「聖書」と一致するもの

受難週(聖週間)について学ぼう

今週、キリスト教の暦では「受難週」という一週間を過ごしています。

「受難週」(「聖週間」とも呼ばれる)は、イエス・キリストが人々から見捨てられ、苦しみを受け、十字架につけられて殺され、墓に葬られる出来事に思いを向ける期間として過ごされます。

カトリック教会など、聖書日課(日毎に読むべき聖書の箇所が選ばれているもの)を用いる教派・教会では、今週は曜日ごとに以下のような内容が書かれた聖書の箇所が読まれます。イエスがどのような最期を遂げたのか、学んでみてください。


「受難の主日」(「枝の主日」「棕櫚の主日」とも)
※「主日」とは日曜日のことを言います。

イエスは、弟子たちとともに旅を続け、遂に目的地である「エルサレム」に到着した。イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入り、大勢の人々から迎え入れられた。

(参照:マタイによる福音書 21章1~11節)


「受難の月曜日」

エルサレムに近い「ベタニア」という地にやってきたイエス一行は、以前、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロの家に立ち寄った。夕食の際、ラザロの姉妹であるマリアは、イエスの足元に近づき、彼の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪で彼の足をぬぐった。香油は、死者の遺体に塗ることもあり、彼女の行為は、間もなく訪れるイエスの死を暗示しているとされる。

(参照:ヨハネによる福音書 12章1~11節)


「受難の火曜日」

イエスは、弟子たちに対して、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げ、弟子の一人であるイスカリオテのユダがその場から立ち去った。その後、弟子のペトロにも、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言い、彼の裏切りを予告した。

(参照:ヨハネによる福音書 13章21~33、36~38節)


「受難の水曜日」

イスカリオテのユダは、いわゆる「最後の晩餐」の前、イエスに敵意を抱く祭司長たちのもとに行き、イエスの身柄を引き渡す代わりに銀貨三十枚を受け取る約束をした。

(参照:マタイによる福音書 26章14~25節)


「聖木曜日」(「洗足木曜日」とも)

イエスは、弟子たちと食事をしている際、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとった。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めた。イエスは彼らにこう告げた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

(参照:ヨハネによる福音書 13章1~15節)


「聖金曜日」

「最後の晩餐」のあと、イエスは弟子たちと一緒に外にでかけた。すると、イスカリオテのユダとともに武器などを携えた人々が現れ、彼は逮捕されてしまった。イエスは、尋問を受け、いわれのない理由で死刑に処せられることに。弟子たちに見捨てられたイエスは、一人、十字架を背負って「ゴルゴタ」という処刑場へと足を進め、人々に罵られながら、他の二人の犯罪人とともに十字架刑に処せられた。イエスが息を引き取った後、彼の亡骸は、数人の協力者たちによって墓の中に安置されることとなった。

(参照:ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節)


「聖土曜日」(夕刻以降 ※キリスト教の暦では日暮れから新しい一日が始まる)

週の初めの日の明け方に、女性の弟子たちがイエスの墓を見に行くと、墓をふさぐ大きな石が取り去られており、彼女たちは、そこにいた白い長い衣を着た若者からこのような言葉を告げられた。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

(参照:マルコによる福音書 16章1~7節など)


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アンドレア・マンテーニャ 『キリストの磔刑』(1457-59)

卒業生の皆さんに捧ぐ...

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、3月18日に予定されていた「学位記授与式」および21日の「大学院学位記授与式」が中止されることとなりました。卒業される学生の皆さんは、とても残念な思いをされていることと思います。

少しでも、そんな皆さんのことを励ますことができればと思い、本学のチャペルで働くキリスト教の伝道師が、この季節の定番曲、森山直太朗さんの『さくら(独唱)』を本気で歌ってみました。



牧師の格好をしてただ歌っているだけの何の変哲もない動画ですが、ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです。

会場は、名古屋市中区にある「日本ナザレン教団 名古屋教会」さんの礼拝堂を使用させていただきました。JR・地下鉄「鶴舞」駅から徒歩5分のところにある、アットホームな教会です。毎週日曜日の朝10時から礼拝が行われており、また、第2・第4日曜日の16時からは、日本語と英語の2言語で行われる礼拝「インターナショナル・サービス」もあります。
https://nazarenechurchnagoya.wordpress.com/
(名古屋教会さん、ありがとうございます!)

