また、アラスカに来て1週間くらいの時に、様々な国の留学生10名ほどでオーロラを見に行きました。キャンパスから10分歩いた場所で、更にアラスカに着いて1週間ほどでオーロラが見ることができることは、とても貴重な経験できた。 
  
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  Ø アラスカで4日間のバックパック登山体験
  アラスカに着いてすぐ、留学生と新入生向けの企画として、4日間のバックパック登山体験をしました。正直、これは軍隊かと思うくらい辛かったです。でも、その引き換えに忍耐力をつけることができました。みんなでテントや食料、ガスコンロなどを分担して、1人15キロ程度の荷物を背負い、4日間トイレもない場所で過ごしました。毎日雨が降っており、着替える服がなくなったりクマがいたり、寝袋で寝ても寒くて夜寝られなかったり、落ちたら死んでしまうのではないかと思う崖を登ったりと、今までにしたことのない経験ばかりでした。やっているときは大変でしたが、今思い出すといろんな国の人やアメリカ人と関わるチャンスであったり、雄大なアラスカを見渡す経験できました。なので、もし後輩でやるかやらないか悩んでいたら、私は彼らの成長のために参加をお勧めしたいと思います。

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Ø  アラスカで一番寒い日々 
アラスカの12月は最も日が短く、日が11時ごろに登り3時には沈んでいました。気温も毎日-40度に近いなか、朝起きて、授業がある教室に向かって真っ暗な中10分歩くのにもやっとでした。外は寒いですが、寮や教室はすごくあったかいので、半袖で過ごせるほどでした。授業に向かうまでは6枚重ね着をした服を着て、3枚重ね着をしたズボンを履き、-40度に対応したブーツに、マフラー、ハット、手袋なしでは外を歩けず、室内に入ると私を含めたみんなが服を脱ぎはじめる光景が懐かしいです。
アラスカに来て学んだことの1つは、太陽の重要さです。日照時間が少ない関係で、昔からアラスカに住んでいる人はもちろん、私もビタミン剤を毎日飲まなければなりませんでした。理由は太陽の光を浴びていないことで気持ちが暗くなっていき、ひどいと鬱になるからです。やはり日照時間が4時間という日が続くと、気持ちが暗くなってくるときもありましたが、その分友達と出掛けたり、週末はパーティーをするために平日は図書館で遅くまで勉強していました。あのときはとても大変で、辛いと何度も思いました。しかし今思い返すと、日本では経験できないような経験がアラスカでできたことで、忍耐力を養うことができました。自分の限界を超す毎日を経験したおかげで、新しいことに挑戦するハードルを下げることができ、責任感や積極性を身に着けることができました。

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Ø  クラスについて
秋学期、春学期は、どちらもESLとしてリーディング、ライティング、スピーキング&リスニングのクラスを取り、レギュラーとして秋学期はアメリカ史の授業、春学期は第二言語教授法のようなクラスを取り、日本語を勉強している生徒に授業をしたりしました。他にヨガのクラスも取りました。
12月初めは期末テストに追い込まれる日々でした。私の取っていた5つのクラスのうち、4つのクラスでプレゼンがテストの一つに含まれていたりと、とても追い込まれました。今まで受けていた日本の大学では、プレゼンよりもペーパーテストや論文を書くものが多かったので、その違いに驚きました。

Ø  冬休み、春休みの旅行 
私は比較的いろいろな場所へ旅行に行きました。アメリカ内だけですが、テキサス、フロリダ、シアトル、メンフィス、シカゴへ、留学中は旅行に行きました。アラスカ大学でできた友達と出かけるのもあれば、1人で出かけた旅行もありました。同じアラスカでも、州ごとに全く違う面がたくさんあり、新たな発見がたくさんありました。冬休みにテキサス、フロリダへ行った際、毎日晴れているのに加えとても過ごしやすい天気であったので、アラスカで寒かった分、冬休みは温かい場所で羽を伸ばすことができました。

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   Ø  まとめ
  留学としてアラスカへ行き、日本とは全く違う経験をたくさんできたことは、私の人生の中でも大きなことでした。留学に行きたいと思うことは簡単でも、何を学びたい、どんな自分に成長したいかなどをある程度目標にすることも大切だと思います。留学は一言で楽しいと言うものではありませんでした。もちろん、今まで日本で生きてきた分、新しい環境に慣れること、日本語が通じない友達といること、日本人が私しかいない授業についていくこと、-40度の世界を経験することは、とても大変でした。しかし、それらを経験したことで、普段気づかないことを学ぶことができ、今に活きていると思います。
  留学に行けば英語は話せるようになる、その国の友達とすぐに友達になれると思うかもしれませんが、容易な気持ちではできないと思います。留学前に基礎的な英語力を固めておかないと、スピーキングを上達させるのには苦労しますし、自分から現地の人に話しかけて行かないと何も始まりません。留学は自分の努力次第だと感じました。私はアラスカ大学に留学でき、他の人とは違う経験ができたことを誇りに思っています。



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2017年10月23日

中期(延長)留学報告(マキーワン大学 大場 智裕)

私を成長させてくれたカナダ
 私はカナダのエドモントンにあるMacEwan Universityに約10か月間留学をしていました。私はこの場所とこの大学で数え切れないほどの新しい経験をし、いろんな人種の人たちに会い、日本の文化とは全く違う、カナダやアメリカや中国など、他にもたくさんの国の文化を直に感じ、私を大きく成長させることができました。ここでは私の大学生活と私の体験したカナダ特有の異文化体験、そして私の大好きなカナダとアメリカの旅行について書きます。

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 まず1つ目は、大学生活についてです。私の留学していたMacEwan Unversityには3つのキャンパスがあり、私が履修していたESLのクラスはAlbert College Campusで行われていました。このキャンパスは、主にESLのクラスのために使われています。ここのキャンパスの特徴として、英語を習得するためにいろんな国からの留学生や移住してきている人たちがいます。そのため、ここには本当に多くの国の人たちがいて、更に年齢層も様々で、私たちのような留学生もいれば働きながら英語を学習しているおじさんやおばさんなどもいました。

 私が履修していたクラスには、およそ16か国もの国の人たちが一緒に英語を勉強していました。私にとってこのような環境は全く予想していたものとは違い、初めは戸惑いと不安でいっぱいでした。友達はできるのかとか、それぞれの国特有の英語のアクセントで英語が更に難しく聞こえ、コミュニケーションが取れるのかなど多くの不安がありました。

