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2017年10月20日

中期(延長)留学報告(アルムスリム大学 水谷 奈津子)

アチェで学んだイスラームと国際協力

はじめに

 私は2016年9月1日から2017年7月6日の約10ヶ月間、インドネシアスマトラ島アチェ州にあるアルムスリム大学にて長期留学をしてきた。語学だけでなく、文化と宗教、国際協力について学んできた。留学先であるアチェは、つい最近までアチェ独立運動が行われており、2003年のスマトラ沖地震をきっかけに、平和協定が結ばれ終結した。しかし、津波による被害や紛争による爪痕が、今でも解決されないまま残っている部分が多くある。アチェ独立運動後は、アチェ特別州となり、インドネシアの中でも唯一イスラーム法であるシャリーアが適応されている地域となった。私は2015年の夏、国際協力スタディツアーにて、初めてアチェを訪れた。2014年のとき参加した国際協力スタディツアーでは、フィリピンを訪れたが、アチェのツアーでは、その時とは違う国際協力のあり方や、イスラームという宗教や文化に興味を持った。更に、長年の紛争や、地震と津波にも負けないアチェの人たちに魅了され、語学だけでなく、国際協力、文化や宗教について理解を深めるため、インドネシア留学を決めた。


初めての長期間の発展途上国での生活

 大学1年時に、フィリピンにて2週間、2年時にインドネシアにて2週間過ごしたが、ニュージーランドでの2ヶ月間の留学が、自分の中で1番長く海外で過ごした経験だった。そのため、海外、それも発展途上国で、初めてそれ以上に長い間生活をするということに不安もあったが、国際文化協力を専攻している自分にとって、この留学は大きなチャンスだと思っていた。留学先であるアルムスリム大学は、本学と協定校を結んだばかりであり、私が第1期生の派遣であった。アルムスリム大学も、長期での留学を受け入れるのは初めてであった。1期生であるからこそ、大学の名を背負い、1年過ごさなければならない、次の後輩に繋げる見本とならなければならない、アルムスリム大学側でも、名古屋学院大学に派遣される留学生に対しサポートをする役割もあったため、勝手に様々なプレッシャーを感じていた。


大学での生活

 留学生の受け入れが初めてということもあり、留学生用の授業はなく、全て現地の学生と同じレギュラーの授業だった。前期は、英会話、英文法、異文化理解、インドネシア語、イスラーム学を履修。後期には、一般マネジメントサービス、文化社会基礎、システムインドネシア経済、英文法、行政村落管理を履修した。留学当初は、インドネシア語に自信がなかったので、教育学部英語学科の学生の授業を主に履修し、授業もインドネシア語とイスラーム学以外は英語だった。留学に慣れた後期には、よりインドネシア語を学ぶためにも、英語ではない社会政治学部の授業を履修した。基本的に2時間以上の授業ばかりであり、朝も1限は8時からという日本とは違う時間割だったため、朝早くから頭をインドネシア語に切り替えるのが大変だった。毎回多くの課題が出るわけではなかったが、中間テストにはプレゼン発表が多かった。先生は、私を留学生だからと配慮し、授業に沿った中で日本に関連するテーマを与えくれた。厳しい先生は、当たり前かもしれないが、留学生だろうと関係なしにテストなどを行ったが、クラスメイトが助けてくれた。レギュラーの授業は、辞書がないと受けられないぐらい毎日ついていくのが大変だったが、周りに外国人や日本人がいない環境というのは、良い刺激になった。留学3ヶ月ぐらいで、日常生活には困らないほどのインドネシア語はできるようになった。現地語であるアチェ語も少しできると、初対面の人などと話す時に笑ってくれ、距離が縮まるのを感じたので勉強を続けた。


イスラームの世界

 インドネシアは、世界で1番イスラームの信仰者人口が多い国だ。日本では、イスラームと聞くと、IS(イスラム国)やテロをイメージする人が多いと思う。実際自分も、インドネシアに行く前はそうだった。無宗教が多い日本で、宗教自体にあまり認識がない環境であるがために、そもそも宗教が、文化や生活に繋がっていることも知らなかった。身近にイスラームの人もいないというのも、宗教に関して知らない、興味を持たない原因だった。しかし、留学生活を送るのはイスラーム圏の地域であり、その中でもイスラーム法がある地域だった。自分は生活していく中で、服装に特に気をつけた。イスラーム法が外国人である私にも適応されるとはいえ、ジルバブ(頭にまとうベール)はしなくても大丈夫。半袖は大丈夫だが、身体のラインが出る服装、胸元が開いた服装、透ける素材、足首が隠れないズボンやスカートは避けるようにしていた。だからといって、苦痛と感じることはなかった。外を歩く女性は皆ジルバブをしているゆえ、私が外を歩くと顔つきも違うからかジロジロと見られるのは、帰国するまで当たり前のことだった。留学期間の途中、それがストレスになり、「見ないでよ。でも、見られたくないなら、私が毎日ジルバブをするべき?」と思ったこともある。しかし、ジルバブをしていないからこそ、「あれは奈津子だ」と気づいてくれる友達や近所の人がいた。また、知らない人は話しかけてくれ、コミュニケーションに繋がった。ジルバブをしない私でも、日常生活はイスラームの文化上に成り立っていた。朝8時から授業が始まるのは、朝のお祈りで皆早起きをするから。箸やスプーンを使うこともあるが、右手を使って直接ご飯を食べる。左手は不浄とされ、食事中はもちろん、挨拶時の握手でも使わない。イスラームでは豚肉とお酒が禁じられているため、アチェでは売られていない。反対に、イスラームの教えで「許されている」という意味の、アラビア語で「ハラール」という言葉があり、豚肉やお酒を使用しておらず、安心して食べられる証として、売られている食材にはハラルマークが表示されている。金曜日のお昼の礼拝は、イスラームの人にとって大事なお祈りであるため、お店や学校が閉まり、12時から14時の間は毎週静かになるなど、そういった日常生活を体験すれば、「なぜそのようなことをするのか?」という疑問が、理解へと繋がった。外国人がよく、日本人は親切と言うが、イスラームの人たちも同じで優しく、神であるアッラーの言葉や教えに従い、毎日生活をしている。どうして私は何も知らない状態で、イスラームは怖い、テロと感じていたのか、恥ずかしくなった。テロを起こしている人は寧ろ、イスラームの教えとは反対のことをし、日本人が思うように、イスラームに悪いイメージをもたらしている。私はこの経験を、何も知らない日本人に伝えなければならないと感じた。どうしてキリスト教に継ぎ、世界で2番目に信仰者が多い宗教なのか納得できた。そして、イスラームという宗教と文化を理解し、アチェの人たちと生活を共にすることで、より楽しく良い経験をしながら、自分の価値観を変えることができた。