この春に卒業される皆さんの中には、母校が懐かしくなって遊びに来てくださったり、あるいは、「結婚式」を本学のチャペルで挙げられる方々もいらっしゃるかもしれません。もうお会いする機会が無い方も多いと思いますが、ぜひとも、いろんなことを学び様々なことを経験したこの名古屋学院大学でのキャンパスライフを、時々思い起こしながら、これからの人生を歩んでいってください。

皆さんの未来が明るく有意義なものになるように、
そして、皆さん自身が、その未来を切り開いていけるように、
心よりお祈りしております。

 主はあらゆる災いからあなたを守り
 あなたの魂を守ってくださる。
 主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。
 今より、とこしえに。(旧約聖書 詩編 121編7~8節)

ご卒業、おめでとうございます!

3・11のメッセージ ~光を照らし、光となりなさい~

また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
(新約聖書 マルコによる福音書 4章21~23節)

新型コロナウィルスによる被害が、昨年11月から世界各地で広がりを見せている中、私たちは今年も「3月11日」を迎えることとなりました。2011年3月11日に、東日本の各地で大きな地震が発生し、それに伴う形で、津波による甚大な被害、また、福島第一原子力発電所の事故の影響による放射能汚染が引き起こされました。あの日から今日で9年が経過することとなります。

東日本大震災の現状について、メディアはこのように伝えています。
「1日現在の警察庁のまとめでは、死者1万5899人、行方不明者2529人。復興庁によると、避難中の体調悪化などが原因の震災関連死は2019年9月30日現在、1都9県で3739人に上る。震災直後は推定47万人いた避難者は、2月10日現在で4万7737人となった。復興のインフラ整備が進み、仮設住宅にいた入居者は最大約31万6000人から約6000人に減少した。一方で高台などに造成した宅地は約1万8000戸、自宅を失った被災者が入居する災害公営住宅(復興住宅)は約3万戸がそれぞれ完成し、住宅再建は進んでいる。だが原発事故の影響で、福島県から県外に避難している人は3万914人に上る。」(毎日新聞

先日、「復興五輪」という言葉を久しぶりに聞きました。今年予定されている「東京オリンピック・パラリンピック」は、東日本の被災地の復興を旗印として掲げて招致したはずだったと思うのですが、オリンピック関連で資材は高騰、人材不足。平和の祭典であるはずのオリンピックのために、東北の復興は大幅に遅れてしまったのではないかと感じます。しばらく、「復興五輪」という言葉を耳にしなかったのは、私の情報収集能力不足のせいでしょうか。そうとは言い切れないかもしれません。

その東京オリンピック・パラリンピックの開催時期が数か月後に迫っている中、私たちの住むこの日本は今、ややもすると、オリンピックの開催を中止あるいは延期しなければならないかもしれないという状況に置かれています。原因は言うまでもなく、新型コロナウィルスの流行です。世界各地で猛威をふるっており、この日本においても、毎日のように死者、重症者についての報道がなされています。症状があらわれていないだけで、隠れて罹患している人は、私たちも含め大勢いるのでしょう。そして、この状況は、インフルエンザのようにしばらくすれば収束するものではなく、半年、一年のように長期間続いていくとも言われています。人々の健康と安全が第一ですから、オリンピックの中止・延期もやむを得ない気もしますが、そうすると、復興五輪、本当に大丈夫なのでしょうか。国が位置付けている「復興・創生期間」が、2021年の3月で終わりを迎えます。その後は新たな方策がたてられるようですが、この度のオリンピック開催に関するイレギュラーな事態を受けて、復興に向けての取り組みにも大幅な変更がなされるのではないかと心配しています。今や多くの人たちが忘れてしまっていることかもしれませんが、「被災地の復興という大きな目標無くして、オリンピックの招致は実現しなかったのだ」ということを、改めて覚えておきたいと思います。

インフラの整備が進められていると聞きます。私は2012年に一度被災地を見て回りました。「何も無い」というのが、当時の私の率直な感想でした。すべて津波で流されてしまっていたのです。今、当時のことを思い起こしつつ、テレビで流れる映像などを見ても、街の様子は大きく変わっていると感じます。被災地には、人々の生活が戻ってきている、部分的にはですが。

私たちに"見えている"のは、ほんの一部にすぎないでしょう。ニュースの映像などを見る限り、街の様子は、回復しつつあるように見えます。しかし、失われたものは二度とかえってこない。それどころか、放射能汚染という、今まで無かった状況がそこにあるせいで、故郷に帰りたくても帰れない人々が大勢います。「アンダーコントロール」という言葉が、むなしく頭の中によみがえります。汚染物を入れた黒い袋(フレコンバッグ)は、未だ、福島県内の仮置き場716カ所に計990万袋あると言われており(東京新聞)、また、福島第一原発の汚染水を貯めているタンクは増え続け、もう敷地内に収めきれない状況で、結局、充分な処理がなされたとは言い難い大量の水が、今後、海に放出されていくことになるだろうとされています。「原子力」「放射能」という"見えない"ものとの闘いは、今後も何十年、何百年と続いていくことになるのでしょう。

