(インドネシア)アルムスリム大学の最近のブログ記事

 インドネシアに来て9ヶ月が経ちました。授業では、中間テストばかりの日々を送っていました。マネージメントサービスの授業では、みんなが筆記のテストを受けている中、私だけ先生と一対一の面接方式でテストでした。先生が優しく、私が筆記だと分からないだろうと配慮してくれたのはとても嬉しかったですが、クラスメイトがいる中、1人だけぎこちないインドネシア語での面接は少し恥ずかしかったです。経済の授業ではプレゼンテーションばかりです。毎週1つのグループが発表し、他のグループは11つ必ず質問をしなければなりません。私は友達に手伝ってもらいながらプレゼンテーションをしましたが、中間の筆記テストは半分は時間が足りず、半分は白紙でした。この経済の先生は未だに直接話したことがないので、どうなるか少し不安です。文法英語は、インドネシア語から英語に訳す問題がメインだったので、今の自分はインドネシア語の方が分かるので、それを英語にするという作業に頭を切り替えるのに慣れておらず、大変でした。停電が続いていたので、授業が終わったらご飯を食べて、図書館かカフェで勉強します。運よく一番仲良しの友達の家に発電機があったので、毎晩友達の家に泊まりに行っていました。迷惑と思いましたが、友達家族とはもう9ヶ月の付き合いで、もう帰国日が近づいている私を暖かく歓迎してくれています。断食明けのお祭り(レバラン)のお祝いも、この家族と新しいお揃いの洋服を買い、ジルバブも買い、お祝いする予定です。



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 5月17日から26日まで、住んでいるマタンから車で4時間ぐらいのとこにあるバンダ・アチェに、卒論調査と日本語学校にお邪魔するしてきました。幸いなことにホームステイ先を用意してくれたので、日本語学校で仲良くなった友達も含め、色々な方の家に泊めていただきました。第一の目的は、これから外国人技能実習生として日本行きを目指す若いアチェの男性に、インタビューすることでした。バンダ・アチェの技能実習生向けのトレーニングセンターに行き、日本語の授業中にお邪魔させていただきました。2ヶ月の泊まり込みの日本語授業合宿の初日という忙しい中、27人のアチェ人の男性にアンケート調査することができました。教室に入ると軍隊のように厳しく、挨拶も軍隊みたいで、そこまでかしこまっても逆に日本人と話しづらくなると思いましたが、これも日本という国で働くための訓令と先生は厳しく指導していると言っていました。色々書きたいことがありますが、それは卒業論文の方に書きたいと思います。27人という人数だったので、アンケート用紙を配り書いてもらいました。その後は、彼らから私に対しての質問タイムがありました。片言の日本語で一生懸命聞いてくれるこや、何回も挙手をして質問をたくさんしてくれる子もいました。彼らはこれから2ヶ月ここで日本語の授業を受け、テストに受かったら次はジャカルタで行われるトレーニングに参加でき、そこでもテストを合格しVISAが取得できれば、外国人技能実習生として日本に来ることができます。今日の日本では、外国人技能実習生に対しての様々な問題、注目や有無が問われるなか、期待をし難しくても目を輝かしながら勉強をしている彼らを目の前にした私は、頑張れと応援したい気持ちと、外国人技能実習制度についてのあり方をもう一度考えさせられ、この卒論に対しての気持ちも深まりました。



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 バンダ・アチェ滞在中はアチェ州での教育活動や文化活動、東日本大震災へのボランティア活動を行っているNPO 良心、市民の会」が国際言語習得の機会を提供し、地域の子供達の教育水準UPを目指すための「晃月スクール」の日本語教室に3日間、先生としてお邪魔させてもらいました。小学生用のクラスでは、ブレーメンの音楽隊の絵本を読み聞かせをしたり、高校生・大学生向けの授業ではテキストを使ったり、ひたすら私に聞きたいことや日本について知りたいことを質問する時間もありました。教えている先生たちは大人の先生もいますが、アシスタントとして晃月スクールの卒業生の同じ歳ぐらいの子たちが教えたり、運営するのもサポートしていました。ここでは、みんなが日本について興味を持ってくれています。日本語も上手な子が多く、日本に行ったことがある子も多く、年齢も同世代だったのでとても親しみやすかったです。2015年のスタディツアーの際、バンダ・アチェは訪れたことがありました。しかし、滞在日数が少なかったので、今回はスタディツアーの際行けなかった有名な観光名所(津波ミュージアムやアチェで一番大きなイスラム寺院Mesjid Raya Baiturrahman)に晃月スクールで仲良くなった友達たちと行きました。