国際協力の現場

 留学に来て3ヶ月が経った2016年12月7日の朝5時頃、マグニチュード6を超える大地震が起きた。私は就寝中であったが地震で目が覚め、すぐ外に出れないぐらいの揺れだったので、ベッドから動くことができなかった。幸いにも、私が住んでいるビルン県マタンでの被害はなかった。だが、テレビのニュースや大学の友達との話で、震源地近くのピディ・ジャヤ県(マタンから車で2時間ほど)で大きく被害が出ていることを知った。地震当日には、既に大学内で募金活動が始まっており、自分も国際協力を勉強しているので、募金だけするのではなく何か支援できることがないかと考え、佐伯先生を通じて、12月8日、2015年のスタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらい、現地を訪問した。そこでまず、被害状況を確認し、どのような支援が足りていないのかなど、これから支援するにあたり大切な調査を行った。このような、緊急に支援を必要としている現場に身を置くことは、初めてだった。国際協力を学びたいと思い、大学で少しは勉強してきたとは言え、知識も行動力もなく、正直その時の自分には何もできず、何をどう動かしていけば良いか分からなかった。現場の近くにいたことは偶然であったが、この地震を通して、支援がどのように行われているのか1から学ぶことができた。このニーズ調査後、すぐに佐伯先生と名古屋学院の学生に連絡をとり、募金活動を行ってもらった。おかげで、89,162円もの寄付金が集まった。この場でもう一度、募金をしてくれた方、先生を始め、募金活動を行ってくれた仲間に感謝したい。



 ニーズ調査の結果、女性、特に母親と子どもに支援が足りてないということで、おむつ・ベビーウェア・靴下・下着・手袋・ユーカリ油・ベビーパウダー・ミルク・生理用品・石鹸・歯ブラシ・歯磨き粉・ビスケットなどが1つずつ入った袋を、子どもがいる母親に支援した。その時言われた「ありがとう」と笑顔は、忘れられない思い出になり、何より自分が国際協力を専攻し学ぶうえで、何が自分自身に足りていないのか、そして何が大切なのかを、現場から学ぶことができた。



 大学に入り、大学1年と2年時に参加した国際協力スタディツアーを通して、この長期留学に参加できたことは、大学生活、そして人生においてのターニングポイントとなり、自分自身を変え、自分らしく行動し、国際協力についてだけでなく、イスラームの世界や宗教、更にそこから繋がる文化とは何かということなど、多くのことを学んだ。ただ漠然と、国際協力をしたいと思い大学に入学したが、今では、自分が専攻している国際文化協力学科の名の通りの留学経験と、それ以上の経験、そしてアチェの人たちとの絆ができた。留学を応援してくれた家族、慣れない土地での生活で、親に心配をかけないがために言えなかった相談を聞いてくれた友人、そして、佐伯先生はじめ国際センターの方々。家族のように接してくれたアルムスリム大学の学長をはじめ、友人、そしてアチェの家族。全ての人に感謝をしている。第1期生として、やるべきこと、学ぶべきこと以上の経験をし、誇りを持って帰国したことを、ここに報告したい。




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中期(延期)留学報告(フィリピン大学 山本 泰裕)

一歩を踏み出す勇気

 

 2014年8月、ただ単純に、アジアへの好奇心から名古屋学院大学のフィリピンスタディーツアーに参加しました。当時、自分にとって初めてだった海外に、ただ"驚き"しかありませんでした。飽き性な自分は、『すぐに外国への興味もなくなるんだろうな』と思っていました。しかし、気がつくと、いつもフィリピンのことを考えていて、留学への思いが強くなっていました。両親にあまり経済的に負担をかけたくないと思っていたので、留学に行くとしても中期留学と決めていましたが、両親に留学に行く相談をすると、自分の背中を押すように『行くなら長期留学にしなさい』と言ってくれました。その言葉が自分にとってとても心強い言葉で、一歩を踏み出す勇気になりました。その結果、留学が抽象的なものから具体的なものへと、自分の中で変わっていきました。この長期留学を通して、両親のありがたみを身に染みて感じました。


 そして今から、フィリピンで経験したことや感じたことを、書き出していこうと思います。フィリピンは、一年を通して温暖な気候で、とても過ごしやすい国です。島国ということもあり、とても綺麗な海に囲まれ、自然が多い素敵な国です。国民はとてもフレンドリーで、すぐに友達になれます。しかし日本人の多くは、フィリピンという国が危ないというイメージを持っています。日本に比べたら治安は悪いですが、メディアの情報に惑わされ過ぎで、心配性な日本人はそう感じても仕方がないと自分は思います。現地に居たからこうゆうことも書けるし、これもまた、今後自分自身への自信に繋がって行くと思っています。


 肝心な授業内容ですが、自分が留学していたフィリピン大学は、フィリピンでナンバー1の大学ということもあって、名古屋学院大学にはない授業、日本にないような授業など、本当にたくさんの授業がありました。ただ、英語が話せるというのが前提なので、英語を学ぶという授業はありません。そこで、英語の能力がまだまだだった自分は、とても苦労をしました。教授が、英語を話しているのかタガログ語で話しているのか、聞き分けができないというところから始まりました。多くの日本人学生は、四六時中トイックの教材と向かい合い、部屋にこもって勉強をしていました。しかし自分は、ハッキリ言ってじっと座って勉強することが大嫌いです。そこで、常に誰かとコミュニケーションを取るように心がけていました。すると、3ヶ月を過ぎたあたりから英語に慣れ、半年を越えた頃には、英語を使うことにストレスを感じなくなってきました。半年後には、トイックの勉強を多くしていた学生より、自分の方が話せていることに気づきました。日本語というのは基本的に、書くにも読むにも膨大な知識が必要になります。そのため、私たち日本人は、日本語というものを6歳から15歳の義務教育中に10年勉強します。この経験を通して、日本人の頭には書いて読めば言語は上達するという勝手な固定概念が生まれ、結果的に書いて読んで英語を話そうとします。英語というものは、日本語ではありません。つまり、日本語と同じ勉強法で勉強しても、あまり効果がないと思いました。日本人は失敗を恐れる傾向にあり、その結果、自分自身を守るために英単語、文法などの知識を頭に詰め込んでいきます。その結果、ただ英語の知識を詰め込んだ頭でっかちにしかならないのです。これを経て言えることは、英語というものは多く話した人間が上達していくということです。間違えを恐れて尻込んでいても、結果何も得られるものはないのです。授業で間違った英語、時には無茶苦茶な英語で話しても、フィリピン人は誰一人笑いません。まっすぐに理解してくれようとしてくれます。ここもまた、自分がフィリピンを好きな理由の1つです。