ここまで、東日本大震災の現状を、あえて細かく説明してきました。"見えなくされている"状況に、光を当てるためです。震災発生当時は、こちらがわざわざ求めなくても、テレビなどを通じて様々な情報を得ることが出来ました。しかし今や、必要な情報は自ら探し求めないと得られないようになってきています。それは、報道の自由度が低下してきていることも原因の一つかもしれませんが、やはり月日の経過と共に、東日本大震災のことが風化していってしまっているのが、最も大きな理由でしょう。めまぐるしく移り変わるこの時代の中で、未だ、震災の影響によって困難な生活を強いられている方々の姿がある。また、報道されない被災地の実態がある。私たちは、そこに「光を当てる」べきではないかと思うのです。

イエス・キリストは、たとえ話の中で、「灯を持って来るのは、燭台の上に置くためではないか」と言われました。聖書はまた、私たち人間のことを(周囲を明るく照らす)「光」にたとえています。光が無い闇の中では、私たちは何も見えません。陽が差し込まない真っ暗な部屋の中でも、誰かが照明を付けてくれさえすれば、しっかりと見えるようになります。同様に、何も知らなくても、誰かが教えてくれれば、知る者となります。忘れていても、誰かが教えてくれれば、思い出すことができます。そのように、私たちは、「光」の役割を担う、道を指し示す"誰か"であるべきではないか、そう思います。「そういえば、今日は『3・11』だね。」そんな会話を家族や友人と交わすだけでも、世の中を照らす「光」としての役目を十分果たせているんじゃないかと感じます。

今もなお、失意や不安、恐怖を抱えて生活しておられる被災者の方々がおられる。そのことを何よりも覚えておかねばならないと思うのです。本学のキリスト教センターでは、名古屋YWCAという組織とともに、福島に住む子どもたちや保護者の方々を対象にした保養プログラムを実施してきました。今年で最後の開催になります。放射能の影響を心配して、数日だけでも遠くの地で過ごしリフレッシュしたいという思いを持って、皆さん参加されるのですが、本当はもっと「できれば自分もそうしたい(でもできない)」という方々が大勢おられるのだろうと思うと、心が苦しくなります。私たち一人ひとりの力には限界がありますから、ぜひ国をあげて、更なる復興と被災者の方々の生活のサポート、そしてメンタルケアに取り組んでいただきたいと願っています。

この度の新型コロナウィルスの影響は、被災地にも大きな被害をもたらすことになるでしょう。人々の健康についてはもちろんのこと、せっかくこの数年で立て直した会社やお店の閉業・倒産を余儀なくされるところも出てくるかもしれません。これもまた、東日本大震災に関係する"見えない"被害と言えるのではないかと思います。そのような事態に陥らないように、また、少しでもその影響が軽減されるようにと祈るばかりです。

私たちは、見えているようで見えておらず、また、光の中を歩んでいるようで、闇の中をさまよっているかもしれません。その手に「灯」を持ちましょう。見えないもの、見えなくされているものに目を注ぐために。そして、私たち自身、「灯」となりましょう。世を照らすために。周囲の人たちの目に「光」を与えるために。隠れたものを明るみに出すために。復興のための、本物の「聖火」となりましょう。東日本大震災の現状を、見て、聴いて、覚え、語り継ぐ真の「聖火ランナー」になろうではないですか。

10年目を迎える東日本大震災。どうか、被災者の方々に神の平安が豊かにありますように。そして、東日本大震災を経験した「私たち」が、これからも、この国の再興と回復を願い祈り続けることができますように。新型コロナウィルスの問題も合わせ、この国の為政者たちが、正しき知恵と決断力をもって、国民一人ひとりの生活のためになすべき務めを果たしていくことができますように。主イエスの御名によって。アーメン。

ロビンソンクルーソーに学ぶ

ロビンソン・クルーソー』上下 デフォー作
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この物語は、主人公ロビンソンがイギリスの港を出港し、いくつもの海を越え、多くの敵を倒し、何度も遭難や難破を繰り返し、ついには無人島で一人ぼっちで20年以上に渡ってサバイバルし続ける、という冒険劇の古典です。
この話の筋は誰でも知っていて、海洋冒険で、見知らぬ土地や海で敵と戦ったり、サバイバルをしたりと、昔から少年向けに何度も翻訳され、書かれてきました。
しかし、この話はただの児童向けの単純な冒険譚ではありません。
ロビンソンの行動を注意深く観察してみると
なぜ青年ロビンソンは海へ出ることになったのか
遭難したときにどんなことを考えたのか
何度失敗してもなぜ航海を続けてしまうのか
当時世界の覇権を争っていた"イギリスの人間であるロビンソンは未開の地"で何を見たのか
何度も死にかけ、絶望を味わったロビンソンはどうして精神を保つことができたのか
生きるために必要なものをすべてひとりで調達しなくてはならない未開の地で、文明人のロビンソンはなにを思ったのか
など、ロビンソンのいわば、内面を見ていくと、そこには高度に文明化され、合理化された社会に住むいかにも近代人的な考え、ふるまいであることが分かってきます。