 しかし、私のクラスメートたちはいつも優しくフレンドリーに声をかけてくれたり、授業で分からないところを教えてくれたりなど、常に親切に接してくれました。そのおかげで、戸惑いや不安はなくなり、逆に留学生活は楽しいものになりました。またこのESLのクラスでは、ほぼ毎回のようにグループディスカッションがあり、週1回のペースでプレゼンテーションがあり、その中にはグループプレゼンテーションもありました。それらの活動をする際に、トピックがカナダの歴史や良いところ、また、各国から来ているクラスメートの自国紹介などを通して、カナダや他国の文化や言語に触れ、学習することができました。これが主に、ESLのクラスで体験して学んだことです。


 また、MacEwan UniversityのメインキャンパスであるCity Center Campusも、毎日ESLのクラスが終わった後に行っていました。このキャンパスはすごく大きく、大学を端から端まで歩くとおよそ20分かかります。このキャンパスには様々な学部があり、ここにはMacEwan Universityの本学生が通っているので、カナダ人や英語を第一言語または第二言語で話す学生しかいません。

 また、このキャンパスにはTimHotonやStarbucksなどのカフェや広大な図書館もあり、他にも勉強するためのソファや机が数え切れないぐらいありました。そのうえ、設備のかなり良いジムやプールがありました。そのため、このキャンパスに来ては、宿題をやったりジムに行ったりプールに行ったり、友達と待ち合わせして遊んだりなど、授業後の遊び場やリラックスするために毎日行っていました。

 また、私はWinter Termから週2でビジネスクラスに参加しました。その授業はレギュラーのクラスで、ESLのクラスよりも遥かに難しく、毎日先生に質問をして何とか理解してついていけました。しかし、このクラスのおかげで、新しく友達ができました。また、週に1回バドミントンとドッジボールのクラブにも入り、友達がたくさんでき、英語を話す機会もかなり多くなりました。従って、私はこの大学生活で数え切れないぐらいの良い体験をして友達ができ、すごく良い大学生活でした。

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 次に、カナダの文化やイベントについて紹介します。私は、ホームステイをしていて、カナダ特有の文化を体験することができました。まず、私のホストファミリーは、すごく親切でフレンドリーなファミリーです。私のホストファザーはネイティブアメリカン、ホストマザーはフレンチカナディアンで、ファザーからはネイティブアメリカンの話や子供の頃の話をよく聞きました。

 また、マザーからはフランス語やカナダのフランス教育など、いろんなことを学びました。他にも、本格的なバーベキューをしたり、週2ぐらいのペースでホームパーティーを開いたりしていました。サンクスギビングには、ターキーやパイを食べたり、クリスマスにはプレゼントをもらったりなど、ホームステイのおかげで多くの文化やイベントを体験することができました。また、ハロウィンには、友達と一緒に近所にトリックオアトリートをしに行くなど、日本ではできない体験をたくさんしました。


 そして最後に、カナダとアメリカの私の旅行について紹介します。私はカナダで何回か旅行をしました。そして、訪れた場所すべて素晴らしい場所でした。

 まず私は、アルバータ州にあるバンフ国立公園に3回も行くことができました。ここバンフにはロッキー山脈が連なっていて、その麓には壮大な自然が広がり、美しい湖が何個も存在します。ここは本当に、カナダの自然を直に肌で感じることができる素晴らしい場所です。そして何よりここバンフでは、山登り・ハイキング・ラフティング・ホースバックライディング・ドッグスライディング・スノーボーディングと、約1年間を通して様々なアクティビティを体験することができ、私はその多くを体験できたのでとてもラッキーでした。バンフは、私の中では1番カナダを感じられる場所だと思います。


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 そして次に、イエローナイフです。ここは、世界で1番オーロラがきれいに見える場所として有名です。ここには3日間滞在し、1日だけとてもきれいなオーロラを見ることができました。また、ここでは現地の人たちの厳しい寒さをしのぐための独特な文化と暮らしを体験することができました。2月にはバンクーバーにも行きました。バンクーバーは海が近く、街の雰囲気や文化はエドモントンとは全然違いました。


 そして最後に、アメリカのディズニーについてです。私はディズニーが大好きで、留学に行く前からアメリカの本場のディズニーランドに行きたいと思っていて、ついに行くことができました。アメリカのカリフォルニアのディズニーパークは日本のディズニーランドとは違って、他のゲストも小さい子を連れた家族連れがほとんどで、パーク内の大きさも日本とは違い、楽しむことができました。このように、私は留学を通していろいろなところに旅行することができ、新しい発見や改めて自分が好きなものや目標を確認することができました。

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 私はMacEwan Universityでの留学生活やカナダを通して、多くの新しい経験をして、いろいろな文化を学びました。また、留学を通して、自分を大きく成長させることができました。



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2017年10月20日

中期(延長)留学報告(アルムスリム大学 水谷 奈津子)

アチェで学んだイスラームと国際協力

はじめに

 私は2016年9月1日から2017年7月6日の約10ヶ月間、インドネシアスマトラ島アチェ州にあるアルムスリム大学にて長期留学をしてきた。語学だけでなく、文化と宗教、国際協力について学んできた。留学先であるアチェは、つい最近までアチェ独立運動が行われており、2003年のスマトラ沖地震をきっかけに、平和協定が結ばれ終結した。しかし、津波による被害や紛争による爪痕が、今でも解決されないまま残っている部分が多くある。アチェ独立運動後は、アチェ特別州となり、インドネシアの中でも唯一イスラーム法であるシャリーアが適応されている地域となった。私は2015年の夏、国際協力スタディツアーにて、初めてアチェを訪れた。2014年のとき参加した国際協力スタディツアーでは、フィリピンを訪れたが、アチェのツアーでは、その時とは違う国際協力のあり方や、イスラームという宗教や文化に興味を持った。更に、長年の紛争や、地震と津波にも負けないアチェの人たちに魅了され、語学だけでなく、国際協力、文化や宗教について理解を深めるため、インドネシア留学を決めた。


初めての長期間の発展途上国での生活

 大学1年時に、フィリピンにて2週間、2年時にインドネシアにて2週間過ごしたが、ニュージーランドでの2ヶ月間の留学が、自分の中で1番長く海外で過ごした経験だった。そのため、海外、それも発展途上国で、初めてそれ以上に長い間生活をするということに不安もあったが、国際文化協力を専攻している自分にとって、この留学は大きなチャンスだと思っていた。留学先であるアルムスリム大学は、本学と協定校を結んだばかりであり、私が第1期生の派遣であった。アルムスリム大学も、長期での留学を受け入れるのは初めてであった。1期生であるからこそ、大学の名を背負い、1年過ごさなければならない、次の後輩に繋げる見本とならなければならない、アルムスリム大学側でも、名古屋学院大学に派遣される留学生に対しサポートをする役割もあったため、勝手に様々なプレッシャーを感じていた。