 しかし、どこの国にも良い人間ばかりではありません。自分が留学中に1番と言ってもいいほど、腹が立ち悲しい気持ちにさせられたことは、留学生が滞在していたアカシアという寮にいた寮母さん(ドームマネージャー)の人種差別です。自分は、彼女は普段から冷たい人間なんだと思っていました。しかし、フィリピン人と留学生に対する態度が、明らかに違うと感じられることが時々ありました。更に、絶対的に韓国人を嫌っていました。もちろん、韓国人の彼らが彼女に何をしたということはありませんが、彼女は韓国人にだけ、他の留学生よりも多くの寮費を滞納費という名目で支払わせていました。韓国人学生が日本人学生の支払いの領収書を見たときに、自分のものと全く金額が違うことに気がつき、この事実が発覚しました。どの時代にも、こんなくだらないことをする人間がいるのです。


 学外での活動では、8日間孤児院に泊まり込みで、リサーチを含め滞在させていただきました。やはり格差が大きいフィリピンでは、まだまだ恵まれない人がたくさんいます。孤児院の子供達は皆フレンドリーで、いつも小さい体をめいいっぱい使って、タガログ語の分からない自分に気持ちを表現してくれました。そんな彼らは、親が離婚して面倒を見られなくなって送られてきたり、DVだったり、路上で物乞いやスカベンジャー(ゴミを集めてお金にする人)をしていて保護されたりと様々でした。そんな彼らは、家族のもとに帰りたいという子供もいれば、帰りたくないという子供もいました。孤児院は子供達をただ保護するだけでなく、必要最低限の生活リズムやテーブルマナーなどの教育を提供していました。子供達は掃除、洗濯、食器洗いなどをすべて自分たちでこなしていきます。個人的に孤児院は、ある意味更生施設の役割もしているところなんだと感じました。


 留学というものは、"言語"を学ぶだけのものではなく、言語を学びながらもっと大切な何かを勉強する時間なんだと感じました。人への感謝、人としてのあり方、経験することの大切さ、何事にも一歩踏み出す勇気、そんなことが今回の留学で得た、言語以上の収穫でした。この留学が、今後の自分にとって確実に糧になり自信にもなります。これからの未来には、1歩を踏み出す勇気を持ち、進んでいきたいと思います。




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2017年10月 6日

中期留学報告(東義大学 都筑 彩香)

釜山

私は8月の終わりから12月まで釜山の東義大学に留学していました。今まで何度かソウルには行ったことがあったのですが、釜山は初めてでした。空港に着くと、韓国人の学生が迎えに来てくれました。中国人の留学生がとても多く、迎えに来てくれている韓国人も中国語が話せる人たちばかりだったので、中国に来たかのように中国語しか聞こえなかったのでとても不安になりました。

留学生の名簿をもらい見たら、今回夏から来た日本人は私を含めて2人しかいませんでした。最初の方はまだ韓国語でちゃんと会話もできない状態だったので、友達がなかなかできませんでした。9月になり韓国語のクラス分けのレベルテストがあり、テストを受けた次の日から授業が始まりました。中国人だけのクラスもありましたが、私のクラスはとても多国籍で中国、台湾、フランス、インドネシア、パキスタン、ルワンダ、日本の人がいました。最初の方は授業についていくのが大変でした。でもだんだんクラスメイトとも会話が増え、授業も楽しく受けられるようになっていきました。韓国の学生はテストが近づくといつもよりもとても長い時間勉強します。寮にいた韓国人の人も夜遅くまで勉強しているのをたくさん見ました。毎週月曜日に部屋の点呼が行われるのですが、テストが始まる1週間前の点呼時は夜食が配られました。

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 韓国は、日本と比べて上下関係がとってもしっかりしていて、朝会ったら知り合いでなくても挨拶をしたり、大学の先生だけではなく先輩に尊敬語を使ったりしていました。

 この留学で日本のことを客観的に見て、日本のことをたくさん知ることができたと思います。韓国ではほとんどない地震が起こった時、震度3くらいの地震だったのですが、他の国の学生はとても怖がっていて日本の学生だけが冷静でした。建物もひびが入ったりガラスが全部割れたり、日本の地震の強さを感じました。

もう1つは、韓国語の授業の時、1番きれいだと思う国はどこか、また、どこに旅行に行きたいかと先生が質問したところ、日本に手を挙げた学生がたくさんいて、日本は世界から人気がある国なんだと、自分が日本人なのが誇らしくなりました。景色だけではなくトイレなどがきれいで感動したとも言っていました。

 9月の中旬に秋夕(チュソク)という連休があり、台湾人の友達と遊びに行ったり、春から来ている日本人の留学生やチューターの人たちと遊びに行ったりしました。

10月になると釜山ワンアジアフェスティバルという、コンサートや展示会などが毎日開かれているイベントが約1か月開催され、その中のコンサートに3回行きました。日本でも韓国のアーティストのライブには行ったことがありましたが、本場韓国では同じアーティストのライブでも日本とは違った雰囲気で楽しむことができました。音楽番組の公開収録のライブにも行きました。その他にもアジアソングフェスティバルという、アジア各国からアーティストが来るコンサートにも行きました

 花火大会には台湾人の友達と行き、朝から場所取りをしました。どんどん人が増え、足の踏み場がないくらいでしたが、私たちは朝から行ったおかげで良い場所で見ることができました。

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 このくらいの時期になるとだいぶ韓国語にも慣れ、映画もだいたい内容を理解できるようになりました。韓国にいる間に映画館で5作品観ました。まだ完璧には理解することができなかったけれど、語学力の伸びを自分で感じることができて嬉しかったです。

 私の休みに合わせて両親も遊びに来てくれて、いろんなところを案内したり、釜山はソウルと比べて日本語ができる人が少ないので通訳したりすることができました。

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 勉強面では授業だけではなく、韓国人の人と連絡をしたり日本語ができないチューターの人たちとも遊んだりして、できるだけ韓国語を使うように心がけました。中国語を話す人が多かったため、集団でいるとそこではみんな中国語を使っていたので、個人的にたくさん話したりもしました。部屋にいる間は韓国の番組を見たり、よく聞いている音楽を聞いたりして勉強しました。1日1日分かることが増えていくのが楽しかったです。授業も毎日ではないですが宿題があり、1番大変だった宿題が教科書の文を暗記して動画に撮るというものでした。まず暗記するのが大変でしたが、噛まずに言うこともとても難しかったです。言うことができても動画なので口の使い方を気にしなければならないので、より大変でした。撮った動画を先生に送り、先生がアドバイスをくれたので自分の間違っていたところが分かって良かったです。また、中間テストや期末テストでも上位の方にいることができたのが嬉しかったです。チューターの人たちや留学生のみんなと韓服を着たり、スケートに行ったり楽しい思い出もたくさんできました。

