この留学は、私が初めて海外で長期間滞在した経験であるとともに、初めての一人暮らしでした。そしてこの留学で私は、英語以上に多くのことを学びました。思い返すとこれらの経験は、今でも私の心に色濃く残っており、私の自信に繋がるような成功談から、今でも赤面するような失敗まで様々です。それらは全て。私の将来へ活かしていけるものでした。
私の留学は、アメリカ テネシー州 The University of Memphis にて中期の公費留学でしたが、期間を延長し、約10ヶ月の長期となりました。生活は大学の隣の寮にて、4人で4つの寝室と1つのリビング・台所を共有する形でした。ルームメイトは学期毎に変わりましたが、日本人と一緒になることはありませんでした。
食事は基本自炊でしたが、私が料理しているとルームメイトが私に声をかけてくるため、そこで色々なことを話しました。私がよく話したのが、父親の仕事の関係でスペインからアメリカに移住してきた、私と同年齢のルームメイトです。話の内容としては、ペパロニのピザが好き等のたわいもないおしゃべりでしたが、英語でのコミュニケーション能力を高めることができ、アメリカの文化の多様性を肌で感じました。その中で彼に聞いて驚いたのが、シーフードピザがアメリカにないということでした。
当然国が違うと習慣や文化が違うため衝突が度々起こりますが、日本人がいないという事は、それを全部英語で解決しなければならないということです。英語を話さなければ生活できないという暮らしで、私の英語力は大幅に上がったと思います。同様に、外出し遊ぶことや、メンフィス大学との留学延長のやりとり、スーパーマーケットでの支払いのトラブル、クレジットカード紛失のやりとりも全て一人で解決してきました。これで英語力は当然ですが、一人で暮らしていくために自発的に行動し問題を解決していける力がついたと思います。この中で私は、多くの人に助けられました。大学の郵便局のお姉さん、留学担当の方々、授業を担当した教師の方々、Uberでタクシーに乗った時に気さくに話してくれた人々、そして同じクラスで学んだクラスメイトたちです。この人々とのふれあいで、アメリカという国が人あの温もりに溢れている、有機的な国でああると気づかされました。
最も印象に残ったのは、IEI(語学留学生が在籍することになる大学内の組織)が週末に主催する食事会やパーティーです。私はどういうわけか日本人や文化の近いアジアの国の人とつるまずに、南米出身の友人とつるんでこの週末のパーティーに参加していました。この中で印象に残ったのが、なぜ留学に来たのかいう話題です。私は趣味でやっているスマートフォンのアプリ作成をする為には英語をどうしても使わなければならないから、語学留学で全世界を見渡す視点をつけ、なおかつ英語を学べるアメリカに来たと答えました。ちょうど、それを話していた友人の一人が、コロンビアで銀行関係のプログラムを組んでいたとのことでした。意気投合した私たちは、それから多くの事を語り合いました。彼の仕事のことや、お互いの家族の事、これから社会で必要とされる人材の事、そしてこれから社会に出て働く私の将来の事です。私は半分冗談で将来の夢はリッチになる事だ、と言いましたが、それに彼は大きく反対しました。それから30分ほど、他の人そっちのけで私達は話し始めました。彼が南米特有の早口の英語で喋り、私が必死こいて理解し、そして私は分からない単語で躓きながら、身振り手振りを交えて自分の考えを伝えました。私は彼との討論の中で話した内容以上に、母国語以外の言語を使って人に自分の思いを伝えるという事の楽しさを知りました。そして同様に、喋った言葉の真意を伝える事の難しさを知りました。日本語は主語を抜いて会話が成立する様に基本的に村社会、互いを知った上でコミュニケーションを取るという言語です。一方で英語は、大昔に商業のために作られた言語であり、知らない相手同士がやり取りをするという事が前提になります。私が冗談で言ったつもりでも、相手は大真面目に言っていると捉える場合もあります。私はこの会話で、今まで知識で学んできたことを肌で感じる事が出来たのでした。
私がアメリカで最も苦労したのが、寮で共同生活するルームメイトとの生活習慣の違い、何が人の迷惑になるかと考えることの違いでした。私はアメリカ人とドイツ人と同じリビング・台所を共有していましたが、彼らは使った食器を片付けず、私のジャムや調味料、食器を勝手に使いました。これが単なる個人の問題か、それとも国民性の問題かは分かりませんが、どちらにせよ私にとって大きな問題でした。注意するにしても誰が使ったのかは分からず、冷蔵庫に張り紙を張り出すだけになり非常に歯切れの悪いまま帰国となりました。これ以外にも、リビングに友人を住まわせたりなど、「他人の迷惑を考えないのか!」と言いたくなりましたが、結局言う事はありませんでした。「沈黙はYesと同じ」という事は知識として知っていましたが、どうも人に強く求める事のできない私の悪い癖により、一人でストレスを抱え込む形になってしまいました。つまり、アメリカで生活する事の厳しさの洗礼を受けたということです。
IEIの授業ではプレゼンテーションをすることと、小説を読める様になるが大きな目標であったと思います。レベルの低い授業の頃から、プレゼンテーションは何回も行われました。そしてプレゼントテーション後には、分かりにくかったところや質問者の興味のあるところに矢継ぎ早に質問が来ます。決して日本のように、プレゼンテーション後の質問時間でシーンとなる事はありませんでした。私も他の生徒に負けじと他人の発表をメモに取り、プレゼンテーション後の質問に参加しました。他人の発表に意見を持ち、それを投げかけるというのは為になり、非常に面白いと思った授業でした。リーディングの授業では、レベルが上がるごとに段々と読み物のページ数は増え、最終的に400ページほどの小説を読むようになりました。内容も比例して社会性のある小説に代わり、私の受けた最後の授業ではユートピアとディストピアについて議論するものとなりました。そしてライティングは、それについて数百字で自分の意見を述べ、文法は厳しくチェックされ、完全に文法的に正しい文章を書ける様にするというものでした。私は英語で文章を書くことは得意でしたが、厳しく鍛え抜かれ使える英語に成長したと思います。
このように、私の10ヶ月あまりのアメリカ生活・留学は非常に充実したものでした。アメリカの風を感じ、有機的な人々の優しさに触れ、この国の良さを実感しました。
]]>
私は2016年9月1日から2017年7月6日の約10ヶ月間、インドネシアスマトラ島アチェ州にあるアルムスリム大学にて長期留学をしてきた。語学だけでなく、文化と宗教、国際協力について学んできた。留学先であるアチェは、つい最近までアチェ独立運動が行われており、2003年のスマトラ沖地震をきっかけに、平和協定が結ばれ終結した。しかし、津波による被害や紛争による爪痕が、今でも解決されないまま残っている部分が多くある。アチェ独立運動後は、アチェ特別州となり、インドネシアの中でも唯一イスラーム法であるシャリーアが適応されている地域となった。私は2015年の夏、国際協力スタディツアーにて、初めてアチェを訪れた。2014年のとき参加した国際協力スタディツアーでは、フィリピンを訪れたが、アチェのツアーでは、その時とは違う国際協力のあり方や、イスラームという宗教や文化に興味を持った。更に、長年の紛争や、地震と津波にも負けないアチェの人たちに魅了され、語学だけでなく、国際協力、文化や宗教について理解を深めるため、インドネシア留学を決めた。
