3月16日(金)に,名古屋キャンパスのクラインホールで,寺島実郎さん(日本総合研究所理事長,多摩大学学長,三井物産戦略研究所会長)の公開講演会が催されました。寺島さんは,TBS系の「サンデーモーニング」やテレビ朝日系の「報道ステーション」などでコメンテーターを務めているので,ご存知の方も多いと思います。
名古屋学院大学では,学生たちに現実の社会経済問題への知的好奇心を刺激するため,また,地域社会へ大学が持つ知のリソースを還元するために,オピニオンリーダーを招いて積極的に公開講座を開いています。その一環として,今回は寺島実郎さんに「世界の構造転換と日本」というテーマで,1時間半ほど講演をお願いしました。
事前の申し込みは900人を超え,クラインホールの座席数500を大幅に上回るものでした。そのため,急遽,別室にモニタールームを用意し,同時に多くの職員の協力を仰いで,実施の運びとなりました。
講演のスタート時間は午後3時でしたが,開演を待つ人が午後2時頃から受付に列をなすほどの盛況でした。
講演の要旨は次の通り(文責:木船)。
<世界の構造変化>
世界は大きく構造変化が進んでいる。①世界人口は2011年に70億人に達し,さらに2050年には93億人に膨らむ。しかも,70億人が自己主張を始め,かつてのG8では世界的な問題を解決できなくなっている。一方日本の人口は2007年に1.28億人でピークアウトし,今後は減少を辿る。②冷戦の終焉から20年が経過し,冷戦の勝利者であり唯一の超大国となった米国の存在感は,後退している。また,90年代のIT革命は,軍事技術の民生用利用に道を開いたものだが,今後はICTを触媒とする産業社会革命が進行する。③9.11から10年が経過し,米国は「イラクの失敗」から経済的ダメージを負うとともに中東を束ねる力を失い,アジアを中心とする政策へ転換せざるを得なくなった。
<大中国圏>
中国の影響力は,中国本土に加えて,中華系民族が国を支える香港・台湾・シンガポールといった国を含めた「大中国圏」として認識することが重要だ。そこでは,ネットワーク型発展が展開されている。貿易量をみても,日本の対大中国圏への依存度は対米国に比べて3倍,米国の対大中国圏への貿易量は対日のそれに比べて2.6倍になっている。シンガポールは,IT,バイオ,医療,ツーリズム,技術開発などの面から中国の世界に向けたベースキャンプと位置付けられる。
<エネルギー>
米国では,「シェールガス革命」といわれるシェールガス(頁岩層の隙間にあるガス)の開発がブームになり,ガス価格が大幅に下落し,エネルギー政策の方向転換がみられる。LNGを長期契約で輸入している日本のガス価格は,原油価格とリンクしていることから,米国の5倍も高いものになっている。
福島第一原発の事故はあったが,原子力発電は,2030年に電源構成の2割程度を維持することが望まれる。この理由は,日本が誇れるものは「技術」しかなく,原子力の平和利用に徹して,技術基盤や人材を保持し国際的な発言力を維持する必要があるからだ。
講演では,寺島さんご自身が作成している『寺島実郎の時代認識』という冊子を資料集として,適宜,ページを括りながら話を進められました。実際の数値データを踏まえた話は,説得力があり,テレビ画面を通じた印象よりも迫力があります。落ち着いた語り口,眼から鱗の数々の指摘,新情報満載で,あっという間の1時間45分でした(予定よりも15分ほど時間延長)。世界をエネルギッシュに駆け巡る国際的知識人の姿を垣間見た思い。
ところで,開演前の半時間ほど,寺島さんと歓談する時間がありました。エネルギー問題の研究者として,寺島さんと小生とには共通の知人が多く,講演前にひとしきり友人諸氏の話題で盛り上がりました。
「超多忙な寺島さんは,いつ勉強するのですか?」と小生が質問すると,
「どんなに偉い人と付き合っていても,毎日,必ず夜9時には机の前に居ます。パブロフの犬のようです。」と答えられました。
言われてみれば至極当然ですが,知の巨人となるためには,条件反射のように勉強をし続けること,これが肝心なのですね。学問に王道なし。
今夜は,「ラジオ深夜便」の音を消して,勉強しようと思います。
2012年3月アーカイブ
学位記授与式の一日
3月15日(水)に学位記授与式(卒業式)が名古屋国際会議場・センチュリーホールで行われました。2011年度は,学部卒業生1,075名,大学院の修了生58名が,それぞれ学士・修士・博士の学位を取得しました。また,1964年に大学が開設以来,累計卒業生は,40,085名と4万人を超えました。
