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2013年3月アーカイブ

講演会の案内と講師紹介
 

 2013年3月8日(水)。クラインホールで浜矩子さんを講師とする公開講演会を行った。講演タイトルは「グローバル・リスクの諸相と日本経済」。タイトルは,半年以上も前の講演依頼時に決めたものであった。当日の講演内容そして今のタイミング考えれば,「アベノミクスを斬る」とでもした方が良かったかな,と思う。


 浜矩子さんは,三菱総合研究所を経て2002年に同志社大学大学院ビジネス研究科教授に就任し,2011年からは同研究科の研究科長を努めるエコノミストである。テレビや新聞など国内外のメディアに頻繁に登場し,斬新かつ鋭い切り口で政策論議を展開している。テレビ画面でも,何の資料も見ずに論理的で明快に,しかも権力者をバッサリと斬る姿は,他の評論家たちを圧倒する。髪の毛を紫に染め,ロンドン・テイストのファッションも彼女の個性を表している。鋭い舌鋒に加え,こうしたビヘイビアも,熱烈な浜矩子ファンを増殖させる所以であろう(女性に浜矩子ファンが多いらしい)。


 公開講演会は午後3時スタートであったが,1時間前の開場時間には,良い席を確保しようと聴衆の列ができるほどであった。事前の申し込み者は900人を越え,収容人数500人強のクラインホールには納まりきれない。やむなく,モニター視聴のサブ会場を用意した。

講演の中で語られたこと
 講演で語られた内容は,およそ次の通り。
 (1)アベノミクス批判
 アベノミクスは次の5つの大罪を抱えている。それらは,①浦島太郎型公共投資,②円安神風型輸出立国主義,③相棒つぶし型金融緩和,④行き過ぎた市場対話,⑤デフレ化のバブル経済化,である。


 ①浦島太郎型公共投資:安倍政権が進めようとしている公共投資は,一過性の公共事業に資金を投じるもので,50~60年前の景気刺激策である。既存インフラの更新投資であるため,生産力増強をもたらすものではなく景気対策の効果は小さい。


 ②円安神風型輸出立国主義:現政権は,円安にすれば輸出が増え,景気が良くなると考えているようだ。しかし,円安は輸入原材料を通じてコスト上昇要因となり,中小企業や生活者にとっては厳しい。


 ③相棒つぶし型金融緩和:これまで,政府と中央銀行(日銀)は,本来,独立した意思を持つ為政機関であり,その独立性が両者をして格好の相棒と位置付けられていた。しかし,現政権は中央銀行を政府の従属機関にしてしまい,切磋琢磨の相棒を潰してしまった。これは,日本の民主主義のためにも良くない。


 ④行き過ぎた市場対話:安倍政権は市場操作に長けていると思っているようだが,市場の反応に重点を置くと,政策運営そのものが市場に左右されてしまう。公共の福祉に資する政策であっても,それが株価を下げるような効果を持つものであれば,採用されなくなる。これでは,責任ある政策運営とは言えない。


 ⑤デフレ化のバブル経済化:現在の株価上昇は,ゼロ金利下のカネ余り状態の中で,更なる金融緩和の期待によって,資金がリスクの高い資産(株式)へ向かうことに起因する。これは「生活防衛型投機」とも言える。賃金が上がらなければ,資産インフレと実物デフレが同時進行する。実物デフレは,賃金の引き上げを困難にするため,企業は労働慣行の弾力化を狙い,非正規雇用の多用化に進むだろう。

 (2)地球経済の二つのリスク
 現在のグローバル経済は,二つのリスクを抱えている。それらは,①二つの恐慌,②二つの戦争である。


 ①二つの恐慌:二つの恐慌とは,1)財政破綻に起因する恐慌,2)中央銀行に起因する恐慌,である。1)財政恐慌は,日本を含め主要国が抱え込む大幅な財政赤字が原因となる。財政は国境を越えられず,財政再建をしようとすれば,労働者に負担がかかり,実際上,既にそれが困難な状況にある。2)中央銀行恐慌は,ECB(欧州中央銀行)が2012年10月に発表した「国債買取り大宣言」に端を発する。これは,破綻寸前の国の国債に関して,市中で売れ残った国債の全てをECBが引き受けるというものだ。中央銀行は,本来,通貨価値(ここではユーロ)の番人の筈なのに,その役割を放棄してしまった。中央銀行がこうした手法を採ると,通貨価値が一気に下落する可能性がある。