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 その他にも、アチェ州で1番大きく有名なUniversitas Syiah Kuala という大学では、国際センター長の方にお会いしお話しをしたり、2番目に有名な大学Universitas Islam Negeri では日本語クラブに招待してもらったので、ここでも1日だけ日本語を教えてきました。そして、日本人女性が経営するカフェに行き、久しぶりのたこ焼きとお好み焼きを食べました。大阪出身の日本人の方が経営するだけあって、本格的で美味しく感動しました。残念ながら、その日本人女性の方は日本に帰ったばかりだったのでお会いすることはできませんでした。あっという間の10日間、毎日忙しく休む日もないぐらいでかけていましたが、卒論のためだけでなく、それ以上に2015年のスタディツアーでは味わえなかった、見れなかったバンダ・アチェを勉強しながら楽しむことができ、良い出会いもたくさんありました。



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 バンダ・アチェから帰った5月27日、イスラム教ではラマダンが始まりました。ラマダンとはイスラム暦9番目の月のことで、預言者ムハンマドが神からの啓示を授かった神聖な月とされています。このラマダン月に行われるのが「断食」です。食べ物のありがたみを知る、貧しい人の境遇に思いを馳せる、忍耐強さに身をつける、信仰心を高めるなど、様々な意味が込められています。私が一番多く聞いた言葉は、「断食は健康に良い」というものでした。断食といっても、何も飲み食いしてはいけないわけではありません。日没から夜明けまでの間に食事をします。私もせっかくイスラム教の地域で留学しているのだから、無理しない程度に挑戦してみようと思い始めました。空腹を我慢することはできるのですが、暑いアチェでは飲み物を我慢するのが大変だと感じました。それと、夜明け前の食事(サフール)が私は辛く感じました。昨夜の分まだ消化しきれてないのに、寝起きでご飯を食べなければいけない、もし食べなかったら夜までなにもない!と思えば無理にでも食欲はわきました。今は寮生活でなく、大学の先生の家でお世話になっているので、サフールにフルーツだけ、せめてあっさりしたものが食べたくても、そうはいきません。最初はこんな逆に狂った食生活をしたら健康どころか体壊すと思っていましたが、一週間も経てば、朝4時に起きてご飯を食べ、また寝る、そして断食が開けるのは19時前という生活に慣れました。生理期間は断食はしてはいけないそうなので、生理期間中を取り除いて、できるところまで挑戦したいと思います。6月中は断食中なので、大学はお休みです。帰国にむけての準備や、旅行に卒論について、悔いのないよう過ごしたいと思います。

 インドネシアに来て8ヶ月が経ちました。4月は毎日停電が1日1回は起きています。停電が起きると、自分はインドネシアという発展途上国にいるのだと改めて感じさせられます。寮にいる間、もし停電になれば寝るしかありません。慣れた今はもう「またか。3時間後ぐらいに戻るかな」と思うぐらいです。夜停電なら寝る、携帯やパソコンは常に充電をしておく、などと臨機応変に対応できるようにしていたので、特に困ったことはありません。

 ですが、陽が出ている明るい日中の停電には困らされました。その時、文化社会基礎の授業に参加をしており、日本についてプレゼン発表する時、パワーポイントを使用できなかったためです。写真を見せながら発表した方が分かりやすいと思い、パワーポイントでのたくさんの写真を使ってプレゼンの資料を作っていました。停電がこの授業に影響するとは思ってもいなかったので、少しパニックになりながらも何とかプレゼンを終わらせました。タイミングが悪かったのは仕方がないですが、写真に頼っていた部分があったので、不十分なインドネシア語だけの説明となってしまい、心残りができてしまいました。それでも、先生もクラスメイトも一生懸命私のプレゼンに耳を傾けてくれました。 