大学1年時に、フィリピンにて2週間、2年時にインドネシアにて2週間過ごしたが、ニュージーランドでの2ヶ月間の留学が、自分の中で1番長く海外で過ごした経験だった。そのため、海外、それも発展途上国で、初めてそれ以上に長い間生活をするということに不安もあったが、国際文化協力を専攻している自分にとって、この留学は大きなチャンスだと思っていた。留学先であるアルムスリム大学は、本学と協定校を結んだばかりであり、私が第1期生の派遣であった。アルムスリム大学も、長期での留学を受け入れるのは初めてであった。1期生であるからこそ、大学の名を背負い、1年過ごさなければならない、次の後輩に繋げる見本とならなければならない、アルムスリム大学側でも、名古屋学院大学に派遣される留学生に対しサポートをする役割もあったため、勝手に様々なプレッシャーを感じていた。
留学生の受け入れが初めてということもあり、留学生用の授業はなく、全て現地の学生と同じレギュラーの授業だった。前期は、英会話、英文法、異文化理解、インドネシア語、イスラーム学を履修。後期には、一般マネジメントサービス、文化社会基礎、システムインドネシア経済、英文法、行政村落管理を履修した。留学当初は、インドネシア語に自信がなかったので、教育学部英語学科の学生の授業を主に履修し、授業もインドネシア語とイスラーム学以外は英語だった。留学に慣れた後期には、よりインドネシア語を学ぶためにも、英語ではない社会政治学部の授業を履修した。基本的に2時間以上の授業ばかりであり、朝も1限は8時からという日本とは違う時間割だったため、朝早くから頭をインドネシア語に切り替えるのが大変だった。毎回多くの課題が出るわけではなかったが、中間テストにはプレゼン発表が多かった。先生は、私を留学生だからと配慮し、授業に沿った中で日本に関連するテーマを与えくれた。厳しい先生は、当たり前かもしれないが、留学生だろうと関係なしにテストなどを行ったが、クラスメイトが助けてくれた。レギュラーの授業は、辞書がないと受けられないぐらい毎日ついていくのが大変だったが、周りに外国人や日本人がいない環境というのは、良い刺激になった。留学3ヶ月ぐらいで、日常生活には困らないほどのインドネシア語はできるようになった。現地語であるアチェ語も少しできると、初対面の人などと話す時に笑ってくれ、距離が縮まるのを感じたので勉強を続けた。
インドネシアは、世界で1番イスラームの信仰者人口が多い国だ。日本では、イスラームと聞くと、IS(イスラム国)やテロをイメージする人が多いと思う。実際自分も、インドネシアに行く前はそうだった。無宗教が多い日本で、宗教自体にあまり認識がない環境であるがために、そもそも宗教が、文化や生活に繋がっていることも知らなかった。身近にイスラームの人もいないというのも、宗教に関して知らない、興味を持たない原因だった。しかし、留学生活を送るのはイスラーム圏の地域であり、その中でもイスラーム法がある地域だった。自分は生活していく中で、服装に特に気をつけた。イスラーム法が外国人である私にも適応されるとはいえ、ジルバブ(頭にまとうベール)はしなくても大丈夫。半袖は大丈夫だが、身体のラインが出る服装、胸元が開いた服装、透ける素材、足首が隠れないズボンやスカートは避けるようにしていた。だからといって、苦痛と感じることはなかった。外を歩く女性は皆ジルバブをしているゆえ、私が外を歩くと顔つきも違うからかジロジロと見られるのは、帰国するまで当たり前のことだった。留学期間の途中、それがストレスになり、「見ないでよ。でも、見られたくないなら、私が毎日ジルバブをするべき?」と思ったこともある。しかし、ジルバブをしていないからこそ、「あれは奈津子だ」と気づいてくれる友達や近所の人がいた。また、知らない人は話しかけてくれ、コミュニケーションに繋がった。ジルバブをしない私でも、日常生活はイスラームの文化上に成り立っていた。朝8時から授業が始まるのは、朝のお祈りで皆早起きをするから。箸やスプーンを使うこともあるが、右手を使って直接ご飯を食べる。左手は不浄とされ、食事中はもちろん、挨拶時の握手でも使わない。イスラームでは豚肉とお酒が禁じられているため、アチェでは売られていない。反対に、イスラームの教えで「許されている」という意味の、アラビア語で「ハラール」という言葉があり、豚肉やお酒を使用しておらず、安心して食べられる証として、売られている食材にはハラルマークが表示されている。金曜日のお昼の礼拝は、イスラームの人にとって大事なお祈りであるため、お店や学校が閉まり、12時から14時の間は毎週静かになるなど、そういった日常生活を体験すれば、「なぜそのようなことをするのか?」という疑問が、理解へと繋がった。外国人がよく、日本人は親切と言うが、イスラームの人たちも同じで優しく、神であるアッラーの言葉や教えに従い、毎日生活をしている。どうして私は何も知らない状態で、イスラームは怖い、テロと感じていたのか、恥ずかしくなった。テロを起こしている人は寧ろ、イスラームの教えとは反対のことをし、日本人が思うように、イスラームに悪いイメージをもたらしている。私はこの経験を、何も知らない日本人に伝えなければならないと感じた。どうしてキリスト教に継ぎ、世界で2番目に信仰者が多い宗教なのか納得できた。そして、イスラームという宗教と文化を理解し、アチェの人たちと生活を共にすることで、より楽しく良い経験をしながら、自分の価値観を変えることができた。
留学に来て3ヶ月が経った2016年12月7日の朝5時頃、マグニチュード6を超える大地震が起きた。私は就寝中であったが地震で目が覚め、すぐ外に出れないぐらいの揺れだったので、ベッドから動くことができなかった。幸いにも、私が住んでいるビルン県マタンでの被害はなかった。だが、テレビのニュースや大学の友達との話で、震源地近くのピディ・ジャヤ県(マタンから車で2時間ほど)で大きく被害が出ていることを知った。地震当日には、既に大学内で募金活動が始まっており、自分も国際協力を勉強しているので、募金だけするのではなく何か支援できることがないかと考え、佐伯先生を通じて、12月8日、2015年のスタディツアーでお世話になったNGO「Jari Aceh」のニーズ調査に同行させてもらい、現地を訪問した。そこでまず、被害状況を確認し、どのような支援が足りていないのかなど、これから支援するにあたり大切な調査を行った。このような、緊急に支援を必要としている現場に身を置くことは、初めてだった。国際協力を学びたいと思い、大学で少しは勉強してきたとは言え、知識も行動力もなく、正直その時の自分には何もできず、何をどう動かしていけば良いか分からなかった。現場の近くにいたことは偶然であったが、この地震を通して、支援がどのように行われているのか1から学ぶことができた。このニーズ調査後、すぐに佐伯先生と名古屋学院の学生に連絡をとり、募金活動を行ってもらった。おかげで、89,162円もの寄付金が集まった。この場でもう一度、募金をしてくれた方、先生を始め、募金活動を行ってくれた仲間に感謝したい。