 ②二つの戦争:二つの戦争とは,1)通貨戦争と2)通商戦争である。1)通貨戦争は,自国通貨の為替切り下げ競争(為替戦争)であり,デフレと失業を互いに押し付け合う構造である。1930年代にも米・英・仏で同様な競争が繰り広げられ,「三国通貨協定」が締結された。2)通商戦争は,現在のFTAやTPPに見られる。以前の貿易自由化は,GATTやWTOを舞台に,全ての国で自由貿易を推進しようとしていた。しかし,現在のFTAやTPPは,協定内の国に限定した貿易自由化であり,それから外れた国は排除される。このやり方は,WTOの「自由・無差別・互恵」の原則に反し,1930年代の「ブロック経済主義」と酷似する。国内のTPP反対論は,例外なき貿易自由化が農業等の国内産業に悪影響を及ぼすというものだが,TPPの本質は「地域限定排他的貿易協定」である。戦争へと突き進んだ1930年代の悲劇を繰り返さないために,ブロック経済化を進めるTPPには反対である。

 (3)破局に至らないために~『国富論』を越えて~
 1930年代のブロック経済から世界大戦に至った悲劇を,今また繰り返さないためには何をすべきか?その解として,『ボク(僕)富論』から『キミ(君)富論』への転換を提案する。『キミ富論』とは,自らの利益ではなく他者の利益を優先させ,ライバルに手を差し伸べよう,という考え方だ。国レベルでは,国産品愛用運動を止め,他国品を買おう。企業レベルでは,他社製品を買おう。自国・自社・自身を優先する考えに留まる限り,現在の経済問題は解決できない。以上(文責:木船)。

 

講演会後に思う
 

 ナマの浜さん(ナマ浜)は,テレビ画面を通して見る浜さんに比べて,ずぅ~とキュートであった(失礼!)。バイオレットの髪や個性的なファッションは画面と変わらないが,講演の前や後の控室でのお喋りでは,無表情でもなく強面でもない,ウィットに富んだ楽しいお人柄を感じさせられた。こっそり,その一端を書いてしまおう。
 木船「浜先生のご趣味の一つに,大量飲酒があるそうですね?」
 浜 「はい。正確には,多品種大量飲酒と言います」
 木船「ご多忙な先生ですから,いつも原稿の締め切りに追われているのでしょう?」
浜 「最近は,締め切りに追いかけられるのではなく,締め切りを追いかけています」
 
 今回の講演会でも,浜さんは,何の資料を見ないで80分間,聴衆に語り続けた。聴衆を飽きさせない様に,適当な時間にジョークを入れ,上述のように80分を3つの話題で構成する。終了のタイミングは,寸分の狂いもなく予定時間ピッタリだ。実にプロだなぁ~と感服した。
 ここ数年の浜さんの精力的な仕事ぶりには目を見張らせられる。本屋に行けば,常時,入り口付近に数種類の著書が平積みされていて,ついでに表紙には眼光鋭い浜さんの顔写真が載っているものも多いから,「あなたは,ちゃんと仕事(研究)していますか?」と問われている気分になる。大量飲酒を趣味としても,高い生産性を誇る研究者は厳然と存在するのだ。自身を叱咤激励せねば。


 浜さんはキリスト教信者であり,本学と同志社大学とはともにキリスト教主義大学というつながりもある。「これを機会に,名古屋学院大学で毎年,講演をお願いしますよ」という問いかけに,浜さんは「喜んで」と快諾してくれた。次回がいつになるかは決まっていないが,時期をみて再び登壇して頂こうと思う。
超多忙な浜さんには,くれぐれも健康にご留意していただいて,増々のご活躍をお祈りする次第である。

