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ポーランド日本情報工科大学との学生交換協定の調印

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目的と旅程
 2013年2月22日(金)に出国し25日(月)に帰国という2泊4日で,ポーランドの首都ワルシャワに出かけた。Wカップ応援ツアーのような「弾丸ツアー」だ。目的は,当地にある「ポーランド日本情報工科大学」と本学との交換留学生に関する協定書に調印するためだ。本学にとって,この大学は第77番目の協定校となるが,中東欧諸国の大学としては最初の相手である。
 弾丸ツアーの日程は次のとおり。金曜日(2月22日)に中部国際空港を発ちフランクフルト経由で同日夜にワルシャワに入る。金曜・土曜とワルシャワで2泊したら,日曜(24日)の早朝にワルシャワを発ち,行きと逆のコースを辿って中部国際空港に戻る。中部国際空港に到着するのは月曜(25日)の午前9時。その足で大学に向かい,午後はいつものように幾つかの会議に出る。

ワルシャワまで
 2月22日(金)午前11時,フランクフルト行きのルフトハンザ(LH737便)は予定時刻通りに中部国際空港を離陸した。フランクフルトまでの飛行時間は約12時間。出発前の1週間が極度に忙しかったことに加え,機内で飲んだ3杯の赤ワインで,フライト中の半分は睡眠時間。残りの時間を,ここ数日の日記を書くことに費やした。そのため,機中で退屈することなく,「あと15分でフランクフルトに着く」というアナウンスを聞いた。
 飛行機の窓から見える景色は,どんよりして,小雪が舞う。気温は2度C。フランクフルト空港で2時間半ほど待ち,ワルシャワ行きの飛行機(LH1352便)に乗り継ぐ。予定時刻より30分遅れて離陸し,ワルシャワ到着は現地時間の夕方7時半である(日本時間,23日,午前3時半)。ここでも雪が舞っている。日本を発ってから約16時間。
 ワルシャワでの滞在ホテルは「ソビエスキー」。辛い思いをさせられたソビエト連邦を思い起こさせる名前を,わざわざ付けなくても良さそうなものを・・・。カウンターでチェックインしていると,経済学部の家本博一教授からのメッセージが手渡された。
 「学生たちと懇親会をしているので,是非参加してください」と書かれている。家本先生は井澤知旦教授と共に,目下,学生19人を連れて「ポーランド・スタディーツアー」の途上にある。彼らは,ポーランドに入ってから既に1週間が過ぎ,今日はアウシュビッツの捕虜収容所を見学した後,クラコフからワルシャワに移動してきた。
 夜8時。シャワーも着替えもせずに,部屋に荷物を放り込んだだけで,懇親会の会場に向かう。会場は日本食レストランの「稲波:Inaba」。ホテルからわずか徒歩3分の距離だが,戸外は雪が舞い木枯らしが吹いている。信号待ちの間に,身体が冷えてくるのが解る。

学生たちとの懇親会
 「稲波 Inaba」はビルの地下1階にあった。店のドアを押して入ると,そこは天井の高いビアホールのような様相だ。椅子とテーブル席で,40~50人位入れる。
 「今晩は」と日本人の集団に声をかける。その集団は19人の学生と2人の教員それに1人のゲスト(ワルシャワ在住の松本さん)で,合わせて22人。44の眼がこちらに向いた。ボクを見て,この人物が学長であると認識できた学生は何人いたことだろう?
 長テーブルの一角に席が用意され,改めて皆と乾杯。そして,近くに居合わせた3人の経済学部生(井浦君,加藤君,早川君)を中心に歓談する。彼ら3人はいずれも今回のスタディーツアーが初めての海外経験だという。
 「日本を離れて一週間,今,何を思う?」。この質問への答えが3人3様で面白い。井浦君は「改めて英語や歴史の勉強をしなければと感じている」と神妙な表情で語り,早川君は「外国は楽しい,次に何が見られるか興味津津」と元気に言う。そして,加藤君は「ホームシック気味で日本が恋しい」と落ち込み気味だ。
 異文化体験は,我々の感性を研ぎ澄ませ,見るもの聞くもの全てに心を揺さぶられる。とりわけ,ポーランドを含む中東欧諸国は,ロシアやドイツの列強に挟まれ,近隣諸国から蹂躙され利用され続けた暗い歴史を持つ。それにも負けず,明るい未来を切り拓くべく奮闘する彼らの姿を目にした時,平穏に慣れた日本人が刺激を受けない筈が無い。ポーランド体験は,学生たちにとって否応なく「気づき」の機会となるに違いない。
 10時過ぎ,懇親会はお開きになった。戸外に出ると,相変わらず小雪が舞い木枯らしが吹いている。アルコールで適度に暖まった身体は,一気に冷却され酔いも覚めていく。
 部屋に戻ると,長い一日の疲れからどっと睡魔が押し寄せ,歯磨きだけしてベッドにもぐりこんだ。