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 約4か月間、知らない場所に来て知らない人たちと出会って慣れていくにつれ、いろんなことを学ぶことができ、自分を成長させることができた留学生活だったと思います。旅行とは違い、住んでみなくては分からないことがありました。楽しいことばかりでもありませんでしたが、韓国と日本の違いをたくさん知ることができたし、留学に来たから感じられることや体験できたこともたくさんありました。考え方も増えたと思います。何よりも自分は語学の勉強が好きなんだと確認することができました。これからも韓国語の勉強を続けていき、留学先で出会うことができた人たちとも、これからも関わっていけたらいいと思います。

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中期(延長)留学報告(東義大学 鯉江 美波)

 人との関わりの大切さ

 私は韓国の釜山に約10カ月の長期留学をしてきました。留学のきっかけは短期留学に行き韓国人の友達ができ、もっと韓国を知りたいと興味が湧いたからです。もともと国際文化学科は公費がなく長期もなかったので、たくさんの人に頼み協力していただいたおかげで、長期留学をすることができ、留学中も留学するまでの過程が簡単ではなかったからこそ、1日も無駄にしたくないと思い充実した日々を送ることができました。

前期は主に、夏の短期留学と同じで韓国語を学びに、語学堂に午前は通いました。午後には1限50分の週3回、一般の東義大学生とTopicの授業を受けました。私の語学堂でのクラスはとても国際的で、ルワンダやインドネシア、フランスに台湾、中国など合計で7か国の留学生で構成されていました。私は積極的に他の国の留学生と授業が午後に無い日は出かけたり、一緒に食事をしたり勉強をしました。私はもともと韓国語ができるわけではなく、レベルでは文字が読めるくらいと、ほんの少し挨拶ができる程度でした。次の学期が一人というプレッシャーもあり、寮に帰れば毎日授業の復習と日本から持って行った単語の勉強を欠かさずにやっていました。そのかげで定期テストも良い点数を取ることができ、留学生と習った文法を使って会話することで、会話力も前よりは身につきました。そのため前期では留学生と遊ぶことが多かったですが、後期は韓国人と実際会話して食事や買い物を楽しむことができました。今は全てが終了し、達成感と楽しかった気持ちでいっぱいですが、もちろん大変なこともたくさんありました。

出来事としては、前期で台風や地震があり、1年間を通して政治界では大きな変化がたくさんあり、後期は国際情勢も一時期危ない時がありました。感じたこととしては、私のクラスは先程言ったようにたくさんの国の留学生で構成されていたので、たくさんの国の子と友達になることができたのと同時に、日本との価値観や文化の違いを感じました。最初に特に気になったことが時間に対してです。日本人が時間にとても厳しいことを知りました。私の中では5分前行動は当たり前で、何かあれば相手に連絡することが当たり前だと思っていましたが、ほとんどの国では時間前に集合することはなく、連絡がなくても気にしないみたいです。しかしフランスでは15分前に集合が当たり前らしく、それには私も驚きました。最初友達と遊ぶとき、何で連絡なしに遅刻を普通にしてくるのだろうと、必ず集合場所に着くのは1番でした。他には、旧正月に留学生の子と数人で慶州に1泊2日で旅行に行ったのですが、私以外の子たちが中国語ばかりで会話をするので、何を言っているか分からない時もあり少しもめてしまいましたが、この旅行のおかげでより仲を深めることができ良かったです。頻繁に遊ぶようになり、お互いに自分の国の価値観や文化を話し合い理解することで、本当に国を越えた大切な友達ができ、その友人と正月にソウルにも旅行に行きました。前期の最初は、ただただ文化の違いや次の学期は一人など小さなことでストレスを感じていましたが、前期の後半は、相手の事を理解することの大切さを一番感じることができました。そのために語学も頑張ろうと思い、勉強に励むことができました。

 後期はまず一度日本に帰ったのですが、日本人が来るかも分からず、ルームメイトも誰か分からず、韓国に戻るまでとても心配でした。実際戻ってみると、同じ日本人で相性が合ったので良かったです。3月に韓国で韓国語能力試験も受けました。試験会場には日本人はいませんでした。先生に美波なら3級は大丈夫だと言われ受けてみて、とても心配だったのですが無事に3級を取得することができて良かったです。授業についてはいくら日本人留学生がいるからって、私と同期の留学生は私一人であって、生活が全然違うし語学力もまだまだ足りないですが、自分が頑張れるところまで自分の興味のある授業を受けてみようと思い、ワインとホスピタリティについて、食べ物と文化についての授業を取り、他には日本で受講していた英語とフランス語など、合計5つの授業を受講しました。前回までいた日本人の先輩に授業を受ける前に一度先生のところに行き受講してもいいか、ついていけるか聞いといた方がいいとアドバイスをいただいたので、一人一人に挨拶をしました。どの先生もとても優しく、授業が終わるたびに分からない部分や課題についてなど細かく教えてくださり気にかけてくださって、15週間と2回の定期試験を乗り越えることができました。また、授業中に話しかけてくれる韓国人の学生もいて、何人か友達になることができ、分からない部分をお互いに教え合い、グループ発表の課題もあったのですが、普通に考えたら留学生がいると大変なのに受け入れてくださり、役割などを優しく教えていただき、たくさん助けてくださりました。

1年の夏に短期留学でできた友達とも、この1年を通して何回か遊んだのですが、韓国語上手くなったねとか、最近の流行りの言葉はね...など、たくさん話し短期だけの友達ではなく、こうして長期留学中も会ってくれる素敵な友達ができて良かったと思っています。前期で国を越えた友人ができた話をしましたが、その友人のチューターをしていた韓国人とも友達になるこができ、後期で一番遊んだのでとても印象に残っています。お互いの共通語は韓国語で、私は勉強のモチベーションが上がるし、分からない文法などを簡単な韓国語で説明してくださり、とても感謝しています。その友人は、台湾に留学していたので中国語はできるのですが、日本語は中学校以来で全然日本とは関わりがなかったけど、美波のおかげで日本にまた興味を持った!と言われたときは、すごく嬉しかったです。他の授業の友達でも、私と会い日本の印象が変わったとか言ってくださる人もいて、今まで感じたことのない嬉しさを感じました。私も友達が友達を連れて来て、たくさんの韓国人と関わることができましたが、日本で取り上げられている政治的な関係や印象とは違い、とても親切で良い人たちがたくさんいることを知り、印象が変わりました。留学を通して、たくさんの人との繋がりを感じ、日本のテレビやメディアを見ただけで世界の国について印象を決めつけることは良くないこと、相手の国を理解している一人の人として最後には見ることができ、この留学は一人では絶対に成し遂げられなかったと思うことと同時に、留学前から留学中関わってくださった人に感謝の気持ちでいっぱいで、毎日充実した留学でした。