 

目的と旅程
 2013年2月22日(金)に出国し25日(月)に帰国という2泊4日で,ポーランドの首都ワルシャワに出かけた。Wカップ応援ツアーのような「弾丸ツアー」だ。目的は,当地にある「ポーランド日本情報工科大学」と本学との交換留学生に関する協定書に調印するためだ。本学にとって,この大学は第77番目の協定校となるが,中東欧諸国の大学としては最初の相手である。
 弾丸ツアーの日程は次のとおり。金曜日(2月22日)に中部国際空港を発ちフランクフルト経由で同日夜にワルシャワに入る。金曜・土曜とワルシャワで2泊したら,日曜(24日)の早朝にワルシャワを発ち,行きと逆のコースを辿って中部国際空港に戻る。中部国際空港に到着するのは月曜(25日)の午前9時。その足で大学に向かい,午後はいつものように幾つかの会議に出る。

ワルシャワまで
 2月22日(金)午前11時,フランクフルト行きのルフトハンザ(LH737便)は予定時刻通りに中部国際空港を離陸した。フランクフルトまでの飛行時間は約12時間。出発前の1週間が極度に忙しかったことに加え,機内で飲んだ3杯の赤ワインで,フライト中の半分は睡眠時間。残りの時間を,ここ数日の日記を書くことに費やした。そのため,機中で退屈することなく,「あと15分でフランクフルトに着く」というアナウンスを聞いた。
 飛行機の窓から見える景色は,どんよりして,小雪が舞う。気温は2度C。フランクフルト空港で2時間半ほど待ち,ワルシャワ行きの飛行機(LH1352便)に乗り継ぐ。予定時刻より30分遅れて離陸し,ワルシャワ到着は現地時間の夕方7時半である(日本時間,23日,午前3時半)。ここでも雪が舞っている。日本を発ってから約16時間。
 ワルシャワでの滞在ホテルは「ソビエスキー」。辛い思いをさせられたソビエト連邦を思い起こさせる名前を,わざわざ付けなくても良さそうなものを・・・。カウンターでチェックインしていると,経済学部の家本博一教授からのメッセージが手渡された。
 「学生たちと懇親会をしているので,是非参加してください」と書かれている。家本先生は井澤知旦教授と共に,目下,学生19人を連れて「ポーランド・スタディーツアー」の途上にある。彼らは,ポーランドに入ってから既に1週間が過ぎ,今日はアウシュビッツの捕虜収容所を見学した後,クラコフからワルシャワに移動してきた。
 夜8時。シャワーも着替えもせずに,部屋に荷物を放り込んだだけで,懇親会の会場に向かう。会場は日本食レストランの「稲波:Inaba」。ホテルからわずか徒歩3分の距離だが,戸外は雪が舞い木枯らしが吹いている。信号待ちの間に,身体が冷えてくるのが解る。