調印式の朝
 2月23日(土)。朝の4時に目が覚める。時差ボケ?日本時間は昼の12時だから,体内時計が「起床!起床!」と叫んでいたとしても無理はない。それでも1時間ほどまどろみタイムに浸った後,5時に起きた。
 シャワーを浴び,テレビでBBCのWorld Newsを見る。日米首脳会談に臨む安倍首相の米国訪問を伝えていた。
 朝食を採る1階のレストランは6時半から開いている。7時に行くと,シーズンオフでホテルの客が少ないせいか,先客はわずか3人であった。
 ビュッフェスタイルの朝食で手にしたのは,グレープフルーツ・ジュース(米国ではこれを「お目覚めジュース」と呼んでいる),ハム・ベーコン,スクランブルエッグ,サラダ,それにクロワッサン2個。日本では,絶対に,朝からこんな大量には食べない。「身体に悪そうだなぁ~,太る素だなぁ~」と思いながらも,ついと貧乏性が出て,山盛り朝食となってしまう。まぁ,これもせいぜい2日間のことだから,許そう。
 9時半に学生たちは,家本先生の案内でワルシャワ市内の博物館等の見学に出かける。ボクは,彼らと別行動で,15年ぶりのワルシャワの街を散策した。
 1997年~99年にかけて,ボクはエネルギー経済の専門家として,JICA
(国際協力機構)の「ポーランド・省エネルギー計画マスタープラン調査」に参加した。大学の長期休暇を利用して,何度かワルシャワに出かけた。経済やエネルギーに関する情報・データを収集・整備しながら,マクロ経済とエネルギー需給に関する予測モデルを開発し,2020年までの見通しを作る。それがボクに課せられた仕事であった。
 長期間のホテル滞在では,「また,これか」と食傷気味になるほど,先述のハム・ベーコン,スクランブルエッグの朝食を食べた。運動不足の解消と市内見学という一石二鳥を狙って,旧市街までの散歩を日課にした。ショパンの心臓が埋められているという教会へも,何度となく足を運んだ。だから,自分の体は相当この街に馴染んでいたという自覚があった。
 しかし,今回訪れたワルシャワの街は,15年前のそれとは違っていた。当時,「汚くて暗くて危ない」と言われていたワルシャワ中央駅周辺は,今では一大ショッピング街に変貌し,綺麗で明るくて安全な場所として大勢の人で賑わっている。自分が長逗留していたホテル「Holyday Inn」の姿は無く,その場には「Mercue」の高層ホテルが建っている。シンポジウムやレセプション会場に利用した「フォーラム」ホテルは,「Novotel」に変わっていた。毎日通った古い事務所ビルも,近代的なビルに生まれ変わって「Bank Polski」の看板がかかっていた。
 90年代のポーランドには,社会主義時代の残像と体制移行後の混乱とがあちこちに残っていたように思う。旧体制時代に本流を歩いていた高級官僚たちは,体制崩壊で公的な職を失った後にも,西側諸国を相手にコンサルタント業を営み荒稼ぎしていた。実際,ボクもそういう人達にヒアリングを求め,彼らの力を借りてデータを集めた。その中には,エコノミストと称しながら,マクロ経済の基礎理論も知らず,とんでもない誤った解釈を基に政策批判をする者もいた。あの人たちは,今,どうしているのだろう?
 午前中の,わずか2時間程度の市中散策であったが,15年という時間経過の重みを痛感させられた。

