★Bridge★No.20 木村 光伸 先生
学生さんと先生を繋ぐ連続企画★Bridge★、今回の先生は・・・
国際文化学部 木村 光伸 先生です。
先生は、国際文化学部の現学部長で、NGU教養スタンダード科目の「生態学」「地域生態論」
「人間論」を担当し、新しい国際文化学部では専門科目の「グローバル社会文化論」「国際
環境文化論」「比較地域生活史」なども担当されることになっています。
それでは早速、先生の"思い"をご紹介します★
■■■ どんな思いをもって、授業やゼミに臨まれていますか? ■■■
■授業をする際に、大切にしていること
僕は自然科学を志すものですから、自然の成り立ちや、自然と人間の付き合い方を教える立場に
あります。
この大学に来た当初は、僕自身の持っている専門性を、なかなか教養教育の授業に反映できない
というジレンマがありました。どうしようか?と思った時に、自然そのものを教えるのも大事だ
けれど、その中から僕が学生と一緒になってが学べることはなんだろうと考えて、自然の仕組の
中に学ぶこと...様々な生き物たちがいるなかで起こる"関係"の学び方を教えよう、どのような
授業をする時でも、エコロジカルなものの見方を念頭に置いて話をしようと決めたんです。
■教養教育として学ぶべきものとは
今年、名古屋学院大学は8学部になりました。
それぞれの目指すべき専門性がいくつもあるわけです。
その中で、共通して学ばねばならないことは何だろうと。
それは、言ってみれば「歴史」です。
歴史というと、社会科の先生が教えるものを想像するかもしれませんが、それだけではなくて、
それは、地球の歴史であったり、生命の歴史であったり、動物たちの歩んできた道であり、環境
の歴史であったり、宇宙の歴史であったり・・・
要するに、物事がどのようにできあがってきたかを知るということです。
それを知りたいと感じる。
そこが、教養教育の中では最も大事なことだと思うのですよ。
名古屋学院大学は、教養教育型の大学ですから、どの学部にいても、誰でも知っておいたほうが
いいことが沢山あって、それにふさわしい先生方がたくさんいます。
その先生方が、自分の思っている教養の基礎としての事柄は何であるか、きちんと学生に教え、
それが共有できたら、その次のステップとして、問題発見・課題解決型の授業に入っていける
だろうと思うんです。
それをすっとばして、「さあみんなで考えよう」っていうのは、僕はあんまり賛成しないですね。
■先生の授業スタイル
僕は、どの大学に行っても、大学のレベルに合わせて授業するなんてことはしません。
学生のレベルにあわせるなんて、そんなの失礼なことでね、僕はどこへ行っても同じ話をします。
学問をしたというとおこがましいけれど、僕が40年積み重ねてきたものを、どれだけ彼らに伝え
られるか、ということです。
面白いことに、どこへいっても分かる学生には分かるし、分からない学生には分からんのです。
大学教育ってそういうもんです。
非常に古臭いやり方なのかもしれないけれど、
知らしめるべきことはしっかりと知らしめる、というのが大前提です。
もともと大学は、先生が好き勝手しゃべっている中で、学生は自分で取捨選択して、頭の中を整理
していったものです。これが、古代ギリシャ以来ずっと行われてきた教育で、これがまかり通った
最後の世代が僕らだったのだと思います。
今では、支持されないやり方なのかもしれません。
今の言い方をすれば「押しつけ型」の教育になっていて、反省することもあるのですけども・・。
ただ、「押しつけ型」の教育にもいいところはあって、
どうしても知らなきゃならないことは、否が応でも教え込みます。
そこから先に、みなさんは何をどのように考えますか、と問うことだと思うんです。
今の教育がぶつかっている困難は、どんな勉強をするにあたっても基本的に知っておかなくては
いけない事柄というものがあるにもかかわらず、それをきちんと教える時期と方法がないという
ことです。
僕は今でも、
自分で考える前にちゃんと知っておかなきゃならないことがあるから、きちんと学びなさい
と言っています。
大学教育における強制的な学びというものには、高等学校までと違う点が1つあって、何を知ら