イギリスの中産階級で育った、放浪癖のあるロビンソンに、父親は、今の中くらいの身分がいかに幸福かを説く。貧しくて苦しむこともなく、偉い地位について、妬まれたり、欲望の虜になってしまったりすることもない、その最も災難を受けにくい中くらいの身分を維持するために法律家を薦めている。しかしロビンソンはその忠告を無視し何度も外の世界へ旅をし、反抗する。いかにも現代の親子という感じですね。
航海に失敗するたびに、親に反抗したことを後悔して、しかしそれでも冒険をやめられない。
何度ピンチに陥っても立ち直り、そのつど成長していく。が、好奇心もより高まっていく。
一度成功すると、その味が忘れられず、儲けようとあれこれ考え、未開の地で手に入れたものを都市で売って大もうけするという大航海時代の船乗り商人の欲望そのままに、最初に得た少しの儲けでは満足せず、どんどん手を広げていく。
ギャンブルをやめられない心理そのものです。
その結果せっかく財産を築き上げたのに、危険な航海に挑み、沈没。仲間全員が死に、一人だけ無人の島に取り残されるはめに‥。
これ以上ない絶望を味わったロビンソンだが、残された無残な船の残骸から役に立つものは無いかと運んでくる。そこには、衣食住にはなんの役にも立たなそうな、聖書が。
しかし、ロビンソンは無人島で生活していきながら、この聖書を読み、徐々に信仰深くなっていく。
なぜ私だけが生き延びたのか。
それまで神に見放されたと思ってきたロビンソンは、考え方が変わり、自分だけが生き残ったことを不幸中の幸いであると、神に感謝を告げる。いくつもの困難のときに彼は、聖書をじっくりと読み、思慮深く行動するようになっていく。困難な状況だからこそ、聖書に書いてあることが彼に現実感を与える。まるで自分にむけて書かれたものであるかのように。
ロビンソンの気持ちになってみると、なるほど聖書はこう読めば良いのか、こういうときに読めば良いのか、とこちらに教示されているかのようです。
文明人から未開人に転落したロビンソンは、土地を耕し、種を植え、島の木を使って簡単な住まいを作り、衣服をこしらえ、動物を狩り、いろんな調理法を考え生み出し、島の地形や地理を調べ、脱出方法を考える。さらに日記をつけ、自分で暦を創り出し、島の季節を注意深く観察し、運よく下界を通るかもしれない船を辛抱強く見続ける、というまるで人類最初の人間であるかのように、初期設定を入念に行う。こうしてロビンソンは、文字通り生きるために必要なことをすべて自分で調達しこしらえ、そこには自立した人間、真の意味で自立した人間の姿が見られます。
かつて靴職人の姿を見ていたロビンソンは、それを思い出しながら自分で靴を作り出そうとするものの、それがいかに困難であるかを痛感する。たった一つの小さなボートを造り上げるのに何年も費やす。
近代文明の中で暮らしていたロビンソンは、いかに近代文明人が一つの職業に縛られているか、いかに自分の職業、自分の専門以外のことに無知、無頓着である社会かを知るのです。

ロビンソンクルーソーの生きる姿は、まさに現代人というものを表している気がします。
現代社会で生きていくうえで、このロビンソンクルーソーから学べることはとても多い。
デフォーの書いた『ロビンソンクルーソー』は、イギリスの文学史の中で、近代小説の出発点として位置付けられています。
最初の小説。
なるほど、読んでみるとその意味がよくわかりました。しかしよくできた寓話でもあります。

図書館サポーター あっきー


聖書が変わる・・・?(おまけ)

前回の記事の最後にこんなことを書きました。

「・・・なお余談ですが、古の時代、神の言葉は「石版(tablet)」に文字を刻み込む形で伝えられていました。まさか、何千年も後の時代に、聖書の言葉が「タブレット」で読まれているとは、誰も想像しなかったでしょうね。」
(※「石版」は「石板」の変換ミスでした、すみません。)

つまり、写真で説明するとこうなります。
前者の方がありがたみがありますけど、便利なのはやっぱり後者ですね!

タブレット(古).jpg タブレット(新).jpg

このあいだ、若い人たちが集まっている教会にお邪魔した時、みんなスマホで聖書読んでました。
僕も10年以上前から聖書はスマホで読んでいますが、もうすっかり、それが当たり前の時代になったんですねぇ。

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