学生たちとの懇親会
 「稲波 Inaba」はビルの地下1階にあった。店のドアを押して入ると,そこは天井の高いビアホールのような様相だ。椅子とテーブル席で,40~50人位入れる。
 「今晩は」と日本人の集団に声をかける。その集団は19人の学生と2人の教員それに1人のゲスト(ワルシャワ在住の松本さん)で,合わせて22人。44の眼がこちらに向いた。ボクを見て,この人物が学長であると認識できた学生は何人いたことだろう?
 長テーブルの一角に席が用意され,改めて皆と乾杯。そして,近くに居合わせた3人の経済学部生(井浦君,加藤君,早川君)を中心に歓談する。彼ら3人はいずれも今回のスタディーツアーが初めての海外経験だという。
 「日本を離れて一週間,今,何を思う?」。この質問への答えが3人3様で面白い。井浦君は「改めて英語や歴史の勉強をしなければと感じている」と神妙な表情で語り,早川君は「外国は楽しい,次に何が見られるか興味津津」と元気に言う。そして,加藤君は「ホームシック気味で日本が恋しい」と落ち込み気味だ。
 異文化体験は,我々の感性を研ぎ澄ませ,見るもの聞くもの全てに心を揺さぶられる。とりわけ,ポーランドを含む中東欧諸国は,ロシアやドイツの列強に挟まれ,近隣諸国から蹂躙され利用され続けた暗い歴史を持つ。それにも負けず,明るい未来を切り拓くべく奮闘する彼らの姿を目にした時,平穏に慣れた日本人が刺激を受けない筈が無い。ポーランド体験は,学生たちにとって否応なく「気づき」の機会となるに違いない。
 10時過ぎ,懇親会はお開きになった。戸外に出ると,相変わらず小雪が舞い木枯らしが吹いている。アルコールで適度に暖まった身体は,一気に冷却され酔いも覚めていく。
 部屋に戻ると,長い一日の疲れからどっと睡魔が押し寄せ,歯磨きだけしてベッドにもぐりこんだ。

調印式の朝
 2月23日(土)。朝の4時に目が覚める。時差ボケ?日本時間は昼の12時だから,体内時計が「起床!起床!」と叫んでいたとしても無理はない。それでも1時間ほどまどろみタイムに浸った後,5時に起きた。
 シャワーを浴び,テレビでBBCのWorld Newsを見る。日米首脳会談に臨む安倍首相の米国訪問を伝えていた。
 朝食を採る1階のレストランは6時半から開いている。7時に行くと,シーズンオフでホテルの客が少ないせいか,先客はわずか3人であった。
 ビュッフェスタイルの朝食で手にしたのは,グレープフルーツ・ジュース(米国ではこれを「お目覚めジュース」と呼んでいる),ハム・ベーコン,スクランブルエッグ,サラダ,それにクロワッサン2個。日本では,絶対に,朝からこんな大量には食べない。「身体に悪そうだなぁ~,太る素だなぁ~」と思いながらも,ついと貧乏性が出て,山盛り朝食となってしまう。まぁ,これもせいぜい2日間のことだから,許そう。
 9時半に学生たちは,家本先生の案内でワルシャワ市内の博物館等の見学に出かける。ボクは,彼らと別行動で,15年ぶりのワルシャワの街を散策した。
 1997年~99年にかけて,ボクはエネルギー経済の専門家として,JICA
(国際協力機構)の「ポーランド・省エネルギー計画マスタープラン調査」に参加した。大学の長期休暇を利用して,何度かワルシャワに出かけた。経済やエネルギーに関する情報・データを収集・整備しながら,マクロ経済とエネルギー需給に関する予測モデルを開発し,2020年までの見通しを作る。それがボクに課せられた仕事であった。
 長期間のホテル滞在では,「また,これか」と食傷気味になるほど,先述のハム・ベーコン,スクランブルエッグの朝食を食べた。運動不足の解消と市内見学という一石二鳥を狙って,旧市街までの散歩を日課にした。ショパンの心臓が埋められているという教会へも,何度となく足を運んだ。だから,自分の体は相当この街に馴染んでいたという自覚があった。
 しかし,今回訪れたワルシャワの街は,15年前のそれとは違っていた。当時,「汚くて暗くて危ない」と言われていたワルシャワ中央駅周辺は,今では一大ショッピング街に変貌し,綺麗で明るくて安全な場所として大勢の人で賑わっている。自分が長逗留していたホテル「Holyday Inn」の姿は無く,その場には「Mercue」の高層ホテルが建っている。シンポジウムやレセプション会場に利用した「フォーラム」ホテルは,「Novotel」に変わっていた。毎日通った古い事務所ビルも,近代的なビルに生まれ変わって「Bank Polski」の看板がかかっていた。
 90年代のポーランドには,社会主義時代の残像と体制移行後の混乱とがあちこちに残っていたように思う。旧体制時代に本流を歩いていた高級官僚たちは,体制崩壊で公的な職を失った後にも,西側諸国を相手にコンサルタント業を営み荒稼ぎしていた。実際,ボクもそういう人達にヒアリングを求め,彼らの力を借りてデータを集めた。その中には,エコノミストと称しながら,マクロ経済の基礎理論も知らず,とんでもない誤った解釈を基に政策批判をする者もいた。あの人たちは,今,どうしているのだろう?
 午前中の,わずか2時間程度の市中散策であったが,15年という時間経過の重みを痛感させられた。