なきゃいけないかということの共通テキストが無いんです。文科省の教科書があるわけじゃない
ですよね。僕が僕の学問を伝えるにあたって必要最低限のことについては、きわめて強制的に押
し込まなくてはいけない。学生から見たら、ある意味ツラいかもしれないけれど、でもそれは、
学問を始めるにあたっての第一段階なんです。
それができたら、自分で考えなさいよ、ということができる。
そういう意味では、僕は授業で小うるさいです。
まず、僕の話をちゃんと聞けと。
そして、
僕の言っていることを理解しなくてはいけないから、話が分かる・分からないにかかわらず、
メモをとりなさいと。
教科書はできるだけ使わないようにしてますが、使う授業でも、授業中には教科書を読まない。
僕はその中身について詳しく話をするんだから。
今日は教科書のこのあたりね、っていう話はしますけれども、その部分を授業中に読むのは時間の
無駄ですから。
教科書に書いてある「これはこういう意味で...」という授業はしませんから、学生から見ると、
とっつき悪いかもしれない。
教室内の秩序管理は非常に厳しいです。
僕はしっかり叱ります。
叱るのは、2つの意味があって、まず1つ目は、
「この状態でいるのは、君にとって意味がない」と思ったら、僕は叱ります。
たとえば、寝ている学生。話を聞いていない学生。雑談なんか論外だけど。
僕の語りに集中できない人は叱ります。
もう1つは、「他の人の邪魔になること」をしたら叱ります。
理屈は同じことだけどね。
嫌な教師だな、と思われていると思うけれど、それはやっぱりどこかで、言わなくてはいけない。
昨今の幼稚園から大学までの教育の良くないところは、絶対覚えなきゃいけないことをスル―
して、自分の言いたいことをバッと言うことを、積極的であるとか、そこから何か引き出せると
思ってきたことね。
大学生になってそれを覚え直すということは、非常に難しいことだけど、やっぱりあえてやら
なきゃいけないことだと思いますね。
1人1人が学んだ結果については、厳しく求めないです。
どれだけ覚えたか試験をして100点と50点がいたとしても、その差って、実は大したことない
やろ、と思っています。
つまり、「こちらを向けたかどうか」が大切で、
その後自分でどれだけ頭に入ったかは本人の責任の部分やと。
そこは評価をするのではなく、「頑張ったね」でいいと思うんです。
だから、授業の中で一つ一つ展開した話を、知識としては問わない。
僕は、マークシート式の試験はやりません。
僕が話したことについて、コレの意味はAかBかCかといった尋ね方はしません。
ここら先が課題解決型の授業で、AでもBでもCでも、
その人自身で理由をつけられたら、それでいいんです。
僕と意見が違っても、それはいい。
だから、僕は、「授業の中で大きなことを何個か言いました。それを2つ3つ挙げて、それに
ついてあなたはどう思っているか、それはどういう意味かを書きなさい。」という、昔ながらの
論述試験をします。
これはもちろん、解答の仕方は何通りもあって、それを読んで「ああ、何か考えているな」と
思えば良い成績がつくし、「こいつはいっぱい書いてあるけれどあまり考えていないな」と
思ったらあまり良くない成績になります。どこかからコピペなどで解答を持ってくるなんて
いうのは、問題外ね。
課題とか問題とか、僕がしゃべったことの中から発見していかないといけないと思うんです。
授業が課題解決型になる、というのは、本当はそういうことなんだろうと思うんです。
■自分の無知を、自覚すべし
学生は若いから、未熟であって当たり前なんです。
学生だから未熟なのではなくて、若いから未熟なんです。
そりゃそうだよね、僕の3分の1くらいしか生きたことがないんですから。
それを、学生を変に持ち上げて対等化すれば、学生も生き生きとやれると思うのは、間違い。
学生は、いかに自分がものを分かっていないかっていうことを、自覚すべきだし、自覚させて
あげなきゃならない。
僕が学生のころなんて、随分バカだったわけですよ。ま、今もバカだけれど。
学生の頃、いかに自分がバカだったかということは、今にならないとわからないけどね。