ニーズ調査の結果、女性、特に母親と子どもに支援が足りてないということで、おむつ・ベビーウェア・靴下・下着・手袋・ユーカリ油・ベビーパウダー・ミルク・生理用品・石鹸・歯ブラシ・歯磨き粉・ビスケットなどが1つずつ入った袋を、子どもがいる母親に支援した。その時言われた「ありがとう」と笑顔は、忘れられない思い出になり、何より自分が国際協力を専攻し学ぶうえで、何が自分自身に足りていないのか、そして何が大切なのかを、現場から学ぶことができた。
大学に入り、大学1年と2年時に参加した国際協力スタディツアーを通して、この長期留学に参加できたことは、大学生活、そして人生においてのターニングポイントとなり、自分自身を変え、自分らしく行動し、国際協力についてだけでなく、イスラームの世界や宗教、更にそこから繋がる文化とは何かということなど、多くのことを学んだ。ただ漠然と、国際協力をしたいと思い大学に入学したが、今では、自分が専攻している国際文化協力学科の名の通りの留学経験と、それ以上の経験、そしてアチェの人たちとの絆ができた。留学を応援してくれた家族、慣れない土地での生活で、親に心配をかけないがために言えなかった相談を聞いてくれた友人、そして、佐伯先生はじめ国際センターの方々。家族のように接してくれたアルムスリム大学の学長をはじめ、友人、そしてアチェの家族。全ての人に感謝をしている。第1期生として、やるべきこと、学ぶべきこと以上の経験をし、誇りを持って帰国したことを、ここに報告したい。
2014年8月、ただ単純に、アジアへの好奇心から名古屋学院大学のフィリピンスタディーツアーに参加しました。当時、自分にとって初めてだった海外に、ただ"驚き"しかありませんでした。飽き性な自分は、『すぐに外国への興味もなくなるんだろうな』と思っていました。しかし、気がつくと、いつもフィリピンのことを考えていて、留学への思いが強くなっていました。両親にあまり経済的に負担をかけたくないと思っていたので、留学に行くとしても中期留学と決めていましたが、両親に留学に行く相談をすると、自分の背中を押すように『行くなら長期留学にしなさい』と言ってくれました。その言葉が自分にとってとても心強い言葉で、一歩を踏み出す勇気になりました。その結果、留学が抽象的なものから具体的なものへと、自分の中で変わっていきました。この長期留学を通して、両親のありがたみを身に染みて感じました。
そして今から、フィリピンで経験したことや感じたことを、書き出していこうと思います。フィリピンは、一年を通して温暖な気候で、とても過ごしやすい国です。島国ということもあり、とても綺麗な海に囲まれ、自然が多い素敵な国です。国民はとてもフレンドリーで、すぐに友達になれます。しかし日本人の多くは、フィリピンという国が危ないというイメージを持っています。日本に比べたら治安は悪いですが、メディアの情報に惑わされ過ぎで、心配性な日本人はそう感じても仕方がないと自分は思います。現地に居たからこうゆうことも書けるし、これもまた、今後自分自身への自信に繋がって行くと思っています。
肝心な授業内容ですが、自分が留学していたフィリピン大学は、フィリピンでナンバー1の大学ということもあって、名古屋学院大学にはない授業、日本にないような授業など、本当にたくさんの授業がありました。ただ、英語が話せるというのが前提なので、英語を学ぶという授業はありません。そこで、英語の能力がまだまだだった自分は、とても苦労をしました。教授が、英語を話しているのかタガログ語で話しているのか、聞き分けができないというところから始まりました。多くの日本人学生は、四六時中トイックの教材と向かい合い、部屋にこもって勉強をしていました。しかし自分は、ハッキリ言ってじっと座って勉強することが大嫌いです。そこで、常に誰かとコミュニケーションを取るように心がけていました。すると、3ヶ月を過ぎたあたりから英語に慣れ、半年を越えた頃には、英語を使うことにストレスを感じなくなってきました。半年後には、トイックの勉強を多くしていた学生より、自分の方が話せていることに気づきました。日本語というのは基本的に、書くにも読むにも膨大な知識が必要になります。そのため、私たち日本人は、日本語というものを6歳から15歳の義務教育中に10年勉強します。この経験を通して、日本人の頭には書いて読めば言語は上達するという勝手な固定概念が生まれ、結果的に書いて読んで英語を話そうとします。英語というものは、日本語ではありません。つまり、日本語と同じ勉強法で勉強しても、あまり効果がないと思いました。日本人は失敗を恐れる傾向にあり、その結果、自分自身を守るために英単語、文法などの知識を頭に詰め込んでいきます。その結果、ただ英語の知識を詰め込んだ頭でっかちにしかならないのです。これを経て言えることは、英語というものは多く話した人間が上達していくということです。間違えを恐れて尻込んでいても、結果何も得られるものはないのです。授業で間違った英語、時には無茶苦茶な英語で話しても、フィリピン人は誰一人笑いません。まっすぐに理解してくれようとしてくれます。ここもまた、自分がフィリピンを好きな理由の1つです。
しかし、どこの国にも良い人間ばかりではありません。自分が留学中に1番と言ってもいいほど、腹が立ち悲しい気持ちにさせられたことは、留学生が滞在していたアカシアという寮にいた寮母さん(ドームマネージャー)の人種差別です。自分は、彼女は普段から冷たい人間なんだと思っていました。しかし、フィリピン人と留学生に対する態度が、明らかに違うと感じられることが時々ありました。更に、絶対的に韓国人を嫌っていました。もちろん、韓国人の彼らが彼女に何をしたということはありませんが、彼女は韓国人にだけ、他の留学生よりも多くの寮費を滞納費という名目で支払わせていました。韓国人学生が日本人学生の支払いの領収書を見たときに、自分のものと全く金額が違うことに気がつき、この事実が発覚しました。どの時代にも、こんなくだらないことをする人間がいるのです。
学外での活動では、8日間孤児院に泊まり込みで、リサーチを含め滞在させていただきました。やはり格差が大きいフィリピンでは、まだまだ恵まれない人がたくさんいます。孤児院の子供達は皆フレンドリーで、いつも小さい体をめいいっぱい使って、タガログ語の分からない自分に気持ちを表現してくれました。そんな彼らは、親が離婚して面倒を見られなくなって送られてきたり、DVだったり、路上で物乞いやスカベンジャー(ゴミを集めてお金にする人)をしていて保護されたりと様々でした。そんな彼らは、家族のもとに帰りたいという子供もいれば、帰りたくないという子供もいました。孤児院は子供達をただ保護するだけでなく、必要最低限の生活リズムやテーブルマナーなどの教育を提供していました。子供達は掃除、洗濯、食器洗いなどをすべて自分たちでこなしていきます。個人的に孤児院は、ある意味更生施設の役割もしているところなんだと感じました。