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中期(延長)留学報告(ジョージ・ブラウン大学 宮島 花蓮)

カナダでの8ヶ月間

私がカナダへの留学を決めた理由は、客室乗務員になりたかったので、英語力を高めたいと思ったことと、多国籍文化の中で様々なことを経験したいと思ったからです。就職活動は、同学年の人と同じペースで進めたかったので、三年生の夏までに帰って来られるように、二年生の夏からの留学を目指し、入学時からの目標として、少しずつTOEFLを受けたり、留学のためにアルバイトをしてお金を貯めたり、色々な準備をコツコツとしていました。留学に行けることが決まり、私は私費での留学だったので、留学先を希望することができました。多国籍の人と繋がりたい、色んな国の文化を知りたいというのが私の留学の一つの目的でもあったので、ある程度都会で、多国籍文化であるカナダのトロントのGeorge Brown Collegeを希望しました。そして、希望通りGeorge Brown Collegeに行くことが決まり、パスポート申請や保険の申し込み、航空券の手配など、沢山やることや出すべき書類があり大変でしたが、あとは飛行機に乗っていくだけの状況になると、楽しみな気持ちしかありませんでした。

韓国の仁川空港で乗り換えをして、14時間かけて現地に着いてからは、初めて見る景色ばかりだったのと、ホームステイ先のファミリーがとても優しく私を迎え入れてくれたので、不安な気持ちと嬉しい気持ち、楽しみな気持ちで複雑でした。この時すでにホームシックになっていました(笑)

学校はやはり中国人、韓国人、そして日本人等のアジア系が多く、その次に中東系が多いように感じました。私が日本人というだけで、色んな人が寄って来て話しかけてくれたり、"I like your country."と言ってくれたり、片言ではあるけれどアリガトウと言ってくれたり、日本人で良かったと思う場面がたくさんありました。それらのことを通して、日本の文化や他の国に対する今までの対応、数々の車メーカーや家電メーカーを生んだという強みを、改めて誇らしく思いました。そして、日本車がカナダでたくさん愛用されていることを知ると、同時に私は新たに日本のように修理して乗り続ける人が少なかったり、車をぶつけることやこまめに洗車をしない等の見た目へのこだわりが少ないことも学びました。このような現状を知り、私は日本車を海外で長く愛してもらえるような活動、お仕事をしたいと思うようにもなりました。私はこういう気持ちを忘れやすいけれど大事にしたかったので、カナダでは文法や発音、直訳では伝わらない英語ならではの言い回しなどを学校で学び、宿題をこなしながら、自分の興味を持ったこと・感じたことを気づいたときにメモに取り、8か月後日本に帰ってからも忘れないようにしていました。実際そうしたことによって、いつでも自分の気持ちを見返し思い出すことができるので、カナダにいる間も常に前向きに物事を考え、次に進むことができていたと思います。これはこれから留学に行く皆さんにはもちろん、留学はしない方にも日常生活の中で新しい発見や気持ちがあると思うので、お勧めしたいことです。こう書くと、留学すると良い経験ばかりで辛いことはないようですが、私も辛い壁にぶつかることが何度もありました。

一番大きかったのは友達作りです。私は日本にいるときは、コミュニケーション能力が高いと言われていたし、自分でもそう思っていて、実際この20年間で友達を作ることにおいて苦労したことはありませんでした。しかしカナダに8か月間いて、本当に仲良くなり二人で二回以上ご飯を食べに行ったり遊びに行ったりする仲になったのは、日本人かアジア人、または8か月間一緒に住んでいたウクライナ人のルームメイトくらいです。出会いは学校やそこで出会った人の紹介などたくさんありましたが、英語が話せない!言いたいことをすべて伝えられない!話すスピードがついていけない!などの問題から、思ったようにコミュニケーションが取れず、自分の思っていたようにはいかなかったのです。それは幼稚園のころから英会話をずっと習ってきて、自分は英語が話せると思っていた自分にとって、本当に悔しく屈辱的な出来事でした。教科書に載っているような文法だけではなく、もっと留学前に単語や話し言葉を勉強しておくべきだったと、今でも思います。私の場合、最初は日本人の友達も作り、色々な情報を集めたり、どういう言葉で会話しているかを学びながら、クラスメイトなど自然と会う回数の多い人から友達になろうと考えました。語学を学びに来ている人が大半だったので、お互い拙い英語を話しながら、一生懸命どうにか相手に伝わるようにと話していました。やはり日本での友達のように、とても仲良くなることはすごく難しかったけど、伝えようとすれば相手も一生懸命理解しようと頑張ってくれると分かったので、少しずつ自分のペースで発言することもできるようになっていきました。英語を話すのが嫌になったり、話せないことが怖くなって話したくなくなったりした時期もありましたが、日本に帰国してからは、その辛い経験すらも自信につながっていて、英語で会話することへの抵抗がなくなり、むしろ楽しいと思えています。

私は私費で長期留学をしたので特にですが、留学はお金がとてもかかるし、親に心配もかけるし、現地でも楽しいことばかりではないし、すべて自分で何とかしなければならないのでとても大変です。全体の7割は大変です。でも私は、ローンを組んでまで全額自分で払っても、留学に行って良かったと思います。もちろん周りの人のアドバイスや支えがなければ、ここまで根気強くやってこれなかったと思いますが、留学する前とは比べ物にならないほど自分のやりたいことが見えているし、新しい発見や改めて気づいたこともあり、自分の自信にもとても繋がっています。私も留学前にたくさん悩みがあり、先輩や先生に相談してばかりだったので、今度は私がその立場になり、留学に行きたい人の支えになりたいと思っています。

最後に、経験は最高の宝になると思っています。やる気があるなら、お金や時間の問題も何とか解決できるはずです。根気強く向き合い、後悔しないようにコツコツ勉強し、行動できたら最善だと思います。留学をしたから終わりではなく、ここからどのようにそれを生かしていけるかが大事だと思うので、私もこれから頑張っていきたいと思います。

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2017年10月 5日

中期(延長)留学報告(パシフィック大学 長尾 光莉)