当日の天候は晴れ。春の陽気を感じさせる穏やかな一日でした。女子学生にとって,卒業式は一種のファッションショーの日。着物に袴スタイルの女子学生が多く目に着きます。彼女らの「ハレ舞台」のために,当日の天気が雨でないことを数日前から祈ってきました。ヨカッタなぁ~。
学位授与式は,10時半にスタートし所要時間は約1時間。私にとっても今日は,学長として初めて学位授与式で式辞を述べる「ハレの舞台」です。前日は,無い知恵を絞りながらも,徹夜で式辞の原稿を作りました。その原稿は,この文章の後半に添付させて貰います。
学位記授与式が終わると,急いで着替えて教室へ。ゼミ生一人ひとりに学位記を手渡します。「元気で,頑張れ」,「いつでも相談に来いよ」と声をかけます。目をみつめ握手する。少しジ~ンとくる瞬間です。
ここ数年,卒業生に贈る最後のメッセージは,「アジケン」と決めています。アジケンは,アジア経済研究所の略称「アジ研」では,勿論,ありません。アは挨拶,ジは時間,ケンは健康です。教員としてではなく,人生の一人の先輩として,社会人になったらこの3つに留意しなさい,という教訓を述べます。
それが済むと,各学部の卒業パーティーがあり,それを渡り鳥のようにハシゴしました。12時15分から経済学部,13時から人間健康学部。このふたつは大学の食堂で行われました。15時から商学部がヒルトンホテル,18時から外国語学部が中日パレス。気の利いた話はできませんが,どこでも「挨拶」のためにマイクの前に立ちます。「学長は典礼要員である」ことを痛感する瞬間です。
女子学生の比率が高い外国語学部のパーティーは,流石に華やかです。会場は,着物と袴スタイルから艶やかなパーティードレスにお色直しをした若い女性たちの熱気で充満しています。男子学生が圧倒的に多い経済学部の世界に慣れ親しんだ小生としては,異次元の空間に迷い込んだような錯覚を覚えた次第。
パーティーの最後までは付き合いませんでしたが,お昼過ぎから続いたパーティーのハシゴは,徹夜の身体と頭には厳しい鍛錬の機会でした。疲れたぁ~。
名古屋学院大学を巣立っていく皆さん,卒業おめでとう。心から,皆さんのご健康と明るい未来を祈っています。大いに羽ばたいてください。そして,たまには大学を尋ねて,近況報告などしてください。
以下は,学位記授与式で述べた私の式辞です。
学位記授与式の式辞
今日,ここに,学部を卒業する1,075名のみなさん,大学院を修了する58名のみなさん,卒業,修了おめでとうございます。大学を代表して,みなさんに一言お祝いと激励の言葉を述べたいと思います。
その前に,ご来賓の方々にお礼を申し上げたいと思います。ご多用の折にも関わらず,私ども学生たちのために,この場にご臨席いただき誠にありがとうございました。
また,この会場にお運びいただきました保護者の皆様にも,お礼とお祝いの言葉を申し上げなくてはなりません。皆様からお預かりしてきましたご子弟たちは,大学・大学院の教育課程を無事終え,学士として,あるいは修士・博士として,この学び舎を巣立つことになりました。おめでとうございます。皆様の名古屋学院大学への惜しみないご支援とご協力があったればこそ,私どもは,安心して学生たちの教育に力を注ぐことができました。心よりお礼申し上げます。
さて,ここからは,本学を巣立つ卒業生・修了生の皆さんに贈る言葉です。
私は,昨年4月に学長に就任しました。そのため,卒業式の式辞を述べるのは,今回が初めてです。何を喋ったら良いものやら,困りました。無い知恵を絞りながら,昨夜も徹夜でこの式辞を考えておりました。
まずは,自分が大学を卒業する時,学長が卒業式で何をしゃべったか,を思い出そうとしました。もう30年以上も前のことですから,思い出そうとしても何も出てきません。自分が卒業式に出席したのかどうかさえ,定かでないのです。ですから,当然,学長の話の内容など全く覚えていません。
おそらく,皆さんも2~3日のうちに,あるいは2~3時間後には,私のメッセージは忘却の彼方となることでしょう。しかし,たとえ,賞味期間がこの瞬間だけであったとしても,本学を巣立つ皆さんに心をこめてメッセージを伝えたい,と思います。
私自身が経験した二つの話をします。一つ目は「人との別れ方」,二つ目は「背伸び」の話です。