 行政村落管理の授業が遅れること、4月に始まりました。しかし、初回の授業で教室がどこか分らず、キャンパス内をさまよっていて遅刻をしました。教室に入ると、先生が他の学生に「どこの国の人?」と聞いているのが聞こえました。初めての留学生受け入れだからか、アルムスリム大学側が私が履修した授業を各先生にまったく知らせていなかったのか、先生も戸惑っていました。「自分から説明しなければ」と思いましたが、このクラスには一緒に経済の授業を履修している学生が多く居たので、彼女たちが説明してくれました。そして、私が日本人だと分かると、先生が知ってる日本語を話して授業が盛り上がりました。その後、この授業では、授業内容と関係なくても、日本と関わりのあることをしばしば先生が話してくれます。

 例えば、原爆についてインドネシア人は皆、「広島・長崎」の地名を知っています。知っている内容が戦争であろうが、アニメや食べ物であろうが、日本のことについて知ってくれてるのが嬉しかったです。反対に私は、インドネシアに初めて来る前は、正直バリ島、ジャカルタ、スマトラ島といえばスマトラ沖地震ぐらいの知識しかありませんでした。この報告書や毎月大学の方で掲載されているブログを通して、少しでも多くの日本人の人にインドネシアを知って欲しいと思いました。 

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 留学生活も残り3ヶ月となり、遅ればせながらアルムスリム大学の方で日本語クラブをつくりました。北スマトラ大学の日本語学科を卒業したばかりのアユさんと私が、週2日、14時から17時ぐらいまで日本語を教えています。今はまだ5人しか参加者は居ませんが、ひらがなや簡単な挨拶からスタートしました。アルムスリム大学には日本語学科はありませんが、名古屋学院大学に留学にできるチャンスがあるので、このクラブを通して日本に興味を持ってもらえれば嬉しいです。 

 更に今月は、インドネシアに来て初めて、アチェ州以外の場所に出かけました。アユさんが日本語を勉強していた北スマトラ大学がある、北スマトラ州メダンに行きました。アユさんが4月27日から3日間開かれていた日本語学科生の学祭、その名も日本語の「BUNKASAI」に誘ってくれたからです。日本領事館もあるメダンは、スマトラ島で最大の都市であり、インドネシアで第4番目に人口が多い都市です。ムスリムだけでなく、インドネシア人でもクリスチャンの人や多くの中華系の人々が住んでいます。アチェ州、特に私が住んでいるマタンでは、私が一歩外を歩くと、ジルバブを被っていない私をすれ違う人皆が見てきます。しかし、メダンで全く見られてると思うことがありませんでした。小さなことと思われるかもしれませんが、8ヶ月アチェで過ごしてきた私にとっては、同じインドネシアでもこんなにも世界が違うのかと驚きました。

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 マタンでの移動はバイクが多く、信号もありますが(1つや2つぐらい)あってもないようなものです。メダンでは車ばかりで、渋滞がひどかったです。大きなショッピングモールもたくさんあり、日本食レストランもありました。お寿司にも感動しましたが、日本のラーメン屋に豚肉がありました。アチェではムスリムがほとんどなので、豚肉が全くありません(イスラムでは豚肉は禁じられているため)。お店ではハラール(イスラム法で認められているもの)のメニュー、つまり豚肉やお酒を使用していない、ムスリムが安心して食べれるものもありましたが、ハラール商品と非ハラール商品のキッッチンが同じということで、ムスリムの友達はお店に入りませんでした。ハラールの商品があっても、非ハラールを扱うのと同じキッチンでは、ムスリムは安心してお店に入ることもできないということを初めて目の当たりにしました。


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 目的であった北スマトラ大学には、日本語学科があり、現在日本人の先生は居ないらしいのですが、お餅つき大会やコスプレ大会が開かれていたり、日本の食べ物を売っていたり、浴衣の着付け体験ができたり、本格的な日本満載の学祭でした。