留学というものは、"言語"を学ぶだけのものではなく、言語を学びながらもっと大切な何かを勉強する時間なんだと感じました。人への感謝、人としてのあり方、経験することの大切さ、何事にも一歩踏み出す勇気、そんなことが今回の留学で得た、言語以上の収穫でした。この留学が、今後の自分にとって確実に糧になり自信にもなります。これからの未来には、1歩を踏み出す勇気を持ち、進んでいきたいと思います。
カナダでの5か月の留学生活で、英語を学ぶだけでなく、楽しいことや苦しいこともたくさん経験しました。この経験から、諦めないことの大切さ、すぐ行動することの大切さを学ぶことができました。留学に行く前、私のトーフルの点数は420点程度で周りに比べてとても低く、文法の基礎すらしっかりと理解できていない状態でした。
まず、アルゴマに着くと、寮のアドバイザーから寮についての説明があったのですが、何を言っているのか全く分からなくて、不安でいっぱいのままカナダでの生活が始まりました。ミールプランはどうすれば使えるのか、キッチンはどうすれば入れるかなど、誰に聞けばいいのか何も分かりませんでした。着いて2日目には、オリエンテーションが始まりました。そのオリエンテーションにはESLの学生以外もいて、とてもにぎやかな感じでした。ハイキングをしたり外でチキンを食べたり、楽しかったです。周りには、自分から他の国出身の子に話しかけている子がたくさんいましたが、私は緊張して自分から話しかけることができませんでした。しかし、そこで話しかけてくれた韓国出身の子と仲良くなれました。英語で実際に話すことで、自分の分からない単語やフレーズなどに気付くことができました。分かっていたつもりの単語も、他の意味で使われていたりしたので、学ぶことが多かったです。
授業が始まり、クラスで他の生徒は先生の質問に答えているのに、私はまず先生がどんな質問をしているのかも分かっていませんでした。どの教科も、最初に受けたテストは75パーセント以下で、特にリーディング・ライティングは52パーセントで、単位取得には程遠いレベルでした。初めの頃は、レベル3は自分に合っていないと感じ、ずっとクラスのレベルを変えたいと思っていました。しかし、とにかくやるしかない、英語力をあげたくてカナダにきたのだから、もっと頑張ろうと自分を奮い立たせて、それからは授業をより集中して受けて、毎日とにかく授業についていく努力をしました。クイズの日の前日は、友達と問題を出し合って夜まで勉強をしました。自分一人で勉強するより、友達とやるほうが分からない時にすぐ聞くことができ、とても効果的でした。私は、文法の基礎がクリアに理解できてなかったので、周りの友達に何度も説明してもらい助けられました。月曜の4限にあった、自由に先生に質問できるクラスを活用して、分からないことがあった時はすぐに先生に質問するようにしました。分からないことを後回しにすると、どんどん分からなくなってしまうので、はやく対処できる環境があって本当に良かったです。先生はとても素晴らしい方で、文法の質問に対していつもその場で分かりやすく教えてくれました。リーディング・ライティングの授業は課題がとても多く、最初の1か月はそれに慣れることが大変でした。毎週土日は、1日のほとんどをエッセイを書く時間に費やしていました。エッセイは、自分の舌の能力を失ったらどうなるのかなど、内容まで考えさせられるものが多かったので、余計に時間がかかりました。エッセイのことばかりを一日中考えるのは、しんどいことでした。それに加え、一生懸命書いてきたエッセイを先生に見てもらったら、他の生徒が同じ内容を書いているから、内容を変えて最初から書き直しと言われ、かなりショックでした。しかし、とにかくやるしかないという環境のおかげで、徹夜でエッセイを仕上げることができました。その分、精神的な面で成長できたと思います。また、諦めずに最後まで仕上げたことは、自分の中でも自信になりました。
5か月間、友達にはいつも支えてもらっていました。テストがうまくいかない時に励ましてもらったり、勉強を教えてもらったり、人間関係でうまくいっていない時にアドバイスをもらったりしていました。英語の勉学以外にも、寮生活のおかげで今までほとんどやったことのなかった洗濯を淡々とこなし、唐揚げを一から作ったり、お米を鍋で炊いたりすることができるようになりました。留学前は、それは母が当たり前にやっていてくれていて、洗濯も料理も勝手にめんどうくさくてやりたくないと思い込んでいました。しかし、やってみると意外と楽しくて、洗濯も料理も好きになりました。特に料理は、どのような手順で作れば効率よくできるかを、考えながら作ることが面白いです。やったことないことを勝手に自分には出来ないとか、めんどうくさそうと決めつけるのではなく、とにかく一度はやってみることで、初めてそれが本当に自分にとってどんなものなのかが分かるということに気付きました。当たり前のことですが、とにかく色々なことに挑戦することで、より自分を知ることができるということに気付かされました。
5か月間、学校の勉強は大変でしたが、自分が成長できた良い機会にもなりました。留学で得た困難にも諦めずやり遂げる力を、他のことにも活かしていきたいです。
私は昨年の8月から6月までの約10か月、アメリカのイリノイ州にあるノースセントラル大学に、交換留学生として留学した。経験した全てが新鮮で自分にとっては新しいもので、とても良い経験をすることができた。正規授業が始まる前の8月は、ESLの授業を受けつつ、メインはアメリカのカルチャーに触れ学ぶために、色々な場所に連れて行ってもらったり、週末にはシカゴに観光しに行ったりした。今までは、日本人以外と話す機会やどこかに遊びに行くことが中々なかったので、最初は戸惑ったし、少なからず、いくつかはカルチャーショックを受けることもあった。しかしながら、そのような経験やその環境の中で、どのように立ち振る舞うかなど、自分自身が成長できるチャンスが、とても多くあったと感じる。