最初の話は,「人との別れ方」です。
私にとって,名古屋学院大学は3つ目の職場です。最初の職場は,大学を卒業してすぐに就職したとある商社です。そこでは,輸出入のための通関業務が仕事でした。世界と通じる貿易の仕事は面白く,上司や先輩,同期の友人たちにも恵まれて,快適で愉快な会社員生活をしていました。しかし,会社の業務を通じて,貿易実務や関係する法律を学んでいく中で,貿易理論をもっとしっかり勉強したい,という思いが首をもたげてきました。そして会社を辞め,大学院に進学したのです。
毎年,卒業式の後に,自分のゼミ生たちに向って「『石の上にも3年』というから,入社したら3年は勤め先を辞めるな」と私は言います。しかし,自分自身は,恥ずかしながらわずか1年でその会社を辞め,学生に戻ったのです。
二番目の職場は,大学院の課程を終えて就職した東京にある民間の研究所でした。現在の経済産業省,当時は通商産業省と呼んでいましたが,その通産省が監督官庁でした。政府からの委託研究が沢山あり,連日のように深夜まで残業していたことを思い出します。その研究所に1992年のバブル崩壊まで,11年間勤め,大きな自由度を求めて大学に移ってきたのです。
以前の二つの元職場の上司や諸先輩そして同僚たちとは,今でも仲良くおつきあい願っています。
最初の商社を辞める時には,わずか1年しか居なかったこと,しかも輸出入の申告書類に記名捺印できる通関士の資格をとったばかりということで,上司や先輩たちにも多くのお叱りを頂戴しました。しかし,同時に多くの激励の言葉も頂いて,円満に退社することができました。
二番目の職場は,私自身が既に管理職になっていたこともあって,かなり退職を慰留されました。とりわけ,理事長からは「辞めさせないぞ」とも言われ,良好な人間関係を保つために,退職後,6年半ほど,非常勤で,その研究所の仕事をお手伝いしてきました。その間,毎週,名古屋―東京を往復していたのです。
最初の職場の社長とは,通産省のロビーでバッタリ出会い,彼が政府の審議会メンバーであることを知りました。自分の研究領域がその会社のビジネスと深く繋がっていて,彼との交流は,自分にとって生きた教材です。
また,二番目の職場の理事長は,退職後も,私を幾つかの研究会に誘ってくれました。亡くなられる1か月前にも,電話をかけてきて,別の新しい研究会への参加を薦めてきたほどでした。つくづく,「ありがたい」と感じています。
私が,こうして以前に働いていた二つの職場の人たちと,今でも良好な関係にあるのは,結果的に,上手い「人との別れ方」をしたからではないか,と思っています。つまり,「別れても好きな人」で居られるように,円満な人間関係を維持しながら別れたからだ,と思うのです。
あの時,「けんか別れ」していたなら,どうなっていただろう?おそらく自分の活動範囲は,今よりもずっと狭いものになっていることでしょう。「けんか別れ」しなかったからこそ,今でも彼らから刺激を得ることができ,貴重な情報やアドバイスを貰うことができる,と思うのです。
人との出会いは「縁」であり,離れたと思ってもどこかで繋がっている。だから,一旦出会った人とは,別れる場合でも,良い関係を保つ努力が必要だと思うのです。
さて,二つ目の話は「背伸び」の話です。
私が研究所から大学に移ってから,はや20年が経過しようとしています。この間,先に述べた研究所との付き合いは,今でも続いていますが,大学に移ってから,私が研究の対象とする領域は大いに変化しました。
それまでは,どちらかと言えば,日本国内の経済予測やエネルギー予測という分野が,主たる守備範囲でした。それが大学に移ったのを機に,国際協力の分野にも手が伸びていきました。具体的には,JICA(国際協力機構)の途上国支援プロジェクトに,省エネルギーの専門家として参加するようになったからです。
当時,国際協力の仕事は,私にとって初体験でしたから,果たして「専門家」と言えたかどうか判りません。それでも,誘ってくれる人が居ましたので,不安はありましたが,「エイヤッ」と,少し勇気を出してこの分野に飛び込みました。
最初に参加したプロジェクトは,大学に移った1992年のその年で,対象国はイランでした。中東にあるイランは,イスラム教原理主義の国で,当時から,アメリカと敵対する国でした。しかし,日本にとっては,イランは石油を輸出してくれる貴重な国でしたから,良好な外交関係を保つために,政府は技術協力を進めていました。