アホ・バカって言うと、差別的で高圧的で、ハラスメントだっていうけど、そうでもないと思い
ますよ。
賢くなるためには、まず自分がバカであるということを理解しないと。
僕自身、「ぎゃ!」って顔伏せるくらい恥ずかしいことをいっぱいしてきましたからね。
それをね、ちゃんと「バカだね」と言ってくれる人が、周りにおったんですよ。
あるいは、その横でニコニコしながら見ていてくれる人もおった。
そういう、なんかこう、無知や未熟を許容する「ゆとり」みたいなものが昔はあったんです。
そのバカさ加減というのは、4年後の就職活動とか、そういったこととは何の関係もないバカさ
加減ですから。じっくり直せば良かったんですよ。
今は、そういう(若者の未熟さという意味での)バカを是正できるみたいに、漢字の書き取を
やらせてみたり、中学程度の算数をやってみたりしますけれど、そんなことなんぼやっても、
バカは直らんのです。あれは要するにどこかの企業に潜り込むための対策を講じるだけで、
そんなんでバカが修復されたと思わせたら、あかんのですよ。
我々教員は、学生にはちゃんとものを学ばせる、教えるっていうことを、やっぱりもういっぺん
再確認しなきゃいけないですね。
■モヤモヤと悩んでいる学生へ・・・「悩め、若者よ!」
誰かが言っていたけど、今の人たちは悩み方を知らない。
悩み方まで教えんといかんのか?と思う。
困ったら、自分で悩めよ、と思いますね。
悩みっていうのはね、出口を求めても、そんなもの無いんですよね。
悩めば悩むほど、こう、埋没していって、答えがみつからなくて...。
でもそういう時期を経ないと解けないんだよね。
自分で自分のマインドコントロールをしているんですよね、悩みっていうのは。
ずーっとつきつめていくと、自己矛盾に陥るんですよ。自分を問い詰めて、
自分の中に答えがないということに気づくんです。
その時にフッと、悩みって解けるんです。
こういう悩みかたしててもしょうがないな、と分かったらいいわけだから。
それをおせっかいに、「この悩みにはこういう特効薬がありますよ」「こういうことやったら
いいよ」というのは、たぶん、あんまり正しいことじゃないと思う。
「悩め若者よ!」って言ってればいいんです、本当はね。
でも、あまりにも悩み方を知らないから、悩めって言われてもわからなくて、「悩むあなたへ」
「気分の晴れる30の方法」みたいな本を買ってくるんです。
...本当はそんな風に分析できないんだ、悩みっていうのはね(笑)
だからね、アクティブ・ラーニングというのは実にいい言葉だけれども、形容矛盾でね、
ラーニング(Learning)っていうのは、エデュケーション(Education)じゃないから、本来的に
アクティブなものなんですよ。
ラーニングって、誰かが教えてくれるもんみたいですけれど、自己学習ってことですからね。
自分で学ぶから、自ずと答えが出てくるんですよ。
もちろん、自分で答えを出そうと苦しまなあかんよ。
苦しまんとあかんけど、その苦しみ方というのは一様ではありませんから。
悩みの数だけ一つずつ違うんだろうけども。
まずはね、あなたは一体何に悩んでるんですか?と自分に問わないと。
誰かに聞いてもらったり、議論したりしながら、あるいは悩みを共有することがあってもいいと
思うけれど、最後は自分の悩みですから。
何が本当に自分の悩みなのかっていうのを、もう一度自分で自分に聞かんといかんのね。
10代の子たちというのは、なんかモヤモヤしていて、自分でもよくわからんのですよね。
生物的欲求だけが、わーっと広がる時ですからね。
大学というのは、そういう学生が4000人もいる場所ですよ(笑)
悩みというのは難しいものじゃなくて、「俺コレ悩まんといかん!」っていう生物学的欲求
ですから、何か欲求を解きほぐすための刺激が要るんですよ。
欲求は、それを解きほぐす鍵が1つあれば解けるというのは、生物の原則ですから。
だから、スポーツでもいいし、知的なことでもいいし、
なんでもいいからその欲求を自分で解きほぐすための方法を見つけんと、しょうがない。
太陽に向かって叫んだら気持ちいいならそうしたらいいし、図書館にこもって難しい本を読ん
だら、それがいいという人もいるでしょう。
外から見てもその答えは見つからないんです、大抵。