貴重な時間を与えられて

パシフィック大学での留学を終え、日本では味わえない体験をしました。特に大学での授業は、本当に感動しました。とにかく授業では、生徒たちが主体となって進行していきます。ある程度、担当の先生はその日にやることをあらかじめ決めていますが、それが全てではありません。その都度、生徒たちの様子や、生徒たちのやりたいことに合わせて、いろいろと予定を変えていきます。先生たちは、私たち生徒に、「とにかく発言してほしい」と伝えます。日本の講義のように、先生が一方的に話して、それを生徒がただ聞き続けるというのは決してありません。必ず生徒は、間違っていようが何だろうが、発言しなければなりません。留学が始まったばかりの頃は、間違えるのが恥ずかしくて、質問されても黙ってしまうのがほとんどでした。何とかアクションをしようと、「分かりません」という意味で首を傾げたり、首を横に振ったりしたことがありますが、それは先生には全く伝わらなくて、もし分からないなら、"I don't know."とはっきり言う必要がありました。別に分からないからと言って、「どうして話を聞いていないの?」と注意されることは決してなく、寧ろ「質問してくれた方が嬉しい」と言われました。

授業で出される課題も、ユニークなものが多かったです。例えば、ネイティブスピーカー(生徒でも先生でも)を捕まえて、先生から提示されたお題に従って、インタビューしてくるといったものや、英語で替え歌を作ってきなさいというものまでありました。替え歌については、私は"Little Star"を選んで替え歌を作りました。しかし、ただ替え歌を作ったわけではなく、教科書に出てくる内容に基づいて作らなければなりませんでした。その時、授業で勉強していた内容は、「あなたの国の問題点は何?」というもので、もちろん日本について考えました。日本は少子化問題を抱えているので、それを題材にして替え歌を作りました。それから、先生にcheckをしてもらって、OKが出たら次は歌う練習をしました。練習が十分にできたら、楽器担当の相手を見つけます。クラスメイトは、既にグループを作っていたので、そのクラスの先生を誘って、ギターを演奏してもらいました。とても楽しく歌を歌うことが出来ました。こういった面白い課題をやる事が、頻繁にありました。授業後も、積極的に先生に話しかけたり、質問するように心がけていました。授業に関係ない話でも、親身になって相談に乗ってくれたり、アドバイスをくれました。

 少しではありますが、"Japan Club"というクラブにも参加しました。そのクラブは、日本の文化を実際に体験するというものでした。着物の着付け方を教えたり、みんなで日本の映画を観たりしました。どの生徒も、日本に対して強い関心を持っていて、嬉しい気持ちになりました。私はそこで、日本語を勉強している女の子と出会いました。日本語を上手に話す子で、日々どれだけ勉強しているのかがうかがえました。積極的に日本語で話しかけてくれるので、本当に頑張っているのだなと感じられました。

寮での暮らしも良い経験になりました。私は、ルームメイトの女の子が一人いました。その子はとてもいい子で、留学中ずっと、その子と同じ部屋で住んでいました。性格も私と似ていて、すぐに仲良くなれました。大きなトラブルもけんかもありませんでしたし、伝えたいことは何でも伝えることが出来ました。どんなに些細なことでも、気になる事があれば何でも質問しました。そういう態度で接しているうちに、ルームメイトの方からも、いろいろ話しかけてくれるようになりました。週末には、二人で大学近くの映画館に行きました。ルームメイトだけでなく、家族とも仲良くなりました。初めてルームメイトと会ったとき、一緒に彼女の両親にも会いました。出会った瞬間、ハグをされました。少し驚きましたが、普通の挨拶らしいので、素直に受け入れました。ルームメイトも両親も、互いにハグしてキスしてと、スキンシップが多かったので、本当に仲がいいのだなと思いました。

週末には、大学から離れたポートランドに遊びに行きました。大学からは、電車とバスを使って約1時間30分かかりました。初めて一人で行ったときは、どのバスと電車に乗ればいいか迷ってしまいました。そんな時は、人見知りなどしていては解決できないので、知らない人に行き方を尋ねたりしました。バスに乗るときは、運転手の人に、「このバスはポートランド行きですか?」と、念のために確認もしました。どの人も、尋ねるたびに笑顔で答えてくれました。ポートランドのダウンタウンはとても賑やかな場所で、一日中楽しむことが出来ました。美味しいごはんを食べたり、洋服や日常品を買いに行ったりしました。クリスマスには、町の真ん中に大きなクリスマスツリーを見かけました。キラキラのイルミネーションに魅了されて、しばらく感動に浸っていました。

冬休みには、シカゴに住む友人宅で、三週間ほど滞在させてもらいました。とにかく大きなご実家でした。地上と地下を併せて三階建てで、地下室にはテレビとジムで見かけるような道具が置いてありました。家族揃って、温かく迎えてくれました。「今日からここはあなたの家なんだから、自由にくつろいでいいんだよ」と、言ってくれました。自由に冷蔵庫の飲み物を飲んでもいいし、台所に置いてあるフルーツも、自由に食べてもいいと言ってくれました。しかし、やはり人様の家ということに変わりはないので、完全にくつろぐということは難しいことでした。自分から、「あれがしたい、これがしたい。」とは、なかなか言えませんでした。

クリスマスは、そこで迎えました。家族みんなで、クリスアスツリーを買いに行きました。外はあちこち雪が降り積もっていて、寒かったです。クリスマスツリーは店の外に飾られていて、雪が付いていて冷たかったです。結構大きなサイズの物を購入し、家に飾りました。友達と二人で、ツリーの飾りつけをしました。ディナーには、おいしい料理を作ってもらい、ごちそうになりました。ディナーの後は、地下室でクリスマスにまつわる映画を観ました。Happy New Year も、そこで過ごさせていただきました。新年になる前のcountdownもしました。テレビ中継でcountがゼロになった瞬間、みんなでクラッカーを鳴らしました。そして、お互いの新年の抱負を発表したりもしました。不思議なことに、私たちの抱負は似たような内容で、「健康で幸せになること」でした。

去年の11月に、アメリカ大統領選挙がありました。結果はトランプ大統領になりましたが、パシフィック大学の人たちは、とても悲しんでいました。なぜなら、私が留学したパシフィック大学は、オレゴン州に位置するからです。アメリカは、州によって支持する政党がはっきり分かれているからです。オレゴン州はヒラリーさんを支持していたので、この結果は、アメリカの友達や先生たちやその家族を悲しませました。結果当日の夜、ルームメイトは泣いていました。外国の政治に関する事なので、なんて声をかけてあげればよいか分かりませんでした。私は選挙に関して、こんなに感情的になったことはありませんでした。こんなに感情的になるということは、それだけ政治に関して真剣に考えているということ、そして、自分たちの国のことをしっかり考えているということです。私は、日本でそのような光景は見たことはありませんでした。まだまだ、私は世間のことに関心を示していなかったと、改めて痛感しました。