9月からは正規の授業が始まり、初めてアメリカの授業を受けることになり、あまりの大変さや日本の授業形態とのギャップに戸惑った。日本とアメリカの授業の違いはたくさんあったが、自分の中で印象的だったのが三つあり、一つは生徒と教授との関係性の違いだった。アメリカの授業では、教授が教壇の上に立つことはなく、とてもフェアな関係で、分からないことはすぐに聞ける関係であることだ。また、最も大きな違いは、授業形態だ。日本の授業は、ものによっては数百人を対象にした大講義授業があり、それは教授の話を聞きノートを取るといった受け身の授業だ。一方でノースセントラルの講義は、大きい授業で30人規模であり、多くの講義は15~20人くらいと小規模な講義だった。更に、受け身の講義は全くなく、基本ディスカッションで考えを深めていくという授業スタイルだった。自分自身、まだディスカッションについていける英語力もなく、中々自らの意見を言えなかった。その中で、今まで以上の予習が必要だと感じ、今までよりも予習に時間をかけ、また、自分の意見もある程度考えたりした。ノースセントラルは3学期制で、各タームの授業の進み方が他校よりも早く、宿題として次の授業の内容の予習をするとうものだったので、予習に4~6時間かかるなどは最初の頃は当たり前だった。日本の大学では日々遊んでいるような生活だったので、とても大変で慣れるのにも時間がかかったが、課題のおかげで勉強しなければいけない時間が必然的に増え、自分の英語力、特に読解力と筆記の力を日々養っていっていることを実感することができた。授業を受けるのは本当に大変だったが、経験した全てが自分の力になり、成長する要素になっていたと思う。
ノースセントラル大学には、フレンドシップファミリーーという、週末や休日に一家族と共に過ごすという制度があった。アメリカではいくつかの大きな休日があり、その中でも一番大きいのはサンクスギビングというものだ。その日は家族で集まり食卓を囲み、ターキーなどの代表的な料理を食べ、食材や神に感謝を示す。その日は、ダウタウンの店などは全て閉まっていて、そこでもアメリカと日本の違いを感じた。翌日はブラックフライデーという日で、衣服などが大きく割引される日だった。その日はアウトレットに行き買い物をしたりと、充実した休日をフレンドシップファミリーと過ごし、アメリカの文化について学ぶことができた。
授業以外では、友達とサッカーのチームを作って校内対抗トーナメントに参加した。当初、英語力の低かった僕が友達を作ることのできた一番の理由が、サッカーだった。小学校から高校までサッカーをしていたので、サッカーで魅了をすることができ、サッカーで輪を広げていくことができた。毎週末サッカーの試合があり、チームで優勝するために真剣に試合に挑んだ。また、週末以外にも平日授業終わりに練習したりと、部活とまではいかないが、サッカーに時間を費やすことが多かった。僕にとっては、友達と過ごす時間すべてが英語力の向上につながり、言葉の壁や文化の壁にぶつかる度に、それは自分の考え方を変え成長するきっかけとなった。サッカーの大会には2回出場し、一度目は負けてしまったが二回目は優勝することができた。
課題や試合のない週末には、友達と外食に行ったりした。その中で色々な話をし、今まで違和感を感じなかった日本人にとって普通だと思っていたことが、広い目で見ると全然普通でなかったりし、今までの自分の価値観や固定概念を少し崩すことができたと思う。アフリカからの留学生は、とても宗教に対して強い思いを持っていたり、多くの国の多くの人と関わることによって、新しい発見や考え方を持つことが大切だと感じた。
留学での過ごし方や授業を通して私が一番成長できたと感じるものが、考え方の変化やどのように人と接するかなどの、自分自身の成長だ。もちろん語学力の向上は、留学をするにあたって欠かせないことだと思う。しかし、実際に留学をして、考え方の変化は語学力の向上よりもとても大きなものだった。アメリカの学生は、自分というものをとても強く持っていて、アイデンティティを確立していることに驚いた。日本人の多くは、とても協調性がありグループを作りがちで、行動する時も大人数が多いと思う。一方で、海外の人は大人数で遊ぶことももちろんあるが、その中でも自分を強く持っていて、決して他人に依存し過ぎてない姿に惹かれる部分が多かった。また、慣れない海外で生活するに当たって、決して避けられなかったのはカルチャーショックだった。大なり小なり、文化の違いを受け入れるためにしなければいけなかったことが、日本人としての過ごし方や文化を捨てることだった。日本の文化に誇りは持ち続けてはいるが、その概念が強すぎると他の文化を受け入れがたくなると実感した。そこで、一度日本の文化にこだわりを捨てることで、今までよりもより他の文化を受け入れることができるようになった。そのように、他の文化を受け入れることができるようになり、自分自身の器や力量が大きくなり、自己成長することができたと思う。このように、語学力の向上や、更には自己成長を実感できたりと、留学はとても良い経験だったと本当に思う。
]]>
まず初めに、僕が中学生の時の話からさせてください。僕は基本勉強することができない学生です。最低点は3/100点、最高点は60点ぐらいという、才能がどうとかこうの世界ではありませんでした。その中でも、なんとか公費留学を勝ち取ることができて、素晴らしい経験を積むことができました。メンフィス大学にて8月~12月の4ヶ月過ごしました。
メンフィスの特徴
メンフィスは、音楽やバーベキューなどで有名です。アメリカで有名なロック歌手、エルヴィス・プレスリーの生誕地でもあります。街中には、エルヴィスの銅像やらグッズやらがたくさんありました。更には、メンフィスグリズリーズというプロバスケットボールチームがあり、開幕戦を観戦することができたのは一生の思い出になりました。メンフィスは、アメリカで治安が悪い地域上位に名前が挙がっていますが、夜一人で出歩かなければ基本問題ありません。気候は、10月中旬まで半袖で過ごせるほど暑いですが、その後の秋は3日程で終わり、冬がやってきます。雨が降る日はほとんどありません。海や湖が周りに無く、雲も少ないため、とてもきれいな夕焼けが見えました。
授業
僕は「ESL」という英語の授業を受けました。というか、それしか受けることができませんでした。TOEFLのスコアが、公費留学には行けるけど、レギュラーの授業(経済、マーケティング)を受講できるだけありませんでした。アメリカのレギュラー授業を受講している人から話を聞くと、とても楽しそうでした。ファッションマーケティングに特化した授業があったり、ワインソムリエの授業があったりと、もっとTOEFLの勉強をしておけば良かったと思うことがたくさんありました。また、レギュラーの授業を受ける際、TOEFL-IBTのスコアで留学することをお勧めします。TOEFL-ITPではアウトプットするセクションがないので、レギュラーの授業で苦しむと思います。「ESL」の授業は6段階に分けられており、自分は下から2番目のクラスでした。中学・高校と、基礎を疎かにしていたツケが回ってきた感じです。授業では、ホンジュラスやペルーなどの中南米の人達が多かったです。それぞれ、個性もイントネーションも強かったです。
私生活