 歩いていると「すみません〜、すみません〜」と後ろから聞こえたので振り返ると、満面の笑みで、「日本人ですか?!」と女子高生に話しかけられました。学校の課題で、この学祭で日本人を探して日本語でインタビューをしてくるという課題があったそうです。なので日本語で「すみません」と言いながら歩いていたと聞き、すごく良い探し方だなと感心しまいました。そして何より、大学生だけでなく、彼女のように日本語を勉強している高校生も学際に参加をして、日本を知ろうとしてくれているということは、嬉しいことでした。 

 学祭当日は、SNSを通じて知りあった日本人の方が紹介してくれた方が、学祭を案内してくれました。残念ながらSNSで知りあった日本人の方はちょうど日本に帰国中ということで、会うことはできませんでした。しかし、その方が開いているメダンお掃除クラブという団体のブースで、1人の日本人学生の方に会いました。インドネシアに来て初めて、日本の方に会えたのと、その方も私と同じく日本人がいない大学で留学生活を送っているということで意気投合しました。彼はインドネシア政府の奨学金制度を利用しメダンの大学に通っているそうです。お互いにどういった経緯で今インドネシアに居るのか、話しているうちにあっという間に時間が来てしまいました。

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 初めて会ったのに「同じスマトラ島の場所は違っても、日本人1人で頑張っている人が居るんだな」と思うと、今まであった孤独感がなくなりました。初めてインドネシアで会った日本人の方に、とても良い刺激をもらい、今まで自信がないとばかり思い込んでいた自分に、少しは自信が持てるようになりました。バスでの移動に10時間かかり、「次メダンに来る機会はいつのことかな」と思っていましたが、帰りのバスでは留学中にもう一度行ってみようと思いました。 インドネシアで過ごすのもあと2ヶ月。断食月が最後の異文化体験となるので楽しみです。
 インドネシアに来て7ヶ月が経ちました。

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3月は授業が始まり、毎日忙しい日々を送っています。 前学期は主に教育学部英語学科の授業を受けていましたが、半年以上が経ちインドネシア語もできるようになってきたので、政治社会学部の授業を取ることにしました。公共マネージメントサービス、システム経済、村落行政管理が政治社会学部の授業で、英語文法と文化社会基礎を英語学科の方で受けています。前学期と同じく、朝8時から授業が始まるのがほとんどです。 

 一般マネージメントサービスは先生がとても優しく、細かく「奈津子分かった?分らないなら先生でも友達でもいいから聞きなさい」と授業の合間に問いかけてくれます。授業ではインドネシアの公共サービスについて話しを聞いたり、各自治体で異なる部分を話しあったりしています。インドネシアだけでなく、日本はどうなのかと聞かれるので積極的に答えるようにしています。

 システム経済はひたすら先生の話しを聞くだけです。板書もないので、友達が取ったノートを見せてもらいながら、辞書で意味を調べていたらあっという間に授業が終わります。

 行政村落管理は、先生の都合により3月現在1回も始まっていません。

 文化社会基礎では、クラスメート全員が女の子です。前学期も英語学科の授業を取っていましたが、このクラスメートに初めて会いました。先生も優しく、クラスメートも温かく受け入れてくれました。授業ではグループを作りプレゼンを行う予定でしたが、私だけ1人で日本のプレゼンをしなさいと言われました。次の週に、向けて作りましたが、結局発表せずに終わりました。前学期の異文化理解の授業でも同じようなことがあったので、「またか、きっと前のようにいつか出番がくるかな」という気持ちで終わりました。

 英語文法のクラスは前学期と同じメンバーと先生なので、特に変わりなく受けています。初回の授業で、案内と教室が違ったのでキャンパス内をさまよい、30分以上遅刻してしまいましたが、前学期と同じ先生だったので理由も話しやすく、解決したので良かったです。 

 前学期と異なり選択した科目が難しいものばかりです。9月ごろよりかはリスニングの力は格段に伸びていると思いますが、授業内だとまだまだと実感します。それでも、日本から来た私に日本はどうなのかなど、科目内容と関係した質問やプレゼンの時間を作ってもらえていることは嬉しいです。
 