帰国日が近づいてくるにつれて、帰りたくない気持ちが、日に日に大きくなっていきました。とうとう帰国当日を迎え、ルームメイトの家族が空港まで車で送ってくれました。空港に着くまでにも、車の中でオレゴン州についていろいろ教えてくれました。緑に囲まれて自然が多いオレゴン州は、農家も多く、ワインに使われるブドウを国内で一番輸出していると説明してくれました。

とにかく優しさにあふれた人たちばかりで、初めて勉強する環境のはずなのに、苦しいことは、ほとんどありませんでした。自分の主張したいことを、我慢する必要もありませんでした。例え人と違う意見を言ったとしても、それは一つのアイデアとして受け入れてくれました。国民性のせいかもしれませんが、ネイティブスピーカーの会話を聞いていても、決して相手の意見を否定する言葉は聞くことはありませんでした。"It's a good idea." "I agree with you." "I think so, too."など、相手の意見を肯定するフレーズをよく耳にしました。お互いを尊敬していなければ、決してできないことだと思いました。私はつい、自分の意見を強く主張してしまうことがあり、相手の意見を間違っていると決めつけてしまう時があります。こんな自分の性格を、とてもよく反省させられました。お互いを尊敬することは、互いを快適な気持ちにさせようと協力することでもあります。これを自然にできるアメリカは、本当に素晴らしい国だと感じました。

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中期(延長)留学報告(パシフィック大学 三輪 秋絵)

初めての留学

 私は、アメリカのオレゴン州にあるパシフィック大学へ、約10か月間の留学をしました。今回の留学は、私にとって初めての留学で、初めての海外でもあったので、出発までは楽しみよりも不安でいっぱいでした。持ち物でさえ、何を持っていけばいいのかも分からず、荷物の準備にはだいぶ時間がかかったと思います。夏から冬にかけての留学だったので、服選びも大変でした。また、授業についていけるか、友達はできるか、食事や水が自分に合わなかったらどうしようと、不安でそんなことばかり考えていました。出発の当日、家族や友人が見送りに来てくれて、寂しくてたまらなくなりましたが、とても嬉しかったです。また、飛行機に長時間乗ったことがなかったので、10時間のフライトはすごく疲れました。

アメリカに到着してからは、何もかもが初めてのことだらけで、とても新鮮でした。時差ボケしたのも初めてで、早朝に目覚めたり、一日中眠い日が1週間ほど続いたのが、辛かったです。授業中にも眠気がきてしまって、大変でした。パシフィック大学のあるフォレストグローヴは、自然がたくさんある静かなところでした。学校の敷地内にも緑がたくさんあって、野生のリスがそこら中にいました。日本では野生のリスを見たことがなかったので、とても興奮しました。アメリカのリスは丸々していて、可愛かったです。

パシフィック大学には、全部で6つの寮があります。私が暮らすことになったのは、キャスケードという名前の寮で、他の寮に比べたら新しくて、とてもきれいなところでした。寮にはランドリールームや共同キッチン、ビリヤード台やテレビのついたラウンジなどがあり、よくそのラウンジで友達とDVDを観ました。また、各階にウォーターサーバーがあったので、毎日そこから水を飲むことができて、すごく助かりました。私のルームメイトはアメリカ人の女の子で、とても優しい子でした。初めは、家族や日本が恋しくてホームシックになってしまいましたが、ルームメイトが励ましてくれて、ものすごくホッとしたのを覚えています。ですが、家族以外の人と一緒の部屋で暮らすのは初めてだったので、とても緊張してしまって、なかなかリラックスできなかったです。また、寝る時間や起きる時間が違ったので、相手を起こさないように気を付けました。それでも、時々ルームメイトを起こしてしまう時があって、申し訳なかったです。

しばらくして学校が始まっても、私は授業についていくだけで精いっぱいでしたが、少しずつ慣れていって、楽しく受けられるようになりました。月水金は午後までクラスがあって、火木は午前だけでした。アメリカは、日本と違って宿題がたくさん出ます。私は、スターバックスのお気に入りのドリンクを飲みながら、友達と一緒に宿題をするのが日課でした。天気の良い日は外に出て、宿題をしました。日本では、外に出て宿題をすることなんてなかったので、すごく新鮮でした。

私たちのいたオレゴン州は、雨が多いところでした。とくに冬の間は雨ばかりで、晴れの日は貴重なので、みんな外に出て日光浴をしていました。普段は雨でなかなか外に出られないので、太陽の光を浴びられる日はとても幸せでした。現地の学生たちは、寒い日でも薄着で生活していて、すごいなと思いました。ハワイからの学生が多い学校だったのですが、ハワイアンの人たちは真冬でもビーチサンダルを履いていて、驚きました。この留学では、他の大学から来ていた日本人留学生とも仲良くなり、アメリカ人やサウジアラビア人の友達もできました。週末は、みんなでポートランドまでショッピングや観光しに行くのが、私たちの定番で、ほぼ毎週末、ポートランドに通いました。学校のそばにある映画館では、2ドルで映画を見ることができました。日本ではありえない値段で、衝撃的でした。日本ではまた公開していない最新の映画を見られるのが、嬉しかったです。よくその映画館にも、みんなで通いました。

この留学中に辛かったのは、食事のことです。私はキッチンの付いていない部屋だったので、ミールプランを必ず取らなければなりませんでした。ミールプランの食事はビュッフェスタイルで、自分の好きなものを食べることができて、最初は嬉しかったです。でも、しばらくすると飽きてしまって、日本食が恋しくてたまらなくなりました。それに、カロリーが高くて、くどいものが多くて大変でした。ミールプランの食事に飽きた私たちは、近くのレストランへよく通いました。タイ料理のお店とハワイ料理のお店が、私たちのお気に入りでした。今、そのお店のご飯がとても恋しいです。

それに、やはりルームメイトとの生活も、少し辛いものがありました。とても良い子だったのですが、家族以外の人と生活したことがなかった私にとって、他人と生活していくことは気を遣ってしまって大変でした。それでも、今では彼女がルームメイトでいてくれて、良かったと思っています。先日、彼女からのポストカードが届きました。近況を報告してくれて、嬉しかったです。彼女とは、これからも良い関係でいられたらいいなと思います。

そして、留学生活も残りわずかとなった頃、私は留学を延長することに決めました。延長しようと思った理由は、せっかく慣れて楽しくなってきた留学を終わらせたくなかったし、アメリカでもっと英語を学んで、色々な経験を積みたいと思ったからです。それに、新しくできた友達と、もっと一緒にいたいと思いました。私は延長して、本当に良かったと思います。

秋学期が終わって、春学期になるとクラスが変わり、レベルがあがりましたが、自分からどんどん発言できるようになっていきました。宿題やプレゼンテーションが増えて本当に大変でしたが、今思えばすごく充実していた毎日だったと思います。また、新しい留学生もやってきて、友達がたくさん増えました。