ポーランド日本情報工科大学にて
 協定の調印式は,2月23日(土)午後2時にポーランド日本情報工科大学の会議室で行われる。当大学は,ホテルから徒歩5分のところにある。ホテルのロビーに午後1時45分に集合し,家本先生の先導で,名古屋学院大学ミッション22名御一行様の集団が,調印会場に向かった。 
 ホテルから徒歩5分の場所は,ワルシャワ中央駅からでも徒歩7分程度であり,街の中心地といっても良い。周辺は閑静なオフィス街であり,石作りの建物はどこか博物館を思わせる。 
 ポーランド日本情報工科大学は,1994年に情報科学部の単科大学として設立された。設立にあたって,日本政府はJICAを通じて人的,資金的援助を行っている。
 1学部90人の学生でスタートとした当該大学は,20年を経た現在,4学部(情報科学部の他に,新メディア美術学部,日本文化学部,情報管理学部)に2,000人が学び,情報科学に関してはポーランド屈指の大学との評価を得るまでに成長している。また,ビトム(Bytom,2003年)とグダニスク(Gdańsk,2007年)に情報科学部の分校を持っている。
 日本語のみならず日本文化全般を学ぶ学部として,2007年に「日本文化学部」が開設された。在籍学生数は 1学年40名程度であるものの,それぞれが自信の興味関心に応じて,日本の文化に焦点を充てた研究を進める。例えば,日本語が堪能なカルポルク准教授は,能楽の仕手を演じる。調印式に参列した3人のポーランド人学生も,それぞれ日本の漫画やアニメやJ-ポップに興味関心を持つという。
 調印式の出席者は,ポーランド側がノヴァツキ(イェジ・パヴェウ)学長,ヨキシュ(イダ)学長代理,ヴァシレフスキ(ヤルツ)日本文化学部長,カルポルク(ヤコブ)准教授,それに今回の協定を仲介して頂いた東保光彦教授である。そして,日本文化学部で学ぶ学生3人(ボーカツキ君,カロリーナ嬢,フィリピーナ嬢)。日本側は,小生,家本教授,井澤教授に19人の名古屋学院大学の学生たちである。
 名刺交換の後,テーブルに着き,
ノヴァツキ学長が歓迎の挨拶と大学紹介を行う。それを受けて,小生が返礼の挨拶と名古屋学院大学の紹介を行った。その後,参列者の紹介。本学の参加学生たちも,一人ずつ学部・学年・名前ととともにポーランドの印象や感想を述べた。
 これが結構,興味深い。学生たちは,「このポーランド・スタディーツアーで何を学んだか,何を感じたか」を試されているかのようだ。ポーランドの暗い歴史に慄然とした,改めてヨーロッパ全体の歴史に関心を抱いた,自身の無知を自覚した,食べ物への関心を深めた,等々。一方で,漫然とした観光気分のような学生の姿も露わになる。これには思わず,苦笑。
 協定書への署名は,平穏かつ速やかに行われ,3時過ぎに調印式は終了した。その後,学生たちは学生同士の交換会,教員たちは場所を移して4時から会食会となった。