大学での生活

 留学生の受け入れが初めてということもあり、留学生用の授業はなく、全て現地の学生と同じレギュラーの授業だった。前期は、英会話、英文法、異文化理解、インドネシア語、イスラーム学を履修。後期には、一般マネジメントサービス、文化社会基礎、システムインドネシア経済、英文法、行政村落管理を履修した。留学当初は、インドネシア語に自信がなかったので、教育学部英語学科の学生の授業を主に履修し、授業もインドネシア語とイスラーム学以外は英語だった。留学に慣れた後期には、よりインドネシア語を学ぶためにも、英語ではない社会政治学部の授業を履修した。基本的に2時間以上の授業ばかりであり、朝も1限は8時からという日本とは違う時間割だったため、朝早くから頭をインドネシア語に切り替えるのが大変だった。毎回多くの課題が出るわけではなかったが、中間テストにはプレゼン発表が多かった。先生は、私を留学生だからと配慮し、授業に沿った中で日本に関連するテーマを与えくれた。厳しい先生は、当たり前かもしれないが、留学生だろうと関係なしにテストなどを行ったが、クラスメイトが助けてくれた。レギュラーの授業は、辞書がないと受けられないぐらい毎日ついていくのが大変だったが、周りに外国人や日本人がいない環境というのは、良い刺激になった。留学3ヶ月ぐらいで、日常生活には困らないほどのインドネシア語はできるようになった。現地語であるアチェ語も少しできると、初対面の人などと話す時に笑ってくれ、距離が縮まるのを感じたので勉強を続けた。


イスラームの世界

 インドネシアは、世界で1番イスラームの信仰者人口が多い国だ。日本では、イスラームと聞くと、IS(イスラム国)やテロをイメージする人が多いと思う。実際自分も、インドネシアに行く前はそうだった。無宗教が多い日本で、宗教自体にあまり認識がない環境であるがために、そもそも宗教が、文化や生活に繋がっていることも知らなかった。身近にイスラームの人もいないというのも、宗教に関して知らない、興味を持たない原因だった。しかし、留学生活を送るのはイスラーム圏の地域であり、その中でもイスラーム法がある地域だった。自分は生活していく中で、服装に特に気をつけた。イスラーム法が外国人である私にも適応されるとはいえ、ジルバブ(頭にまとうベール)はしなくても大丈夫。半袖は大丈夫だが、身体のラインが出る服装、胸元が開いた服装、透ける素材、足首が隠れないズボンやスカートは避けるようにしていた。だからといって、苦痛と感じることはなかった。外を歩く女性は皆ジルバブをしているゆえ、私が外を歩くと顔つきも違うからかジロジロと見られるのは、帰国するまで当たり前のことだった。留学期間の途中、それがストレスになり、「見ないでよ。でも、見られたくないなら、私が毎日ジルバブをするべき?」と思ったこともある。しかし、ジルバブをしていないからこそ、「あれは奈津子だ」と気づいてくれる友達や近所の人がいた。また、知らない人は話しかけてくれ、コミュニケーションに繋がった。ジルバブをしない私でも、日常生活はイスラームの文化上に成り立っていた。朝8時から授業が始まるのは、朝のお祈りで皆早起きをするから。箸やスプーンを使うこともあるが、右手を使って直接ご飯を食べる。左手は不浄とされ、食事中はもちろん、挨拶時の握手でも使わない。イスラームでは豚肉とお酒が禁じられているため、アチェでは売られていない。反対に、イスラームの教えで「許されている」という意味の、アラビア語で「ハラール」という言葉があり、豚肉やお酒を使用しておらず、安心して食べられる証として、売られている食材にはハラルマークが表示されている。金曜日のお昼の礼拝は、イスラームの人にとって大事なお祈りであるため、お店や学校が閉まり、12時から14時の間は毎週静かになるなど、そういった日常生活を体験すれば、「なぜそのようなことをするのか?」という疑問が、理解へと繋がった。外国人がよく、日本人は親切と言うが、イスラームの人たちも同じで優しく、神であるアッラーの言葉や教えに従い、毎日生活をしている。どうして私は何も知らない状態で、イスラームは怖い、テロと感じていたのか、恥ずかしくなった。テロを起こしている人は寧ろ、イスラームの教えとは反対のことをし、日本人が思うように、イスラームに悪いイメージをもたらしている。私はこの経験を、何も知らない日本人に伝えなければならないと感じた。どうしてキリスト教に継ぎ、世界で2番目に信仰者が多い宗教なのか納得できた。そして、イスラームという宗教と文化を理解し、アチェの人たちと生活を共にすることで、より楽しく良い経験をしながら、自分の価値観を変えることができた。


国際協力の現場

 留学に来て3ヶ月が経った2016年12月7日の朝5時頃、マグニチュード6を超える大地震が起きた。私は就寝中であったが地震で目が覚め、すぐ外に出れないぐらいの揺れだったので、ベッドから動くことができなかった。幸いにも、私が住んでいるビルン県マタンでの被害はなかった。だが、テレビのニュースや大学の友達との話で、震源地近くのピディ・ジャヤ県(マタンから車で2時間ほど)で大きく被害が出ていることを知った。地震当日には、既に大学内で募金活動が始まっており、自分も国際協力を勉強しているので、募金だけするのではなく何か支援できることがないかと考え、佐伯先生を通じて、12月8日、2015年のスタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらい、現地を訪問した。そこでまず、被害状況を確認し、どのような支援が足りていないのかなど、これから支援するにあたり大切な調査を行った。このような、緊急に支援を必要としている現場に身を置くことは、初めてだった。国際協力を学びたいと思い、大学で少しは勉強してきたとは言え、知識も行動力もなく、正直その時の自分には何もできず、何をどう動かしていけば良いか分からなかった。現場の近くにいたことは偶然であったが、この地震を通して、支援がどのように行われているのか1から学ぶことができた。このニーズ調査後、すぐに佐伯先生と名古屋学院の学生に連絡をとり、募金活動を行ってもらった。おかげで、89,162円もの寄付金が集まった。この場でもう一度、募金をしてくれた方、先生を始め、募金活動を行ってくれた仲間に感謝したい。