メンフィス大学は、アメリカの中では小さい部類の大学らしいのですが、想像を遥かに超える大きさです。大学には寮があり、僕の寮は2DKでしたのでルームメイトが一人いましたが、基本ゲーマーみたいな生活を送っていたので、ほぼ一人暮らしみたいな生活を送っていました。食事は、基本自炊か、自炊がめんどくさくなったら、学食で済ませていました。大学内には、学食の他に図書館とスポーツジム、スターバックスと、それぞれの学部にある授業で使用する講義室がたくさんありました。僕は基本、朝早く起きて弁当を作りながら朝食を済ませ、スポーツジムにて授業が始まる午前9時まで運動していました。学校は月曜日~木曜日は午後三時までで、金曜日は昼までです。週に2回ほど大学のバスがスーパーまで連れてってくれるので、そこで食材や生活で使う日用品を買いました。大学内での移動は、スケートボードを買って移動しました。友人が自転車レンタルを利用したらぼったくられた(過去の先輩はそんな事なかったそうです)と聞いたので、せっかくのアメリカ生活なのでスケートボードで生活しました。学校が終わった後は、基本バスケをしていました。黒人の人達はパワーがあり、本当に強かったです。時々、大学の部活動の試合(主にバスケやアメリカンフットボール)を観に行きました。アメリカの大学の部活動への力の入り方は、全くもって日本と比べ物にならないぐらい、観客も会場もグッズ販売も桁が違いました。
旅行 シカゴ編
旅行は、シカゴとロサンゼルスに行ってきました。まずは、シカゴについて書きたいと思います。シカゴには、サンクスギビングの間に行ってきました。サンクスギビングでは、日ごろの感謝を込めてみたいな文化で、その中でも僕の目当てはブラックフライデーでの買物です。そこまでの間は、シカゴ美術館やダウンタウン巡り、博物館に水族館、ジョーダンショップやシカゴ・ブルズなど有名どころをひたすら巡りました。食事はシカゴピザという、チーズ好きにはたまらないピザを食べることができ、思い出深かったです。買物では、有名なブランド品が考えられない金額で売っており、とても幸せな一時を過ごしました。
旅行 ロサンゼルス編
ロサンゼルスでは交通の便がメンフィス(バス・電車がほぼない)に比べて便利だったので、ハリウッドやサンタモニカビーチ、ビバリーヒルズ、ユニバーサルスタジオハリウッドなどの観光名所を巡り、買物や観光を楽しみました。
トラブル編
僕は何個かトラブルに遭いました。ここで、本気で焦ったトラブルを説明します。まずは、クレカ関係です。僕の場合、クレカの差し込んで読み取るチップが壊れてしまいました。たまたまキャッシュパスポートを持っていたので、そっちをメインに生きていくことにしましたが、いろいろと不便でしたので、スペアカードの持参をお勧めします。次に、荷物の損失被害についてです。帰国をした際に、空港にて荷物を受け取りに行ったら荷物がなく、荷物だけ別の場所に輸送されてしまいました。その場にいた、国内移動で使用した航空会社の人とANAの社員さんに事情を説明したところ、僕の実家に配達することになりました。
最期に
僕が留学に行く前に言われました。「はっきり言って、お前が英語ペラペラになったところで、就活に有利になるわけではない。」今時、英語が使えて当たり前のご時世です。僕にとって留学は、英語のスキルアップと、自分のアイデンティティーと広い視野を持つ、良い機会でした。3年生で行く人は、2016年はボストンで行われたキャリアフォーラムの参加を視野に入れた留学をお勧めします。
今回、私は秋学期にIndiana University of Pennsylvania大学(以降IUP)に、中期公費留学生として派遣させてもらいましたが、全て自分の予想を上回ることばかりで、良い経験ができたと強く実感しています。
最初に、環境についてです。私の留学先であるIUPには、日本人の留学生が極めて少なかったです。名古屋学院からは、私を含めた二人が交換留学生として行きましたが、その他というと、宮崎大学から一か月の短期留学としてきた一名のみで、大学に日本人が3名しかいませんでした。同じアジア圏の学生を例に挙げると、IUPには中国人の留学生が多く、よく目立ちました。私は、日本人と仲良くするよりも外国人とたくさん話して友達を作りたかったこともあり、そのような意味でも、非常に適した環境であったと言えます。それは、厳しく、時に辛いことかもしれません。文化の違いや言語の違いなど、異なることは多くあります。でもその分、学べることも多くあるため、これから留学へ行く人たちにも、挑戦する心を持って歩いて行ってほしいです。実際に、親友と呼べる仲間にも出会うことができ、今でも毎日連絡を取り合っています。
では、その友達についてです。私の場合、タイミングと良い機会に恵まれていたと思います。というのも、到着し、留学生活が始まってすぐに、自分の元へ一通のメールが来たのです。それは、IUPで日本語を教えている韓国人の教員からのもので、「受講者が多いけど教える人が自分しかいないため、授業をサポートしてほしい。」という内容のものでした。これを聞いて、私の授業がない金曜日に早速行ってみたのですが、これほどの外国人が日本語に興味を持っているということを誇りに思いました。やっていることは、挨拶から始まり、単語を使っての会話などでしたが、英語で日本語を教えるというとても貴重な経験をすることができ、最初は教えるのも難しかったですが、みんなが徐々に話せるようになって、受講者がふざけて簡単な日本語を使って話してくれたりして、指導冥利に尽きると実感しました。
その最初の授業で、「日本に興味のある人たちが入るコミュニティのイベント(ピクニック)があるから、来てほしい。」と言ってもらい、日本人三人で行くと、みんながどんどん質問とかしてくれて、すぐに友達になり、そのときに遊んでいたメンバーが今でも連絡を取り合っている仲間たちです。このような機会はタイミングもありますが、どこの大学でも日本に興味がある外国人はいると思います。そして、そこから友達になったりもするため、面白いと思います。
クラスが始まって少しすると生活にも慣れてきて、授業後や週末は友達と遊ぶというのが流れになりました。そして、到着して一か月というときに、宮崎から来た日本人の学生が去る時期になり、時が過ぎる速さを実感するとともに、悲しさがありました。しかし、自分も悲しかったですが、アメリカ人の友達のみんなも、普段見せないような泣き顔をしていて、本当に仲間と思ってくれたのだなーと嬉しくもあり、自分が別れる時を想像したくなかったです。でも何よりも、仲良くなって楽しく順風満帆になってきた時期に去る日本人の友達のことを考えると、辛かったです。
そうこうしているうちに、あっという間にそれから一か月が過ぎ、秋の終わりを告げる時期になりました。インディアナの気候について、昨年行った方から冬は寒いと聞いていましたが、夏場や秋頃は過ごしやすい気候のため、衣服には困りませんでした。しかし、10月の後半になると一気に気温が寒くなり、気温が一桁になるという日も珍しくなかったです。寮は暖房が効いているため、扉を開けた瞬間に温かい空気が来て、外との気温の差を思い知ります。