ガチョウの店で
 4時からの会食会は,「Biala Ges」というガチョウ料理の店で開かれた。オーナーの住居がそのままレストランになり,店内にはセピア色に変色した家族写真が飾られている。流れてくる音楽は,1950年代のものだ。テーブルに着いたのは,ポーランド側5名,日本側3名,合わせて8名。
 ガチョウは,ポーランドの伝統料理の食材であるらしいが,日本では滅多にお目にかかれない。鶏よりも二回りくらい大きなモモ肉をボイルし,トロリとしたソースがかけられていた。鶏肉よりも柔らかく,何とも特徴づけるのが難しい味だ。これに,伝統的なポーランドのスープを付けて貰った。こちらは,多少,酸味の利いた慣れない味だが,外国を実感するには格好な品であった。
 テーブルで話題をさらったのは,日本文化学部長のヴァシレフスキ氏。同氏の専門は文化人類学で,アフリカやアジアを旅した話が面白い。ケニヤでは・・・,スリランカでは・・・,とまさに異文化比較論を縦横無尽に展開する。ほほぉ~と聞き役に徹する。

東保先生のお宅で
 ガチョウの店を7時過ぎに出て,家本・井澤・ボクの3人は,東保先生のご自宅にお邪魔した。場所はワルシャワ郊外になるのだろうが,林の中に建つお屋敷はちょっとしたお城である。
 車で門を抜けた後,さらに200~300メートル走って住居建物に着く。雪が残り,しかも冬の夜であるから,周辺の景観はサッパリわからない。しかし,印象としては,軽井沢のような別荘地に建つお城である。
 大広間の一角に置かれたソファーで,4人の男が,シーバースリーガルの水割りを傾ける。ツマミはペスタチオとチーズ。耳に柔らかい京都弁で喋る東保先生は,サービス精神旺盛な気遣いの人だ。かゆい所に手が届くような気配りが満載。
 その折に,東保先生からノヴァツキ学長の奥様の話を伺った。奥様のイザベルさんは,副首相や社会政策大臣の経験を持つ国会議員であった。あったと過去形にするのは,2010年4月10日に飛行機事故で亡くなっているからだ。この飛行機事故は,
日本でも大々的に報道されたから,記憶にある人も多いだろう。それは,カチンスキ大統領夫妻をはじめ多くの要人を乗せたポーランド政府専用機がロシア西部スモレンスクで墜落し,乗員乗客96名の命を奪ったというものだ。この事故は,カチンスキ大統領が反ロシア親米派と目されていたため,仕組まれた飛行機事といった政治的な謀略説を含み,様々な憶測を呼んだものだ。
 いずれにしても,当時,ノヴァツキ学長は奥さんの不慮の事故に相当なダメージを受けていたそうである。そうとは知らず,大学の会議室やガチョウの店で,にこやかに談笑されるノヴァツキ学長に,好々爺を覚えた小生は愚か者である。
 3年の歳月は,彼を悲しみの淵から引き上げてくれたのだろうか。

帰国
 翌日(2月24日,日)の起床は,朝5時。6時半に朝食を採りに1階の食堂に行き(今回は,ボクがお客さん第1号であった),昨日と同じメニューを食べる。
 7時にホテルをチェックアウトして,タクシーで空港に向かう。雪は降っていなかったが,道路の両端には雪の塊が積み上げられている。地元のタクシードライバーは雪道の運転にも慣れているのだろうが,雪景色の中を時速60キロ超で飛ばすのには驚いた。後部座席に座るボクは,「オイオイ,大丈夫かぁ~」とハラハラ・ドキドキであった。
 7時半,ワルシャワ空港でルフトハンザ航空にチェックイン。後は,飛行機任せである。フランクフルトで飛行機を乗り換える手間はあるものの,仮に預け入れした荷物が中部国際空港でスンナリと出てこなくても,そこは日本だから大きな問題ではない。
 そして,時間の経過・・・。
 2月25日(月)午前9時半,中部国際空港に到着。預けた荷物も無事に回収できた。空港では,4階にある大衆浴場「風(フー)の湯」で一浴びする。これは,稲垣理事長から奨められた長旅の疲れをとる方法だ。風呂に入ってサッパリすることはもちろんだが,この風呂は,飛行機を眺めながら入浴ができる展望浴場なのである。癒される。
 11時過ぎに大学に到着。午後から3つの会議に出て,あっという間に現実に引き戻された。

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