 ニーズ調査の結果、女性、特に母親と子どもに支援が足りてないということで、おむつ・ベビーウェア・靴下・下着・手袋・ユーカリ油・ベビーパウダー・ミルク・生理用品・石鹸・歯ブラシ・歯磨き粉・ビスケットなどが1つずつ入った袋を、子どもがいる母親に支援した。その時言われた「ありがとう」と笑顔は、忘れられない思い出になり、何より自分が国際協力を専攻し学ぶうえで、何が自分自身に足りていないのか、そして何が大切なのかを、現場から学ぶことができた。



 大学に入り、大学1年と2年時に参加した国際協力スタディツアーを通して、この長期留学に参加できたことは、大学生活、そして人生においてのターニングポイントとなり、自分自身を変え、自分らしく行動し、国際協力についてだけでなく、イスラームの世界や宗教、更にそこから繋がる文化とは何かということなど、多くのことを学んだ。ただ漠然と、国際協力をしたいと思い大学に入学したが、今では、自分が専攻している国際文化協力学科の名の通りの留学経験と、それ以上の経験、そしてアチェの人たちとの絆ができた。留学を応援してくれた家族、慣れない土地での生活で、親に心配をかけないがために言えなかった相談を聞いてくれた友人、そして、佐伯先生はじめ国際センターの方々。家族のように接してくれたアルムスリム大学の学長をはじめ、友人、そしてアチェの家族。全ての人に感謝をしている。第1期生として、やるべきこと、学ぶべきこと以上の経験をし、誇りを持って帰国したことを、ここに報告したい。




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中期(延期)留学報告(フィリピン大学 山本 泰裕)

一歩を踏み出す勇気

 

 2014年8月、ただ単純に、アジアへの好奇心から名古屋学院大学のフィリピンスタディーツアーに参加しました。当時、自分にとって初めてだった海外に、ただ"驚き"しかありませんでした。飽き性な自分は、『すぐに外国への興味もなくなるんだろうな』と思っていました。しかし、気がつくと、いつもフィリピンのことを考えていて、留学への思いが強くなっていました。両親にあまり経済的に負担をかけたくないと思っていたので、留学に行くとしても中期留学と決めていましたが、両親に留学に行く相談をすると、自分の背中を押すように『行くなら長期留学にしなさい』と言ってくれました。その言葉が自分にとってとても心強い言葉で、一歩を踏み出す勇気になりました。その結果、留学が抽象的なものから具体的なものへと、自分の中で変わっていきました。この長期留学を通して、両親のありがたみを身に染みて感じました。


 そして今から、フィリピンで経験したことや感じたことを、書き出していこうと思います。フィリピンは、一年を通して温暖な気候で、とても過ごしやすい国です。島国ということもあり、とても綺麗な海に囲まれ、自然が多い素敵な国です。国民はとてもフレンドリーで、すぐに友達になれます。しかし日本人の多くは、フィリピンという国が危ないというイメージを持っています。日本に比べたら治安は悪いですが、メディアの情報に惑わされ過ぎで、心配性な日本人はそう感じても仕方がないと自分は思います。現地に居たからこうゆうことも書けるし、これもまた、今後自分自身への自信に繋がって行くと思っています。


 肝心な授業内容ですが、自分が留学していたフィリピン大学は、フィリピンでナンバー1の大学ということもあって、名古屋学院大学にはない授業、日本にないような授業など、本当にたくさんの授業がありました。ただ、英語が話せるというのが前提なので、英語を学ぶという授業はありません。そこで、英語の能力がまだまだだった自分は、とても苦労をしました。教授が、英語を話しているのかタガログ語で話しているのか、聞き分けができないというところから始まりました。多くの日本人学生は、四六時中トイックの教材と向かい合い、部屋にこもって勉強をしていました。しかし自分は、ハッキリ言ってじっと座って勉強することが大嫌いです。そこで、常に誰かとコミュニケーションを取るように心がけていました。すると、3ヶ月を過ぎたあたりから英語に慣れ、半年を越えた頃には、英語を使うことにストレスを感じなくなってきました。半年後には、トイックの勉強を多くしていた学生より、自分の方が話せていることに気づきました。日本語というのは基本的に、書くにも読むにも膨大な知識が必要になります。そのため、私たち日本人は、日本語というものを6歳から15歳の義務教育中に10年勉強します。この経験を通して、日本人の頭には書いて読めば言語は上達するという勝手な固定概念が生まれ、結果的に書いて読んで英語を話そうとします。英語というものは、日本語ではありません。つまり、日本語と同じ勉強法で勉強しても、あまり効果がないと思いました。日本人は失敗を恐れる傾向にあり、その結果、自分自身を守るために英単語、文法などの知識を頭に詰め込んでいきます。その結果、ただ英語の知識を詰め込んだ頭でっかちにしかならないのです。これを経て言えることは、英語というものは多く話した人間が上達していくということです。間違えを恐れて尻込んでいても、結果何も得られるものはないのです。授業で間違った英語、時には無茶苦茶な英語で話しても、フィリピン人は誰一人笑いません。まっすぐに理解してくれようとしてくれます。ここもまた、自分がフィリピンを好きな理由の1つです。


 しかし、どこの国にも良い人間ばかりではありません。自分が留学中に1番と言ってもいいほど、腹が立ち悲しい気持ちにさせられたことは、留学生が滞在していたアカシアという寮にいた寮母さん(ドームマネージャー)の人種差別です。自分は、彼女は普段から冷たい人間なんだと思っていました。しかし、フィリピン人と留学生に対する態度が、明らかに違うと感じられることが時々ありました。更に、絶対的に韓国人を嫌っていました。もちろん、韓国人の彼らが彼女に何をしたということはありませんが、彼女は韓国人にだけ、他の留学生よりも多くの寮費を滞納費という名目で支払わせていました。韓国人学生が日本人学生の支払いの領収書を見たときに、自分のものと全く金額が違うことに気がつき、この事実が発覚しました。どの時代にも、こんなくだらないことをする人間がいるのです。