中東での仕事は,言葉はもちろん,食べ物も生活習慣も違い,おまけにイスラム教の世界ですから,戸惑うことが沢山ありました。現地の役人は,建て前と本音とが大きく異なり,そのため,交渉ごとは時間のかかる骨が折れるものでした。最初の内は,現地に行くたびに前の話と違っている,ということが度々ありました。
しかし,今になってみると,こうした経験は自分にとって大変貴重なものであったと思うのです。おかげで,我慢強くなりました。今では途上国に行くことに何の苦もありません。逆に,途上国での仕事を楽しんでいる自分の姿を見つけています。全く知らない現地人と,すれ違いざまに,挨拶を交わすことも平気です。
国際協力の仕事に誘って貰ったあの時に,エイヤッと背伸びをしたからこそ,自分の視野は広がり,それまでとは違う自分自身の姿を見つけることができたように思います。
「できないかなぁ,無理かなぁ」と感じることでも,少し無理をして自分をやらざるを得ない局面に追い込んでしまう。そうすると,やらざるをえないから,あれこれ工夫しながらも,やれるようになる。無理だと思うことがやれるようになると,もっと大きな無理も手の届く無理になってくる。
だから,人が成長するためには,背伸びをすることが必要なのだと思います。背伸びを続けていると,いつの間にか自分の背が伸びてくるのです。
ドイツの文豪・ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテは,『温順なクセーニエン』という詩集の中で,次のように述べています。
財貨を失うことは,わずかな損失だ
名誉を失うことは,多くの損失だ
勇気を失うことが,すべての損失だ
生まれなかったほうがよかっただろう,と。
モノやお金も大切ですが,勇気に比べれば大したものではありません。人生を切り拓いていくのに必要なものは,変化を厭わない勇気であり,挑戦するための「背伸び」なのだと思います。
今日は卒業式。別れの日です。皆さんは,これからも様々な出会いと別れを重ねていくことでしょう。たとえ,どんな別れであったとしても,円満な人間関係を保ち,背伸びする勇気を出して前に進んでください。
名古屋学院大学の建学の精神「敬神愛人(神を敬い人を愛する)」は,円満な人間関係を進めるうえでも,教訓となる言葉です。どうぞ忘れないでください。
皆さんの,ご健康と明るい未来をお祈りします。
卒業,修了,おめでとうございます。
2012年3月15日
名古屋学院大学学長 木船久雄
東京大学の提案
2012年1月20日に,東京大学が学部生の入学時期を春4月から秋に全面的に移行させることを検討していると発表しました。検討グループの中間報告は「将来の入学時期の在り方について(平成23年12月8日)」にまとめられています。
東京大学の提案は,入学試験は従来通り春に行うけれど,入学時期を春から秋に移すというものです。この提案の背景には,日本で最も優秀な人材を集めている東京大学でも,世界の他大学と競争するうえで,春季入学という特有な制度が比較劣位をもたらしている,という認識があります。つまり,大学間のグローバル競争時代を勝ち抜くためには,世界の7割の大学が実施している秋季入学という国際標準に合わせるべきだ。そうすれば,日本から海外へ学生を送り出すこともスムーズになるし,海外から優秀な研究者や留学生を集め易くなる,といいうわけです。
入学選抜は今まで通り春に行い,入学時期は秋にする。そのため,そこに半年間の空白期間が生まれます。また,卒業は秋で就職が翌年の春となると,これまた空白の半年間が発生します。この空白期間をギャップタームと呼んでいますが,その時期に海外留学やボランティア活動など多様な経験を積んで貰えば,有効な生きた時間となるというのです。
5年後をめどに実現を目指すというタイムスケジュールも示されたため,この構想が発表されて以来,秋季入学問題は大学関係者のみならず,社会や経済界を巻き込んで広く議論されるようになりました。朝日新聞社は各大学の学長を対象に早々にアンケート調査を行いましたし,私立大学連盟からも少し長めの調査票が送られてきました。
さて,本学はこの秋季入学をどう捉えたら良いでしょうか。私立大学連盟の調査票を前にして,私自身は次のように考えました。
メリットとデメリット