また、この留学では色々なところへ旅行に行って、たくさんの思い出ができました。ニューヨークやロサンゼルス、ディズニーランドなど、憧れだった場所に行けたことが、とても嬉しかったです。知らない土地で、初めて出会う人たちと生活していくのは、簡単なことではなかったし、辛いこともたくさんありました。ですが、その分この留学を通して、たくさん成長することができました。今までずっと日本で暮らしてきた私にとって、この留学は大きな決断でしたが、この人生においてかけがえのない時を過ごし、かけがえのない仲間に出会うことができました。この貴重な経験ができたことを、本当に誇りに思います。そしてまたいつか、アメリカの友人に会ってたくさんお話しできるように、これからも頑張って英語を勉強していきたいと思います。


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2017年10月 4日

中期(延長)留学報告(パシフィク大学 今井 里咲)

 留学を振り返って

 私は2016年8月から12月までの中期留学の予定でしたが、さらに延長をして、2017年の5月までの約10か月間、アメリカのオレゴン州にあるパシフィック大学に留学してきました。私は初めての留学だったので、最初の頃は「授業についていけるか」、「友達はできるか」、「アメリカの文化に馴染めるか」など、とても不安でした。でも、実際に留学を体験してみると、とても楽しく貴重な経験ができました。

私は、留学先の大学で、ELIという留学生だけのクラスを受けました。そこでは、リーディング、スピーキング、リスニング、ライティング、グラマーなど、英語の授業を受けました。始めの頃は、先生の授業を聞く事だけで精一杯でした。授業は毎日あり、宿題も多かったです。私自身、あまり勉強しなくても、そこそこの点数を日本で取っていたので、余裕だなと思っていました。しかし、アメリカではテストもなかなか難しかったので、ちゃんと勉強しなければいけませんでした。私にとって、「こんなに勉強したのはいつだろう」ぐらい勉強しました。そのおかげか、毎日の授業への参加と、ルームメイト、ランゲージパートナーや現地でできた友だちと話しているうちに、少しずつですが英語が聞き取れるようになりました。英語を聞き取ることができるようになると、友だちとの会話もスムーズになり、楽しくなりました。

さらに、私は冬休みの授業がなくなったので、その留学先の大学のインターナショナルオフィスとメールボックスという所で約1か月間のインターンシップを経験することができました。そこでの指示や日常会話はすべて英語だったので、授業で使う英語とは違う、英語のスラングなどを教えてもらうことができました。その時、特に自分の英語能力が上がったなと、自分で感じました。そこで2学期目の授業を受けてみると、1学期目の授業に比べて授業内容も変わったのにも関わらず、普通に理解することができ、簡単だと思いました。この留学で英語力は、留学前よりも上がったと思います。

この留学で、アメリカの文化にも触れる機会がありました。1学期目の時は8月からスタートしたので、10月にはハローウィンのイベントに参加しました。私はアマゾンで、コウモリの着ぐるみを買いました。アメリカ人の友だちは、パンプキンやポケモンのイーブイなど、個性的な仮装をしていました。カフェテリアのご飯も、ハローウィンのメニューになりました。11月は、サンクスギビングデイがありました。私は、いつも仲良くしてくれる、アメリカ人の友だちの家に泊まりにいきました。その友だちのお母さんが、ターキー、マッシュポテト、パンプキンパイを作ってくれ、おいしいご飯を食べることができました。その次の日は、ブラックフライデーでした。ブラックフライデーは、どこのお店も安くなる日で、友達とヘッドホンやブランドのブーツなど、たくさんの物を買いました。12月はクリスマスのパーティーがあり、みんなで料理を作りました。久しぶりに、日本食も食べることができたので、とても良かったです。12月のカウントダウンも、アメリカですることができました。私はその時、テキサス州にいたので、そこで花火を見ました。さすが、アメリカだなと思ったのは、規模の大きさです。たくさんの人がいて、道は車と人でいっぱいでした。花火の量も多かったです。花火が上がったと同時に、叫びまわる人もたくさんいました。良い思い出になりました。

2学期目は、1月からでした。これといったアメリカのイベントはありませんでしたが、留学先の大学では、ハワイアンと言われるハワイ出身の学生が多く、その学生たちが中心となって行う「ルアウ」というイベントがありました。私は、ハワイの文化についてあまり知りませんでした。そのイベントで、同じハワイでも島によって踊りが違ったり、服装が違ったりすることが分かりました。更に、そこではマカダミアナッツやココナッツクッキー、パイナップルといった、ハワイの物を買うことができる所もありました。私は、たくさんのものを買いました。ハワイが大好きになりました。4月の後半には、ジャパンデーと呼ばれる、日本のイベントをする日がありました。私は、日本で流行っていた恋ダンスを踊りました。その練習は、週に1回のペースでありました。日本人もいましたが、外国人で踊りたいという人も多かったので、びっくりしました。最終日までミスがあったので少し心配でしたが、当日には成功したので良かったです。その日は、すし、てりやきチキン、やきそばなど、簡単な日本の食べ物を食べることができました。それに加えて、書道、華道、折り紙、コマ、着物、キャラクターすくいなどを体験できるところもありました。たくさんの学生が遊びに来ていて、とても楽しい1日になりました。

また、イベントとは別に、アメリカ人の友だちと、メキシコ人の友だちの家に遊びに行くことができました。アメリカ人の友だちの家は馬が2匹、犬1匹、猫1匹の動物が好きな家族でした。馬を育てるため田舎に住んでいたので、Wi-Fiもなかったので、連絡手段がないのが辛かったです。でも、アウトレットやクリスピークリームのドーナツ屋さんにも連れて行ってくれました。とても良い経験ができました。もう1人のメキシコ人の友だちの家に行った時は、その友達のお母さんがメキシコ料理を作ってくれました。メキシコ料理は学校のカフェテリアでありましたが、そんなにおいしくなかったので、好きではありませんでした。しかし、その友だちの家のメキシコ料理はとてもおいしく、好きになりました。今はあまり食べることができないので残念です。その友達の家族が、オレゴンで有名な滝とチューリップ畑に連れて行ってくれました。両方とも、車がないと遠くて行けない所だったので、良かったです。友達を作れて、その友達の家にも遊びに行けて良かったです。メキシコ人の友達は6月に日本に姉妹都市の交流プログラムのために来るので、日本案内をする予定です。早く、その友達に会いたいです。

私は、アメリカに行き、旅行にも行きました。ニューヨーク、ロサンゼルス、フロリダ、ヒューストン、シアトルなど、アメリカで有名な所に行くことができました。めったにアメリカには行けないと思うので、行けて良かったです。貴重な体験ができた留学だったと思います。

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