 学外での活動では、8日間孤児院に泊まり込みで、リサーチを含め滞在させていただきました。やはり格差が大きいフィリピンでは、まだまだ恵まれない人がたくさんいます。孤児院の子供達は皆フレンドリーで、いつも小さい体をめいいっぱい使って、タガログ語の分からない自分に気持ちを表現してくれました。そんな彼らは、親が離婚して面倒を見られなくなって送られてきたり、DVだったり、路上で物乞いやスカベンジャー(ゴミを集めてお金にする人)をしていて保護されたりと様々でした。そんな彼らは、家族のもとに帰りたいという子供もいれば、帰りたくないという子供もいました。孤児院は子供達をただ保護するだけでなく、必要最低限の生活リズムやテーブルマナーなどの教育を提供していました。子供達は掃除、洗濯、食器洗いなどをすべて自分たちでこなしていきます。個人的に孤児院は、ある意味更生施設の役割もしているところなんだと感じました。


 留学というものは、"言語"を学ぶだけのものではなく、言語を学びながらもっと大切な何かを勉強する時間なんだと感じました。人への感謝、人としてのあり方、経験することの大切さ、何事にも一歩踏み出す勇気、そんなことが今回の留学で得た、言語以上の収穫でした。この留学が、今後の自分にとって確実に糧になり自信にもなります。これからの未来には、1歩を踏み出す勇気を持ち、進んでいきたいと思います。




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2017年10月19日

中期留学報告(アルムスリム大学 深川 開斗)

人とは、違う経験の数々
 

 私は中期留学生として、2016年8月31から2017年1月24日までインドネシア・アチェ州に留学した。インドネシア・アチェ州に行くのは、2度目だった。1度目の訪問は、1年次スタディツアーだ。スタディツアーに参加して、国際問題や国際協力について学んだ。その時、間近で国際問題や国際協力を見て、もっと見てみたい、この人たちと同じ環境で住んでたくさんのことを感じたいと興味が湧き、2度目の留学に繋がった。 


 留学先では、アチェにあるアルムスリム大学で、地元の生徒たちと同じ授業に参加した。私が留学した大学には、私と同じカリキュラムで留学していた水谷さん以外、外国からの留学生がいなかったので、その分他の留学生よりもたくさん現地の人たちと接する機会があり、インドネシア語と触れ合う時間も多かった。 授業は一コマだいたい120分や150分と、日本の大学より長く大変だった。私は月曜日から土曜日まで授業があったので、忙しかった。 講義内容は様々で、インドネシアの文化を学んだり、インドネシアのマクロ経済、インドネシアの環境問題、インドネシア語で英語の授業を受けたり、パソコンでポスターを製作するコンピューターの授業などを受けた。その中でも印象に残っているのは、イスラム教の授業だ。インドネシアはイスラム教の人がとても多いので、イスラム教のお祈りやモスクの見学など、イスラム教徒が多いからこそできる授業があり、その授業を通してとても貴重な体験をすることができた。正直なところ、始めは授業の1割も聞き取れていなかったが、日が経つにつれてどんどん慣れていき、最後は100%理解していたわけではないが、授業後の時間などに大学の友達に教えてもらったりして、なんとか理解して授業に参加できるようになった。 

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 留学期間中は、アルムスリム大学の寮で生活した。寮の施設は、部屋が4つ、リビングが1つ、トイレが2つ、キッチンが1つあり、4人で住むには十分な広さだった。しかし、シャワー、バスタブはなく、トイレの横にある水槽に水を溜めて、その水を浴びて身体を洗っていた。寮は自分用の部屋があり、とても快適に過ごすことができた。 


 留学生活を楽しく過ごせたのは、現地の友達のおかげだ。寮の隣に喫茶店があり、アチェでは喫茶店で長時間おしゃべりするのが一般的だったので、毎日喫茶店に通った。そうすることで、たくさんの友達ができるようになった。大学で出た課題やインドネシア語を勉強するときは、いつも友達が教えてくれて、毎日友達と会っていた。また、友達に紹介してもらった地元のサッカーチームに参加して、週に2度サッカーをし、トーナメントでは良い成績を残せた。サッカーを通してできた友達とは、一緒にお揃いのユニホームを作ったりと、交友関係はかなり充実していた。


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 留学生活の中で、大学での活動以外に力を入れていたことがある。それは、国際協力だ。私は1年生の時にスタディツアーで訪れた村々を、地元のNGOと一緒にもう一度訪問した。中でもチョ・マンボンという村には、何度も足を運んだ。チョ・マンボンの村の人たちは、生活用水に困っていた。地元のNGOが水道管の援助をすることが決まっていたので同行させてもらい、現地の限られた支援の中で、村の人たち自身が無償で工事に参加しているのを見た。この光景は、現地で直接支援をしていないと見えないものだった。この時私は、支援する側と、村の人たちの現状を良くしたいと思う気持ちと行動が合わさったのが、国際協力なのではないかと思った。直接現地へ訪れないと、このように考えることができなかったので、とても良い経験になった。 


 留学生活で1番印象に残っていることは、地震だ。2016年12月7日水曜日、私が留学しているインドネシア・アチェ州で、M6.5の地震が起きた。地震発生の翌日から、佐伯先生を通じて地元のNGO「jari aceh」のヌルジュバさんにお願いして、最も被害が深刻なピディ・ジャヤ県への被災者支援とニーズ調査に同行させてもらった。実際に被災地に行って、新聞やテレビの情報だけでは伝わらないことがたくあると感じた。私は、水や食料を配って炊き出しをしたら、支援は終わりだと思っていた。しかし、現実は全く違った。たくさんの水を持って行ったとしても、その地域に既にたくさんの水があったら水は必要ない。大切なのは、被災者のニーズに応じて支援することだった。このためには、たくさんの情報、たくさんのコミュニケーションが必要だと思った。


 名古屋学院大学のメンバーとも、協力して支援した。私が自らポスターを作成して大学に飾ってもらったり、この時留学していなかった大学の友達と連携して、募金活動を行なった。この募金活動で集まったカンパで、何度か私たちが現地へ足を運び支援活動をした。この経験は、私の留学生活の中で良い経験だと思う。国際協力文化学部として、ただ語学のために留学するのではなく、国際問題や国際協力に携わることができて、とても良かった。 

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 留学を通して、インドネシアの人たちの温かさに、たくさん触れることができた。なので、次は私がインドネシアの人たちのために何かしたいという、新たな目標ができた。留学を終えた今、それに向けて勉強していきたいと思っている。そして、今だから言えることは、留学をしようかと悩んでいる人がいるならば、できなくても良いので1度挑戦した方が良いということだ。なぜなら、私自身が留学することを決断するまでかなり迷ったが、留学しなかったら後で後悔し心残りすると思い、まずは挑戦しようと思って留学をした。そして今は、留学をしてとても良かったと思っている。私の留学経験は私にしか経験できないことがあり、かなり私を成長させるものであり、必ずこれから活きていくものだ。今後の人生において、一生忘れることのない5カ月だったと私は思う。最後に、この留学生活は、私1人で到底成功する事はできなかったと思うので、関わってくれた全ての人たちに感謝している。本当にありがとうございました。