こいつはコレで悩んでいるから、この方法で...ということがないから。
そこが面白いところなんだけれども。
「悩め、若者よ!」ということです。
■悩み解決のヒントがほしい学生さんへのアドバイス
僕が学生に言うのは、色々な人に相談しなさい、ということです。
話を聞いてくれるところは1ヶ所ではないし、教師も職員もいっぱいいるんだから。
チャペルもあるんだし。
どこかでヒットするよ。
あそこに行っても駄目だな、ここへ行っても駄目だな、と一つ一つ当たっていって、
良いか悪いか、それは本人にしか分かりません。
なぜ駄目かは、分からんなりに、本人は根拠を持っているんですよ。
色んな人と話しているうちに、「ああ、そういう、ものの見方もあったのか。」と気づけば、
解決の糸口になるかもしれない。
でもそれは、数撃たなきゃわからないわけ。
学問の世界で、議論をしながらそういう人を見つけていければ、それが一番良いわけだけれど。
そのためには、教師がもっと色んなメッセージ出さないかんと思うのね。
「偶然出会って話してみたら、意外と良い先生だった。」みたいな言い方をされることがある
けれど...偶然でもヒットすればええけど、その陰で誰にもヒットしない人が、沢山おるわけ
ですよ。
誰にも相談できないと思いこんでいる人たちがいっぱいおるわけですね。
それはやっぱり、教師の側のメッセージの出し方が足らないわけ。
そりゃ、メッセージ出せば人がたくさん来るっていうわけではないですよ。
また、たくさんの学生に相談されている先生が大先生っていうわけではないですよ。
だけど、教師としての本能だと思うけど......なんていうかな、教師っていうのは、基本的に出た
がりやないといかんのですよ。
自分を露出させたがる人間やないとね。
でも今は、なかなかそういう人が教師になってないんですね。
みんな謙虚だもんね、学生にすら。
学生に向かって「俺の研究は世界一や!」って、なんで言ってやらへんねん、って思うね(笑)
そんな、世界一の研究をしているような人は、ほとんどいないんだけど、
それでも主観的には、「俺のやってることはすごいんだ」って思ってるわけですよ。
思わんといかんのですよ。でないと研究なんてやってられへんからね。
そういうのをオーラとして出していかんとあかんのやないかな、と思いますね。
■■■先生のお薦め本■■■
木村先生からのお薦め本はコチラ↓
『風土人類学的考察』
和辻哲郎著 岩波文庫
1935年出版のかなり古い本です。
倫理学者である著者は、若いころにヨーロッパ留学しました。
昔の話ですので、ヨーロッパへ行くには、横浜から船旅です。
現地に辿り着くまでに、どんどん風景が変わっていきます。
その時の著者の考察をまとめたのがこの一冊です。
自然だけ、あるいは人間だけを見るのではなく、自然と人間の生活が分かちがたく結びついており、
それは、単純に文明や文化というだけでなく、まさしくそこに、人間が息づいていており、「風土」としか
呼びようがない・・・難しい本ですが、今この時代にこそ大切で、どの分野の人にも一読の価値ありという
ことで、ご推薦頂きました。
『世界史』
ウィリアム・H・マクニール著 中央文庫
真面目な世界史を読もう!ということで、こちらもお薦めいただきました。
先にご紹介した本も、これで理解が深まること間違い無しです★
■■■今日の一枚■■■
今回は、先生の研究に関する1枚です!
オセロットの毛皮
オセロットは、主に南米に生息するネコ科の動物です。
写真の毛皮は、先生が、若いころに研究で訪れたペルーのイキトスで、現地のインディオ
の方から頂いたものだそうです。
現在、オセロットはワシントン条約で保護されていますので、飼育されているものを
除けば、日本に入って来た最後のオセロットかもしれないというほど、貴重な研究資材
なのだとか。
木村先生が、世界を股にかけて長年研究されてきたこそ見ることのできる、
貴重な一品ですね。
先生は1人旅もお好きなのだそうです。
研究や旅で訪れた地のことや、人間を含む生き物たちの繋がりについて、お話を聞きに、
研究室のドアを叩いてみてはいかがでしょうか。
次回の★Bridge★も、お楽しみに★
チョッパー子