名古屋英和女学校の校長ミセス・クライン

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  栞輪では、これまでに2回、本学の創立者フレデリック・チャールズ・クライン(Frederick Charles Klein、1857-1926)について触れました。
「『敬神愛人』の意味」ではクラインの略歴をふりかえり、「『敬神愛人』を育てたもの」では、そのルーツを探しました。クラインの日本伝道は、常に夫人とともに行われていました。そこで、今回は名古屋の女子教育に携わったミセス・クラインをとりあげます。

■まだ見ぬ国、日本へ
 メアリ・エリザベス・パットン(Mary Elizabet Patton)は、1861年11月25日、ピッツバーグに生まれました。メアリがF.C.クラインと結婚したのは、1883年8月16日、21歳のときでした。二人が横浜に到着したのが、その年の9月23日ですから、船での移動であったことを考えると、結婚後ただちに日本に向かったことになります。その4年後、クラインが横浜からキリスト教未開の地である名古屋に布教の拠点を移すと、メアリも同じく女子教育を開始します。不衛生な環境の中、赤痢に罹りながらもメアリは、教育への情熱を失いませんでした。

■名古屋英和女学校
 当時、学校を開設するために公人とのつきあいが欠かせませんでした。このため、メアリは、知事や市長の家族に料理や英語を教え、関係を深めていきました。クラインの布教活動の根源が信仰心であったことは言うまでもありませんが、彼の情熱を支えたのは夫人であるメアリであったとも言えるのです。
 1888年、名古屋英和学校設立の翌年、その分身として名古屋で最初の女子ミッションスクール名古屋英和女学校が発足し、校長にミセス・クラインが就任しました。名古屋英和女学校は彰栄女学校と改称したのち、1896年に残念ながら廃校にいたっています。
 ミセス・ランドルフが金城女学校の前身女学専門冀望館を設立したとされるのは、1889年、名古屋英和女学校が設立されて1年後のことでした。

■女子教育のフロンティアとして
 このように歴史を顧みると、ミセス・クラインは、愛知県における女子教育のフロンティアととらえることができるのです。名古屋学院中学・高校は男子校です。そこを母体に設立された本学は、どこか男子校のイメージがあるようです。ここで、女子教育の先駆者としてミセス・クラインに注目すると、本学に大きな財産があったことに気づかされます。夫とともに、おそらくは初めて母国をでて日本にやってきたミセス・クラインは、女学校の校長として名古屋の女子教育を啓こうとしました。その姿は、本学から海外留学に飛び立つ現代の女子学生の姿と重なって見えるのです。

 参考文献

1)  クランメル, ジャン『メソジスト・プロテスタントチャーチ・イン・ジャパン』 日本基督教団横浜本牧教会, 2006

2) 『金城学院百年史』 金城学院, 1996

3) 『来日メソジスト宣教師事典』 ジャン・W. クランメル編 教文館, 1996 

 

(瀬戸のスタッフ りんたろう)

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