10月の初旬に、11月には東アジアの国を取り上げたお祭りのようなイベントがあるということを日本語の先生から聞き、日本人が二人しかいないということもあり、是非、何か披露してほしいと頼まれ、もう一人の日本人がダンス経験者ということもあり、ダンスを披露することになりました。ジャンルは、東アジアのためのイベントでもあるため、K-popの曲を披露することになりましたが、もう四人ほど人数がほしいと思っていた時に、アメリカ人の友達がやりたいと言ってくれて、人数は四人になりました。しかし、一人以外は未経験者、そして本番まで一か月ということで、毎日授業後に集まっては練習、集まっては練習の繰り返しでした。この時期が一番、時が過ぎるのを速く感じたかもしれません。あっという間に本番の日はやってきて、見事に自分たちの力を出し切って、いろんな人から賞賛の声をいただき、これをきっかけに知らなかった人とも友達になれて、満足のいく日でした。そのイベントでは、アジアの料理も運営側の方々が作ってくれて、カレーをおいしくいただきました。
その日が過ぎるとすぐにサンクスギビングがやってきて、アメリカ人の友達の実家に泊まらせてもらってターキーを食べるなど、伝統的なサンクスギビングの料理を食べることができ、ブラックフライデイには、早起きして色々なものをモールに買いに行き、サンクスギビングを存分に楽しむことができました。
これらのことは全て、友達のおかげだと思います。常に私たちのことを考え、楽しませてくれる素敵な仲間ばかりで、自慢の仲間たちです。夏には日本に遊びに来てくれると言っているので、今からすでに楽しみです。留学前は、このような友達ができるとは思いもよらなかったため、余計に感動しています。
アメリカの人は本当に優しい人ばかりで、自分が情けなくなりました。親友というのは数えるほどしかいないものですが、親友だと言える仲間がアメリカでできたというのは、自分にとってはもちろん初めての経験で財産です。国境を超えるというと大きな響きになってしまうかもしれませんが、国境を越えた繋がりとはこのようなことを言うのかなと、自分でも納得できました。全部ひっくるめて、最高の留学でした。改めて、学校側や友達、そして何よりも家族に感謝したいです。
私がカナダのトロントにいた、たった4か月で、私の考え方や語学に対するモチベーションは、かなり大きく変わりました。トロントに着いた初日、ホストの方と全く話せなくて、自分は語学を専攻している学部にいるのに、今まで何をしてきたのだろうと思いました。よく使う単語や短文をネットで調べてストックを持っていても、その先が続かなかったりと、会話を続けることに苦労しました。初めて自分の言いたいことが伝わったなあと感じたときは、台湾人のルームメイトと話していた時です。彼女が私の拙い英語にも真剣に耳を傾けてくれて、私もいちいち翻訳アプリを使わず、自分の中にある単語のストックを使いながら話したので、達成感がありました。それまでホストとの会話では、私が会話につまると、ホストがGoogle翻訳を使っていたので、話すときに通じなかったらどうしよう、また翻訳を使われるのだろうなあとマイナスの感情がありました。しかし、ルームメイトと話すうちに、会話が楽しいと思えるようになりました。英語で自分の言いたいことを伝えるときに一番大切なのは、それを伝えようとする熱意なのだと学びました。学校が始まるまでに、彼女によく使うフレーズを教えて貰ったり、自分でもノートを作って勉強したりするなど、モチベーションを上げていきました。
学校が始まると、当たり前ですがクラスメートや先生に対しても英語なので、最初は頭を使いました。Universityとは違いCollegeなので、年齢もバラバラです。また、トロントなので、世界中からクラスメート達が集まっています。文法などは、高校の時に習ったものがほとんどでした。しかし、英語を英語で学ぶ方が、しっかり理解できていると感じました。細かいニュアンスや、分かっていたつもりでしっかり理解していなかった部分を教えてくださったので助かりました。また、授業を通して分かったことは、みんながちゃんと授業に参加していることです。ちゃんと反応するし、先生が話していて分からなければすぐに質問し、自分の納得いくまで聞く。そして先生が「これ分かる人?」と聞けば、みんな発言しようとします。私も負けじと、1日に2回は発言するように心がけました。イスラム圏の生徒達は、文法よりスピーキング力に長けています。そのため、彼らは文法を間違えようが、積極的に話そうとします。私は最初の頃、話すとき文法に気を使いすぎて尻込みをしていました。ですが、クラスメート達の一生懸命な姿を見て、とにかく話してみようと思いました。
授業の休憩中は友達づくりも兼ねて、クラスメート達と話しました。国が違えば文化も違うもので、とても面白かったです。日本のアニメが好きなサウジアラビアの女の子や、私が日本人であると分かると「これ知ってる?」と、日本のドラマや映画などについて聞いてくる中国人の男の人もいました。そんな時に、もっと日本の事を知っておけば良かったと、ひしひしと感じます。年齢も国もバラバラでしたが、最終的には恋バナをしたり、授業後に一緒に出掛けたりするほど仲良くなりました。
1セメスターに2回、プレゼンテーションがありました。一番初めのプレゼンのテーマは、自分を描写する1つの形容詞を用いて、3枚のスライドで説明するというものでした。クラスメート達の発表を聞いていると、自分の好きなことで楽しんでいて、自分というものを持っているなと感じました。ダンスにDJ、絵画や写真など、その人達の知らない一面を見ることが出来て良かったです。また、はきはきと自信たっぷりに話す姿勢を見習いたいなと思いました。なぜなら、私は人前で話すのが大の苦手だったからです。最初の方は、緊張し過ぎて原稿通りに話すことに必死で、聞いているみんなを楽しませることが難しかったです。発表が上手な人はちゃんと周りの人を良く見ていて、余裕があってジョークを交えながら話すので、みんなを惹きつけます。そんな時に先生に相談してみると、原稿通りに読もう、間違えたらどうしようという不安は自分の事にしか集中していないからうまくいかないけれど、みんなをよく見て楽しませることにフォーカスしたら、発表も、発表することも楽しくなるとアドバイスを受けました。
授業後や休日は、できるだけ外に出るようにしました。友達とレストランやスポットを廻りました。月曜日、「先生が休日はどうだった?」とクラスメート達に聞くことが多いので、話題作りのためでもありました。そして何より、友達と出掛ける方が楽しいし、英語の勉強にもなります。また、ホストファミリーとの話のネタになります。最初、UniversityではなくCollegeなので、授業後は皆仕事や、家事、子供の世話に忙しく、同年代のクラスメート達としか遊べないことに対して不満を持っていましたが、トロントは都会なので、学校外で友達を作る事に適していると考え、学外にも友達を増やしました。ネイティブの友達が出来たときは、非常に英語の勉強になりました。話すスピードも違うし、何よりスラングが会話の中で飛び交うので面白かったし、最初はついていけませんでした。そして、ネイティブの友達が出来ると、その友達やその友達など、どんどん横の繋がりが増え、ダーツやビリヤードをしたりと、休日は思い切り遊びつつ勉強しました。