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中期留学報告(パシフィック大学 井上 駿)

パシフィック大学
 
 私は、2016年の8月中旬から約4か月間、アメリカに中期留学をしていました。パシフィック大学は、アメリカの西海岸に位置するオレゴン州フォレストグローブにあります。フォレストグローブは、小さな町でのんびりしています。小洒落たお店が何軒か連なっており、一つ一つが私や周りの学生にとって大きな存在でした。私のお気に入りの店は、ピッツァスミッツァというピザ屋さんで、パシフィック大学の生徒には値引きをしてくれます。こういったお店は大学付近のお店には多く、学生にとっては住みやすい町でした。一番衝撃だったのが、映画館です。映画のチケットが学生割引で2ドルだったので、一時期映画館に行くことにハマっていました。 
 
 さて、この留学を通して私は、行って良かったと感じる機会が本当に多くありました。英語を学びにパシフィック大学に行きましたが、英語の習得以上に価値のある経験と知識を得て、考え方が変わり視野も広がりました。留学をしている間、毎日が刺激的で新しいことの発見の連続でした。なので、今回はこれらのことについて書いていきます。 

 幼いころに一度海外には行ったことがありますが、私の記憶にはそこの景色の記憶が少しあるだけで、今ではほとんど覚えておらず、海外はほとんど初めてのようなものだったので、今回アメリカに行けるという楽しみや期待が大きかった分、不安も多くありました。実際に、国際便の飛行機の乗り方もろくに分からなかった私は、周りの人に助けられることによって、無事にアメリカに着くことができました。 
 
 いざアメリカに着いてみると、やはり英語を主流に全員がコミュニケーションを取っており、焦ったのを覚えています。現地の大学生や飲食店の店員に話しかけられても、まず聞き取ることに精一杯で苦戦しました。聞き取れても頭がいっぱいいっぱいで、思うように話すことができず、本当に会話が成り立ちませんでした。言葉がうまく伝わらないことが、こんなにもストレスになり悩みになるとは思いませんでした。 

 そんな日々が続き、どうしようと思っていた時に、ある程度耳が英語に慣れていることに気づきました。ある程度聞き取ることができれば、何を話しているのか大体理解できるので考えることに余裕ができ、会話を返すことができるようになりました。そのおかげで、ご飯やスポーツなどにも誘うことができるようになり、現地の人たちとも仲良くなっていきました。様々な国の人たちが集まるアメリカで、人種に関係なく英語という言語でみんなとコミュニケーションが取れるのは、本当に素晴らしいことだと思いましたし、これからも継続して、英語に触れていきたいと思いました。それと同時に、他の言語や国にも興味を持つようになりました。私はそれまで、日本の価値観の中でしか物事を考えられていなかったので、視野が広くなったことが本当に良かったです。 

 高校生の頃までは、英語が本気で嫌いで学ぶ意図が分からず、英語の勉強をしていませんでした。でも、大学に入るにあたって、進路を決めるときに外国人とコミュニケーションが取りたいと思うようになり、それなら英語を学んでみようと思い、今の大学に入りました。そのきっかけは、当時やっていたバンドです。よくライブハウスでライブをしていたので、他のバンドの人たちとのつながりが多くありました。その中に外国人のバンドもいて、時々一緒にライブをしていました。もともとアメリカやイギリスの音楽に興味は持っていたので、いろんな話を聞きたかったのですが、英語で話すことができず終わりました。その時は何とも思っていなかったのですが、なぜかそこから更に世界のバンドにも興味を持つようになり聞くようになりました。そうなると、歌詞は日本語ではなく英語だったので、自分でも知らない間に英語に興味が向くようになりました。留学に行って帰ってきた今、あのとき英語を学ぶ道に進んで良かったなと思います。留学中、様々な音楽に触れることができたので良かったですし、ギターを中学生の時からやっていたので、パシフィック大学の授業で先生とギターでセッションをすることもでき、先生の普段とは違った面も見ることができて面白かったです。あとは何といっても、違う授業の先生のタトゥーが最高にかっこよかったです。 授業内容は、宿題やプレゼンの発表などが多くあり大変でしたが、どの授業も先生とクラスの雰囲気が良く、学んでいて楽しかったです。 

 授業面以外でも学ぶことは多く、ただ単に外国人の友達と話していても勉強になるし、英語でのコミュニケーションに慣れることにもつながっていきました。特にジャパンクラブというクラブのおかげで、友達の輪も広がっていきました。ジャパンクラブはその名の通り、日本の文化について共有するクラブで、ここに参加する外国人は日本に興味があって来ているのですごい話しやすく、相手からも話しかけてきてくれます。週一回あるので私も参加し、日本の文化について教えていました。一番印象に残っているのが、かるたをやったときのことです。私が日本語で読み札を読みあげると、外国人が聞き取ってちゃんと札をとっていくのが驚きで、アメリカなのに日本語を学んでいる人たちもいることに衝撃を受けました。日本人の私が英語を学んでいるように、日本語を学んでいるアメリカ人もいてくれたので、一緒に話したりしてお互いに教え合えたりでき、その点でもジャパンクラブは良いクラブでした。

 その他の良かったことは、いろいろな場所に行けたことです。最初にオレゴン州で栄えているポートランドに行きました。オレゴン州は税がないのですごく住みやすい街で、尚且つおしゃれな町でした。ポートランドは何回か行きましたが、全体を回りきることなく結局帰ってきました。もう一度行ってみたい場所です。そして、そこで初めてNBAの試合を見ました。本場のバスケットボールの試合を見ることができて、すごく嬉しかったです。また、マンザニータビーチという、地元では有名なビーチに9月頃行きました。午前中は天候が曇っていましたが、午後は晴れてビーチを堪能することができました。また、12月頃にマウントフットという、オレゴン州の富士山と言われている山にも行きました。その日は晴れていて、マウントフットを横目に山登りしました。西海岸に位置するオレゴン州ですが、この時期は凄く寒かったです。
 