秋季入学のメリットは,東京大学の構想が示すとおり,海外の大学との人的往来が容易になることです。多様な学生の受け入れが可能になります。それは,海外からの留学生のみならず,諸事情によって秋季入学を希望する日本人の若者も同じです。諸事情の中には,浪人生,帰国子女というケースもあるでしょう。
逆に,最大のデメリットは,ギャップタームの発生です。空白の半年間は,多くの入学生にとって学習のモチベーションを下げてしまうことにつながりかねません。入学前の半年間がブラブラとした中途半端な時間となってしまったら,導入教育・リメディアル教育にも相当な弊害をもたらすだろうと想像されます。また,大学を卒業するまでの時間が,4年半~5年となれば,親や本人の経済的負担は間違いなく増えます。入学前のギャップタームにある若者たちは,入学していないのですから,大学生ではないため学割は利用できません。
東京大学の提案のように,ギャップタームが学習体験を豊富化させる,と構想するのは秋季入学を正当化するための後付け論理でしかないように思います。
秋季入学と本学の制度
本学では,1989年に留学生別科を設置しました。この別科学生の入学時期は,従来から春季のみならず秋季にも認め,春秋併用制度となっています。
また,学部や大学院の授業では,ここ10年の間に,半期セメスター制度が徹底され,単位認定が半期ごとに完結されるようになりました。そのため,卒業延期となった学生たちが追加的に半期の留年期間を経て秋に卒業するというスタイルも恒常化しています。
さらに,本学のように,単位互換が可能な海外協定大学を数多く擁している大学は,入学時期に関係なく,在外中の海外留学をスムーズに進めています。春に入学して,秋学期から海外留学,留学先で取得した単位は本学で取得した単位として認定するという制度があるからです。そのため,協定大学に留学した学生たちは,現在でも4年間で卒業することが可能となっています。
こうしたことから,仮に多くの大学で秋季入学制度を導入するとなれば,本学もそれに倣うでしょう。それも,比較的スムーズに移行できるのではないかと思います。またその際には,全ての学生を一斉に秋季入学させるといったドラスティックな制度移行ではなく,入学時期を春季と秋季の併用にする。その方が,無用なギャップタームを生じることなく,柔軟かつ速やかに制度移行ができるのではないか,と考えています。
ただし,完全に春秋併用となると,それはそれで費用もかかるし制度は複雑になることは間違いありません。容易に想像できるのは,教務部や学生部さらに入学センターといった業務はダブルになります。履修登録,学籍簿管理,入試問題の作成から判定といった一連の入試業務が,一年中行われている,という事態にもなりかねません。ほとんどの学生データがデジタル化されている現代では,システム変更に伴うソフトウェアの書き換えも相当必要になるでしょう。間違いなくコストは嵩みます。
外国人留学生の受け入れ拡大や教育の有効性の拡大
東京大学の提案によれば,秋季入学によって,受け入れる外国人留学生が増大するし,教育の有効性も拡大する,と期待されています。これらの点はどうでしょうか。
確かに外国人留学生にとっては,秋季入学は都合が良いでしょう。しかし秋季入学にしたからといって,それが理由で外国人留学生が急激に増加するとは思えません。その理由は,入学時期に限らず,留学生に対応しきれていない諸制度が大学には多いと考えるからです。
例えば,学内の公用語です。日本語や日本文化を学ぼうという学生を除けば,留学生にとって望ましい授業言語は,日本語ではなく,国際語の英語でしょう。そのためには,英語で授業を担当できる教員のみならず,英語でケアできる職員が必要ですし,学内の各種資料や案内を日本語版と同様に英文版一式も用意しなくてはなりません。
加えて,学事暦の見直しが教育成果を上げるかどうかは,全くの疑問です。現行の諸制度は,国家的な制度や伝統・慣習の上に成立しているため,大学だけが学事暦を変更しても,現実には社会とのフリクションをもたらし,学生の混乱を招くことになりかねません。例えば,予算年度の問題,高校との接続問題,就職時期,国民の休日や文化活動のタイミングなど,いずれも大学の都合だけではハンドルできない問題のように思います。
本学は,秋季入学制度の導入に先頭を切って突っ走ることはありません。がしかし,いざという時のための対応準備を進めると同時に,他大学の動向も注意深く観察していきたいと思います。