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 朝早く、1科目2時間と長いですが、苦痛はありません。なぜなら、授業が始まれば話しを聞き、分らない単語の意味を調べるなど、ついていくのに必死だからです。2時間はあっという間です。難しくて嫌になることも多々あります。留学生1人であることが良い場合と悪い場合があります。同じく名古屋学院大学から留学していた国際協力学科の学生が帰国してしまった今、留学のストレスに共感してくれる仲間がいないのでストレスがたまることもあります。7ヶ月目のこのタイミングでストレスが爆発するとは自分でも思っていませんでしたが、これも試練の一つですし、残りの少ないことを考えると前向きになろうと思えました。 

 ストレスとは別かもしれませんが、親知らずが腫れインドネシアで歯医者に2回も行くというハプニングもありましたが、薬で今は腫れも引きました。今は人生で初めてできた左目のものもらいに悩んでいます。7ヶ月目にして、体のどこかに何かしら不調がでてきているので、ストレスをためない程度に頑張りたいと思います。

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 インドネシアに来て半年が過ぎようとしています。2月の頭から2週間ほど、NGOJari Aceh」スタッフのヌルジュバさんの家でホームステイをしました。お料理作りなど村の結婚式のお手伝いを通して、村の人と交流をしたり、2015年にスタディツアーでヌルジュバさんの家を訪問した際、紛争中に国軍兵に夫を殺されたことを話して下さった女性の方々に2年ぶりに会う事ができました。彼女たちは、私がアチェに戻って来たことを歓迎してくれました。その他にもヌルジュバさんの今までの支援の記録を見せていただくなど、国際協力を勉強するにあたり知っておく必要があるインドネシア語の単語や言い回しを、分らなければすぐに聞くことができるという環境で学びました。


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 1月に日本語スピーチコンテストの審査員として呼んでもらった高校で、今月は書道を教えました。私は小学1年生から高校に入るまでずっと書道教室には通っていましたが、ここ5年間書道をしていなかったため、まさかインドネシアで高校生に教えるとは思いせず、とても良い経験になりました。お手本を書いている私を真剣に見ている学生たちの姿勢が嬉しかったです。本物の半紙ではないので書きづらく、日本語は止めやはらいなどがあり、更に筆で書くということに慣れないインドネシア人には書道は難しく、私にとっても教えるはとても難しかったです。「次は日本料理が食べたい。作ってみたい。」ということなので、"おにぎり"をみんなで作る約束をしました。もっと大変なことになりそうですが、今から"どうインドネシア向けにアレンジしよう。"など考えていると、楽しみになってきます。


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 大学では1月23日から授業が始まりましたが初回から先生の事情で休みという授業もあり、登録した色々な学部の授業のうちの一つしか始まっておらず、3月から本格的に授業が始まることになりそうです。留学生活が半年を過ぎた今、自分を試し、更にラストスパートとして自分を追い詰めるつもりで、難しそうな経済や行政村落管理という授業を選択してみました。また、卒業論文についてもテーマを決め、親に日本から参考文献の本を送ってもらい準備を初始めています。


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 この半年はあっという間でした。残りの留学生活は初心を忘れずに、人生で初めて経験する断食など、インドネシアに居るからこそできることを経験したいと思います。 

 あっという間に5ヶ月目が終わろうとしています。11日新年を海外で過ごしました。大晦日の夜、近所の友達の家の外で魚を焼いていたら、年を越していました。これといったインドネシアらしい文化を感じませんでしたが、ゆっくりと友達と過ごし、1月2日には大学でテストがありました。その日でテストは終わり2月半ばまで長期休みに入ります。