 Fall AとFall Bの間の休みでは、ニューヨークに行きました。観光するところが多くあり、テレビや雑誌で見た世界がありました。実際に行ってみると、人の数がすごく活気があり、世界の中心という言葉がぴったりでした。10月頃は、土日を使ってオレゴン州の上の州であるワシントン州のシアトルに行きました。私が好きなギタリストたちがここの出身なので、行けて良かったです。ガムウォールという変わった壁や大きい魚の市場などの観光もでき、楽しかったです。また、ロサンゼルスを訪れる機会もあり、本当に楽しかったです。

 アメリカの中で、私が何回でも行きたい州がカリフォルニア州です。私的にはディズニーランドやユニーバーサルも楽しかったですが、西海岸の文化が一番好きでした。ビーチがあり、スケートボードやサーフィンなどといったストリートの文化が根強く、退屈しない場所だと思います。絶対にまた来たいと思いました。更に気温も暖かく、12月でも半袖で過ごせました。それと、ハリウッドも凄く良かったです。ハリウッドの中心街は、ニューヨークのタイムズスクエアの雰囲気に似ていた印象があります。西海岸の州全部に行きましたが、気温も文化も全然違い、それだけアメリカは大きな国だと思いました。まだ、アメリカ全体のほんのちょっとしか行って見てないので、またアメリカに行きたいです。アメリカは膨大な土地で、その土地ごとに文化が発達しており、とても楽しい国でした。

 ロサンゼルスを訪れた後に約3週間、カナダのトロントの友達のホームステイ先にお世話になりに行きました。3週間は思ったよりも長く、トロント市街やモントリオール、ナイアガラの滝などにも行くことができました。トロントは気温がマイナスだったので、本当に寒かったです。人生で初めてアイススケートもしました。カナダにも行くことができて、本当に良かったです。 

 旅行以外ですと、ハロウィンのイベントやクリスマスなどといったイベントや、パーティーも楽しかったですし、大統領選に立ち会えたことも良い経験になりました。今回初めて留学に行ってみて、数知れない多くの新しい経験を得ることができたことが、私にとっての本当に価値のあるものになったのだと思いました。


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中期留学報告(アルゴマ大学 石塚 育子)

スーセントマリーでの貴重な経験 
 

 私の留学先のスーセントマリーは、自然が豊かな小さな街でした。4ヶ月間を海外で生活するなら、安全でのんびりと過ごすことができる場所が良いと思ったので、スーセントマリーに留学することに決めました。秋は、アルゴマ大学の敷地や街のストリートにある木の紅葉がとてもきれいで、リスをよく見かけました。冬は極寒で、12月になる頃には凄まじい量の雪が積もります。それでも寮の中は全体に暖房が効いているので、快適に過ごすことができました。しかし、外出をする時は、マフラーや手袋が欠かせなかったです。スーセントマリーの人たちは、とても親切でフレンドリーでした。見知らぬ人でも、目が合うとニコッとしてくれました。更にお店のスタッフさんは、ほとんどの人が親しく話しかけてきてくれます。現地の人たちがみんな純粋で優しかったおかげで、異国の地に住むことへの不安がすぐに消えました。 

 授業は学校のESLに所属していたので、リーディング、ライティング、グラマーの3つの授業を受けていました。成績は学期末のテストが一番大事ですが、提出物、出席率、小テストの結果、中間テストの結果も成績に響きます。クラスはクラス分けテストで決まるので、クラスによっては大人数になったりします。私のクラスは少人数で外国人が多いクラスだったので、語学力を伸ばすのにはとても良い環境でした。先生との距離が近く、すぐに先生に質問することができました。ペアワークをする時は、外国人生徒とパートナーになって話し合いをすることが多かったです。外国人生徒は、中国人とブラジル人とアラビア人がいました。私よりもはるかに英語を話すことができる生徒ばかりでしたが、授業中もプライベートでも仲良くしてくれました。クラスメイトたちは母国について話してくれたり、授業が早く終わった日には、クラスのみんなでに外食したりしました。雪がたくさん積もった日には、中国人のクラスメイトと雪だるまを作って遊びました。 

 ブラジル人のクラスメイトの家に、4日間滞在させてもらったこともあります。その期間は、ブラジル人のクラスメイトの子どもと寝ていました。毎晩寝る前には子どもと一緒に遊んでいたので、自分に弟ができたような感覚でした。クリスマスには、ブラジル人のクラスメイトの家族や親戚と一緒に、キリスト教の誕生を祝いました。初めて本場のクリスマスを体感したので、感激しました。クリスマスには、クラスメイトの家族にクリスマスカードとクリスマスプレゼントを渡しました。また、私もクラスメイトの家族と親戚に、カードとプレゼントをもらいました。その時は、本当に家族の一員になったようで、とても嬉しかったです。カードやプレゼントを家族で交換したり、みんなで食事をしたり、ご近所や友達にも「メリークリスマス」と挨拶をする光景は、どことなく日本のお正月と似ていて親近感を感じました。  留学中は様々な苦労がありました。最初の頃は、カナダの生活に慣れるのが大変でした。日常生活で英語を話したり聞き取ったりすることができなかったり、カナダの食文化に慣れなかったりしました。身の回りのものでは、シャワーやトイレが使いにくかったり、バスの乗り方が分からなかったりしました。このような些細な苦労が全てストレスとなって、積み重なっていました。留学中に一番苦労したとことは、英語を聞き取ってもらうことでした。自分は発音よく英語を話しているつもりでも、日本人訛りの強い英語になってしまうため、言いたいことが一回で伝わらないことが何度もありました。特に"water"の発音が難しかったです。クラスメイトとレストランに行って水を注文するときに、クラスメイトと同じような発音で水を注文するのですが、私だけが伝わらなかったことが多かったです。諦めてスペル通りに発音する方が、一回で伝わりました。"water"は簡単そうに聞こえますが意外と難しいので、英語圏に旅行するときは"water" の発音は練習しておいた方が良いと思います。また、いろんな国の人の英語を聞き取るにも苦労しました。最初は、ブラジル人のクラスメイトの英語も聞き取るのが難しかったです。国によって英語の訛り方は様々ですが、いろんな人が英語を話しているのを見て、英語は世界の共通語であることを改めて実感しました。 