ポーランド日本情報工科大学にて
 協定の調印式は,2月23日(土)午後2時にポーランド日本情報工科大学の会議室で行われる。当大学は,ホテルから徒歩5分のところにある。ホテルのロビーに午後1時45分に集合し,家本先生の先導で,名古屋学院大学ミッション22名御一行様の集団が,調印会場に向かった。 
 ホテルから徒歩5分の場所は,ワルシャワ中央駅からでも徒歩7分程度であり,街の中心地といっても良い。周辺は閑静なオフィス街であり,石作りの建物はどこか博物館を思わせる。 
 ポーランド日本情報工科大学は,1994年に情報科学部の単科大学として設立された。設立にあたって,日本政府はJICAを通じて人的,資金的援助を行っている。
 1学部90人の学生でスタートとした当該大学は,20年を経た現在,4学部(情報科学部の他に,新メディア美術学部,日本文化学部,情報管理学部)に2,000人が学び,情報科学に関してはポーランド屈指の大学との評価を得るまでに成長している。また,ビトム(Bytom,2003年)とグダニスク(Gdańsk,2007年)に情報科学部の分校を持っている。
 日本語のみならず日本文化全般を学ぶ学部として,2007年に「日本文化学部」が開設された。在籍学生数は 1学年40名程度であるものの,それぞれが自信の興味関心に応じて,日本の文化に焦点を充てた研究を進める。例えば,日本語が堪能なカルポルク准教授は,能楽の仕手を演じる。調印式に参列した3人のポーランド人学生も,それぞれ日本の漫画やアニメやJ-ポップに興味関心を持つという。
 調印式の出席者は,ポーランド側がノヴァツキ(イェジ・パヴェウ)学長,ヨキシュ(イダ)学長代理,ヴァシレフスキ(ヤルツ)日本文化学部長,カルポルク(ヤコブ)准教授,それに今回の協定を仲介して頂いた東保光彦教授である。そして,日本文化学部で学ぶ学生3人(ボーカツキ君,カロリーナ嬢,フィリピーナ嬢)。日本側は,小生,家本教授,井澤教授に19人の名古屋学院大学の学生たちである。
 名刺交換の後,テーブルに着き,
ノヴァツキ学長が歓迎の挨拶と大学紹介を行う。それを受けて,小生が返礼の挨拶と名古屋学院大学の紹介を行った。その後,参列者の紹介。本学の参加学生たちも,一人ずつ学部・学年・名前ととともにポーランドの印象や感想を述べた。
 これが結構,興味深い。学生たちは,「このポーランド・スタディーツアーで何を学んだか,何を感じたか」を試されているかのようだ。ポーランドの暗い歴史に慄然とした,改めてヨーロッパ全体の歴史に関心を抱いた,自身の無知を自覚した,食べ物への関心を深めた,等々。一方で,漫然とした観光気分のような学生の姿も露わになる。これには思わず,苦笑。
 協定書への署名は,平穏かつ速やかに行われ,3時過ぎに調印式は終了した。その後,学生たちは学生同士の交換会,教員たちは場所を移して4時から会食会となった。

