「十字架」と一致するもの

たった3年で世界が変わった。

今の時期はイエス・キリストの受難を覚えて過ごすということを頻繁に書いていますが、イエスが十字架刑になったのは33歳頃といわれています。

学生時代はずっとずっと先の年齢だと思っていた30代...学生の皆さん、あっという間に30代になってるんですよ...時間を大切に...という話も大事だと思いますが、今回はその33年のイエスの生涯をちょこっと深めていきたいと思います。


33年の生涯のうち、イエスが宣教を始めて十字架刑になるまでは3年ほどといわれています。

つまり、イエスは30歳まで無名の一青年だったわけです。

3年で権力者、宗教指導者から恐れられる存在になり、十字架にかけられることになったわけですが...

2000年後の今、世界中に大きな影響を与えているキリスト教ですが、おおもとのイエスの実質的な活動がたったの3年とは予想外という方もいらっしゃいませんか?


そういうことも含めて、次回のブログからイエス・キリストの生涯をたどっていく予定です。

パッションフルーツ

前回の記事でも取り上げた『ショコラ』はレントの期間の過ごし方を題材にしていますが、イエス・キリストの受難をまっこうから取り上げた作品もたくさんあります。

音楽作品ではマタイ受難曲(バッハ)、ヨハネ受難曲(バッハ)が有名です。
ミュージカルでは『ジーザス・クライスト・スーパースター』、映画は『パッション』が有名です。
そうそう、"パッション"は「受難」の意味で、「情熱」じゃないんです。

パッションという言葉を調べるまで知らなかったのですが"パッションフルーツ"のパッションは「情熱」じゃなくて「受難」の意味だったんです。
どうも実をつける前の花(時計草)が十字架上のイエス・キリストを現しているように見えることからパッションと呼ばれるようになったそうです。
てっきり南国の果物だから情熱的なのかと思っていました...まだまだ知らないことがいっぱいあります。

カーニバル

今日はカーニバル最終日です。
それというのも3月5日からキリスト教ではレントというものに入るからです。
レントは日本語で受難節といいます。受難、なんだか不穏な響き...それもそのはず、受難とはイエス・キリストが十字架で死刑になる苦しみを覚えて過ごす期間(40日間)なんです。喪に服すというのに近いでしょうか。そうなると遊んで贅沢して呑んで騒いでなんてちょっと...となりますよね。

つー、まー、りー、今日が騒ぎ納めということで、きっと世界各地のカーニバルが盛り上がっているはずです。

ちなみにレントは毎年日程が変わります。
レントがいつからかというと、春分の...(中略)...がレントです。



あ、正確に書くと長いから思わず(中略)してしまいました。



気合を入れなおして記載しますので覚悟して読んでください...


春分の日の後の最初の満月の後の日曜日の前日の土曜日から間の日曜日を除く40日間がレントです。


レントの初日のことは「灰の水曜日」と呼ばれています。
ちょうど明日3月5日です。
下線部はイースター(復活祭)の日程で、イエス・キリストが死から復活したことを記念する日です。今年は4月20日になります。

蝉の抜け殻と十字架3

二日前にチャペル庭園のアカメの木の葉にしがみついていた、蝉の抜け殻がどうなっているか気になったので、お昼休みに足を運んでみた。昨日の雨に打たれたにもかかわらず、形がそのままだったので何故かほっとした。

事務室に戻る途中、礼拝堂の外壁にふと目をやると、雨のかからないコンクリートに、虫の抜け殻がへばりついていた。

 

CIMG2363.jpg大きさは、人の小指の先ほど。どんな生き物がそこで育ち、殻を破って出て行ったのだろう。そのまま、あたりに目を這わすと、その殻はほかにもあった。中には殻がぐちゃぐちゃに破れているものもあった。

人は古い自分から脱却し常に成長する。

その古かった自分から脱皮するとき、さらりときれいに抜け殻を置いてゆく人もいるだろう。しかし、中にはうまく出ることが出来ず、もがいているうちに、ぐちゃぐちゃになって、その自分の姿をやむを得ず置いてくる人もあるだろう。私はどちらと言えは、後者。とくに大学生のころの抜け殻は、破れて、ぐちゃぐちゃで人にお見せできるものでもない。でも人はどんな抜け殻を置いてこようと、今、喜びに生きるよう十字架の愛の殻を通して、イエスは私たちに教えている。

ここ数日、チャペル周辺の生き物の抜け殻からいろいろ学んだ。聖書は実は、神さまが作られた、この世界からいろいろ学ぶよう教えている。

「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう」(旧約聖書ヨブ記12章7~8節)

 イエスも、自然から神様の心を学ぶことの大切さを教えていてくださっている。そんなことが書かれている「新約聖書マタイによる福音書6章25~34節」を、学生さんには一度ぜひ読んでほしい。

トナリの上司(仮)より

蝉の抜け殻と十字架2

チャペルの庭園で見た蝉の抜け殻のことを考えていたら、昨年の暮れに見たヘビの抜け殻を思い出してしまった。ヘビは、瀬戸キャンパスチャペル事務部室の私の机の下で暮らしていたようだ。

昨年クリスマスがちかくなったある日、礼拝堂に立てる鋳物のキャンドル立てを足元の布きれを被せてあったダンボール箱から出していたら、白くほそ長いものがヒモのようにダンボール箱の中にあった。

(こんなところに、ヒモを入れたはずがないのに)

そう思いながら、そのヒモのようなものを指先で避けながらキャンドル立てを次々に箱から出して椅子においていたら、その白っぽいヒモの先にヘビの頭が見えてきた。ヘビの抜け殻だったのだ。私は、ヘビが苦手である。反射的にチャペルから箱をもって飛び出て、山に捨てた。

 私の机のそばで脱皮したのかと思うと悔しい反面、私自身の脱皮について考えさせられた。

もうずいぶん長く生きてはきたが、私は未熟な自分から少しは脱皮できたらだろうかと。イエスは古い教えから脱皮された。そして、私たちに新しく生まれ変わり愛に生きるようにと、教えてくださっている。

トナリの上司(仮名)より

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