 最後に、私は留学を通して語学力を伸ばしたい、異国の文化の地で様々な経験をしたい、そして消極的な自分を変えたいという理由で留学をしました。留学を通して、語学力や国際感覚が身についただけではなく、積極性も身につきました。最初の方はクラスメイトから話しかけてきてくれることが多かったです。しかし、クラスメイトと徐々に打ち解けていくうちに、自分からも話しかけるようになり、留学前よりも積極的な人間になれました。クラスメイトに間違った英語を使って場をしらけさせたりするなど、たくさんの恥をかいてきましたが、それでも私のことを面白い人だと言って受け入れてくれました。英語だと言いたいことの100%が伝えられなかったりしますが、拙い英語でも一生懸命に相手に伝えようとする姿勢は大事だと気づきました。また、スーセントマリーで出会った人たちは、本当に素敵な人たちばかりでした。個性的なクラスメイト、いろんなことを教えてくれた先生、家族のように毎日一緒に過ごした寮の仲間、優しくて純粋な現地の人たちなど、いろんな人に出会い、人とのつながりは素晴らしいなと感じることができました。 

 留学中は自分を見つめなおし、将来の方向性についてもたくさん考えてきました。帰国後は、留学経験を生かして次に留学する人たちにアドバイスをしたり、日本に来た外国人のために何か役に立てればいいなと思います。中期留学全体を通して、留学前から帰国するまで、無知なことが多く大変でした。飛行機のことやキャッシュカードのことやカナダに着いてからのことなど、最初は何から何まで分からないことだらけでした。それでも日本にいる両親、留学先での友達、現地の人、寮の仲間に助けられ、無事に4カ月間を過ごすことができました。授業についていけなくて大変だったこともありましたが、無事に全教科を合格することができて安心しました。留学先で出会った人たち、日本から応援してくれた友達、そして私が留学に行くことを一番に応援してくれた両親には、とても感謝しています。また、国際交流を通して、人と話すことの楽しさを感じました。異国の人たちは日本人にはない大胆な考えや価値観を持っていて、それがとても面白かったです。また、国際交流をすることで、改めて日本を知るきっかけにもなり、日本人と友達になることとはまた違った楽しさを感じました。




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中期留学報告(アルゴマ大学 酒井 花子)

五か月間の留学を終えて


カナダでの5か月の留学生活で、英語を学ぶだけでなく、楽しいことや苦しいこともたくさん経験しました。この経験から、諦めないことの大切さ、すぐ行動することの大切さを学ぶことができました。留学に行く前、私のトーフルの点数は420点程度で周りに比べてとても低く、文法の基礎すらしっかりと理解できていない状態でした。


まず、アルゴマに着くと、寮のアドバイザーから寮についての説明があったのですが、何を言っているのか全く分からなくて、不安でいっぱいのままカナダでの生活が始まりました。ミールプランはどうすれば使えるのか、キッチンはどうすれば入れるかなど、誰に聞けばいいのか何も分かりませんでした。着いて2日目には、オリエンテーションが始まりました。そのオリエンテーションにはESLの学生以外もいて、とてもにぎやかな感じでした。ハイキングをしたり外でチキンを食べたり、楽しかったです。周りには、自分から他の国出身の子に話しかけている子がたくさんいましたが、私は緊張して自分から話しかけることができませんでした。しかし、そこで話しかけてくれた韓国出身の子と仲良くなれました。英語で実際に話すことで、自分の分からない単語やフレーズなどに気付くことができました。分かっていたつもりの単語も、他の意味で使われていたりしたので、学ぶことが多かったです。


授業が始まり、クラスで他の生徒は先生の質問に答えているのに、私はまず先生がどんな質問をしているのかも分かっていませんでした。どの教科も、最初に受けたテストは75パーセント以下で、特にリーディング・ライティングは52パーセントで、単位取得には程遠いレベルでした。初めの頃は、レベル3は自分に合っていないと感じ、ずっとクラスのレベルを変えたいと思っていました。しかし、とにかくやるしかない、英語力をあげたくてカナダにきたのだから、もっと頑張ろうと自分を奮い立たせて、それからは授業をより集中して受けて、毎日とにかく授業についていく努力をしました。クイズの日の前日は、友達と問題を出し合って夜まで勉強をしました。自分一人で勉強するより、友達とやるほうが分からない時にすぐ聞くことができ、とても効果的でした。私は、文法の基礎がクリアに理解できてなかったので、周りの友達に何度も説明してもらい助けられました。月曜の4限にあった、自由に先生に質問できるクラスを活用して、分からないことがあった時はすぐに先生に質問するようにしました。分からないことを後回しにすると、どんどん分からなくなってしまうので、はやく対処できる環境があって本当に良かったです。先生はとても素晴らしい方で、文法の質問に対していつもその場で分かりやすく教えてくれました。リーディング・ライティングの授業は課題がとても多く、最初の1か月はそれに慣れることが大変でした。毎週土日は、1日のほとんどをエッセイを書く時間に費やしていました。エッセイは、自分の舌の能力を失ったらどうなるのかなど、内容まで考えさせられるものが多かったので、余計に時間がかかりました。エッセイのことばかりを一日中考えるのは、しんどいことでした。それに加え、一生懸命書いてきたエッセイを先生に見てもらったら、他の生徒が同じ内容を書いているから、内容を変えて最初から書き直しと言われ、かなりショックでした。しかし、とにかくやるしかないという環境のおかげで、徹夜でエッセイを仕上げることができました。その分、精神的な面で成長できたと思います。また、諦めずに最後まで仕上げたことは、自分の中でも自信になりました。


5か月間、友達にはいつも支えてもらっていました。テストがうまくいかない時に励ましてもらったり、勉強を教えてもらったり、人間関係でうまくいっていない時にアドバイスをもらったりしていました。英語の勉学以外にも、寮生活のおかげで今までほとんどやったことのなかった洗濯を淡々とこなし、唐揚げを一から作ったり、お米を鍋で炊いたりすることができるようになりました。留学前は、それは母が当たり前にやっていてくれていて、洗濯も料理も勝手にめんどうくさくてやりたくないと思い込んでいました。しかし、やってみると意外と楽しくて、洗濯も料理も好きになりました。特に料理は、どのような手順で作れば効率よくできるかを、考えながら作ることが面白いです。やったことないことを勝手に自分には出来ないとか、めんどうくさそうと決めつけるのではなく、とにかく一度はやってみることで、初めてそれが本当に自分にとってどんなものなのかが分かるということに気付きました。当たり前のことですが、とにかく色々なことに挑戦することで、より自分を知ることができるということに気付かされました。


5か月間、学校の勉強は大変でしたが、自分が成長できた良い機会にもなりました。留学で得た困難にも諦めずやり遂げる力を、他のことにも活かしていきたいです。




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