ガチョウの店で
 4時からの会食会は,「Biala Ges」というガチョウ料理の店で開かれた。オーナーの住居がそのままレストランになり,店内にはセピア色に変色した家族写真が飾られている。流れてくる音楽は,1950年代のものだ。テーブルに着いたのは,ポーランド側5名,日本側3名,合わせて8名。
 ガチョウは,ポーランドの伝統料理の食材であるらしいが,日本では滅多にお目にかかれない。鶏よりも二回りくらい大きなモモ肉をボイルし,トロリとしたソースがかけられていた。鶏肉よりも柔らかく,何とも特徴づけるのが難しい味だ。これに,伝統的なポーランドのスープを付けて貰った。こちらは,多少,酸味の利いた慣れない味だが,外国を実感するには格好な品であった。
 テーブルで話題をさらったのは,日本文化学部長のヴァシレフスキ氏。同氏の専門は文化人類学で,アフリカやアジアを旅した話が面白い。ケニヤでは・・・,スリランカでは・・・,とまさに異文化比較論を縦横無尽に展開する。ほほぉ~と聞き役に徹する。

東保先生のお宅で
 ガチョウの店を7時過ぎに出て,家本・井澤・ボクの3人は,東保先生のご自宅にお邪魔した。場所はワルシャワ郊外になるのだろうが,林の中に建つお屋敷はちょっとしたお城である。
 車で門を抜けた後,さらに200~300メートル走って住居建物に着く。雪が残り,しかも冬の夜であるから,周辺の景観はサッパリわからない。しかし,印象としては,軽井沢のような別荘地に建つお城である。
 大広間の一角に置かれたソファーで,4人の男が,シーバースリーガルの水割りを傾ける。ツマミはペスタチオとチーズ。耳に柔らかい京都弁で喋る東保先生は,サービス精神旺盛な気遣いの人だ。かゆい所に手が届くような気配りが満載。
 その折に,東保先生からノヴァツキ学長の奥様の話を伺った。奥様のイザベルさんは,副首相や社会政策大臣の経験を持つ国会議員であった。あったと過去形にするのは,2010年4月10日に飛行機事故で亡くなっているからだ。この飛行機事故は,
日本でも大々的に報道されたから,記憶にある人も多いだろう。それは,カチンスキ大統領夫妻をはじめ多くの要人を乗せたポーランド政府専用機がロシア西部スモレンスクで墜落し,乗員乗客96名の命を奪ったというものだ。この事故は,カチンスキ大統領が反ロシア親米派と目されていたため,仕組まれた飛行機事といった政治的な謀略説を含み,様々な憶測を呼んだものだ。
 いずれにしても,当時,ノヴァツキ学長は奥さんの不慮の事故に相当なダメージを受けていたそうである。そうとは知らず,大学の会議室やガチョウの店で,にこやかに談笑されるノヴァツキ学長に,好々爺を覚えた小生は愚か者である。
 3年の歳月は,彼を悲しみの淵から引き上げてくれたのだろうか。

帰国
 翌日(2月24日,日)の起床は,朝5時。6時半に朝食を採りに1階の食堂に行き(今回は,ボクがお客さん第1号であった),昨日と同じメニューを食べる。
 7時にホテルをチェックアウトして,タクシーで空港に向かう。雪は降っていなかったが,道路の両端には雪の塊が積み上げられている。地元のタクシードライバーは雪道の運転にも慣れているのだろうが,雪景色の中を時速60キロ超で飛ばすのには驚いた。後部座席に座るボクは,「オイオイ,大丈夫かぁ~」とハラハラ・ドキドキであった。
 7時半,ワルシャワ空港でルフトハンザ航空にチェックイン。後は,飛行機任せである。フランクフルトで飛行機を乗り換える手間はあるものの,仮に預け入れした荷物が中部国際空港でスンナリと出てこなくても,そこは日本だから大きな問題ではない。
 そして,時間の経過・・・。
 2月25日(月)午前9時半,中部国際空港に到着。預けた荷物も無事に回収できた。空港では,4階にある大衆浴場「風(フー)の湯」で一浴びする。これは,稲垣理事長から奨められた長旅の疲れをとる方法だ。風呂に入ってサッパリすることはもちろんだが,この風呂は,飛行機を眺めながら入浴ができる展望浴場なのである。癒される。
 11時過ぎに大学に到着。午後から3つの会議に出て,あっという間に現実に引き戻された。