そして、トロントに来てしばらく経ってから、トロントはすごく住みやすい都市だと気づきました。移民が多いので、困ったら助け合う精神があります。道を聞かれたら快く教えてくれたり(私のときは行き先が一緒だからと言って、ついて来てくれた方もいました。)、バスで行き先が分からない人が運転手さんと話していると、隣で話を聞いていたおばあちゃんがすかさず教えたりと、思いやりに溢れていました。移民が多く、誰がネイティブか見た目では分からないので差別がありません。私は、都市だけどせかせかしていないトロントが好きになりました。
自分の国を出て、働きにトロントへ来る人は年々増加しています。私のクラスメート達も、そういう人達が多かったです。彼らは仕事をするために、英語を学んでいました。私も将来は英語を使って仕事をし、また海外に住みたいので、英語はもちろん、プラスαで学ぶものが必要だと強く感じました。
私は8月28日から12月21日の期間、カナダにあるスーセントマリーという土地に行っていました。その町にはUniversity と呼ばれるものは私の行っていたアルゴマ大学しかなく、すべての住人や学生が繋がっているのではないかと思うような小さな町でした。初めはすることのなさにストレスを感じていましたが、帰る頃には居心地の良さと寂しさを強く感じさせてくれる街になっていました。
生活環境ですが、スーセントマリーはたくさんの自然に囲まれた田舎町です。そのため、始めの1か月ほどは不便、退屈で仕方ありませんでした。歩いて行ける距離には、24時間営業のmetroというスーパーマーケット、JC sakuraという日本食とタイ料理の食べ放題のレストランがあります。私は学校の敷地内にあるタウンハウスというシェアハウス型の寮に住んでいたので、ごはんを作るときにはmetroを、ごはんがない時にはJCsakuraをよく利用しました。ちなみにJCsakuraは、平日ランチが16ドルほど、ディナーが25ドルほど、休日ランチが18ドルほど、ディナーが28ドルほどという値段設定でした。普段の食事はミールプランを選択していたので、学内のカフェテリアかTim Hortonsというカナダの国民的なドーナツショップで済ませていました。しかし、学内のお店は曜日や時間によって営業していたり、していなかったりと常に食事ができるわけではないので、私は1日に1食しか食べられないときもありました。ですから、常に食材やカップラーメンなどを部屋の冷蔵庫にストックしておくべきだと思います。私は最初の2か月ほどは、他の寮の日本人の子たちと共同キッチンで日本食を作ったりもしていました。醤油やゴマ油など、日本食を作る際に必要な調味料などはmetroでも売っていました。共同のキッチンなので、多くの国の人たちが利用しますし、文化の違いからか気になる点などもありましたが、コミュニティの広がる良い環境でもありました。
交通面ですが、移動手段は歩き、バス、タクシーしかありません。タクシーも安くはないので頻繁に使えるわけではありません。どこへ行くにも、基本はバスでした。1回の乗車が2.5ドルで、1時間以内の乗り換えならチケットをもらって無料でできるというものでした。ちなみにですが、私は20回分の回数券を買って利用していました。こちらは、普通に20回乗るより5ドル安く購入が可能です。バスは安くていいのですが、不便な点が30分に1本しか来ないということです。深夜0時頃まで運行しているのですが、更に18時以降は1時間に1本しかなく、日曜日は18時以降のバスがないので、時間を考えて動かないと長い時間待つことになってしまいます。バスは何本かのルートで町のほとんどのところに行けるようになっていて、全てのバスがそれぞれのルートを1 周してダウンタウンにあるバスターミナルに到着するようになっています。ちなみに、バスは窓がすごく汚く運転が荒いため、乗り心地は良くはないです。バスを利用してよく行っていたところは、大学からバスで15分程のところにあるステーションモールという、ショッピングモールでした。大きな施設ではないので楽しめるようなことはたいしてないですが、名の知れている生活に必要お店はある程度入っているので、よく利用しました。私は利用しませんでしたが、映画館も入っていて、数百円で観ることが出来るので驚きました。
次に、私の住んでいたタウンハウスについてですが、タウンハウスは二階建ての一軒家のような建物を、最高5人でシェアするような形の寮です。部屋は1つ1つが分かれていてプライベートは守られていますが、壁が薄くしゃべり声などの生活上の騒音は聞こえます。朝起きて部屋を出れば誰かはいるし、帰って来ても誰かはいるので、コミュニケーションの機会はたくさんあります。しかし、私のルームメイトは平日でも構わず深夜に友達を呼び、家が揺れるほどの音量で音楽をかけて、お酒をのんでバカ騒ぎという感じでしたので、気になる人はその状況では眠れないかもしれません。参加すればもちろん楽しいですが・・・。 私は幸いにも気にならない人間だったので、しっかりと眠れました。ただ、トイレやシャワーももちろん共同なので、汚れが目立つ日もあります。私たちはルームメイトが作ってくれた清掃計画をもとに、毎週日曜日にみんなで掃除をしていました。他にも、冷蔵庫の中に置いてあるものを勝手に食べられたり飲まれたりという問題もあります。日本では私は気にならないようなことですが、それらの物を買うことのできるお店が遠いゆえに、結構なショックを何度か受けました。しかし、そんなルームメイトでも、みんな良い人ばかりで、みんなが誘ってくれるおかげで、バレーボールのチームに参加したり、ごはんを食べに行ったりと、様々な経験をしました。
10月には、サンクスギビングを含めた9日間の休みがあり、ニューヨークへ旅行に行きました。飛行にて3時間ほどで行けるので絶対に行こうっと思っていました。宿泊先はインターナショナルスチューデントレジデンスというところでしたが、安さで選んだため、部屋は狭い、騒音はある、シャワーもトイレも1フロアの全ての人間がシェアするので、汚く苦痛でした。旅行自体は買い物もたくさんしましたし、テレビで見たことのある有名な土地や、ブロードウェーミュージカルも鑑賞しました。テレビでしか見たことのない全てが目の前にあり、世界的に有名な町の勢いに始めは緊張してしまっていましたが、最終日には全力で楽しむことが出来ました。ただ、空気が悪く、5日間ずっと体調がすぐれませんでした。
次に学校生活ですが、ミールプランでの食事はメニューが少ないことは不満でしたが、味は良かったので大きな不満はありませんでした。勉強では、先生たちはすごく丁寧に教えてくれる親切な人たちばかりで、ぶつかる壁はそれほど多くはありませんでしたが、課題は親切ではなく多かったです・・・。しかし、自由時間が奪われるほどでは無かったので、負担にはなりませんでした。
始めは田舎で何をして良いか分からず、どうなることかと思いましたが、4か月を過ごし、過ごしやすさや人の良さを感じるようになり、今までできなかった経験をさせてくれたカナダが大好きになりました。行って良かったと思える留学でした。
]]>