 長期休みに入ってすぐ、アチェで日本語の先生をしている方に頼まれ、高校の日本語スピーチコンテストの審査員をしてきました。私が住んでいる周辺で日本人は他にいないということだったので、気合いを入れて参加してきました。男女1人ずつ、日本語で3分間のスピーチをして、審査員はどちらの学生がより素晴らしいかを選び、選ばれた学生は次の本選に行けるということでした。2人のうちのどちらかを選ぶという審査方法は、とても難かしいものでした。スピーチの後は、参列していた高校生が日本語の歌を披露してくれたり、みんなで写真を撮ったり、日本語で話したりしました。きっと彼らにとって初めて会う日本人が私だったと思います。日本語を勉強し、興味を持ってくれているキラキラした目を持った彼らを見て、嬉しかったです。みんな日本のアニメを通して日本を知り、興味を持ったそうです。改めて日本のアニメの力をすごいと感じました。また、留学に来て半年も経っていない私のインドネシア語でのコメントを真剣に聞いてくれて、嬉しかったです。スピーチする高校生ぐらい緊張しましたが、とても良い経験をさせてもらったと思います。


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 113日には、2016127日に起きたピディジャヤ地震のために、名古屋学院大学で行っていた募金活動で集まった約9万円分の支援物資を届けに行ってきました。前回訪問した際に、赤ちゃんとその母親である女性のための支援が行き届いていないということだったので、今回も前回と同じように、紙おむつ、生理用品、歯ブラシ、石鹸、赤ちゃん用のミルク、洗剤やお菓子が入った袋を支援物資として準備しました。


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 三週間ぶりに訪れた現地は復興に向けて進んでいました。全壊してた建物は綺麗に撤去され更地になっており、全壊していたモスク(イスラム寺院)も綺麗に取り除かれていました。全壊はしておらず、人が多く集まり避難所となっていたモスクの外にあったテントは一つも無く、人も集まっていませんでした。皆それぞれ家に帰り、新しい生活に向けて進んでいると思うと少し安心しました。支援物資は二つの村に届けました。帰り際に子どもたちが嬉しそうに手を振って、「ありがとう」と笑顔を見せてくれ、その姿をみると安心と嬉しさと、私こそ募金に協力してくれたみんなに「本当にありがとう」という気持ちになりました。まさか留学中にこういった経験をするなんて思ってもいなかったです。今振り返ると、以前は何もできないと思っていましたが、今は"そんなことない。これから国際協力を勉強し続けるにあたって、この経験は大きな一歩になったな。"と思っています。


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 1月21日から27日の一週間、国際文化学部の佐伯先生がアチェに来ました。インドネシアへ留学をするきっかけを作り、留学をしている現在も1番お世話になっている佐伯先生に留学中お会いできたのは、正直とても嬉しかったです。先生が日本にいらっしゃる間も、連絡を取っていましたが、やはり実際会えるのはこんなにも安心するのかと思うぐらい安心をしました。そしてこの1週間は、2015年のスタディツアーで訪問することができなかった村をいくつか訪問してきました。そして、自分は語学力だけじゃなく、何故アチェに留学に来たのか改めて気づかされました。それまで国際協力が行われている現場の近くにいるのに、自ら進んで村に行ってみようとしなかったことに気がつき、現在はスタディツアーの時からお世話になっているNGO団体Jari Acehのヌルジュバさんの家にホームステイをし、まだ訪れたことがない村々へ訪問をする予定です。先生と話して気づいたなんて、まだまだ意識も、頭の中も子どもだなと思う部分が多々ありますが、残りの半年の時間を無駄にしないと決めたので、悔いのない留学にするためにも、気を引き締めて頑張りたいと思います。今まで過ごした時間が無駄だったとは思っていませんが、この先生と過ごした時間によって、自分の中で何か変わった気がします。卒業論文にむけても良い方向に進んでいるので、自分の力で留学をやり遂げて、最高の形で帰国できるようにという想いを大切に、この長期休みを過ごしたいと思います。


 一緒に留学に来ていた国際協力学科の深川が帰国をしてしまい、次の学期も生活も本当に日本人、いや、外国人が私だけです。後輩ですが、このアチェという場所で生活を一緒に過ごし、辛いことがあると話を聞いてもらったりと、なんだかんだ支えてもらった部分が大きかった存在でした。しかし、これからは自分1人だけです。本当に勝負だと思っているので頑張ります。


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